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青いゼリー
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浴室で右腕を掲げた。ダウンライトが明るく肌と靄を照らす。シャワーが降り注ぐ中、ちょうど腕の青い血管に沿って、お湯が伝っていく。
今日起きたこと、昨日起きたこと、明日起きること……全てはタロットカードをシャッフルして、日毎一枚ずつめくるみたいに、一つずつ均等に割り振られたものだとしたら。誰しもが平等に、幸と不幸を体験していくことが、あらかじめ決められたものだとしたら。
これは罰なんかじゃない。 そう、脳内で自分に言い聞かせた。
シャワーが熱いから、湯気は朦々と立ち上り続けた。何分間そうしていたか分からない。腕を降ろして、レバーを下げる。するとお湯は止まった。
――止めたから、止まるのだ。
肌に弾かれた水滴をみて、私は冷蔵庫にゼリーを冷やしておいたことを思い出す。
後で食べようと思った。
それはとても、私にとっては幸せなこと。そして同時に、あの人にとってはくだらないこと。
好きなものも嫌いなものも、どちらでもないものも、この世には溢れていて……その価値は人によって全く違う。不必要に見えても、ある人には必要であったりする。
目に見えない価値観を並べて数えて、全く同じ人を見つけるなんてこと。きっと月面着陸するくらい難しいんだろう。
そんなことをモヤモヤと考えながら脱衣所に出て、長い髪の水分をバスタオルで拭き取る。この後ドライヤーをしなくてはならないことを思うと、重たく濡れた髪を衝動的に切ってしまいたくなった。
あの人は、怒るだろうか。
薄暗いリビングには、月明かりが漏れている。本当はここが外で、向こう側が部屋なのかも知れないなどと考える。 締め出されるのも、閉じ込められるのも、本人の思考次第なのだ。 私の居たい場所は、一体この世界のどこにあるのだろう。
そんなの誰も教えてくれないし、自分でもよく分からない。
フローリングとスリッパの衝突音だけが響く部屋。時計は午前零時を示している。
今の私は透明人間にかなり近いのではないか。そんなことも最近はよく思い浮かぶ。 透明で軽い命は風に吹かれなくとも、勝手に宙へと浮き上がるもの。私はふいに引きちぎれてしまいそうな、心許ない糸を右手首に巻き付けて、いつでもその浮力に抗っているのだった。
肌を鬱血させながら、地面というものにいつまでも執着している。
ふわふわとした思考を、頭痛が現実に引き戻してくれた。けれど、痛み止めはもう手元に無い。
冷蔵庫をあけると、明朝の卵が一つしかないことに気づいた。私は食べなくてもいいかと過ぎって、やはり私の生活の中心にはあの人がいるのだと思い知る。
バスタオルを巻いた胸元に冷気が当たり、身震いをした。なんだか居心地が悪かった。風邪でもひきそうな気分だけど、それで仕事が休めるのならそれでもいいやとも思う。
フルーツが色々入ったゼリーと、食器棚の引き出しから銀色のスプーンを取り出す。リビングのテーブルは一人で掛けると、やけに悠々としていた。黙り込む、あの人の質量を想う。
今夜はどうやら満月らしく、電気をつけなくても部屋は明るく感じた。薄ら青い月明かりが、スプーンに掬った、偽物みたいな青いゼリーに吸い込まれてゆく。
――きらきらと。
私はゼリーを舌で潰しながら願う。明日はきっと、このテーブルであの人と話し合うことが出来ますように。
あの人にとって一番価値あるものはプライドだ。私よりもずっと大事なそれを擦り付けて、勝ち誇ってくれてもいい。だけど、私のくだらない話も、時には掬いとってほしい。
結局のところ、私の意見が通らなくたって構わないのだ。私はただ、話し合いたいだけだった。なんでもない事も、大切な事も。多分、こうなってしまう前からずっと。 言葉を失ったら、それは人間と呼べるのだろうか。必要最低限で済ませる暮らしに、何か意味はあるのだろうか。
同じ席に着いて、目を見て話してほしかった。誤魔化さないでほしかった。本音で話してほしかった。
今では問題が起こると、なんだかんだと理由をつけて席を降りるあの人の背中。もう出会った頃のように広くもなく、優しくも見えない。
見て見ぬふりの日常は、一見穏やかにみえる。けれど知っている。ハリボテの日常に、愛は宿らないのだと。
割れたグラスも、二度とは直せない。けれど……どこかに回収されて、高温で融かされて、また同じ顔のグラスに生まれ変わるかもしれない。だとしたらまた、選んでくれるだろうか。私は選びたいと思えるだろうか。
満ちては欠ける、月の夜。変わって欲しいのか、或いは変わりたいのか、それすらももう分からなかった。
もう一口ゼリーを口に運ぶと、爽やかなソーダの香りが広がり、すぐに甘味を失っていくのが分かった。
右腕を掲げると、銀色のスプーンに月光が反射する。てらてらと。白い肌も、発光していたのかも知れない。
それから手首にはまだ、青みがかった血管が薄らと浮かんでいた。
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