橙色の水しぶきが舞う。
私の恋人を彩るように。
この歳で無邪気に、はしゃげるあなたが嫌味でなく羨ましい。
「ねー、アカリちゃんも遊ぼうよ!」
少し遠くで遊ぶあなたの声が、彼方の夕焼けと混じって私に届く。
そのワンピース、せっかくプレゼントしたのに……。
「海水で服ダメにしても、知らないよー!」
私も大きな声で返してみた。
「あっ!」って今更気付いたあなたのリアクションが、ここからでも見える。
照れてしまった顔で。
今度は少し困った顔で。
でもやっぱり、私と一緒に遊びたいのか、屈託のない笑顔で。
表情をころころと変えていく。
まるで照らされた宝石が光り方を変えていくように。
そして、海に溶けていく。
耳に残る、波の音。
幼少期の美しい風景への思い出。
まばらに浜辺に残る人々。
楽しい時間の終わりを告げる夕暮れ。
あなたへの愛おしさ。
誰にでもいつしか訪れるであろう死別。
全て溶けていく。
哀しみとも感動とも区別できない、名前のない感情が溢れ出る。
怖くなった。
急いでバシャバシャと海水を除け、あなたのところに向かう。
あなたは最初、私が来たことに嬉しそうな顔を浮かべた。
でも、すぐに私の青ざめた顔に気付いたのか心配してくれた。
「大丈夫?」
「……」
「悲しい?怖い?」
「……うん」
あなたは、そっと抱きしめてくれた。
「大丈夫、ここにいるよ」
「……死んじゃわない?」
「あなたより先にはねー」
「お、同じタイミングがいい」
「よしよし、分かった、分かった」
「……馬鹿にせんといて」
「あ、アカリちゃんの方言久しぶりに聞いた!」
茶化されたおかげで、少し落ち着いた。
改めてあなたと向き合い手を握る。
あなたの綺麗な瞳も、夕日に透ける長い髪も、安心感を与える心音もいつか灰になる。
それがたまらなく怖い。
与えられ、巡り会えた幸せを波に攫われるのが。
ならいっそ、このまま一緒に海に溶け合いたい。
抱き合うのに邪魔な皮膚でも、骨でも、脳でも、心臓でもなく「あなたと私」で溶け合いたい。
あなたと一緒に。
この橙色の海に。
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少しだけ端がボロボロになった教科書。ページの隅には棒人間が全ページに書かれている。何の気なしにめくってみると、棒人間が走り幅跳びをしているパラパラ漫画だった。
子供だなあと思いながら、この教科書の持ち主をまぶたの裏に浮かべる。
私、先輩と同い年になったよ。
出会いは記憶に残っていないほど昔。お母さんに聞いたら、あんたが0歳あの頃からよと教えてくれた、近所のお兄ちゃん。
記憶に残っている、一番古い先輩との思い出は、犬に追いかけられた私を守って戦う横顔。多分この頃から、先輩は私の特別だった。
「どうした陽毬」
「学校の男の子が、いじめるのっ……うわあああんっっ!!」
「分かった、俺が守ってやるからな」
いつも私を守ってくれる、優しい背中に恋をした。
先輩が中学二年の夏、しばらく私と話してくれなくなったことがあった。
何か悪いことしたのかな、嫌いになったのかな、離れたいのかな。
不安に思った私は、ある夜先輩の家に押しかけ、先輩を呼んでもらった。
しばらくの沈黙の後、先輩は顔を真っ赤にしながら、「ごめんな」と口にした。
その声は、少し高めの、私が知ってる先輩の声じゃなかった。大人の男の人のような、低くて、でも安心する声。私は安心感に泣きながら、先輩に文句を投げつけた。
先輩はまた、低くて安心する声で「ごめんな」と言ってくれた。
先輩は数日後、事故で呆気なく、私の側からいなくなってしまった。
それからのことはあまり覚えていない。気がつけば先輩は、小さな、小さな壺の中に収まってしまった。
時は流れ、中学に入学する日。
お母さんから、中学一年の教科書を渡された。やけに使い込まれたような、言って仕舞えばボロボロの教科書。
名前を書くために裏を見た時、私は涙が溢れて止まらなくなった。
先輩の名前が、そこにあった。
私の片思いは、今も続いている。
先輩の教科書と一緒に、あと少しだけ。
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昼間のカフェ。学生時代の友人とあった。
「久しぶり」
「久しぶり。元気だった?」
「うん。元気だよ。でも、仕事が忙しいかな」
「私もそうだよ」
友人と笑いながら近況を話す。
「そういえば……」
友人が何かを思い出したかのように口を開く。
「最近、恋人とどうなの?」
「恋人……?」
最後にいたのは、数年前だった気がする。
「今、いないよ」
「この前できたって言ってたじゃん」
「言ってないよ」
「○○ちゃんって言ってだよね?」
「○○って誰……?」
「彼女でしょ?」
コーヒーを啜りながら、友人は言う。
友人は、スマホの画面を見せてくれた。
メッセージをスクロールする。
そこには、私ともう一人が写っていた。
全く記憶にない。
「この人可愛いね」
「惚気?」
惚気と言われていても、付き合っている記憶はない。
ただ、とても可愛い人だった。
「で、どうなの?」
「どうなのって言われても、記憶に無いし」
「それ酷くない?」
酷いと言われても記憶にないのだから、答えられない。
「まぁ、いいや。とりあえず、なにか進捗があったら、またメッセージして」
「……わかった」
進捗があるかは、わからない。
「じゃあ、お会計しようか」
「うん。今日はありがとうね」
「また、お互い時間があったら会おう」
そう言い、友人と分かれて駅のホームへ向かう。
改札口を通り、階段を登ろうとしたところ。
「スマホ落としましたよ」
「……ああ、ありがとうございます」
後ろから声をかけられて、振り返った。
そして、思わず言ってしまった。
「……ご飯いきませんか?」
彼女は少し驚いたあと、笑った。
「いつものでいい?」
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昔、何かのテレビで「蝶と蛾」を明確に分けることは難しいと言ってた。
私とあなたのようだ
綺麗と地味は主観。
昼行性と夜行性も傾向であって例外がある。
でも私達は普段、さも明確に蝶と蛾を分けて見ている。
――
今日も学校に行く。
あなたとは目も合わさない。
当然、口も利かない。
あなた達のグループが教室中に聞こえる声でくだらない話をしている時に、私は数少ない友達ともっとくだらない話をする。
同じ教室にいるのに、まるで見えない壁でもあるようだ。
そうして朝と昼を過ごし、友達と「さよなら」して歩く。
歩く。
気持ちが昂ぶって、早歩きになる。
「遅いよ、サツキちゃん……」
「うん、ごめんね」
思わず笑みがこぼれた。
私達は夜だけの恋人。
朝と昼には、決して交わらない。
私はあなたを心音を感じるほどに、強く抱き寄せる。
そうして耳元で呟く。
「きっと、みんな想像もしないでしょうね。」
「サツキちゃんのせいだよ、学校では関係を秘密にするどころか……」
「『一切喋らないなら付き合う』なんて言い出すから、こんな面倒なこ――」
指であなたの口をそっと塞ぐ。
「だって……あなたは綺麗な蝶々だから」
「……?」
「私みたいな蛾は、近づいたらいけないの」
ワケが分からないって顔で、キョトンとしているあなた。
ああ、何て可愛い。
何て愛おしい。
けど……私のような蛾が近づけば、きっと汚れてしまう。
でも、私は知ってる。
皆が明確に分けても私だけは知ってる。
『本当は蝶と蛾に違いなんてない』って。
「ふふっ」
「あ、冷たいよ……」
冷え性の私と違ってなんて温かい手。
でもこうして手を繋げば、同じ体温になっていく。
どこまでも。
どこまでも――。
続きを読む
カーテンを一度も開けたことのない窓から陽がさしていた。そしてキッチンから朝を告げる音と香りが届いてきた。
「懐かしいな」
つぶやきながら起き上がりリビングへ向かった。母親以外の背中を見ながら珈琲を飲むのは初めてだ。そこには幸せな一日を予感させる朝があった。
「おはよう」
彼女を驚かせないように、そっと後ろから抱きしめた。彼女は僕の頬にキスを返しながら、手元では卵を焼いていた。白身は軽く焦げ目がついて香ばしく、黄身はぷっくらと半熟な目玉焼き。美味しそうと言いかけた時、彼女は目玉焼きをひっくり返した。
「ええ!」
思わず彼女から体を離すと覗き込んでしまった。その日からよく目玉焼きの定義について議論したものだ。お互い若かったのだと今では笑える。
君はひっくり返して焼きめをつけた少し硬めの白身と、トロリと流れ出る黄身をトーストにはさむのが好きだった。すすめられるがままに食べた俺も、その絶妙なバランスに魅了され今では朝の定番メニューだ。
「何ニヤニヤしてるの。お腹空いたー」
キッチンのカウンター越しに催促がかかった。以前は悲しそうな顔をしていた俺は、今ではニヤニヤしているらしい。
「はい、はい。今できるからお待ちください」
笑いながらフライパンを持つ手に力を込めた。今でも毎朝君を感じる。一緒にいた時間、君は俺の愛を感じただろうか。俺は愛を伝えられただろうか。君は沢山のものをくれた。沢山のことをしてくれた。その何分の一かでも、君に返せただろうか。
窓からさす光。今までと変わらない朝。ふと思う。この時間を大切にする事が、君への恩返しになるのだろうか。
ただ。変わったものと言えば。甘いカフェオレの香りと、君が残してくれた娘のために目玉焼きをひっくり返す俺がいること。
〈Fin〉
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シャルロット。女性の帽子に見立てたその洋菓子には温かいレモンティーがよく似合う。僕が導き出したわけではないその考えは、コンビニでレモンティーを見るたびに、反射的に思い起こされた。だから僕はいつも目を逸らしながら少しだけ離れたところにあるブラックコーヒーを手に取るようにしていた。僕はそんな僕がきらいだったが、習慣化されつつあることはなかなか変えられず、今日だっていつものように売り場に一直線に向かっていた。すると商品棚の一部に空いているスペースがあるのが遠目にわかった。近づくとそこが、いつも目を逸らしていたレモンティーの置いてある場所だと気がついた。その瞬間、僕はなんだか虚しさに包まれた。わかっていたこと。わかりたくなかったこと。心当たりしかない僕は、その場である決心をした。次の休みの日はそれを実行しようと。
晴天の昼下がり、僕は電気ケトルでお湯を沸かしていた。その横には戸棚に残っていた紅茶のティーバッグ。それに輪切りのレモン。さらに冷蔵庫で冷やしていたシャルロットも並んで、さながらお茶会でも始まりそうな雰囲気である。でも部屋にいるのは僕ひとり。静寂の中、電気ケトルが沸騰を知らせる音を発する。いよいよである。ティーバッグの入ったカップに熱湯を注ぐ。少しの間待ってティーバッグを取り出し、輪切りのレモンを浮かべると、紅茶の色が薄くなる。明るい赤茶のそれはまるで誰かの髪色のようで胸がじんわりする。準備は整った。シャルロットをレモンティー傍らに食す。新しい感覚なのに、どこか懐かしいそれは、心の虚しさを埋めるように満たしていく。そんなとき部屋のインターホンが鳴った。来客モニターの画面を見て、僕は一瞬固まってから玄関に駆けた。
「久しぶり。どう? 雰囲気変わったでしょ?」
はじめて見る黒髪に見惚れてしまう。
「え? てかなんでレモンティー飲んでるの?」
「それは、あれだよ……察しろよ」
「ふふっ、そっかー! ブラックコーヒーもいいなーって思って戻ってきたんだけどなー。そっかー!」
笑顔でよくわからないことを言われ戸惑う僕。
「あ、シャルロット食べる? え、ブラック飲むの?」
「ねー、今日はどう考えてもレモンティーでしょー⁉」
僕がそうやって呆れられたこの日から、ふたりには新しいふたつのおそろいができていました。
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飼っていたハムスターが死んだ次の日、ケージの中には、クラスの同級生でもある幼馴染みがいた。
彼女は学校の制服を身にまとい、ハムスターと同じぐらいの大きさで座っている。
最初はお互いにパニックになったが、数日もすれば慣れたものだ。
生徒が一人居なくなったというのに、学校や地域では騒ぎになっていない。
まるで最初から居なかったのが当然とでもいうように、幼馴染みの席は空いていた。
私は出かける前にいつも、幼馴染みのためにご飯を作っておく。量としては一食分。それで一日事足りるのだ。
食べた後、お腹が大きく膨らむが、カラカラをしばらく走っているといつの間にか引っ込んでいる不思議な体だった。
食器や衣類などは、おままごと人形の物を代用した。
風呂はハムスターの飲み水に使っていた箱を、トイレは仕方なく砂の入ったコーナートイレにしてもらっている。
直接見ないようにし、終わったら私が処理して砂を取り換える。
夕飯はいつも私が食べさせている。
幼馴染みはあーんと口を開けて、私は取り過ぎないように気を付けながら彼女の口へ、夕飯を運ぶのだった。
彼女には不便だっただろうが、周囲が知らない二人だけのこの生活が、私は楽しかった。
そんな生活を一ヶ月続けていた。
すると突然、幼馴染みは元の大きさに戻っていた。
周囲は何事も無かったかのように、彼女と接し、普通の生活を送っている。
私は寂しく感じながらも、使っていたゲージをゴミに出して捨てた。
部屋が無駄に広くなったように感じた。
でも、変わらないことが一つあった。
放課後、クラスメイトたちの居ない教室で、昼に食べたのとは別の弁当箱を開ける。
幼馴染みは私の隣の席に座り、口を開いて待っている。
私はこぼさないように気を付けながら、彼女の口へ少し早い夕飯を持っていく。
このやり取りだけは、今も続いているのだ。
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窓を叩く雨音が、やけに大きく室内に響いていた。
時刻は午後八時を回ったところ。
定時をとっくに過ぎたオフィスには、もう私と結月《ゆづき》先輩しか残っていない。
「ひゃっ……冷たっ」
外回りから帰る途中で急な土砂降りに遭い、私はすっかり濡れ鼠になってしまっていた。
傘を持っていなかったため、駅からの短い距離を走っただけで、白いブラウスが肌に張り付くほど濡れてしまったのだ。
「栞《しおり》ちゃん、おかえり。……って、すごい濡れてるじゃない」
パソコンに向かっていた結月先輩が、弾かれたように立ち上がる。
黒髪のボブティアーに、タイトなネイビーのスーツ。いつも隙がなく、社内でも高嶺の花として有名な先輩だ。
「すみません、急に降ってきて……」
「謝らなくていいから。ほら、給湯室に行くよ。タオル貸してあげる」
先輩は私の手首を掴むと、半ば強引にオフィスの隅にある給湯室へと連れ込んだ。
誰もいない、薄暗い給湯室。
蛍光灯のスイッチを点けると、先輩は自分のロッカーから清潔なバスタオルを取り出し、私の頭からバサリと被せた。
「風邪、引いちゃうよ」
そう言いながら、タオル越しに私の髪をわしゃわしゃと拭いてくれる。
先輩との距離が、近い。
普段から憧れていた彼女の、ふわりとしたバニラとムスクが混ざったような香水が、雨の匂いと混ざって私の鼻腔をくすぐった。
「あ、あの、先輩……自分でやりますから……」
「いいの。私にやらせて」
少し低く、耳元で甘く響く声。
その声色にドキリとして顔を上げると、至近距離に先輩の顔があった。
長いまつ毛に縁取られた切れ長の瞳が、獲物をねめ回すように私をじっと見つめている。
「……髪だけじゃなくて、服も下着も透けてる」
先輩の視線が、私の胸元へと下りる。
雨に濡れた白いブラウスは透明度を増し、下に着ていたキャミソールや肌の輪郭までをくっきりと浮き彫りにしていた。
「っ……見ないでください……!」
恥ずかしさで両腕を交差して胸元を隠そうとしたが、それよりも早く、先輩の白く細い指が私の手首をふわりと押さえ込んだ。
「どうして? すごく、綺麗なのに」
「せん、ぱい……?」
いつもの凛とした先輩とは違う。
どこか熱を帯びた、とろけるような瞳。
先輩の手が私の手首から滑り落ち、濡れて冷え切った私の首筋へと触れた。
「ひゃあ……っ」
冷たい肌に、先輩の温かい指先が触れる。
その温度差に、思わず甘い吐息が漏れてしまった。
先輩の親指が、私の鎖骨をなぞるようにゆっくりと這う。
ゾクゾクとするような快感が背筋を駆け抜け、膝の力が抜けそうになる。
「栞ちゃん、震えてる。……寒いの?」
「……さむい、です。だから……」
「そっか。じゃあ、温めてあげなきゃね」
言い訳を塞ぐように、先輩の顔が近づいてきた。
チュッ、という小さな水音が給湯室に響く。
唇の端に、先輩の柔らかい唇が落とされた。
「……っ!?」
驚いて目を見開く私を逃がさないように、先輩の片手が私の後頭部を引き寄せる。
そして今度は、まっすぐに唇が塞がれた。
「んっ……ふぁ……」
ちゅ、れろ……という、卑猥《ひわい》な音が静かな空間に響き渡る。
ただ触れ合うだけじゃない。先輩の舌が、私の唇を割り入って、甘い痺れを口内にもたらしていく。
私の舌を絡め取り、味わうように深く、深く。
息継ぎの隙間すら与えられないほどの濃厚なキスに、頭のなかが真っ白になっていく。
「はぁっ……ん、せんぱ……だめ、ここ、会社っ……」
「誰もいないよ。聞こえるのは、雨の音だけ」
唇をわずかに離し、銀色の糸を引きながら先輩が妖艶に微笑む。
その目には、私に対する隠しきれない独占欲が渦巻いていた。
先輩の手が、私のブラウスのボタンへと伸びる。
カチ、と一番上のボタンが外され、濡れた布地がゆっくりと肌から剥がされていく。
「あ……」
「栞ちゃんの肌、すごく冷たい。もっと私が、熱くしてあげるから」
ブラウスの隙間から滑り込んだ先輩の手が、私の腰をそっと撫で上げた。
直接肌に触れる指先は火傷しそうなほど熱く、そこから伝わる熱情に、私の身体はビクビクと反応してしまう。
「声、抑えなくていいよ。……私しか、聞いてないんだから」
耳たぶを甘噛みされ、私は堪えきれずに小さな喘ぎ声を漏らした。
先輩の香りと、まとわりつくような熱い吐息。
濡れた服の冷たさなどとうに忘れてしまうほど、私の身体の中心には熱い火が灯っていた。
「栞ちゃん……可愛い。全部、私のものにしたい」
再び重なる唇。
今度は私から、先輩の首に腕を回してその熱に応えた。
外の雨音は、もう二人の吐息と水音にかき消されて聞こえない。
この嵐が過ぎ去るまで——いや、過ぎ去った後もきっと。
私はこの甘く危険な先輩の腕の中から、抜け出せそうになかった。
続きを読む
彼女はまた下校中に足を止め、その花をスマホカメラに収める。
ナガミヒナゲシの淡い赤色の花を。
「何度も言ってるけどその花、害がある外来種なんだよ?」
「うん、聞いた聞いた」
「じゃあ具体的には?」
「うん、聞いた聞いた」
――こいつ。
「アレロパシーって言って、周りの花とかが育ちにくくなるの。」
「自分勝手な人みたいだねー」
「……あと茎とか葉から出る乳液は、かぶれる程度の毒あるから触らないでね」
「かぶれる程度、ね」
「そんな花を見かけるたび、撮って何が楽しいの?」
彼女は私の言葉に、ようやくスマホから目を離した。
そして、どんどん近づいてくる。
いや、ちょっと近すぎな――。
「ッ……!」
彼女の柔らかな唇が、私の頬に触れた。
「な、何なの?」
「前、いきなり唇にしたら怒ったから」
またスマホに目を戻す彼女。
「そういう問題じゃないって」
「好きな花なんて、人それぞれじゃん。
そりゃ迷惑な人もいるだろうけどね。」
「……」
「恋人と同じ名前の花、嫌いになる方がおかしくない?
『永見 雛芥子(ナガミ ヒナゲシ)』さん」
「はあ、もう好きにしたら……」
「はーい、好きにしまーす」
私は無知な人が嫌い。
両親は「可愛い」からと、何も知らずに私の名前をつけた。
私は自分が嫌い。
人と関わるのが怖くて、毒のある言葉を吐いて遠ざける私が。
そして、それを全部知ってて愛してくれるこいつが――
――大っ嫌い。
ああ、顔が火照って熱い。
「ねえ、もう終わった?」
「うん!早く帰ろ」
「はい、はい」
あなたは振り向かず私の前を歩く。
呆れる声と裏腹に、
愛する人のキスで、少しだけスキップしてしまったことだけは。
……どうか、あなたに知られませんように。
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「ねぇ、覚えてる?」
絞り出された|麻衣《まい》の声は、髪や涙と一緒に強風に流されそうだった。
「僕には君が必要だって。傍にいてくれって言ったのに」
「覚えてるよ。今だって気持ちは変わってないよ」
|和己《かずみ》が一歩前に出ると、麻衣も一歩後ろに下がった。鉄の足場がカツンと響いた。
「麻衣。頼むから落ち着いて」
「いや。来ないで!」
和己が差し出した手を、麻衣は両腕を胸に抱く事で拒絶した。
「私嬉しかった。かず君を守りたいって思った。それなのに接待だとか仕事だからとか。いっつも私は家で一人! 一緒になっても一人の時間が多いなら、ずっと一人のままの方が良かった!」
和己は唾と一緒に言葉を飲み込んだ。今「仕方ない」なんて口にしてしまえば、麻衣は身を投げ出してしまう。乗っている足場には、もう後がない。
和己の言葉を待つかのように風がやんだ。
「僕が悪かった。努力する、いや変えてみせるから。お願いだ。落ち着いてこっちに」
運命の出会いでも、積み重なる|僅《わず》かなスレ違いが、ほころびを生んでしまう。それは些細な切っ掛けでぼろぼろと|解《ほつ》れてゆき、偶然の出会いへと変わってしまった。
「僕が悪かった。努力する、いや変えて見せるから。お願いだ。落ち着いてこっちに」
麻衣は手を伸ばした和己の瞳を、その中の熱意を測るかのように見つめ返した。
「かず君……。あっ」
胸に抱いていた両腕を解いた麻衣が突風に煽られた。
「麻衣ー!」
「きゃーー!」
和己は欄干から身を乗り出し目一杯腕を伸ばした。しかしその手は悲鳴だけを掴み、麻衣の姿は空中に消えてしまった。
**********
「もういいですか。次のお客様お待ちなので」
「あ、はい」
麻衣が立っていた足場の手前に居たツナギ姿の男性が、慣れた感じで和己にセイフティーエリアから退くように促した。和己は素直に欄干から体を離し出口通路の先へと向かった。
大人しく引き上げられた麻衣は、出口へ駆け出すと和己に抱きついた。
「先輩なんなんです?」
ワイヤーロープを絡まないように束ねる青年が、熱い抱擁を交わす二人を見ていった。
問い掛けられたツナギ姿の男性は、ハーネスの点検をしながら鼻を鳴らした。
「東京から来る、ぶっ飛んだカップルだよ。喧嘩したら飛び降りのシミュレーションで互いの大切さを確認するんだと。ただの趣味レーションとしか思えないけどな。いい加減セリフも覚えたわ」
「毎回やるんですか、あれ!」
「誰かが動画あげてバズったとかで、今は3パターンあるよ」
「先輩……。お疲れ様です」
青年の哀れんだ瞳に、ツナギ姿の男性は「おう」とだけ応えた。
和己と麻衣の行動が、バンジージャンプ施設スタッフがお客様に許せるボーダーラインだった。
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