亀を助けたのは、本当に善意だったのか。
太郎は竜宮城で、何度もそれを考えた。
ただ、あの助けを求める亀の目が――人間のそれと同じだったから、気味が悪くて、銭を払ってでも逃れたかっただけではなかっただろうか。
竜宮城は美しかった。ただ、おかしなことがあった。
宴の席に並ぶ魚たちが、踊りながら、こちらを見ていなかった。
目は開いているのに、焦点が合っていない。笑っているのに、笑っていない。
よく見れば、動きが全員、寸分違わず同じで、まるで、同じ悪夢を繰り返し見せられているようだった。
毎晩毎晩、村では見たことのないようなご馳走が並んだ。しかし、どれもこれも味がない。見た目は美しく豪華なのに、なにを食っても、咀嚼するごとに不快感が込み上げてくる。砂を噛むような食事の中で、唯一甘さを感じるものは、太郎の口に食事を運ぶ乙姫の指先だけだった。
乙姫は毎晩、太郎の隣に座った。会話をし、時折冷たい手で太郎の手を取り、笑った。
夜にはぬるりと冷たい体で伽をした。海の底に沈んだもののようなにおいが肺に染み込む気がした。
伽を断ることはできなかった。
太郎は自分の鼓動がゆっくりゆっくりと、遅くなるのを感じた。自分が陸の人間ではなくなっていく気がした。
しかし三日目の夜、太郎は気づいた。乙姫が、一度も瞬きをしていないことに。
「楽しゅうございますか」
貼りついたような笑顔のまま、答えられない問いを投げかけてきた。
太郎は翌朝、帰ると告げた。引き止められはしなかった。ただ玉手箱を渡しながら、乙姫はこう言った。
「地上にはもう何も残っておりませんよ」
開けろとも開けるなとも言わず、笑顔のまま。瞬きもせずに。
浜に上がると、村はあった。しかし、おかしかった。
道行く人々の顔が、どこか似ていた。
全員が似ているのではない。何人かに一人、まったく同じ顔をした者がいる。同じ顔が、人混みの中に、点在している。
太郎と目が合うと、その顔たちは、揃って微笑んだ。乙姫と同じ笑い方で。
たまらず太郎は走って逃げた。老人を捕まえて、ここはどこだ、今はいつだと叫んだ。老人は穏やかに答えた。
「もうなにも残っていない……三百年前から、ずっとここはここですよ」
そして老人も、微笑んだ。
白煙が晴れた後、箱の中には何もなかった。太郎の体は老いた。皺が刻まれ、髪が白くなり、立つこともできなくなった。
砂の上に倒れながら、太郎は気づいた。あの、もう今となってはいつのことかも思い出せない、あの助けたはずの亀は。ずっと昔に、竜宮城へ連れて行かれた、本当の自分だったのかもしれない。
薄れゆく視界の中で、太郎は最後に、背後にいる亀の目を見た。
黒く澄んだその瞳はどこかで見たことがあった。
――ああ、そうか。これは俺なのか。
砂の上に倒れ込んだ瞬間、背中に冷たい甲羅の感触が触れた気がした。
甲羅に銭を食い込ませた亀はゆっくりと首を伸ばし、太郎の顔を覗き込んだ。
その目は、人間のものだった。
続きを読む
湿った夏風が、古いアパートの廊下を吹き抜ける。
フランス語講師をしている俺は、ただ安さに惹かれてこの「グラン・アントリエール」に引っ越してきた。
「この安さで『グラン』とは…どこが偉大なんだか」
そんなことをつぶやきながら引っ越しの荷解きをし、入居して数ヶ月。
この部屋で、僕は「彼女」と出会うことになった。
それは、月明かりが妙に青白い夜のことだった。
ふと夜中に目を覚まし、喉を潤そうと起き上がった僕の視界に、「それ」が映り込んだ。部屋の隅、ベッドのすぐそばに、人影が立っていたのだ。
心臓が強く動悸し、呼吸が止まる。 幽霊だと理解するよりも先に、本能的な恐怖が体を駆け巡った。
しかし、その恐怖は数秒で奇妙な違和感へと変わる。
そこにいるのは、あまりに場違いな姿をした女性だった。
彼女は、洋風の古風な金色の刺繍が施された、重厚で豪華なドレス、くすんだブレスレットを身に着けていた。
かつては鮮やかであったであろうその服は、焼け焦げ、裾はボロボロに崩れている。
しかし、彼女の肌は霧のような透明感で、その顔立ちは彫刻のように美しかった。
幽霊という存在は、もっと冷たく、恐ろしいなものだと思っていた。
だが、彼女は違った。
彼女は僕をじっと見つめていた。その瞳には、悲しみと、慈愛に満ちた喜びが混ざり合っている。
彼女は、音を立てずに、どこか懐かしげな、それでいて切ない微笑を浮かべていた。
自分が恐れられる存在であることを、
彼女自身が理解しているかのように見えた。
翌日も、彼女はそこにいた。
仕事から帰り、ご飯を食べている時。
部屋の壁際に彼女が立っている。
読みかけの本を置いた拍子に、カーテンの影から彼女のドレスの裾が見える。
最初は気が狂いそうだった。
盛り塩を買いに走り、お守りを並べ、寺に相談に行くこともあった。
しかし、日を追うごとに、不思議な感情が僕の中で芽生え始めていた。
それは、言いようのない「懐かしさ」だった。
彼女の視線は、赤の他人に向けられるものではない。大切な何かを見守るような、温かな眼差し。彼女が言葉を発することはないが、その沈黙は拒絶ではなく、静かな祈りのように感じられた。
ある夜のことだった。僕は仕事の難題を抱え、狭い机の前で唸っていた。
思考は乱れ、解決の糸口は見えない。
僕は無意識のうちに、昔からの癖で、右手の拳を額に強く押し当てた。
眉間にシワを寄せ、拳に体重を預けるようにして考え込む。
その時、部屋の空気が微かに震えた。
顔を上げると、いつもは距離を保っていた彼女が、ほんの少しだけこちらに身を乗り出していた。
数メートル離れた部屋の角で、彼女の瞳が、驚きで見開かれる。そして次の瞬間、彼女は今までに見たことがないほど、鮮やかで、幸福に満ちた笑顔を見せた。
それは美しい微笑みだった。
「……!」
その笑顔が、僕の脳内に眠っていた重い扉を、乱暴に押し開けた。
雪崩のように流れ込んでくる記憶。
それは今世の僕のものではなく、魂の深層に刻まれた、別の時代の記憶だった。
ーーーーーー
彼女は、この屋敷の主の娘エレナ。
美しいドレスを着た貴族の令嬢だった。
そして僕は、この屋敷の馬の世話をする、使用人。
娘は馬が好きでよく馬小屋にきて馬を撫でた。
馬の話をしているうちに、二人は惹かれあい、愛し合うのに時間はかからなかった。交わるはずのない二人の運命は、馬小屋の中で、誰にも知られずに結ばれた。
エレナの誕生日に馬の蹄鉄を薄く延ばして作った、ブレスレットを送った、お金のない使用人である僕にあげられる精一杯の贈り物だった。そんなものでもエレナは太陽のような笑顔で喜んでくれた。
しかし、身分違いの恋。それは許されざる罪であった。
そして秘密の愛をはぐくんで1年ほどがたったある日それは起きた。
ーー燃えていた。
空を焦がすような紅蓮の炎が、豪邸を包み込んでいた。
パチパチとはぜる木材の音。逃げ惑う人々の悲鳴。視界の先には、崩れかけた二階のベランダで、立ち往生しているエレナがいた。
「お嬢様!」
僕は炎の中に飛び込み、崩落しそうな階段を駆け上がった。
ベランダに辿り着いた時、足元の床はすでに崩れ落ち、彼女は手すり一本にぶら下がって宙吊りになっていた。その下は、炎が渦巻く。落ちたら絶対に助からない。
エレナの腕をつかみ引き上げようとする。
しかし、豪華な装飾のドレスはあまりにも無慈悲で重たかった。
全身の筋肉が悲鳴を上げる、それでもこの手を離すことはできない。
「エレナ、手を離さないでください!」
しかし、自身も床の崩落に巻き込まれかけていた。二人の重みを支えられる場所は、どこにも残っていない。このままでは、二人とも火の海に沈むだけだ。
ゆっくりとつかんでいた手が滑り落ち、もうだめかと思った瞬間、あのブレスレットが二人をつなぎとめた。
エレナは僕を見上げた。彼女の顔には火の粉が舞い、ドレスはすでに火を吹いていた。
僕が彼女を助けるために命を捨てようとしていることを悟ったのだろう。
彼女は、ブレスレットを掴む力を、ふっと抜いた。
『ありがとう、来世で、絶対に幸せになろうね』
彼女の唇がそう動いた。
絶叫する僕の手を、彼女は自らの意思で振り払った。
夜の闇と炎の渦の中へ、美しいドレスを翻しながら、彼女は落ちていった。
「エレナーーッ!」
それが、前世の僕が見た、最後のエレナの姿だった。
ーーーーーー
……僕は、アパートの自室で呆然と立ち尽くしていた。 頬を熱いものが伝い、床に落ちる。
「エレナ……」
名前を呼ぶと、彼女――エレナは、愛おしそうに首を傾げた。
彼女は、僕よりも先に今世に生を受けていたのだ。
僕を探し、僕を待ちながら。
だが、運命は過酷だった。彼女はまたしても、僕と出会う前に、若くして命を落としてしまったのだ。
彼女が成仏せず、この世に留まり続けた理由を、僕は直感的に理解した。
もし彼女が魂の循環に戻ってしまえば、次に生まれ変わった時、また僕との間に大きな「時のズレ」が生じてしまうかもしれない。
彼女は、僕が生まれてくるのを、そして僕が彼女を見つけることができる年齢になるのを、霊となって待ち続けていたのだ。
それはどれほど途方もない時間だったのだろう。
「待たせてごめんな」
そうつぶやいた僕を彼女は目を潤しながらあの太陽のような笑顔で答えた。
彼女は僕に、死を強いることは決してなかった。
「早くこちらへ来て」と手招きすることもない。
ただ、僕が朝起きて、仕事に行き、飯を食べ、時に悩み、時に笑いながら、この時代を「生きる」姿を、彼女は満足そうに見守っていた。 僕が風邪を引けば心配そうに傍らに座り、僕がテレビを見て笑えば、彼女も少しだけ口角を上げた。
それからの僕の人生は、一人であって一人ではなかった。
他人からは奇妙に見えたかもしれない。
生涯独身を貫き、古いアパートから引っ越すこともなく、時折、何もない空間に向かって穏やかに微笑かける男。
だが、僕の心は、かつてないほど満たされていた。彼女という静かな光が、僕の日常を照らしてくれていたから。
月日は流れ、僕の髪には白いものが混じり、腰は曲がっていった。
肉体は衰え、死の足音がすぐそばにまで迫ってきたある冬の夜。
僕はベッドの中で、薄れゆく意識を感じていた。
傍らには、あの日と変わらぬ姿の彼女がいた。ボロボロのドレスを纏い、美しい微笑みを浮かべたエレナ。
彼女が、初めて僕の手に触れた。
その手は氷のように冷たかったが、伝わってくる感情は、陽だまりのように温かかった。
「お待たせ、エレナ。やっと、君のところへ行けるよ」
僕は手を伸ばし、彼女の頬に触れた。
彼女は涙をこぼし、僕の目をそっと閉ざした。
ようやく、二人で帰る時が来たのだ。
前世で果たせなかった約束。今世で待ち続けた時間。
すべては、次の世界を開くための準備に過ぎなかった。
それから、どれほどの時が流れただろうか。
眩しい光が降り注ぐ、現代の街角。
洗練されたビルが立ち並び、人々が忙しなく行き交うアスファルトの上。
紺色のスーツを着た若い男は、駅へと向かって歩いていた。
ふと、彼は立ち止まり、考え事をするように右手の拳を額に当てた。
「……!」
その拍子に、向こう側から歩いてきた一人の女性と、目が合った。
女性は、淡いクリーム色のワンピースを着ていた。風に揺れる髪、そしてどこか異国の面影を感じさせる整った顔立ち。
二人の視線が、交差する。
心臓が、大きく鳴った。
理由のない懐かしさと、こみ上げるような熱い感情。
何千回、何万回と夢に見た、あの微笑みが
目の前の女性の唇に宿っている。
彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
男は、自分でも驚くほど自然に、彼女に向かって声をかけていた。
「…やっと、見つけた」
街の喧騒は一瞬で遠のき、二人の間には、時代を越えて紡がれ糸が確かに結ばれたのだった。
続きを読む
深夜、残業を終え、疲れ果てた足取りで自室のあるアパートの十階へと冷たいコンクリートの折り返し階段を上っていた。
蛍光灯もないその場所は非常口の明かりだけが足元を照らしている。
5階ほどで、ふと何かを感じ、私は手すりの隙間から、階段の底を覗き込んだ。
暗がりの底、一階の踊り場に、ポツンと小さな影が立っていた。
それは子供だった。
顔だけが妙に白く浮き上がって見える。
蛍光灯の反射か、あるいは月明りか。
子供は、口角を耳の付け根まで引き裂いたような満面の笑みを浮かべ、じっと真上の私を見上げていた。
心臓が跳ねる。
見間違えではなかった。
子供は瞬き一つせず、その不気味な笑みを張り付かせたまま、走り出した。
タッタッタッタッ
軽い足音が凄まじい速さで駆け上がってくる。その子供は手すりを掴むこともなく、
重力を無視するかのように、
折り返し階段を登ってくるのだ。
その目は、一瞬たりとも私から外れない。
笑顔のまま。
「…っ!」
私は悲鳴を飲み込み、夢中で階段を駆け上がった。
自分の階はまだ上だ。
恐怖で体が思うように動かない。
だが、背後から迫る足音は、私を嘲笑うかのように距離を縮めてくる。
踊り場を曲がるたび、すぐ下の段に、あの白い顔と裂けたような笑みがチラリと見える。
逃げ場のない階段で、私は恐怖に心臓が張り裂けそうだった。
十階の重い扉に手をかけようとした瞬間、背後に冷たい気配が立ち込めた。
「…待って」
小さく幼い、けれど、
どこかかすれた声が耳元で響く。
振り返ると、子供が立っていた。
間近で見るその顔は、やはり笑っている。
しかし、近くで見ればそれは歓喜の笑みではなく、何かを必死に堪え、縋り付こうとする悲痛な表情の歪みに見えた。
先ほどまでのあの異様な笑顔は自分の恐怖が作り出したものだったのだろうか。
子供は震える小さな手を差し出した。
その指には、一通の手紙があった。
「届けて……」
子供の手から手紙を受取ろうと、手紙に触れた瞬間、その姿は霧が晴れるように消え去った。
足元に落ちたのは、ひどく色褪せ、角の擦り切れた古びた封筒だった。
部屋に戻り、震える手でその手紙を確認する。
消印は数十年前のものだ。
住所をスマートフォンで調べようとするが、検索結果に現れるのは、災害の記録と、かつてそこにあったという村の記録だけ。
現在の地図サービスを開いても、そこにはもう人が住んでいるような建物の姿はなかった。
数日かけて古い地名辞典や郷土資料を漁り、私はようやくその真実に辿り着いた。
その住所は、かつて存在した山間の村だった。
しかし、そこはもう、地図から消えた「亡くなった町」なのだ。
四十年前、その地を襲った凄惨なダムの決壊事故。
集中豪雨によってダムが決壊し流れ出た大量の土砂と水は、眠りについていた小さな町を一瞬にして飲み込んだ。
多くの命が失われたその町は、
今は水の底か、立ち入りを禁じられた廃墟の山林となっている。
手紙の主は、その町で出稼ぎをしていた夫を待つ、若き日の妻だった。
他人の手紙を見るのは抵抗があったが、私は迷いながらも、封を解いた。
中には、古い便箋に丁寧な文字で綴られていた。
仕事はどうですか。元気でやっていますか。
健一がようやく「お父さん」
と呼べるようになったんですよ。
できることなら今すぐにでも会いにいきたいです。
早く帰ってきてね。
あなたが帰ってくる日を、
二人でカレンダーに印をつけて待っています。
寒くなってきました、体に気をつけて。
無理はしないでくださいね。
あなたの帰りを待っています。
かしこ
さゆり・健一
文面に滲むのは、日常の何気ない幸せと、夫への純粋な愛だった。
しかし、この手紙が出されたのは、あの決壊事故が起こるわずか二日前のことだ。
夫は、ダムが決壊したその瞬間に現場で命を落としていた。
妻が事故の報を知るより先に投函されたこの手紙は、届くべき場所を失い、受け取るべき相手を失い、その町へと届くことなく、数十年の時を彷徨い続けていたのだ。
あの階段に現れた子供は、手紙に書かれていた「健一君」
君だったのだろうか。
父に会いたかったのか、あるいは母の想いを届けたかった。
その一念が生霊のように、時を超えて私を呼び止めたのかもしれない。
私は手紙を胸に抱き、かつてその町があった場所へと向かった。
今は緑に深く覆われたその地には、事故の犠牲者を弔う小さな慰霊碑と、古い墓石がいくつか並んでいた。
夫の名が刻まれた墓を探し当てるのは、そう難しくはなかった。周囲は静まり返り、ただ風が木々を揺らす音だけが聞こえる。
私は墓前で膝をつき、手紙を広げた。
「…届きましたよ」
声に出して、ゆっくりと、
最後の一文字まで読み上げると、自然に涙が落ちていた。
四十年の時を経て、ようやく思いが届いたような気がした。
読み終えた手紙をゆっくりと折り畳み、
私はそれを墓石の前にそっと置いた。
山からの強い風に飛ばされてしまわないよう、近くに落ちていた、石を重石にする。
「やっと、届いた…」
背後でそんな声が聞こえた気がして、
振り返ったが…
そこには誰もいなかった。
ただ、今までまとわりついていた重苦しい冷気は消え、西日に照らされた森は穏やかな光に満ちている。
手紙を置いた石を見ていると、山から流れる風が葉音を立てながら私を包む、その瞬間、長い間絡まっていた心の糸が温かな風に解けていくような感覚がした。
長い旅を終えた手紙は、今、ようやく安らかな眠りについたのだ。
続きを読む
ああ、俺に見えているものは他人には見えていないんだ、そう実感したのは幼稚園の年中の頃だった。
祖父母の家、床の間に座っている、ひとりだけモノクロで色味がまるでなく、顔を塗りつぶされたような着物姿の老婆。それが俺が明確に、この世のものではないもの、と認識した存在だった。
祖母は俺に言った。ああいう連中と目を合わせてはいけない、見えていると知られてはいけないと。
時折、床の間を凝視する俺の幼い目を塞ぐ祖母の手からは、祖母が使う化粧品のにおいがした。
俺は今大学生で、学業の合間に居酒屋でバイトをしている。ビル街の、小さなテナントの居酒屋だ。店員用の通用口は薄暗い路地裏に面していて、ゴミやら排気口から吐き出される揚げ物のにおいでいつもなんとも言えないにおいが漂っている。
その日、店じまいで厨房に溜まったゴミを通用口からゴミ捨て場に出しに行った俺は違和感を覚えた。
いつもとにおいが違う。
揚げ物の油のにおいとも、ゴミのにおいとも違う異臭がした。
ただ、どこかで嗅いだことのあるにおいであることはわかる。ふと耳裏で記憶に刻まれた祖父の声がした。
「淳平、裏の山さ遊びに行くのはええ。だが山の麓の沼には近づいちゃなんねぇぞ。あそこの沼は深いんだ。淳平があんな沼さ入っちまったら、じいちゃんでは助けてやれんからな」
祖父母の家に遊びに行く度に言われた言葉だった。そして、小学三年生になった俺の手を引いた祖父が、連れて行ってくれたのは暗く澱んだ沼だった。
「いいか、淳平。沼には近づいちゃなんねぇ。沼はな、人を呑むんだ」
祖父の声が蘇った瞬間、異臭が強くなる。あの沼に連れて行かれた日も嗅いで、嫌な気分になった、泥と水が澱んで腐ったにおいだ。
店の裏でこんなにおいを嗅ぐのは初めてだった。
ふと、体が動かないことに気づく。ゴミ袋を握りしめた拳が開けない。暗い路地裏の影がまるでスニーカーの靴底に貼り付いたように足が地面から離れない。
かろうじて動くのは目玉だった。目玉だけを回して辺りを探る。泥と水の腐ったにおいがさらに強くなる。表通りの喧騒が遠い。ゴミ出しに出ただけの俺を呼びに来るバイト仲間もいない。
世界に俺だけが取り残されたようだった。
ずる、ぴちゃ、ずる、ぴちゃ。
湿った音がした。衣擦れと素足で歩く音。見えないのにはっきりとわかった。そして、これはきっと見えてはいけないものだということも、わかった。
ずる、ぴちゃ、ずる、ぴちゃ。
音が近づく。それに合わせて泥と水が腐ったにおいも近くなる。周囲の湿度が上がった気がした。
「あの人はどこ、あの人は、お腹にややがいるんです……」
女の細い声だった。か細いのに、まだ距離があるはずなのに耳元で話されているかのようにはっきり聞き取れた。
やや、赤ちゃんのことだろうか。誰かを探している。
頭の一部、やたら冷静な部分が状況を整理し始める。体は相変わらず動かない。湿った音は近い。腐ったにおいが肺を満たした。
少しだけ自分の左側、路地裏の奥の闇を覗いてみる。そこにはボロボロの着物を纏った乱れ髪の女がいた。肌は異様に白い。長い前髪がだらりと垂れ下がっているせいで顔は見えない。輪郭がはっきりしているんだか、曖昧なんだかうまく認識できない。
この世のものではない。
女は俺に気づいているのかいないのか、ただ濡れた着物を引き摺って歩いている。
「あの人はいませんか……あの人は……お腹のややの父親なんです……」
悲壮感の漂う声だった。言ってる内容はこんなにはっきり聞こえるのに、まるで磨りガラスの向こうの人影のような曖昧さがあった。
ふらり、ふらり、おぼつかない足取りで女は歩いている。
その胎にいるのであろう赤ちゃんを、くたびれた着物と青白い肌越しに撫でる手はずいぶん細い。
「あの人……あの人……あんた?」
茫洋としていた声を発していた女だったが、あんた、その三つの音だけがやたらはっきりと響いた。女が俺の真左の延長線上でぴたりと歩みを止める。長い髪で表情の半分も見えない顔が俺の方に傾いた。
女が俺を認識した瞬間だった。
女の頼りない歩みが、明確な意思を持ってそのつま先を俺に向けてくる。湿った音がほんの少しテンポを上げる。
やばい、やばい、やばい。
音が、腐ったにおいが近づく。
空気の圧が俺の体にのしかかる。
助けを求めたくても、俺の声帯はぴくりとも震えない。
唯一動かせるのは目、このまま女に俺が女のことを見ていると知られてはまずい。
咄嗟にそう判断した俺は、ぎりぎりと音を立てそうな勢いで両の瞼を閉じた。視界が暗くなる。すると、幼いあの日、祖父に連れられて見に行った沼のにおいよりもさらに濃い沼の臭気が俺の全身を包んだ。
女が、目の前に、いる。
女の震えるような息遣いを感じる。頬に湿った感触。これはきっと女の手のひらなのだろう。目で見ているわけではないのに、脳は勝手に大量の情報を拾い上げてそれをパズルのように組み合わせ、閉じた瞼の裏に決して見てはいけない光景を結んでいく。
もう片方の頬にも女の手が当てられた。冷たい。体温がない。
俺は閉じた瞼を、これ以上閉じようもないのにさらに強く強く閉じた。
その瞬間、腐り果てた沼のにおいの隙間から、懐かしいにおいがした。
祖母の化粧品のにおいだった。
「…………あの人じゃない」
女の怒りに満ちたような、悲哀で濡れたような声がして、頬から手のひらがずるりと滑り落ちた。
まだだ、まだ目は開けられない。女はまだ目の前にいるから。
俺がただひたすら耐えていると、最後に消え入りそうな声で、あの人じゃない、と繰り返して湿った気配とあの腐った沼のにおいが消えた。
助かった。
全身から力が抜けてその場にへたり込む。服の内側は冷や汗でびっしょり濡れていて気持ちが悪かった。
「淳平くーん、ゴミ捨てまだー?ん、どしたん、転けたか?立てる?」
呑気な元ラガーマンの店長がゴミ袋を握りしめて地面に座る俺を見て不思議そうに首を傾げる。俺は掠れ声で、大丈夫っす、と返すしかできなかった。
沼のにおいを纏った女に出会して二日経った。俺は今大学の図書館で地域史について調べている。どうやら俺のバイト先のあるあの辺りは、いわゆる私娼窟のあった場所らしい。端女郎が非合法の店で働いていたそうだ。そして、私娼窟の片隅にはさほど大きくはない沼があった。その沼には、病気で亡くなった女郎が投げ込まれたり、時には足抜けできずに男と心中するために身を投げる女郎がいたらしい。
端呑みの沼。
いつしかそう呼ばれるようになった沼は、その名すら忘れられ、埋められ、その上に建物が建った。
女たちの想いも恨みも全て飲み込んで、沼はまだあの土の下に、当時の記憶を自身の中に漂わせながらそこにあるのかもしれない。
「沼はな、人を呑むんだ」
祖父が繰り返し俺に言い聞かせたあの言葉は本当なのだろう。
地域史の資料を片付けて図書館を出た俺は、スマートフォンを取り出して、実家の母に電話をかけた。数回のコール音の後、聞き慣れたようで懐かしい母の声がした。
「ああ、お袋?あのさ、ばあちゃんに線香あげに行きたいんだけど、今度いつじいちゃんのとこ行く?お盆?じゃあ俺も行くわ……バイト?普段真面目にやってっから休めると思う。……それに、もしかしたら今のバイト先辞めるかもわからんし。……あーいや、こっちの話。んじゃお盆は帰るから、よろしくー」
一昨年亡くなった祖母は、俺がこの世のものではない何かを見てしまうことに一番最初に気づいた人だった。そして、訳もわからず、それらを見つめてしまう幼い俺の目をいつも塞いでくれたのだ。
だから、あの沼のにおいのする女が俺の近くに来た時も、祖母はきっと俺の目を塞いでいてくれたのだろう。
だって、あの化粧品のにおいは今でも忘れていないから。
祖母の好きそうな菓子を思い浮かべながら、俺は大学のキャンパスをゆっくりと歩く。
視界の端には、首が捻れた子供がけらけら笑いながら走っている。
俺は子供と目を合わせないように、そっと視線を逸らす。その時、本当にかすかにだが懐かしい化粧品の香りがした。
そういえば、祖母は心配性だったな、と思い出す。記憶の中の祖母はひとりだけの孫である俺を大層可愛がってくれていた。
あのしっとりと柔らかな手のひらの感触は失ってしまったが、祖母は今でも、俺が向こう側の連中に魅入られないように俺の目を塞いでくれているのだろう。
続きを読む
以下に記す記録は、旧舟朽国の山間にある廃村の土蔵より、大正十年頃に発見されたものである。筆者は不明。
紙は異様なまでに腐朽していない。
筆致は執拗な熱を帯びているように思われる。
特筆すべきはその文字を形作る墨である。
いや、本当に墨なのだろうか。それは墨よりも濃く深く、光を奇妙なほどに吸収し、世界の裏側を映し出す闇のように思えた。
何人もの民俗学者がこの記録を単なる昔話だと笑い飛ばしたが、彼らはその後、意味不明な言葉を遺して消えた。
私は、この物語を読み終えたあなたが、彼らと同じ道を辿らぬよう願う。しかし、その言葉を、私は持ち合わせていない。
壱:侵入者
老人が畑を耕していたのは、正午を少し過ぎたころのことだった。空の青さが彼に重くのしかかる。
老人が顔をふと上げたとき、畑の端にそれは佇んでいた。
狸か、そう思おうとしたが、彼の脳がそれを否定した。
それの眼は狸のものではなかった。いや、違う。彼の知るいかなる生き物のものでもなかった。金と黄の混じったような虹彩に細い瞳孔が縦に入っている。その奥の瞳孔の色は……。
老人は思考を停止した。本能的な恐怖、拒絶反応からだった。
これをそのままにしてはおけない。意外なほど素直に捕らえられたその侵入者を、老人は震える手で縛り上げ、物置の柱にくくりつけた。
偽:婆汁
老人の妻が物置の闇へ足を踏み入れたとき、それは啜り泣いていた。
正確には、人間の啜り泣くという行為を正確に模倣していたと考えられる。
縄を解いてやれば、この哀れな生き物は救われる。救ってやらねば……。老婆はそう思った。あるいは、そう思わされたのかもしれない。
それが何をしたか、詳細を記すことは差し控える。
しかし、結果として老婆の本質は取り出され、それの一部となった。残された肉体は鍋の中で静かに煮えた。
老人が帰宅したとき、炉端からは汁の香りが漂っていた。
老婆の皮をかぶったそれは完璧に老婆に擬態した。不自然なところはどこにもなかった。
「おじいさん、おかえりなさい。疲れたでしょう。汁ができていますよ」
老人は何も疑うことなく食べた。旨かった。妻にも食べるよう促したが、老婆は黙って微笑むばかりだった。
惨:捕縛
翌朝、それは黙って去った。老婆の皮を丁寧に畳み、畑の中央に置いて去った。
老人は三日三晩その場から動けなかった。
老人の前に現れたのは、一羽のウサギだった。真っ赤な燃えるような眼をしている。血ではない、怒りの赤だ。
ウサギはそれのことを知っていた。その名を知っていた。
「おばあさんの敵を討たせてあげよう」
ウサギは一度も老人を見ることなくそう言い放った。
ウサギのその言葉に頷いた老人は正気を取り戻したかに見えた。
一筋の光すら見つけられない闇の中。そこはこの世の裏側へとつながる異界への入り口だった。
それが不敵な笑みをうかべ、満足そうな様子で苔むした大木の根元でうずくまっている。その濁った金の眼だけが鈍い光を放っている。
それの背後から音もなく現れたのは、あのウサギだった。ウサギはさも親しげにそれの名前を呼んだ。(注1)
※注1ウサギが呼んだ名前はおおよそ人間には発語できないものであったと記録されている。
それがもし今も空腹であったならば……間に合ったかもしれない。しかし、それが振り返った時にはすでに遅かった。
ウサギは銀の縄を一気にそれの体に巻き付けた。おそらく呪術的な効果が付されているその縄は、それの体をぎちぎちと締め上げた。
「さぁ。復讐だ」
屍:復讐
薪を背負わせたそれの背後でウサギは火打石を打った。
カチカチ、カチカチ。
「その音はなんだ」
それは尋ねた。人間の声を模倣しているが、感情は感じられない。
ウサギは答える。
「鳥だ」
ウサギの声からも一切の感情が欠落している。老婆に対しての哀悼も、それに対しての憎しみもない、凍てついた湖面のような平坦さであった。
それの背中に火が付いた。
ウサギはそれを泥の船に乗せた。船は湖の中央でほろほろと崩れ始めた。
それは沈みながら嬉しそうに笑った。初めて見せた歓喜のように見えた。
船が、船と共にそれが、沈むのを確認するかのようにウサギはしばらく湖面から目を離さなかった。
何かが湖の底で脈打っているように、水面が上下しているのを感じた。まるでそれが呼吸しているかのようだった。
獄:永劫
ウサギはそのあとすぐに姿を消した。
老人は回復せず、それ以降一切の食事をとるのをやめた。深夜に湖の方を向いて座り、動かない老人を近隣のものが目撃している。
老人はほどなくして死んだ。老人の死体はその腹部だけが異様に膨れ、熱を持っていた。死後、老人の口からは、温かいままの「汁」が湯気を立ててどろりとあふれ出たという。それはあの日、老婆に成り代わった「それ」が老人にふるまったあの時のままのものだった。
老人の体が自分の妻を体内にとどめておくことを選んだのか、それとも……。
村はほどなくして廃村になった。理由の記録はない。
湖は現在も存在している。目を凝らしてみると、今も微かに、微かに水面が上下している。
廃村の理由を記した記録はなかったが、土蔵には爪でひっかいたような無数の文字が残されていたことを最後に記しておく。それは我々の知る文字でもなく、知られたる言語でもなく、ただ執拗に繰り返される記号のようなものの羅列であった。
続きを読む
私は、あの忌まわしい山林に踏み入った、己の好奇心を未来永劫呪い続けるだろう。
あの日、私が外したのは、単なる獣罠ではなかったのだ。それはこの世界の理と名状しがたい異世界の深淵を隔てる、か細き封印の一つであった。
黒光りする鉄の歯に挟まれていたそれは、狸などではなかった。毛皮に覆われているように見えたが、その質感は腐敗した魚の内臓のように粘ついていた。
何よりも違っていたのは、その眼である。黒水晶のごとき双眸には、到底地上の生物には持つことのできない、高度で、底なしの悪意を秘めた知性が宿っていた。
見ないふりをすればよかったのだ。
しかし不可能だった。その眼に宿る邪悪な光に魅入られ、罠をこじ開けた瞬間、指先に痛みが走った。思わず指先を口に含む。舌に広がったのは鉄錆の味ではない。
それは魂をも凍らせるような、まるで次元の裂け目から漏れ出たような冷気であった。
その夜、私の粗末な小屋の戸を叩いたのは、叩いたという表現があっているのかすらわからないが、物質としての手ではなかった。
戸を開く。そこにあったのは、一見して古びた茶釜であった。しかし私はその表面に、その継ぎ目に背筋が凍るような違和感を覚えた。
光の角度によって、その表面は苦悶にゆがむ人間のようにも、あるいは地獄絵図の曼陀羅のようにも見えた。
それらを凝視しているうちに、私の精神はその茶釜の表面にあるゆがみから地獄へと吸い込まれていくような幻覚におそわれた。
「寺に持って行け。俺を売れ」
次の朝、その茶釜は私に命じた。発生された声ではなく、直接精神に作用して響いた命令であった。
私には拒否権はなかった。自由意志はもうとっくにその茶釜に掌握されていたのだ。
茂林寺の和尚は、その釜を一目見るなり、何かに憑かれたように法外な金を私に押し付けた。彼の手が茶釜に触れた瞬間、私は見たのだ。
茶釜の表面が、まるで太古の巨大生物の皮膚のように、あるいは古の不定形の奉仕生物のように、ぶよぶよと波うち、収縮したのを。
幾日が過ぎただろうか。和尚が私のもとを訪れた。
その顔は死人のように蒼白で、眼窩は黒く落ち窪み、その奥の眼はすでにこの世のものとは思えなかった。
「釜が……沸いた湯の中に……」
彼はそこで言葉に詰まったが、振り絞るように言葉を紡いだ。
「釜の底から……地獄が……無数の手がはい出して……」
彼の言葉は正気と狂気の間で振り子のように揺れて霧散した。後日、寺の修行僧たちが、ある者は原因不明の精神崩壊を起こし、ある者は出奔し、一人も帰らなかったと聞いた、
釜は私の手元に戻ってきた。先日の朝と同じ場所に。
「見世物にしろ」と脳内に声が響く。拒否権はない。操り人形のように頷くことしかできなかった。
私は、村はずれ、それを見つけた山のふもとに見世物小屋を建てた。
客は来た。大勢来た。
彼らが見たのは、愛らしい狸の曲芸などではなかった。
釜は手足を生やし、いかにも奇怪な姿で重力を無視して空中に浮かびあがり、手ぬぐいを模した布をまき散らしながら、見る者の三半規管を狂わせた。客は熱狂した。
しかし、それは喜んだのではない。形容しがたい恐怖と精神的な圧迫によって、いわゆる集団ヒステリーに陥ったのだ。
客は次々と押し寄せ、小屋は恐ろしいほどに繁盛した。
しかし奇妙なことに、一度見たはずの者たちが翌日も、その翌日も目を血走らせて並んでいたのだ。
彼らが投げた銭は異形の神への賽銭としか思えなかった。
手足を生やした滑稽なはずの釜は、あの黒水晶の眼で、芸の最中もずっと私を見ていた。私の精神が崩壊し、完全にそれの傀儡になる瞬間を待っているかのようだった。
最初の異変は味覚に現れた。何を食べても砂を噛むような味気無さとともに腐臭が鼻腔を満たすのだ。しまいには水すらうけつけなくなっていた。
次に眠るのが怖くなった。眠りに落ちると、私の魂は果てしない混沌の闇へと引きずり込まれた。そこはあの釜の眼のような、光を反射しない、いや、光すら吸収してしまうような真っ黒で、ただ存在してはならない何かの気配だけが濃密に充満していた。
ある夜、私は釜に尋ねた。
「この世界はどうなるのだ、お前はどうしたいのだ」
釜は沈黙したが、しばらくして答えた。
「もう十分だ。山へ還る」
翌朝、釜は消失していた。残されたものは、銭と、小屋と、釜に魂を削り取られて抜け殻になった私だけだ。
あれからどれくらいの月日が過ぎただろうか。
私はまだあの時のまま自分の小屋を出られずにいる。出る勇気がないのだ。
夜になると土間の地下の深い場所から、あるいは次元を超えた場所から、あの手ぬぐいをまき散らしていた釜のうごめく音が聞こえるのだ。それは時折、湯が沸く音のようにも、人語ではないものの笑い声のようにも思える。
世の無知なる者たちは、これを「タヌキの恩返し」などと呼んで、人口に膾炙させている。
恩返し? 戯言をいうのはやめろ。 あれは、この世界に、彼らの異形の神を降臨させるための、儀式だったのだ。私は、そのための道具に過ぎない。
ただ一つだけ、確実なことがある。 あの忌まわしき日、私が罠から解き放ったものは、決して助けを求めていたのではなかった。
それは、自らを、この物理世界へ繋ぎ止めるための楔を求めていたのだ。 私が罠を外した瞬間、この世界の終焉は帰結した。今夜も土間を見る。
そこには、何もない。まだ、何もない。
しかし、私は知っている。あれは必ず、戻ってくる。
この不浄なる地土に、完全なる混濁をもたらすために。
続きを読む
この論考を書き始めてから、すでに三度書き直している。
最初の稿は、客観的な調査報告として始まった。二稿目は、個人的な経緯を多く含んだものとなった。
三稿目――今あなたが読んでいるこれは、もはや学術論文の体裁を保てていない。それでも提出するのは、書かなければもっと悪いことが起きるという予感があるからだ。
予感。この言葉を使った自分を、ひどく奇妙に思う。私はこれまでの研究生活で、予感などを論拠にしたことは一度もなかった。
「猿蟹合戦」は、日本の昔話で特異な位置を占める。桃太郎や浦島太郎と異なり、主人公が物語の半ばで死ぬからだ。親蟹は猿に騙され、未熟な柿を投げつけられて絶命する。
解決は子蟹たちの復讐という名の私刑によってなされる。臼が落ち、蜂が刺し、栗が弾け、牛糞が滑らせる。子供向けに語られる版でさえ、その実態は集団による執拗な暴力だ。研究者はこれを、秩序の回復や弱者の連帯、あるいは因果応報の教訓と解釈してきた。
どれも間違いではないだろう。だが、私が旧甲嶺国を前身とする甲嶺県北東部の某村で発見した異伝は、そのいずれにも収まらない何かを含んでいた。
現在、時計は午前三時の鐘を打った。
第一章 当該異伝との遭遇
発端は、図書館の地下書庫における整理作業だった。戦前の民俗資料をデジタル化するため、私はひとり地下へ降りた。書庫は湿気が高く、カビの臭いと紙が腐っていく匂いが混ざり合っていた。重たい空気の中で、私は古い和綴じ本を一つずつ記録していった。
四日目、一冊の本を見つけた。表紙に題はなく「山村旧話採集」とだけ墨書きされていた。採集者も地名も不明だ。ただ、紙の質感から明治末期の物と推測された。内容は平凡な昔話の記録だった。私は流し読みを続け、保存状態を評価するメモを取っていた。猿蟹の話が現れたのは、本の後半だった。語り出しから、通常の版とは異なっていた。
「山に蟹が一匹おった。蟹は何かを待っておった」
読み進めるうちに、背中に冷たい息を吹きかけられたような悍ましい寒気を感じた。種の交換や蟹の死といった筋書きは同じだ。
しかし、細部が確実にずれている。柿の種は、単に種とだけ書かれていた。それが何の種かは説明されていない。
蟹が子を集める場面で、採集者はこう注記していた。
※注 語り手は「集めた」とは言わず「呼んだ」と言った。問い返しても同じ言葉を繰り返すのみ
そして子蟹が仲間を増やす直前、異様な一節があった。
「子蟹らは、まず土に祈った」
それ以上の説明はない。土に祈った。その一行のあとには、もう臼や蜂がそろっていた。
私は帰り際、その本を人目につかないよう、自分の引き出しにそっと隠した。なぜそうしたのか、自分でもわからない。ただ、他人の目に触れさせてはいけないと直感した。
第二章 現地調査
末尾に短い覚え書きがあった。
「甲嶺国某所にて採集。土地の者、この話を好んで語らず。問えば笑うて誤魔化すか、さもなくば黙るか」
私は寄贈者の記録を辿り、白嶺市周辺の山村を特定した。地方史にわずかに記された「蟹の和解」という行事の名だけを頼りに、十月初旬、私は蟹伏集落へレンタカーを走らせた。
集落への道は、山へ入るほどに細くなった。カーナビは途中で機能を停止し、周囲の音も変質していった。風の音も鳥の声も、何かに吸い込まれているような静けさだった。入り口の商店で、一人の老人に出会った。研究者だと名乗ると、老人は私の顔をじっと見つめた。その視線は皮膚に直接触れてくるような、嫌な感触があった。
「よう来なさった」
老人は同じ抑揚で二度言った。
その夜、公民館で住民数人と夕食を共にした。誰もが親切だったが、猿蟹の話を振った瞬間に空気が凍りついた。全員が同時に、二秒ほど沈黙する。
「ああ、あれは、昔のことですから」
「今の人は、もう誰もそんな古い話は知りませんよ」
彼らは同じ構造で話を逸らした。肯定し、逸らし、別の話題へ移る。その一連の動作が、一つの巨大な意志によって統制されているように見えた。
翌朝、集落の中央で「蟹の和解の碑」を見つけた。風化した石の表面には、漢字ともかなともつかない歪な文字が刻まれていた。
その文字列をしばらく眺めているうちに、私はある不快な感覚に気づいた。読めないはずなのに、意味だけが滲んでくる。言語を経由せず、直接に。
その碑の表面は、濡れていた。雨は降っていない。石の内側から、どろりとした何かが滲み出していた。触れた指先が思わぬ熱を持った気がした。
指先から広がるひりひりとした痛みのような熱を感じながら、私は広場を離れた。
第三章 口承採録
北の端に住む老人を訪ねた。彼の家は、他の家屋から拒絶されるように離れて立っていた。
「知っとるよ。あれは本当のことじゃて」
老人は茶を啜り、焦点の合わない目で山を見た。
「蟹が呼んだものは、帰らなかった。帰り方を知らんのじゃから、しょうがないでの」
「臼や蜂のことですか」
私が問うと、老人は微かに笑った。笑ったように見えたが、それは口元だけだったかもしれない。
「それは名前じゃ。本当のものに、あとから人間がつけた名前。名前を付けたら安心できるからの」
彼の語り口は、核心を避けて円を描くように曖昧だった。
「蟹は仔らのために呼んだんやない。土が腹を空かしとったんじゃ。蟹はそれを知っとっただけじゃ」
老人は急に口を閉ざした。帰り際、彼は私の背後の何もない空間を凝視していた。
公民館で録音を聞き返すと、老人の声に重なって、低い振動音が混じっていた。それは生物の呼吸のようでもあり、地鳴りのようでもあった。そのどちらにも似て、どちらとも違っていた。
第四章 異本発見
二日目の午後、集落の社を訪ねた。厳重に保管されている木箱を見せてもらった。中には、図書館で見た本よりも遥かに古い原本があった。
そこには写しになかった挿絵があった。通常の猿蟹合戦に存在する、仇討ちの場面も描かれていた。
だが、それは私の知る昔話とは似ても似つかないものだった。
子蟹たちは猿を責めなかった。
怒鳴りもせず、恨み言も言わない。ただ猿の周囲を静かに取り囲み、何かを待っているように見えた。
蜂や臼と呼ばれるものも、そこにいた。
だが、それらは加勢したのではなかった。
挿絵の中で、それらは皆、同じ方向を向いていた。猿ではない。猿の下――地面の一点を見ていた。
そして最後の絵で、猿は罰せられていなかった。
絵の中の猿は、死んですらいなかった。形が崩れていた。外傷ではなく、内側から細胞の定義を失ったように、ぐずぐずに溶けていた。ただ目だけが、最後のページまで猿としての理性を湛えて光っていた。
案内人の男は、その絵から目を逸らし、呟いた。
「お客さんが来てくださって、よかった」
神主も頷いている。その言葉の真意を問う勇気は、私にはなかった。
第五章 和解の夜
三日目の夜、儀式が始まった。特別に見学を許された私はカメラを手に広場に向かった。
広場の中央で火が焚かれた。炎の揺らぎは不自然に遅く、まるで粘り気のある液体が踊っているようだった。
火の周りに集まっているのは男と子供だけだった。女はいない。
そういえば、この集落に来てから、一度も女の姿を見ていない——鏡に映る自分以外は。
住民たちは言葉にならない声を出し始めた。最初は人の声だった。それが声から地鳴りに変わった。
裸足の子供達が火のそばでゆらゆらと揺れている。瞬きをせずに。
ある瞬間を境に、それは人間の喉から出る音ではなくなった。
広場全体の地面が、深く息を吸い込むように波打った。石の碑から夜の闇よりも濃い闇が溢れ出たように見えた。
私は逃げようとしたが、足が土に溶け込んで動かなかった。
終章 帰還
宿の主人に名を呼ばれ、目が覚めると、私は山の斜面に倒れていた。体は無傷だったが、靴の中には真っ黒な、細かい土が詰まっていた。
儀式の最中に姿が見えなくなったから探していたという。記憶が曖昧だ。わからない。覚えていない。
集落を去る際、住民たちは昨日までと変わらない態度で私を見送った。また来い、とも、二度と来るな、とも言われなかった。
レンタカーは無事に私を自宅に返してくれた。
カメラを確認したが、木箱と挿絵の写真はすべて消失していた。老婆の録音も、「土が腹を空かしとった」という言葉の直後で断絶していた。
私は今、自室でこの原稿を書いている。数日前から、私は毎晩同じ夢を見る。
私は土の中にいる。無限に続く暗闇の地層で、何かを待っている。そしてそれは恐ろしいもののはずなのに、どこか安心している。
それが何であるか、意識が浮上する瞬間にいつも忘れてしまう。
ただ、私の指先は少しずつ節くれ立ち、内側から押し出されるように硬く変質している。今ではもう、爪を切ることすらできない。
これこそ私が人間という、不自然な形から解放され、母なる土と和解しつつある証左に他ならない。
続きを読む
廃工場に肝試しに行った。
古い機械や寂れた様子にドキドキしながらあちらこちら探索して回る。だが機械の動く音がする。
ここは閉鎖されたんじゃなかったかと音がする方に行った。
すると僕は何者かに捕まってしまった。
気がつけば僕は工場のラインの上にいた。自分の体がセルロイドの作り物になって梱包され出荷される。
助けて! 僕は商品じゃない!
だが、誰も気がついてくれない……
続きを読む
人造人間を作ろう人間そっくりな。
私が魔法で作った人造人間はやがて増えて、街中にたくさんいるようになった。ますます人間に似てくる。
しかしこのままではどこまでが人造人間なのかわからない。
ある時、私は病気になった。
自分の魔力を回収するために全ての人造人間を消すことにした。
するとどうだろう、世界中から人間が全て消えてしまった。
どうやら私の人造人間しかこの世界にはもういなかったらしい。
続きを読む
忌まわしき誕生
老いた祈祷師が後に語ったところによれば、難波の外れに住む夫婦が住吉大社の祭壇に向かって捧げた祈りは、いかなる神聖な存在にも届かなかったに違いない。
むしろそれは、人智の及ばぬ次元の狭間にわだかまる、名状しがたき何者かの注意を引いてしまったのではないかと、私は戦慄とともに推察する。
子は生まれた。しかし正しい意味での誕生と呼んでよいものか、私には判断がつかない。
その寸法は、人の指一本にも満たなかった。近くで見ても、遠目で見ても、目に映る寸法は変わらないように思えた。
だがより不安を掻き立てたのは、大きさではなく、その目であった。夜の池の底を思わせる、深く、光を飲み込む双眸。それを見た産婆は三日後に原因不明の熱病で没し、見舞いに来た僧侶は「あれは人の子の目ではない」と呟いた後、寺に籠って二度と外に出なかった。
都への旅路
彼が十五の歳になっても、その肉体は誕生の時と寸分違わぬ大きさのままであった。これは単なる奇形ではない。これは法則の否定である。自然の秩序への嘲弄である。
彼は椀を舟とし、箸を櫂として川を下った。それは、立身出世のためなどという矮小な人間的な動機ではない。彼はただ、流れる水面に浮かぶこの世界の境界を測定していた。難波という狭い局所から、因果の錯綜する都へ。 己の瞳を通じて深淵がこの世界をより効率よく観測するための座標へと、彼は転移した。
のちに京の文献庫で発見された或る絵師の覚書には、この旅路で彼を目撃した者の証言が記録されている。
「小さき者が椀に乗りて流れを渡る。しかし奇妙なことに、水面に波紋が立たなかった。まるで彼が、我々と同じ現実の層に存在していないかのように」
これは川の水が彼を物質として認識していなかったと考えられる。もしくは自然が彼を拒んだものであったのかもしれない。
また、旅の途中、彼が野宿した地では翌朝、草が奇妙な幾何学模様を描いて枯れていたという記録も残されている。
鬼との遭遇
大臣の屋敷に奉公した彼は、姫君の傍に仕えた。姫君は当初この矮小な従者に好奇の目を向けたが、やがて、彼の側にいる時だけ見る夢の内容を、侍女に語るのをやめた。侍女が「いかなる夢にございますか」と問うても、姫君はただ首を振り、「言葉にできない形の夢」とだけ答えた。
鬼が現れたのは、秋の祭りの夜であった。
後世の怪談集が伝えるように、鬼は確かに二体いた。しかし目撃者たちの証言を突き合わせると、それらは角を持つ、いわゆる鬼の姿かたちをしていたのではない、ただ、目撃した者たちの眼が、脳が、その異常な輪郭を既存の概念にあてはめねば破滅してしまうがゆえに、かろうじて鬼として認識したに過ぎない。
大きさについても証言は一致せず、最も信憑性の高い記述は単にこう述べるのみである。
「それらは、存在してはならない角度から、存在してはならない形で、そこにいた」
一寸法師は針の刀で鬼に立ち向かった。
剣戟があった——と、遠巻きに見ていた人々は言う。しかし後に姫君が語ったところによれば、実際に起きたことは、こうだった。
一寸法師が針を突き出すたびに、鬼の周囲の空間に裂け目が走り、そこから色のない光が漏れ出た。その光が鬼の皮膚を切り裂いていった。
鬼たちは逃げた。鬼が恐れをなして逃げたのだ。
打ち出の小槌
鬼が落としていった打ち出の小槌を、姫君が振るった。
「大きくなれ」
その言葉とともに何が起きたか。彼の肉体は、音を立てて変容していった。バキバキと軋む音を響かせて伸びる骨格、それにつれて引き攣れるように薄く延ばされた皮膚の下に脈打つ血管。姫は気を失った。
一寸法師は痛みと引き換えに一夜にして人並みの大きさを得た。
これを慶事として記録した文献は多い。しかし私が長年の調査の末に入手した、姫君自身の日記の断片には、その夜についてこう記されている。
「小槌を振りて、彼は大きくなった。しかし何かがずれた。人の形を得たその顔を見た時、私は気づいた。目だけは、変わっていないことに。あの、深淵のような目だけは」
彼は一寸法師改め、今若丸と名を改め、姫君と婚儀を挙げ、やがて高い位を賜ったという。
終章
目出度し、目出度し。そう伝承は締めくくる。
しかし難波の老いた祈祷師が、死の床で残した最後の言葉を、私はここに記録しておかねばならない義務を感じる。彼は長年、あの夫婦の祈りが、何に届いたのかを調べ続けた人物だった。
「住吉の神は、答えなかった。では何が答えたのか。そして、何の目的で……」
それ以上、彼は語らなかった。
語れなかったのか、語ることを恐れたのかは、今となっては知る術がない。
慶事の後、都では奇妙なことが続いたと記録にある。
夜ごと人々が見る夢に、寸法はひとつの指ほどなのに影だけが大きい人影が登場するようになったこと。その夢を見た者は皆、決まって同じ言葉で目を覚ました。
「——」
それは、我々には発音不可能な音節、あるいは我々の言語体系では翻訳できない何かであった。
——この手記の筆者については不明。某年、京郊外の廃寺にて発見。筆者の行方は知れず。
続きを読む