「おはようございまーす」
「おはよー豊橋さ……頭どうしたの? もしかして……やられた?」
「そう、そうなのそうなんだよ聞いて! あいつネジ婚詐欺師だったの!」
始業時間一五分前の、いつもと同じ朝の風景。ただ一点異なっている箇所があるとすれば、同僚の頭にサンマが刺さっていることだろうか。
ネジ婚詐欺に遭ったと絶叫している彼女を、うるさそうに眺めている上司。私へチラチラと向けられる視線からは、仲良いんだからお前が静かにさせろ、という意思が伝わってくる。
「もう! もう何なのあいつ! ほんっとに……もう……お腹いっぱい団栗食べて腹壊せっ!」
「まあまあ……後で話聞いてあげるからさ、仕事の準備しよ?」
「……約束だからね」
豊橋さんは静かになり、パソコンを立ち上げて始業準備を始めた。漸くサンマとの距離が離れて、気付かれないようにそっと息を吐き出す。朝から職場で生臭いのは勘弁してほしい。
昼休みになり、同僚を連れて休憩室へと移動する。サンマの刺さった彼女を周りの目からなるべく守って上げる為、パーテーションで仕切りも設置した。準備が整ったところで、早速本題を切り出した。
「さ、何でも聞くよ」
「ありがとう……あのね、あの男、ネジ婚詐欺師でね……取られちゃったんだ。私のネジ」
最近の若者の間では、結婚するのに指輪を交換するのはもう古い認識らしい。もっと人にとって大事な物……頭に文字通り刺さっているネジを交換して一生添い遂げる誓いを立てるというのが流行っているのだ。
そんな妙な流行に伴い、結婚詐欺の形も進化を遂げた。今の時代において騙し取られるのは金ではない。頭に刺さっているネジだ。このネジは人間の大事なパーツということで高値で取引されるらしい。臓器を取り出すよりもリスクが少なく、しかも高額とくれば狙わない道理もないだろう。
挙式までは普通に進んでいき、指輪の代わりに互いのネジ交換する時まで尻尾を出すことはないからなかなか気付くこともできない。自分のネジを自分で外さないというシステムにも問題はあるだろう。相手に無防備に己の大事なネジを晒すんだから、それは取られても仕方がないと思う。
「それでね。家に帰る途中……ふらふらーってしちゃって、代わりに何か刺さなきゃなーとは思ってたんだけど」
「うん」
「通りかかった魚屋でサンマが安くなっててね……」
「刺しちゃったの?」
「店のおじさんが、今旬だよ! て言ってたし……細いし……まあいいかなって」
「そっかー」
頭のネジが抜けてしまうと、思考能力が低下してしまうらしい。つまり馬鹿になるのだ。他の物をさして穴を埋めておけば多少はマシになると聞くが、この様子を見る限りは嘘っぱちではないだろうか。
「んー……とりあえずさ、サンマはやめとかない?」
「やっぱり生臭い……?」
自覚があったらしい。本人も生臭さを感じているのだろうか。私は鞄から取り出した物を彼女に差し出した。
「ほら、これとかどうかな? 今朝収穫したばっかりなんだ」
私が差し出した物をみて、彼女は一瞬驚いた後、嬉しそうに笑ってくれた。
「これ、あなたに実ったやつ?」
「そうそう。私とお揃いっぽくなっちゃうけど……」
「ありがと! どうかな? 似合う?」
豊橋さんの頭には、サンマの代わりに、私の頭に刺さった木から収穫したバナナが収まっていた。
艶やかな黒髪に、鮮やかな黄色がよく映えていた。
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「はっ、はっ……うわっ!」
上も下も右も左も、全てが真っ白い空の中で、私は必死に走っていた。途中で足がもつれて転ぶことが既に何度か起きてはいるが、すぐに体制を立て直してまた走り
出す。
後ろを振り返ればあいつが迫っているかもしれない。
白の中に僅か一滴だけ黄色の絵の具を混ぜた様な色をして、つるりと滑らかな表面が美しい四角形の――
「絹ごし豆腐に! 襲われたのっ!」
「大晦日に浮かれて机の角にでも頭ぶつけてきたの?」
「そーじゃーな、く、てー! 夢の中でほんっとに襲われたんだって! 絹ごし豆腐に!」
「大体なんで絹ごし豆腐だって断言できんのさ。もし発泡スチロールと間違えたとかだったらアンタ、大豆の神様に呪われるよ」
「お母さんは自分の娘が発泡スチロールと絹ごし豆腐の違いもわからないような女だと思ってるのっ?」
あの色。あの表面の質感。私が夢で追いかけられていたのは、紛れもなく絹ごし豆腐だ。
高野豆腐や木綿豆腐は、あんな美術品の様なビジュアルをしていないから間違いない。
「別にそこまでは思ってないけど……まあ、年の瀬だし? 何かの暗示と思って気をつけなさい」
母の視線に温もりがまるで感じられない。とはいえ、母の言う通り、気を付けているに越したことはないだろう。
「あ、そうだお母さん。今日大晦日だし、この前買ったアイス開けてもいいでしょ?」
「大晦日は関係ないでしょ……もう時間も遅いんだし、食べすぎないようにね」
後半のお小言はスルーして、冷凍庫の扉を勢いよく開け放つ。アイスの箱に手を掛けた時、頭上でガタッ、と何かが動く音がした。
一秒も間を開けず、頭部に硬い衝撃。床に倒れ込む体を支えたいけれど、腕に力が入らない。かろうじて動く瞼を待ちあげると、視界の中に四角い物が目に入った。
この色、この質感、これは……絹ごし豆腐だ。
考えている間に、目の前の景色が変化していく。白と黒で彩られた部屋、黒い服を着た人々、そして聞こえてくるお経。もしかして、お葬式?
でも、誰の?
どんどん変化していく現実とは思えない光景に、頭が追いつくことを拒否している。そもそも私は、一体どんなポジションで今この状況を見ているのだろう?
何だか全体を俯瞰して見ている感じがする。視覚の情報は遮断することにしよう。
混乱から抜け出せない私の耳に、今度はひそひそ話が聞こえてきた。
「ここの娘さん、冷凍した絹ごし豆腐で頭打って亡くなったらしいですよ」
「そうなの? 『豆腐の角に頭ぶつけて死ぬ』なんて現実であるのねー。絶対嫌だわそんな間抜けな死に方」
間抜け……間抜けだと……?
このご婦人、絹ごし豆腐の秘めたる殺傷能力をご存知ないらしい。私も体験するまで知らなかったけど。だったら……
「同じ目にあわせてやろうかーっ! ……あ、れ? 生きてる?」
思い切り叫んで、閉じていた視界を再び開く。開いた先には……いつもの私の部屋が広がっていた。
ちゃんと体温は生きている人間のそれで、脈も正常に打っている。どうやら、全て夢だったらしい。
ほっと息をついて枕元に目を向け、再び絶叫。靴下に突っ込まれた絹ごし豆腐のパックがある。
「きっ、ききき絹ごし豆腐! なんで! あるの!」
「朝からうるさいんだけど。あんた自分でクリスマスプレゼントに欲しがったんでしょ絹ごし豆腐」
「クリスマス……? 今日大晦日じゃなかったっけ?」
「寝ぼけ過ぎでしょ。今日は二五日。メリークリスマス」
いくら何でも、クリスマスプレゼントに絹ごし豆腐を欲しがった記憶は思い当たらない。果たして、今もまだ私は夢の中にいるのだろうか。
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水の辻の朝は、豆の湯気から始まる。
午前三時、美波は店の電気をつけて、前の晩から水に浸けておいた大豆を石臼のそばへ運ぶ。
水を吸った豆は、指で押すと少しだけやわらかい。冷たい水に両手を入れると、眠気が指先から抜けていった。
町のあちこちに湧き水の井戸があって、この「十川豆腐店」も裏庭の井戸から水を引いている。冷たくて、舌に当てると少し甘い。父はこの水があるから豆腐がうまいのだと言い続けてきた。
美波は町の外で働いていたが、豆腐づくりそのものは知らない仕事ではなかった。
子どもの頃から、休みの日には父に起こされ、大豆を洗い、型を運び、おからを袋に詰めた。高校を卒業する頃には、一通りの仕込みを手伝えるようになっていた。それでも、父の仕事を継ぐつもりはなかった。
町の外へ出て、別の仕事をして、たまに帰れば店の匂いを懐かしいと思う。そのくらいの距離でいいと思っていた。
去年の春、父が腰を悪くした。
すぐに店を離れたわけではない。美波が帰ってきてからしばらくのあいだ、父は作業場の一角に置いた椅子に腰かけ、口だけを動かした。
「豆乳を見るな。櫂に返ってくる重さを見ろ」
「それじゃ分かんないよ」
「分かるようになる」
そんなやり取りを何度も繰り返した。
そして夏の終わり、父はとうとう包丁を美波に譲った。
二十九歳で店主になったことを、町の人たちは何も言わずに受け入れてくれた。
ただ、誰も「大変ね」とは言わない。
かわりに、朝いちばんに買いに来る。
豆をすり、煮る。
大豆の青い匂いが熱を含むにつれて甘くなり、作業場に白い蒸気が満ちていく。
絞った豆乳ににがりを打つ。
この瞬間だけは、店主になった今でも少し緊張する。
豆乳の温度も、その日の大豆も、昨日とまったく同じではない。
柄杓から落ちるにがりを目で追い、櫂をゆっくり動かす。
白い液体の中に、雲のような固まりが浮かび始めた。
父なら、櫂を一度入れただけで分かったような顔をした。
美波には、まだそこまでの勘はない。
それでも、今日はうまくいった。
六時、シャッターを半分上げると、いつもの声がした。
「おはよう。今日の一丁、ちょうだい」
藤野さんだった。
八十を過ぎていて、毎朝六時十分に、杖をついてやって来る。木綿を一丁と、油揚げを一枚。美波が店に立つ前から、ずっとそうだと聞いている。
「はい、一丁です」
水槽から豆腐をすくう。
朝いちばんの木綿豆腐は、まだ少しぬくもりを残している。
水を張ったパックに入れて渡しながら、美波は、前の晩に父と話したことを思い出した。
藤野さんのご主人が亡くなって、もう二年になる。
「藤野さん、豆腐、毎日一丁で足ります?」
「足りるわよ。足りるっていうか」
藤野さんは受け取ったパックを両手で持ち上げて、少し困ったように笑った。
「足りすぎるの。夜まで残っちゃって、明日の朝は冷奴、昼は味噌汁、夜も冷奴。それでも食べきれない日があってね。でも、やめるのもなんだか違うでしょう。この朝の買い物がなくなったら、私、一日の始まり方を忘れちゃいそうで」
美波は、手を止めた。
十川豆腐店の豆腐は、昔から一丁で売っている。
父の代も、その前も。
それが当たり前だった。
「藤野さん」
「なあに」
「あの、半分の大きさって、いります?」
「半分?」
「半丁。切ってお渡しできます。値段も半分で」
藤野さんの目が、丸くなった。
「そんなことしていいの?」
美波は一瞬、作業場の奥を見た。
そこに父がいるような気がした。
豆腐の固さを確かめ、包丁の置き方にまで口を出す父の姿が。
けれど、いま店に立っているのは自分だった。
「いいも悪いも、うちの店ですから」
そう答えてから、美波は自分の言葉がおかしくて、小さく笑った。
藤野さんも、ふふ、と喉の奥で笑った。
「じゃあ、半丁。お願いするわ」
美波は一丁の豆腐をまな板に載せた。
水で濡らした包丁を当て、すっと真下に落とす。
やわらかな抵抗が一度だけ刃に伝わり、白い断面が現れた。切り口から、透き通った水がほんの少しにじむ。
その感触は、父から教わった通りだった。
半分を小さなパックに入れ、水を張って、手渡す。
藤野さんは軽くなったパックを、いつもよりしっかり握って、頭を下げた。
「毎朝、半丁、買いに来てもいいかしら」
「毎朝、お待ちしてます」
*
その日から、藤野さんは半丁を買っていくようになった。
三日目には、隣の八百屋のおばあさんが「うちもひとり分でね」とやって来た。
一週間後には、小学校の前の駄菓子屋の夫婦が「夫婦ふたりでも一丁は多いのよ」と半丁を求めて並んだ。
美波は看板の裏に、父の字を真似てこう書いた。
〈半丁、承ります〉
父から手ほどきを受けた字ではない。
けれど、太い線の運びを思い出しながら書いた。
十一月の終わりの朝、藤野さんが少し遅れてやって来た。
いつもより六分ほど遅い。
「寝坊したの。夢に主人が出てきてね」
「ご主人、なんて言ってました?」
「うまそうな豆腐だなって。何も話さないで、ただ食べてたわ」
藤野さんは、半丁のパックを胸の前で持った。
「あなたの豆腐、一丁のときより、ちゃんと味がするようになった」
「同じ豆腐ですよ」
「ええ、同じなの。でも、残さず食べられると、ちゃんとおいしいのよ」
藤野さんが帰ったあと、美波は湯気の残る作業場で、一人でおからを袋に詰めた。
絞ったばかりのおからは、見た目よりずっとあたたかい。
両手ですくうと、細かな粒が指のあいだからこぼれ、その熱が冷えた掌にじんわり残った。
父に電話しよう、と思った。
腰の調子を聞くついでに、一言だけ。
「看板に、半丁って足したからね」
きっと父は、ちょっと黙るだろう。
昔から一丁で売ってきた店だ。
豆腐の作り方なら、父のほうがずっとよく知っている。
水の見方も、にがりを打つタイミングも、櫂に返ってくる重さも。
でも、今朝、半丁に切ったのは美波だった。
きっと父は、しばらく黙ってから「そうか」と言う。
それでいい。
裏庭の井戸から、水の音がした。
作業場にはまだ大豆の匂いが残っている。
朝の光が、町の屋根の上でゆっくり広がっていく。
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海へ行こう。
そう思ったのはテレビでシーグラスの工房のニュースをやっていたからだ。
何気なくつけた夕食後のニュース。
その工房は私が昔、父と行った海の近くだった。海で拾ったシーグラスをネックレスや指輪に加工してくれるらしい。
明日は休日だ。
電車に乗って出かける。
おそらくニ時間から三時間ぐらいはかかるだろうが、車窓の外の風景を眺めながらずっと父のことを思い出していた。
父が亡くなったのは私が四歳の時。
交通事故だった。正直言って思い出はあまりない。
そんな父との思い出は唯一、一緒に海に行った時のことぐらいだろうか……
「ねえパパ見て宝石見つけたよ」
「すごいじゃないか」
そう言って父は頭を撫でてくれた。
「グミみたいとっても綺麗」
私がそう言うと笑顔で、
「シーグラスだね。海が作った宝石だよ」
私はその後も必死でシーグラスを探した。
小さな子供の両手いっぱいのシーグラス。
帰りに飲んだラムネの瓶を洗ってそこに入れた。
淡い月明かりのような、ぼやけた色合いのシーグラスは瓶いっぱいになって私は宝物を手に入れたつもりで大事に抱えて帰った。
優しかった父との思い出。
だがもう思い出せるのはそれだけなのだ。
その後シーグラスは大切に保管していたはずなのに学生時代、引っ越した時に失くしてしまい、とてもショックだったのを覚えている。
他人から見れば価値のないただの硝子のかけらに過ぎないかもしれないが……それは父との思い出に彩られ、海の歳月と硝子という人工物。つまり誰かの手によって作られ、打ち捨てられ再び 海の中で生まれ変わった存在なのだ。
ばかばかしいかもしれないが、私にとっては下手な宝石よりも美しく価値があるものだった。
半透明のぼやけた朧月の様な硝子のかけら。
それはもうとっくの昔に失われてしまった、私の時間。
なんとなくもう一度見に行けば取り戻せるような気がした。
空は灰色、海もまたくすんだ色をしていて波ばかりが白い。
シーズンではないため人気もなく、誰一人浜辺を歩いていなかった。
洗れた砂を手で撫でて、シーグラスを探す。
小さなかけらが砂の中から姿を見せた。
白くて小さなそのかけらは朧月のようだった。
どこまでもぼやけていて、そして優しい色。
空に向かってかざせば、ほんのりと透けて向こうが見える様な気がした。
『すごいじゃないか……』
記憶の中の音声が再生される。
父の撫でてくれた優しい手。
シーグラスを探しながら、あの日の私は再び私の前に現れる。
幼子だった私。
いつのまにか持ってきた小さなビニールの中にたくさんのシーグラス。
あの日のようにラムネ瓶に詰めようか……
だが私はそのシーグラスを持ってテレビで放映されていた工房へと向かった。
シーズン外であるためシーグラスを持って訪れる客は少ないが工房自体は他にもアクセサリーや金属加工などをおこなっているらしい。
「できましたよ」
そう言って渡されたシーグラスのネックレスは涙の形をしていた。
父との思い出、幼かったあの日。
それを身につけ私は生きてゆく。
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外に出てみれば一面、銀世界だった。
霜で真っ白になっていて、バラの花びらだって凍てついて白く輝いていた。
玄関から一歩庭に出ればサクッと音がした。
見れば足元に霜柱が伸びている。
歩くたびにサクサクと良い音がする。
子供の頃を思い出していた。
幼稚園に行く時、霜柱が伸びているのが不思議で歩くたびにサクッと音がしてたまらなく嬉しかった。
霜柱は透明で美しくて踏んでしまうのがもったいないけれど、踏んだ時の音の良さや足に伝わる心地よさに心はウキウキとしていた。
「ダンスが上手ね」
たまに母の代わりに幼稚園まで送ってくれる大好きな叔母さんがそう言ってくれるのがとても嬉しかった。
叔母はバレエを習っていた。
それはあくまで趣味でプロというわけではなかったが私にとっては憧れの存在だったのだ。
憧れの叔母みたいにかっこよく綺麗にダンスしたい。
そう思った私は小学校の高学年の時、母にお願いして一時だけダンス教室に通ったことがある。もっとも中学に上がると同時にやめてしまったのだが。クラブ活動や勉強などやらなくてはならない事がたくさんできてしまったから。
そういえば叔母のバレエの発表会は何回か行ったことがある。白い綺麗なチュチュを身にまとい踊るその姿は霜の精霊のようだった。
その印象が霜柱と重なる。
儚くて美しくてすぐに消えてしまうそんな存在。
……だが実際はどうだろう。
翌朝になればまた霜柱ができているのだ。
どんなに踏んでも翌朝にはまた同じところにできている。
それが子供心に不思議でたまらなく嬉しかった。
私は後ろを振り返って自分の足跡のところを見た。
潰れてしまった霜柱、そして踏んでないところの綺麗な霜柱が見える。踏まれても踏まれても明日にはまた生えてくる霜柱。
自然の造形というものは不思議だ。
何度でも何度でも再生していく。
叔母はどうしているだろう?
あの人は自分の好きなように生きたいように生きている。
霜柱のように潰れても潰れても再生してその美しい姿を見せてくれるのだ。
もう少し日が昇れば霜柱は完全に溶けて消えてしまうだろう。私のこの足跡も。だが翌日にはまた美しい霜柱ができているのだ。
それは何度でも再生する強さのように思えた。
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最終の連絡船は、わたしが桟橋に着く三分前に出ていた。
白い船尾が沖へ小さくなっていくのを、キャリーケースの取っ手を握ったまま見送る。
あと三分。
駅からここまでの坂道を、もっと急いでいれば間に合った。
いや、本当は分かっている。
駅の改札を出たところで、一度立ち止まったのだ。
このまま実家に帰っていいのだろうか、と考えた。
母にはまだ、会社を辞めたことを言っていない。
そこで使った三分が、そのまま船との差になった。
次の便は明日の朝七時。
海の向こうの実家へ帰るつもりで乗った電車なのに、帰る前に足止めを食うなんて、わたしらしい。
仕事を辞めて二週間。
会社のグループチャットは、退職した翌日に抜けた。同期から届いた「元気?」というメッセージには、まだ返事をしていない。
母とのトーク画面を開くのは、それ以上に気が重かった。
荷造りだけを済ませて、逃げるように家を出てきたのだ。
「お姉さん、乗り遅れ?」
声に振り向くと、桟橋の脇の小屋の前で、エプロン姿の女性が湯気の立つ紙コップを持っていた。
六十過ぎだろうか。日に焼けた丸い顔が笑っている。
「はい……宿、探します」
「この時間は、坂の上の宿は満室よ。今日は祭の前夜だから」
「祭?」
女性は坂道の上を指さした。
ちょうど、家々の軒先にひとつ、またひとつと小さな灯りがともり始めたところだった。
手のひらほどの丸い提灯が、石段の両側に点々と上へ続いている。
「帰り灯。海に出てた人も、町を出てた人も、迷わず戻ってこられるようにって」
「昔からあるんですか」
「千年前からっていう人もいれば、百五十年前に宿屋の主人が始めたっていう人もいるわね」
「だいぶ違いますね」
「去年なんて、漁師の徳さんと郵便局の前の爺さんが、それで三十分けんかしてた」
思わず笑った。
久しぶりに、声を出して笑った。
女性も笑う。
「まあ、町の人は結局、どっちでもいいと思ってるのよ。灯れば」
女性はミツ子さんといって、坂の途中で喫茶店をやっているという。
「ご飯くらい食べていきなさい。宿はそのあと考えましょう」
断る理由が見つからなくて、わたしはキャリーケースを引きずって石段を上った。
ごろごろと音が響いて、少し恥ずかしい。
けれど町の人は誰も振り向かなかった。
軒先で提灯に火を入れていた老人が、手を止めて「こんばんは」と言った。
その向かいでは、小学生くらいの男の子が母親に叱られながら、傾いた提灯を直していた。
町は、わたしとは関係なく祭の前夜を迎えていた。
それが少しだけありがたかった。
喫茶「ともしび」は、六席しかなかった。
壁には古い海図。窓の外では、灯りの連なりが海へ向かって下っていく。
「食べられないものある?」
「特には」
「じゃあ名物ね」
出てきたのは、潮騒プリンだった。
固めのプリンの上で、ほんのり塩の効いたカラメルが波の形に流れている。
「最初は砂糖と塩を間違えたのよ」
「塩を?」
「そう。捨てるのももったいないから食べてみたら、案外いけた」
「それで名物に?」
「うちの名物なんて、だいたいそんなものよ」
ひとさじ口に入れる。
甘さのあとから、少しだけしょっぱさが追いかけてきた。
妙においしかった。
考えてみれば、会社を辞めてから、誰かが自分のために用意してくれたものを、こうして座って食べるのは初めてだった。
コンビニのおにぎりや、駅のパンばかりだった。
目の奥が熱くなった。
慌ててプリンに目を落とす。
「会社、辞めたんです」
自分でも驚くほど、するりと言えた。
ミツ子さんはカウンターの向こうでカップを拭いていた。
「そう」
それだけだった。
だから、続きを言えた。
「実家に帰るつもりなんです。でも、まだ言ってなくて。会社を辞めたことも、これからどうするかも」
「うん」
「帰ったら、何て言おうって、ずっと考えてて」
ミツ子さんはわたしのカップに紅茶を足した。
それから、窓の外を見た。
灯りが風に揺れている。
「私も一回、この町を出たのよ」
「そうなんですか」
「二十年くらい」
意外で、顔を上げた。
「東京?」
「大阪。喫茶店で働いてた」
「それで戻ってきたんですか」
「戻ったというか、まあ、いろいろあって」
ミツ子さんはそこで笑った。
「聞かないで。長いから」
少しだけ黙って、窓の外の灯りを見る。
「帰り灯って、戻ってくる人のための灯りでしょう」
「はい」
「でもさ」
ミツ子さんはカップを置いた。
「戻る場所があるってことは、出ていってもいいってことなんじゃないかって、私は思ってる」
少し考えてから付け足す。
「たぶんね」
窓の外で、風にあおられた提灯がひとつ、大きく揺れた。
向かいの家の老人が慌てて手を伸ばし、火が消えないように支えている。
わたしはしばらく、その様子を見ていた。
胸の奥に詰まっていたものが、なくなったわけではない。
ただ、少しだけ形が変わった気がした。
結局、宿は見つからなかった。
「二階でよければ寝られるから」
そう言われて、断る元気も、もう残っていなかった。
その夜は、喫茶店の二階の、物置になりかけた小部屋に泊めてもらった。
布団には、乾いた畳と、少しだけ潮の匂いが移っていた。
電気を消す。
天井の向こうで、風の音がした。
母に何を言うか、何度も考えた。
会社を辞めた。
しばらく休みたい。
心配しないで。
ごめん。
どれもしっくりこなかった。
スマホを手に取って、母とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは三日前だった。
《いつ帰るの?》
文字を打つ。
《明日の朝の船で帰る》
それだけ送った。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来る。
《うん。気をつけて帰っておいで》
もっと何か聞かれると思っていた。
会社はどうしたの、とか。
何かあったの、とか。
けれど、母は何も聞かなかった。
その短い返事をしばらく眺めてから、わたしはスマホを伏せた。
結局、その先の言葉はひとつも決まらないまま眠った。
翌朝。
七時の便に間に合うように桟橋へ下りた。
坂道の灯りはもう消えていたけれど、石段には蝋の跡が点々と残っていた。
昨日の夜が夢ではなかった証拠みたいだった。
「ほら、持っていきなさい」
桟橋まで見送りに来たミツ子さんが、紙袋を押しつけてきた。
中には、プリンがひとつと、手のひらほどの提灯がひとつ入っている。
「それ、予備」
「もらっていいんですか」
「次に来るとき、点けて」
「次、ですか」
ミツ子さんは、何を当たり前のことを、という顔をした。
「あるでしょう、次」
乗船を知らせるベルが鳴った。
わたしは船に乗った。
今度は、間に合った。
船が岸を離れる。
坂の上の小さな喫茶店がだんだん小さくなり、白い町並みに溶けていく。
実家に着いたら、まず何て言おう。
まだ分からない。
会社を辞めたことを話したら、母は驚くだろう。
父は黙るかもしれない。
この先どうするのかと聞かれても、答えられない。
それでもいいのかもしれない。
すぐに答えが出なくても。
膝の上の紙袋の中で、小さな提灯がプリンの容器に触れた。
こつ、と軽い音がした。
窓の外では、朝の海が光っている。
昨日引いてきたキャリーケースより、膝の上の紙袋はずっと軽かった。
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「すごいね、お父さんって何でもできる!」
自転車の修理をしていたら娘がやってきて感心したようにそう言った。
毎日学校に自転車で通う娘。
パンクして困った顔をして帰ってきたのは昨日の夕方だ。
幸いにも今日は土曜日で仕事は休みだった。
僕はホームセンターで買ってきた自転車の修理キットで修理をした。
実際にこういったことは一度やってしまえば案外簡単だと思えるようになるだろう。
「真理子にも修理の仕方を教えてあげる」
僕がそう言うと娘は慌てて首を振る。
「そんなの私には無理だよ!」
「父さんだって真理子ぐらいの歳の時に初めて自分の自転車の修理をしたんだから、覚えたら すぐにできるようになるよ」
僕がそう言うと娘はちょっと困ったような顔した。
「えー、そんな難しそう!」
「大丈夫、一度やってみたらすぐになれるから」
「今日はもう父さんがやっちゃったから簡単な説明だけしておくよ」
「うーん、覚えられるかな?」
「大丈夫、大丈夫」
僕は娘に説明をしながらパンクの修理を進めた。
「とりあえず空気を入れて少し様子を見て夕方まで空気が抜けてないみたいだったらパンクの修理はできてると思う」
修理が終わり僕はパンク修理に使った道具を片付け始める。
妻が僕たちを呼ぶ声がして、娘と一緒に家の中に入る。
クッキーと紅茶を飲みながら一息つく。
「私とてもできるようになる気がしない。やっぱり、お父さんはすごいね。こんな切り札持ってるなんて!」
そう言われて私はちょっと嬉しいけど恥ずかしくなった。
「切り札なんて大層なもんじゃないよ。何でもやってみたら思ったより難しくないと思えるようになるよ」
「そうかなー」
「そうだよ」
「私もお父さんみたいにいっぱい切り札持てるようになるかな」
「きっとなるさ!」
僕はそう言うと娘はちょっと嬉しそうなを顔した。
クッキーと紅茶の時間はゆっくりと優しく流れていった。
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ある日思った。
『比喩』なんてなくなればいい。
だって分かりにくいから。
だから私の視界から消してやろう。
手始めに書斎から本を取り出し、山積みにして上にレモンを置こうと思う。
しかし困ったな。冷蔵庫にレモンはない。
ポッカレモンがあったのでこれを代用してみよう。
ほうら、もうすぐ爆発するぞ。きっと現代の技術で作られたポッカレモンだから、大きな爆発になる。
私は恐怖心を抑え、少し離れ、体を伏せて見守る。
しばらく後に物音に気付いた夫が「冷蔵庫に入れておかないと、使えなくなっちゃうよ。」とひょいと、爆弾を持ち上げ帰っていった。
爆発が見れなくて、残念だ。
次の敵は「自分を俯瞰してみる」だ。
緊張したときに、よく言われた気がする。
スマホのアルバムを漁り、自分の全身が映った写真をパソコンへ送る。
私は157cmだから、A4のコピー用紙、おおよそ六枚くらいで全身の印刷ができる。
画像編集ソフトで自分を分割する。
コテコテのマジックショーみたいに、自分の体を切り取っていく。
壁に六等分された自分をセロハンテープで貼り、脚立に登る。
危ないので夫が見守っている。
勝った。誇った顔で私は脚立を降りた。
次の相手は「神の見えざる手」だ。
きっと可視光線外の光なんだろう。
紫外線は無理なので、赤外線であることを祈り、ECサイトでスコープを探す。
困った。
安いものでも9千円近くするじゃないか。私のお小遣いじゃ足りない。
一応、夫の顔を見るが、首を横に振られた。
不戦敗というやつだ。
私がお金持ちでなくて良かったな、『手』よ。
仕方なく次の相手を考える。
「失敗は成功の母」かな?
先ほどの敗退は、どうやらお子さんを生むらしい。
しまった。私には助産婦の知識がない。
急いでスマホで調べた。
うん、もういつでも大丈夫だ。
近くにいた夫は「人様には使わないでね、その知識」と助言してくれた。
確かに尊い命に、5分で得た知識では携わることは許されない。
晴れて私は『比喩』専門の助産婦になった。
次に「手を焼く」。
冷凍庫から小さ目の保冷剤を持ってきて、いつもありがとうの気持ちを込めて夫の手の甲に当ててあげる。
しかし「焼いてないよ。別に。」と言われてしまったので、冷凍庫に戻すことにした。
よし、次の相手は誰にしよう?
そうだ、自分の好きな歌の歌詞にしよう。
幸い、ガラス玉は無いがビー玉なら何個かある。
一つ落とす。少し跳ねて転がった。
転がるビー玉を追いかけて狙いをすます。
緊張の一瞬、もう一つ落としたビー玉が見事、先に落としたビー玉に当たる。
とても満足した。
最後の相手は決めている。
「月が綺麗ですね。」からの「私死んでもいいわ。」だ。
ただ夫には言いたくない。死んだら困るし、何より嫌だ。
そこで私は妙案を思い付く。自分のゲーム機『スイッチ』を取り出し起動する。
先月買ったポケモンのゲーム。その中で気に入っている『メタグロス』というモンスターに『だいばくはつ』という文字通りの自爆技を覚えさせた。
ゲームでバトルを始まる。
私は語りかける。
「月が綺麗ですね。」
即座にボタンを押す。
「メタグロスのだいばくはつ!」
哀れ、メタグロス。
でも私の告白を受け入れてくれて、ありがとう。
今日の行動を逡巡し、自分が自分の影響の輪の中にいることを確認する。
……あ、輪という比喩を使ってしまった。
なかなか自分をコントロールするのは難しい。
そんなことを考えていたら「晩ごはん、もうできるよ。」と夫の声が聞こえた。
散らばった本、コピー用紙、脚立、ビー玉、ゲーム機を片付け食卓に向かう。
ホカホカと湯気をだしながら、おいしそうな匂いを放つパスタが二つ並べられていた。
「いただきます。」
早速食べてみると、先ほどのポッカレモンだろうか?
少しの酸味が良い塩梅でおいしい。
今日は有意義な一日だった。
食べ足りないので、こっそり夫の皿にフォークをやると見切られて、皿を持ち上げられた。
「あげません〜。」
私の不満気な顔、微笑む夫。
明日も私の有意義な戦いは、多分続く。
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水の流れる音が、この町の呼吸音だ。
蔵波(くらなみ)町。
城下町の面影を残す街には、細い堀割が網の目のように巡っている。黒漆喰の土蔵が水路に沿って並び、黄ばみ始めた柳の葉が水面を流れていた。観光用の小舟の櫂の音が、石橋の下に響いている。
石橋のたもとにある『夕菅(ゆうすげ)硝子店』。藤野 梢(ふじの・こずえ)は、この店の三代目だ。店を引き継いで三年。グラスや器を作るかたわら、近隣の町家から頼まれる硝子細工の繕いを引き受けている。
からん、と引き戸の真鍮鈴が鳴ったのは、水路に午後の光が揺れ始めた頃だった。
「ごめんくださいな」
水路の向かいで和菓子屋を営む八千代さんが、風呂敷包みを抱えて立っていた。
「いらっしゃい。お茶でも淹れましょうか」
「今日はね、これをお願いしたくて。奥の座敷の行灯の硝子なんだけど、掃除のときに手が滑って……」
木箱には、すり硝子の円筒形の笠が入っていた。縁が三日月形に欠け、薄紙に包まれた破片が添えられている。乳白色の硝子には、繊細な撫子の花が彫り込まれていた。
「お母様の嫁入り道具でしたよね」
「ええ。古いものだから諦めようかとも思ったんだけど。夕方、これに明かりを灯すと、畳にやわらかな影が落ちてね。水音と合わさると、落ち着くのよ」
梢は破片を縁に合わせた。透明な樹脂なら継ぎ目を目立ちにくくできる。けれど、この白い硝子には、細い金色の線も似合いそうだった。
「金継ぎにしてみるのは、どうでしょう」
「お茶碗にする、あれ?」
「硝子にもできるんです。ただ、ここに金色の継ぎ目が残ります。漆を使うので、何週間かかかりますけど」
八千代さんは眼鏡を上げ、梢の指先を覗き込んだ。
「ここだけなのね」
「はい。撫子の模様はそのまま残せます」
しばらく笠を見てから、八千代さんは頷いた。
「急がなくていいわ。また、あの座敷で使えれば」
八千代さんを見送ると、梢は作業台に笠と破片を並べた。
そばに置いた携帯の画面には、昼に同級生から届いた写真が残っていた。新しい職場だという。窓の向こうに、知らない街のビルが並んでいる。
返事は、まだ書きかけだった。
この町で生まれ、この町で育った。大学時代は東京にいたけれど、ビル風と人々の歩く速さに馴染めず、この水辺へ戻ってきた。
明日はグラスを仕上げて、いつもの道を通って届ける。その先の予定も、だいたい分かっていた。
梢は携帯を伏せ、破片を手に取った。縁に合わせ、指先で段差を確かめる。位置を決めて漆で継ぐまで、窓の外を見ることはなかった。
顔を上げると、軒下の提灯に灯がともっていた。対岸の豆腐屋から白い湯気が上がる。子どもたちの「また明日」が、石畳に響いた。
それから数週間、梢はほかの仕事の合間に、漆の固まり具合を確かめながら継ぎ目を整えた。
仕上げの漆に金粉を蒔く頃には、窓の外の柳も枝が目立つようになっていた。
仕上げを終えた笠を、作業場の試験用ランプにはめる。スイッチを入れると、ぽっ、と柔らかな光が灯った。
撫子の花の下に、細い金色の線が浮かんでいた。笠の向きを変えると、継ぎ目がきらりと光る。夜の蔵波の水路を、月明かりがなぞるようだった。
「……できた」
翌日の夕方、梢は笠を薄紙で包み、木箱に戻して店を出た。
軒先の落ち葉を掃いていた近所の人が、箒を止める。
「梢ちゃん、お疲れさま。日が短くなったねえ」
「ほんとですね」
箱を抱え直すと、袖口から冷たい風が入った。
八千代さんの店では、奥の座敷に通された。笠を外した行灯が、畳の上に置かれている。
梢は笠を台座にはめ、継ぎ目の位置を確かめてもらってから明かりをつけた。
「まあ……」
八千代さんは両手を胸の前で合わせた。
「触ってもいい?」
「ええ」
指先が、金色の縁をそっと辿った。
「ここだったのね、欠けたところ」
指を離し、もう一度灯りを見る。
「割れたときは胸が痛かったけれど……この線も、いいわね」
梢はようやく息を吐いた。
八千代さんは行灯を少し奥へ寄せた。撫子の影も、それにつれて動いた。
「そうそう。この明かりがないと、夕方、ここが落ち着かなくて」
店先で物音がした。八千代さんは腰を浮かせかけ、振り返った。
「ありがとう。梢ちゃんがこの町にいてくれて、よかったわ」
帰り道、梢は石橋の上で足を止めた。
水路の両脇に、点々と灯りがともっている。八千代さんの店の奥にも明かりが見えた。
手元の風呂敷を畳む。木箱を預かったときには、あの座敷が暗くなっていることまで考えていなかった。
柳の葉が一枚、橋の下へ流れていく。
梢は水音に耳を傾け、深く息を吸い込んだ。
「さて、明日もいいものを作ろう」
風呂敷を腕に掛け、工房へ続く石畳を歩き出した。
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――誰だ?
いつも学校帰りに寄り道する場所に、知らない人がいた。ぼーっと立って海を見ている。海が見える場所なんて他にいくらでもあるのに、なんでここに立っているんだろう。よりによって、私の一番のお気に入りの場所に……。
私の視線が背中に突き刺さったのか、その人は振り返った。お父さんよりもずっと年上の、男の人だ。ただ、猫背のお父さんとは違い、背筋がすっと伸びている。
「おや。ここは君の特等席かな?」
「いや……まぁ」
さすがに「ええ、そうです」とは言えず、私は視線を下に向けた。どいてくれることを密かに期待する。
「ここには、いい風が吹いているね」
男性はそう言って顔を上に向けた。お互い、無言の時間が流れる。この人は一体何がしたいんだろう。
――はぁ、帰るか。
そう思った瞬間、男性は突然私の目を真っすぐに見た。私は警戒心をむき出しにして睨み返す。
「そうだ。君にあげよう」
「え? 何を……ですか?」
少しだけ後ずさった私の様子を気にすることなく、男性は両手を前に出した。見えない何かを抱えるように。
「受け取れ。青き風だ」
――うわ!?
風が私の全身を駆け抜け、思わず目を閉じる。
ゆっくり目を開けると、そこに男性の姿はなく、ただ青い海が広がっているだけだった。
(了)
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