コメディ・日常

最終便のあとで

2,835文字 約6分で読了
作者:TakaTuki
最終の連絡船は、わたしが桟橋に着く三分前に出ていた。 白い船尾が沖へ小さくなっていくのを、キャリーケースの取っ手を握ったまま見送る。 あと三分。 駅からここまでの坂道を、もっと急いでいれば間に合った。 いや、本当は分かっている。 駅の改札を出たところで、一度立ち止まったのだ。 このまま実家に帰っていいのだろうか、と考えた。 母にはまだ、会社を辞めたことを言っていない。 そこで使った三分が、そのまま船との差になった。 次の便は明日の朝七時。 海の向こうの実家へ帰るつもりで乗った電車なのに、帰る前に足止めを食うなんて、わたしらしい。 仕事を辞めて二週間。 会社のグループチャットは、退職した翌日に抜けた。同期から届いた「元気?」というメッセージには、まだ返事をしていない。 母とのトーク画面を開くのは、それ以上に気が重かった。 荷造りだけを済ませて、逃げるように家を出てきたのだ。 「お姉さん、乗り遅れ?」 声に振り向くと、桟橋の脇の小屋の前で、エプロン姿の女性が湯気の立つ紙コップを持っていた。 六十過ぎだろうか。日に焼けた丸い顔が笑っている。 「はい……宿、探します」 「この時間は、坂の上の宿は満室よ。今日は祭の前夜だから」 「祭?」 女性は坂道の上を指さした。 ちょうど、家々の軒先にひとつ、またひとつと小さな灯りがともり始めたところだった。 手のひらほどの丸い提灯が、石段の両側に点々と上へ続いている。 「帰り灯。海に出てた人も、町を出てた人も、迷わず戻ってこられるようにって」 「昔からあるんですか」 「千年前からっていう人もいれば、百五十年前に宿屋の主人が始めたっていう人もいるわね」 「だいぶ違いますね」 「去年なんて、漁師の徳さんと郵便局の前の爺さんが、それで三十分けんかしてた」 思わず笑った。 久しぶりに、声を出して笑った。 女性も笑う。 「まあ、町の人は結局、どっちでもいいと思ってるのよ。灯れば」 女性はミツ子さんといって、坂の途中で喫茶店をやっているという。 「ご飯くらい食べていきなさい。宿はそのあと考えましょう」 断る理由が見つからなくて、わたしはキャリーケースを引きずって石段を上った。 ごろごろと音が響いて、少し恥ずかしい。 けれど町の人は誰も振り向かなかった。 軒先で提灯に火を入れていた老人が、手を止めて「こんばんは」と言った。 その向かいでは、小学生くらいの男の子が母親に叱られながら、傾いた提灯を直していた。 町は、わたしとは関係なく祭の前夜を迎えていた。 それが少しだけありがたかった。 喫茶「ともしび」は、六席しかなかった。 壁には古い海図。窓の外では、灯りの連なりが海へ向かって下っていく。 「食べられないものある?」 「特には」 「じゃあ名物ね」 出てきたのは、潮騒プリンだった。 固めのプリンの上で、ほんのり塩の効いたカラメルが波の形に流れている。 「最初は砂糖と塩を間違えたのよ」 「塩を?」 「そう。捨てるのももったいないから食べてみたら、案外いけた」 「それで名物に?」 「うちの名物なんて、だいたいそんなものよ」 ひとさじ口に入れる。 甘さのあとから、少しだけしょっぱさが追いかけてきた。 妙においしかった。 考えてみれば、会社を辞めてから、誰かが自分のために用意してくれたものを、こうして座って食べるのは初めてだった。 コンビニのおにぎりや、駅のパンばかりだった。 目の奥が熱くなった。 慌ててプリンに目を落とす。 「会社、辞めたんです」 自分でも驚くほど、するりと言えた。 ミツ子さんはカウンターの向こうでカップを拭いていた。 「そう」 それだけだった。 だから、続きを言えた。 「実家に帰るつもりなんです。でも、まだ言ってなくて。会社を辞めたことも、これからどうするかも」 「うん」 「帰ったら、何て言おうって、ずっと考えてて」 ミツ子さんはわたしのカップに紅茶を足した。 それから、窓の外を見た。 灯りが風に揺れている。 「私も一回、この町を出たのよ」 「そうなんですか」 「二十年くらい」 意外で、顔を上げた。 「東京?」 「大阪。喫茶店で働いてた」 「それで戻ってきたんですか」 「戻ったというか、まあ、いろいろあって」 ミツ子さんはそこで笑った。 「聞かないで。長いから」 少しだけ黙って、窓の外の灯りを見る。 「帰り灯って、戻ってくる人のための灯りでしょう」 「はい」 「でもさ」 ミツ子さんはカップを置いた。 「戻る場所があるってことは、出ていってもいいってことなんじゃないかって、私は思ってる」 少し考えてから付け足す。 「たぶんね」 窓の外で、風にあおられた提灯がひとつ、大きく揺れた。 向かいの家の老人が慌てて手を伸ばし、火が消えないように支えている。 わたしはしばらく、その様子を見ていた。 胸の奥に詰まっていたものが、なくなったわけではない。 ただ、少しだけ形が変わった気がした。 結局、宿は見つからなかった。 「二階でよければ寝られるから」 そう言われて、断る元気も、もう残っていなかった。 その夜は、喫茶店の二階の、物置になりかけた小部屋に泊めてもらった。 布団には、乾いた畳と、少しだけ潮の匂いが移っていた。 電気を消す。 天井の向こうで、風の音がした。 母に何を言うか、何度も考えた。 会社を辞めた。 しばらく休みたい。 心配しないで。 ごめん。 どれもしっくりこなかった。 スマホを手に取って、母とのトーク画面を開く。 最後のメッセージは三日前だった。 《いつ帰るの?》 文字を打つ。 《明日の朝の船で帰る》 それだけ送った。 すぐに既読がついた。 少しして、返事が来る。 《うん。気をつけて帰っておいで》 もっと何か聞かれると思っていた。 会社はどうしたの、とか。 何かあったの、とか。 けれど、母は何も聞かなかった。 その短い返事をしばらく眺めてから、わたしはスマホを伏せた。 結局、その先の言葉はひとつも決まらないまま眠った。 翌朝。 七時の便に間に合うように桟橋へ下りた。 坂道の灯りはもう消えていたけれど、石段には蝋の跡が点々と残っていた。 昨日の夜が夢ではなかった証拠みたいだった。 「ほら、持っていきなさい」 桟橋まで見送りに来たミツ子さんが、紙袋を押しつけてきた。 中には、プリンがひとつと、手のひらほどの提灯がひとつ入っている。 「それ、予備」 「もらっていいんですか」 「次に来るとき、点けて」 「次、ですか」 ミツ子さんは、何を当たり前のことを、という顔をした。 「あるでしょう、次」 乗船を知らせるベルが鳴った。 わたしは船に乗った。 今度は、間に合った。 船が岸を離れる。 坂の上の小さな喫茶店がだんだん小さくなり、白い町並みに溶けていく。 実家に着いたら、まず何て言おう。 まだ分からない。 会社を辞めたことを話したら、母は驚くだろう。 父は黙るかもしれない。 この先どうするのかと聞かれても、答えられない。 それでもいいのかもしれない。 すぐに答えが出なくても。 膝の上の紙袋の中で、小さな提灯がプリンの容器に触れた。 こつ、と軽い音がした。 窓の外では、朝の海が光っている。 昨日引いてきたキャリーケースより、膝の上の紙袋はずっと軽かった。
2026/10/05 ・ 👁️ 73回 ・ 💬 0件

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