奴は親友である。几帳面で、細々したことに気づき、ピンチでも明るく、失敗を恐れない。美点は幾らでも挙げられる。十年も共に幾多の戦いをかいくぐった仲だ。だが、顔を見たことも声も聞いたことはない。戦場を離れて久しいが、今朝もメッセージが届く。「やあ、ギルマス。昨夜の最新話、見ました?」
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鐘見町の石段は、数えても数えても終わらなかった。
「おばあちゃん、毎日ここを歩いてるの?」
菜月が振り返ると、千代は三段下で手すりにつかまり、息を整えていた。
「天気のよか日だけね」
十年ぶりに訪ねた祖母の散歩に付き合って、もう二十分になる。予定は何もない。それでも菜月はスマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。福岡では駅までの信号待ちさえ惜しくて、歩きながら仕事のメールを読んでいる。
「どこまで行くの?」
「さあ、今日はどこまで行こうかねえ」
千代は笑った。
石段の途中で、千代が木の椅子に腰を下ろした。向かいの理髪店から店主が顔を出す。
「千代さん、今日はお孫さんと?」
「そう。都会から来てくれたと」
店主は椅子の脚を確かめ、ぐらつきを直してから店へ戻った。
「いつもここで休むの?」
「坂を上る日はね。あの店の先代が置いてくれた椅子なんよ」
立ち上がった千代が右膝をかばうのを、菜月は初めて意識した。
次に立ち止まったのは、小さな祠の前だった。
「ここの隣、昔は駄菓子屋だったのよ。菜月が三歳のとき、ラムネを二本も飲んでね」
「覚えてないなあ」
「帰りは抱っこって言うもんだから、この坂を抱えて下りたとよ」
「大変だったね」
「若かったけんねえ」
坂を上りきると、潮の香りがした。赤い屋根の向こうに港が広がり、白い船がゆっくり岸壁を離れていく。
菜月はスマートフォンを取り出し、カメラを起動しかけて手を止めた。
「おばあちゃん、ここで少し座ろうか」
「早く帰りたいんじゃなかったと?」
「え?」
「ずっと先を歩いとったけん」
菜月は自分の足元を見た。急ぐ理由など、最初からなかった。
二人で石段の縁に座った。下から買い物袋を提げた女性が上ってくる。
「あら、千代さん。今日はいい天気ねえ」
千代は嬉しそうに手を振った。
菜月の知らない祖母の毎日が、この坂にはあった。
「明日も散歩する?」
「天気がよければね」
「じゃあ、私も行く」
千代は少し驚いて、それから笑った。
帰り道、千代が塀の上の小さな花を指さした。
「これ、去年は咲かんかったとよ」
菜月は足を止めた。花の名前は二人とも知らなかった。
再び歩き始めたとき、菜月は足元の石段が、中央だけ浅くくぼんでいることに気づいた。長い年月、何人もの人がここを歩いてきたのだろう。
菜月はもうスマートフォンで時刻を確かめなかった。祖母が一段下りるのを待って、自分も同じ段に足を置いた。
坂道は、まだしばらく続いていた。
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「豊胸しよっかな。どう思う?」
二枚のトーストがオーブンで焼かれながら僕はコーヒーを淹れる。この愛でるべきルーティンの中、彼女が唐突に扱いづらいクエスチョンマークを叩きつけてくること自体は、そこまで珍しいことではないにしても、今日の思いつきは些かその性質に問題があった。
「そういうのは女友達に話すことじゃない?」
と、僕はもう少し思考時間の猶予が欲しい。
「どうして? あなたの問題でもあるんじゃない?」
「……たしかに」
完璧なきつね色に染まったトーストを一枚ずつ二枚の皿に乗せ、淹れ終わったコーヒーを二つのマグカップに注ぐ。
彼女はこれを見計らい、テレビのボリュームを下げ、冷蔵庫からピーナッツクリームを取り出し、食器棚からバターナイフを選び、僕らはほとんど同時にテーブルに着く。
「ねえ、やっぱり大きい方が嬉しいでしょ?」
そんなことを言われると僕の視線が『そっち』に促されるのは不可抗力と言って差し支えない。冷えて硬くなったピーナッツクリームを熱いトーストの上に伸ばしていく彼女の所作が、何故か何か何処か魔女的な妖艶さを感じさせる。
「まず、前提として。僕は君の胸だから好きなのであって、そこに大きい小さいは判断基準として設けられていない」
「じゃあ、私がすっぴんで横を歩いてても何も思わないわけ?」
「ん? んん? それはどちらかと言うとノーブラで出歩くに等しいんじゃないかな」
「朝から変なこと言わないで」
……どうしたいんだよ。
彼女からバターナイフを受け取り、僕もピーナッツクリームをトーストに押しつける。
━━『あなたはもっとあなたになる』
テレビから流れてくる何百回と聞いた美容整形のCMの広告文句に、彼女の視線が少しだけ揺れた。
「あぁ、こいつのせいか」
事態を飲み込んだ僕はコーヒーを啜る。エチオピアの深煎りの苦酸っぱさはピーナッツクリームと良く合う。
「君の」
少し恥ずかしそうに、あるいはバツが悪そうに視線を落とす彼女に僕は毅然と告げる。
「化粧品メーカーを僕がいちいち指定しないように、君の好きにすることに僕は反対しない。ただ僕の気持ちは胸の大小に左右されることなんてことはないよ」
「やっぱり小さいって思ってたんだ」
「そうは言ってない。……言ってない」
「今日お買い物行くでしょ? 胸の大きい人探そうよ。目の前にするとあなたの生理的欲求もその偏屈な理性より前面に出て来るでしょ」
「ああ、そうだ。ピーナッツクリームも予備が無いんだった」
パッケージに目を遣ると『ピーナッツバター20%』の表示。何度もおかわりしているのにまるで気付かなかった。
何故か何かまるで詐欺にでもあったかのような気分になり、僕はスマートフォンで100%のピーナッツバターを検索する。
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「修理お願いできないかしら?」
よく晴れた昼下がり、一枚の写真を持って一人の女性が訪ねてきた。
「これはまた随分とご立派な……」
写真には大きなからくり時計が写っていた。
「祖母のものですの」
と女性は言った。
「現物を見てみないことにはお受けしかねますが……お伺いしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞ。お時間ございましたら今からでも大丈夫ですが」
「本当ですか。でしたらお伺いします」
私は女性と共にそのからくり時計を見に行った。
大きな置き型のからくり時計は時計の下に小さな扉が付いていた。
古びた大きな民家の玄関にそれはあった。
幾分、場所と雰囲気が不釣り合いな気がした。
しばらくそこで待っていると車椅子に乗ったおばあさんが出迎えてくれた。
「初めまして、時計の修理できてくださったそうで。ありがとうございます」
「初めまして、この時計は一体どうされたのです?」
「少し長くなると思いますが……」
おばあさんはそっとからくり時計をなでた。
「もう随分と昔になりますね。これはなくなった父が作ったものです。これを作った時、私はまだほんの赤ん坊でした。戦争の真っただ中、贅沢は敵だと言う時代でしたけど……市の公民館に置くために作ったものでした。父の時計は随分と大切にみんなから愛されておりましたのよ。定時になるたび短いオルゴールの音楽と扉から人形が出てきて挨拶してくれます。数秒で終わってしまうことですが私はそれが大好きで父の時計を見るために幼い子供の頃はいつも公民館に通ったものです。父は結局この時計を作った後、戦争に行って帰ってきませんでした。私にとって父の思い出はこの時計なのです。昔はちょっとした町のシンボル だったんですよ」
「コーヒーをどうぞ」
はじめに私の店を訪ねてくれた女性がやってきて、そう言ってくれた。
私は改めて時計をよく確認した。
高さは百六十センチメートルぐらい、横幅は八十センチメートルぐらいか。
家に置くには大きいが、公民館や役所の玄関に置いたらちょうどいいぐらいのサイズだろう。
からくり時計ならば、なおさら人の目についてちょうど良いのかもしれない。
動力は……ゼンマイ式か。
からくり時計としての仕組みは割とシンプルなものだろう。おそらく話していた通り人形が出てきてお辞儀をするぐらいの。
目立った傷もない、歳月での劣化はあるが……
「ずっと公民館にあった時計ですけど、三十年前に公民館の改修で我が家に引き取りました。もうその時には壊れておりましたが 置物として大切にされていたんですよ。それからずっと我が家のシンボルでした。この子も小さい時この時計が大好きで、いつも学校から帰ってくると時計にも挨拶してたんですよ」
そう言っておばあさんは女性の方を見た。
少し照れたような恥ずかしそうな顔して、小さな声で、
「もう、おばあちゃんたら」
と言ったのを、私は聞き逃さなかった。
「実は今この子がその公民館の職員をしておりましてね。また改修工事をするそうです。それでこのシンボルだった時計をもう一度置いてもらえないかと思いまして、ちゃんと修理してもう一度 公民館に。どうでしょうか、修理お願いできますでしょうか?」
「少し中を拝見させていただいてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
二人が笑って頷くのを合図に私はからくり時計の扉をそっと開けた。
女性の人形が赤ん坊を抱えるその様子はどこか聖母子像のような優しく慈しみに溢れた面持ちをしていた。
母親と娘のからくり時計、そしてそれを作った父親。
――ここには家族の歴史があるのだ。
「お受けいただけないでしょうか……?」
二人が神妙な面持ちでこっちを見ていた。
私はそっと扉を閉めた。
「分かりました。ですがまずは修理のお見積もりと、内容の件でご相談を、かなり高額になってまいりますので……」
私は修理を引き受けることにした。
どうやら費用に関しては市のほうで負担してくれることになるらしい。公民館の新しい顔として、玄関に飾られることになる。
きっとこれからも街に愛される時計になるのだろうなと思いながら、修理の段取りを考えていた。
この時計はゼンマイ式だ。もちろんそれを尊重したいし 大切にしたいと思ったが、毎日職員がゼンマイをまくことを考えれば あまり現実的ではないような気がした。
歴史的な美術品だということを考えて正直あまり変えたくはなかったが、動力を電気に変えることを思い切って提案してみた。
ゼンマイの部分は差し込んだまま、装飾として動くことになる。ゼンマイ部分の消耗や汚れのつきやすさを鑑みてもその方がいいと思う。
人形も修復が必要になりそうだ。
大事に扱われていたとはいえ、歳月の劣化で傷がついたり汚れたりしている部分がある。これに関して言うならば私では手に負えないので友人の美術修復の専門家を訪ねることにしよう。
さあ、これは大仕事になるぞ。
三日ほどして工房にやってきた時計を改めて確認する。
扉を開けて丁寧に中の人形を取り外す。
確かに赤ちゃんの人形には依頼人の祖母の面影が少しあるような気がした。
これを作った父親は赤ん坊だった自分の娘と妻とすぐに離れ離れになって、戦争に行ってしまったのだろうか。
幼い娘と妻のことを想いながら、この人形を作って入れたのだろう。
優しく柔らかなもので人形の汚れを拭った。
大丈夫、必ず直してあげるから……
そっと心の中でつぶやく。
玄関の方で音がする。
知り合いの修復師がやってきた。
人形を預けると私は再び時計と向き合った。
随分とあちらこちらが、すり減って錆びついている。
底の部分にいくつか歯車が落ちていた。
取り替えなくてはならない部分は随分と多そうだ。
一つずつ分解して足りない部分を交換していくことになるだろう。一から作らなくてはならない部分も多そうだ。
もっともねじ巻き式ではなく、電気で動くようにするからまるごと取り替えてしまう部分もかなり多い。
中身がすっかり空っぽになった時計を見る。
内側に小さな名前が書いてあることに気がついた。
男性の名前ではない。
……二人の女性の名前。
それはおそらく、あの依頼主の祖母とその母親の曾祖母の名前だろう。
一体どんな気持ちでこの名前を掘ったのだろう……
もう一度あの家族のもとに戻れるようにしっかりと修理しなくては。
時計の表面の装飾を丁寧に修復してゆく。
中の部品をある部分は取り替え、ある部分はサビを落とし、丁寧に修復してゆく。錆びついた時計の針もまた磨き上げ 丁寧にはめ直す。
時計のゼンマイはすでに失われていた。
穴にあったものを探す。
最もここは実際にネジを巻くためのものではない。
スイッチを入れれば、秒針と共にゆっくりとゼンマイが動くはずだ。
修理された人形が戻ってきたのは1週間後。
経年劣化して少し色が変わった部分はそのまま、傷やひび割れは丁寧に修復されていて服の模様もきっちりと浮かび上がっている。優しげな表情をしていて我が子を見つめる母親。
そこに感じたのは深い愛だった。
「さあ、お嬢さんたち!ちゃんと家に戻してあげよう」
そう言って私は人形を丁寧に取り付けてゆく。
装飾の修復された扉の内側にそっと人形をしまいこんだ。
仕上がりは上々だ。
気に入ってもらえると良いが。
依頼人に修理が完了したことを電話する。
「本当にありがとうございます」
そう言って何度も礼を言われた。
依頼人の祖母にも電話を代わり、それこそ泣きながら喜んで感謝の言葉を伝えられた。胸の奥がずんと熱くなる。
美術運搬に連絡をして、公民館に丁寧に納品される。
「明後日、この時計のためのお披露目会をしますので是非とも来てください」
そう誘われて私は修復師の友人と2人、公民館に向かった。
晴れた青い空の下、公民館の前には車がたくさん停まっていた。奥の方の駐車場に警備員さんに案内され止めた後、玄関へと向かう。
そこには時計を愛する大勢の人たちがいた。
時計は時間を刻むものである。
時を刻み、その時をずっと見守ってきたのだ。
愛する妻と子の為にこの町の人々の為に、生み出され大切に扱われ壊れてからもずっと守られて、そして再び修理されこの町のために動き出すのだ。
それはこの町そのものを象徴しているかのようでもあった。
愛し慈しみ育み続けたこの町の時間そのものの象徴だ。
シルクのような光沢の布がかけてあり、時計の音が聞こえる。
私たちは感謝の拍手を持って迎えられた。
依頼人と祖母の目には涙
布が取り払われ盛大な拍手
オルゴールが鳴り響き
扉は開き姿を見せた聖母子像
―それは真の慈しみの姿であった。
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空から舞い落ちる雪は白く何もかも覆い隠してゆくようだった。駅の前のイルミネーション、騒々しい街の音。
誰もが足早に過ぎ去って行く中で私は1人彼を待っていた。
私だけが動かない。
この世界の中で私だけが止まっている…そんな気がした。
「また早く来てただろ」
彼の声が聞こえて背中からのハグ。
彼の吐息が耳元にかかる。
「ちょっとだけね」
指先はかじかんでもう感覚すらない。
そんな私の手を彼は握りしめた。
……あたたかい。
「こんなに冷えて、ほら!」
差し出されたのはカイロ。
「使い差しで悪いけど」
はにかんだような笑顔。
それは彼のぬくもりを内包しているかの様だ。
冷えた指先に感覚が戻っていく。
時計の針は定時を示す。
オルゴールの音が辺り一面に響いて、からくり時計から妖精が飛び出した。小さな魔法がかけられた気がする。
「行こう」
「うん!」
ぬくもりの魔法は暖かさとともに幸福を伴って私の元にやってきた。
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深夜の音楽室で、幽霊がビートルズを弾いていた。
しかも、全身タトゥーの坊主頭だ。
僕は二十三歳まで幽霊なんて信じてなかったけど、これはさすがに無理だった。
そいつはつるんとした坊主頭で上半身肌、首から下がタトゥーびっしりと存在感が強い。彼はビートルズのLet it Beをずっと弾いている。巡回中の僕と対面すると見た目とは裏腹な、しとやかな会釈をする。
僕は大学は出たものの就職に失敗し警備会社の派遣社員になり、中学校の夜間警備をしている。
もろにコロナ禍の影響を受けた。
幽霊のピアノ演奏はまろやかだ、聴いていて心地よいが、Let it Beと言われてもな、ともやもやした。パンデミックで僕の人生はなるようにならない。好きなブランドの店員になりたくてがんばったのに、ブランドはコロナの影響で倒産した。
毎日毎日、警備員の制服を着るのが嫌になる。
バイト増やして買ったブランドの服が仕事着になるのが夢だった、社割で好きな服を買いたかった。
「どうにもならないんだよね」
僕は暇があれば音楽室でタトゥー男のピアノを聴くようになった。幽霊相手でもひとりぼっちではない、と思うと気が紛れた。
マリア、薔薇、十字架、虎、般若、観音様、タトゥー男の統一性のない肌の模様。
「僕はビートルズのアルバムならラバーソウルが好きなんだけど」
言うと、ぴたっと男がレットイットビーの演奏をやめた。Nowhere manを弾き始めた、ジャスアレンジだ。
「そんな演奏もできるんだ。あんた、ピアニストだったの?」
タトゥー男は首を横にふった。
「ピアニストになりたかった?」
タトゥー男がうなずいた。
「そうなんだ。でもピアノで食ってくなんて、ほんとうにごくわずかの人なんだろう。あんたは夢叶わず死んでしまったのか」
音が止まった。タトゥー男は鍵盤の上で指を停止させている。
「ごめん。嫌なこと言ったな」
僕が言うと流れるような演奏でレットイットビーが始まる。夢破れて「なるようになるさ」と答えてくる幽霊の気持ちが僕はわからない。
僕は音楽室から出て、見回りを再開した。
教室を見ると嫌でも学生時代を思い出す。
中学生から教えて欲しかった、社会人とは資本主義の奴隷だと。願ったことがどうしようもない理由で叶わないことを。
望んだ人生を選択できる人間なんて、社会の半数にも満たないのではないか、みんな仕方なく与えられた人生に従っているのではないか。
僕はこのまま、警備会社で働き続けるのだろうか。
展望を漠然とした不安が塗りつぶしていく。
Nowhere man、居場所のない人々、まさに僕はそうなんだ。警備員詰所に戻ってモニターを確認してから、僕はまた音楽室へ行った。
「深夜にここに1人でいる僕は、あんたと同じ幽霊みたいなもんだな」
僕が言うと、坊主頭は鍵盤から指をひっこめて、僕の方を向いた。正面の顔を初めて見た、目鼻立ちはぼやけているが穏やかな表情をしているのがわかった。
「俺は音楽で世界を変えられると信じていた」
坊主頭の幽霊が低い声で話はじめた。
「自分を変えれば世界が変わる、たしかに最初は変わったが限界があった。俺はクソみたいな世界を変えるために音楽をやったさ、でも売れねぇんだな、そういうのはさ。俺は冷笑して仕方ねぇとか言いたくなくてさ革命家になりたかったさ、本気だ。でも行き詰まって自分が情けなくて自殺した」
幽霊が僕を指さした。
「おまえはさ、生きてんじゃん。おれはNowhere
manのおまえに祝福があるように願ってLet
it Beを弾いてた。でも今日で終わりさ。俺はそろそろあの世に行く」
坊主頭が立ち上がった。
僕は寂しくなった。
「もうピアノが弾けなくなってもいいのか?」
「俺は弾きたいだけ弾けた」
「祝福ってなんだよ」
「死ぬな、生きてればなんとかなる。俺は自殺して後悔してる。なんとかならないなら、変えればいいさ」
「……変えられないだろ」
「変えられると信じることだ、クソみたいなことが多いが生きろ。死んで行くあてがない俺には、もうあの世しか行ける場所がない。行くあてのない生きてるおまえはどこにでも行ける」
「待てよ!」
坊主頭は消えた。マリア、十字架、薔薇、般若、観音さん、すべての色彩が消えた静かな音楽室に僕は佇んだ。
自殺した革命家の弾くピアノっての毎日、聴いてたことに、僕は鳥肌が立った、怖いとか感動とも言いきれない、ぞわっとしたんだ。
終
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今祇島(いまかみじま)の港では、ロープが岸壁を擦る音がした。
美咲はフェリーを降り、レモン畑の続く坂を歩いた。
三日間の休暇を取って島へ来た。休み明けには上司との面談がある。退職の意思を伝えるつもりだったが、何から話せばいいのか、まだ決められずにいた。
今祇島を選んだのは、以前、雑誌で見た写真を覚えていたからだ。港を見下ろす斜面にレモン畑が広がっていた。
白壁の家々の軒先には小魚を干す網が吊られ、風が吹くたび、洗濯物と一緒に揺れている。
坂の途中に「帆布工房」と書かれた木札があった。
開いた扉から覗くと、若い女性がミシンを踏んでいた。作業台には、色褪せた青や生成りの布が積まれている。端には小さな木製の名札が置かれていた。
「見てもいいですか」
「どうぞ。散らかってますけど」
女性はミシンを止め、椅子から立ち上がった。
棚には大小の鞄が並んでいた。美咲は青い手提げを手に取った。持ち手の下に、不揃いな縫い目がある。
「ここ、直してあるんですね」
「船に使ってた頃の修繕跡です。漁師さんが縫ったんですよ」
女性は作業台から布を一枚持ってきた。
「これは三十年くらい使われた帆。風を受ける場所によって、色の抜け方が違うんです」
広げられた布には、ところどころ濃い青が残っていた。端には白い糸で縫い合わせた跡があり、その上から別の糸で縫い直してある。
「何度も直したんですね」
「ええ。破れそうなところを先に補強したり、形を変えたり。最後は帆として使えなくなって、ここに来たんです」
美咲は布の端を見た。縫い目の途中で糸の色が変わっている。
自分の鞄に目を落とした。
角の革が剥がれ、ファスナーも少し渋い。就職した年に買ったもので、毎日の通勤に使っていた。旅行前、新しいものを買おうと店に寄ったが、いくつか手に取っただけで帰ってきた。
内ポケットには、退職願の下書きが入っている。
「古いものって、どこまで使えるんでしょう」
「さあ。使う人が、もういいかなって思うまで?」
女性は笑って、布を畳んだ。
窓の外を、軽トラックがゆっくり通った。荷台には黄色いレモンが山積みだった。
「でも、直してもまた壊れること、ありますよね」
「ありますよ。直さないほうがいいものもありますし」
女性は美咲の鞄に目を向けた。
「その鞄、持ち手だけなら直せそうですよ」
美咲は鞄を差し出した。
女性は革の付け根を確かめ、指で軽く引っ張った。
「ここが弱くなってますね。革を全部替えることもできますけど、布を重ねたほうが丈夫になると思います」
「元の持ち手とは、違う感じになりますか」
「なりますね。色も、ぴったり同じにはできないです」
美咲は持ち手を見た。革の端が細かくひび割れていた。
「それでお願いします」
女性は奥から生成りの布を持ってきた。厚みを確かめ、裁ちばさみで細長く切る。
「少し時間がかかりますけど、大丈夫ですか」
「急いでないので」
「じゃあ、そこで待っててください」
女性は椅子に座り、ミシンを踏み始めた。
針が布を通るたび、短い音が続いた。
美咲は棚の鞄を眺めながら待った。作業台の端に置かれた名札には、「島野 海緒」と書かれていた。
海緒(みお)は布の向きを変え、縫い目を確かめている。
壁には古い漁船の写真が飾られていた。白い帆を張った船が、港の外へ向かっている。
「あの船の帆も、ここにあるんですか」
美咲が尋ねると、海緒はミシンを止めて写真を見た。
「ありますよ。今は小さい鞄になってますけど」
「船は?」
「もうないんです。だいぶ前に解体したそうで」
海緒は再びミシンを動かした。
「船に乗ってた人が、ときどき鞄を見に来るんですよ。自分が縫ったところが残ってるかって」
「残ってるんですか」
「ええ。そこを切らずに作った鞄もありますから」
海緒は針の位置を確かめ、布の向きを変えた。
美咲はもう一度、壁の写真を見た。
職場では、入社した頃と仕事の内容がずいぶん変わっていた。部署が移り、担当する業務も増えた。
以前は楽しみにしていた仕事だった。
いつから辞めたいと思うようになったのか、はっきりしない。
「この鞄も、船に乗ってた頃とはずいぶん違うんでしょうね」
美咲が言うと、海緒は写真に目をやった。
「そうですね。帆だった頃は、もっと大きかったでしょうし」
「小さくなっちゃったんですね」
「ええ。でも、鞄ならこれくらいが使いやすいですから」
海緒は布の端を縫い合わせた。
しばらくして、ミシンの音が止まった。
海緒は持ち手を裏返し、縫い目を指で押さえた。余った糸を切り、もう一度、革の付け根を確かめる。
「できました」
鞄には生成りの布で補強された持ち手がついていた。元の革は両端に残り、真ん中だけが新しい布に覆われている。
「色、合わなかったかな」
海緒が鞄を持ち上げて言った。
美咲は受け取り、肩に掛けてみた。
以前より、持ち手が少し太くなっている。肩に当たる布は柔らかかった。
「ううん。気に入りました」
海緒は笑った。
帰り際、美咲は棚にあった青い手提げをもう一度見た。漁師が縫ったという不揃いな縫い目は、そのまま残っている。
「また来ます」
「はい。今度はゆっくり見ていってください」
美咲は工房を出た。
坂を下りる途中、鞄の持ち手を何度か握り直した。生成りの布はまだ硬く、手のひらに馴染んでいない。
港に着くと、フェリーの乗船が始まっていた。
美咲は鞄から財布を取り出した。そのとき、内ポケットに入れていた紙が指に触れた。
退職願の下書きだった。
一度取り出しかけたが、財布を戻すときに、紙も奥へ押し込んだ。
帰りのフェリーで、美咲は鞄を膝に置いた。
青い海の向こうで、島が少しずつ小さくなる。
明後日には上司との面談がある。何を話すか、まだ決めていなかった。
窓から差し込む光が、生成りの布を照らしていた。
鞄の持ち手を指でなぞると、縫い目が一つだけ曲がっていた。
美咲はそこを、何度も撫でた。
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小学校の時の野外活動で、自分たちでルールを決めて行きたい場所を決めて活動するという授業があった。
子供の頃の俺たちは、初めは好き放題 行きたい場所いい内容を決めようとした。けれどそれではうまく予算内で行きたい場所に行けず、またルールを決めていなかったため子供同士で衝突することになった。
計画を立てるルールを守るということの重要さを学んだのは その授業でだと思う。
それが後々大人になって、ずいぶんと力になった。
自分たちで 何か物事を進めるという時には、きっちりとした計画そしてそれを運用するためのルールが必要だ。
俺は屋上で缶コーヒーを開けた。
もう少しで社内プロジェクトがうまくいく。
ここに来るまでずいぶんと、苦労したもんだ。
屋上から見る街はミニチュアのように小さく、だが活発に動き回っている。この都市に住む全ての人々が俺が今抱えている問題と同じように自ら計画を立てルールを決めて 物事を進めているのだ。
いや、全員がではないか……
ただ他人が立てたルールに乗っかっているだけの人もいれば、そもそもルールを守らない困ったやつもいる。
俺が立てた計画も、なかなか進まなかったのはそういう人もいたからだ。
ちゃんとした理由での反対意見ならば歓迎なのだが。
不意にスマホが鳴る。
見ると小学校の時の同級生からの連絡だった。
今度同窓会をするらしい。
日程は、来月だからなんとかなりそうだ。
久々に幼なじみたちの顔を見るのは楽しみだ。
あいつらどうしているだろうか?
お互いにわいわいと喋り合って計画を立てた野外活動。
同窓会では俺は計画を立てる側ではないが、あいつらのルールに乗って楽しもう じゃないか。
返信を送るとスマホをポケットに直す。
コーヒーの最後の一口を飲み干すと、曇り空から日の光が差し込んだ。
街の喧騒を後に屋上の階段を降りて行った。
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朝の高恵那町では、川の音より先に木槌の音がする。軒先で杉の箱を組む音だ。
美咲は橋のたもとの朝市で、くるみ味噌を塗った五平餅を買った。包み紙の下から、四つ折りの地図が出てきた。
「おまけ。うちの町の地図」
売り子の女性は、白髪を布でまとめていた。
地図には、共同井戸、古い水車、栗菓子屋。けれど右下の四角だけ、何も書かれていない。
「ここは?」
「そこは、まだ決まってないの」
不思議な答えだった。美咲は五平餅をかじりながら坂を上った。格子戸の隙間から削りたての木の香りがし、用水路には赤い落ち葉が一枚、流れずに引っかかっていた。
昼前、川沿いの小道で小学生くらいの男の子が立ち止まっていた。両手に持った紙袋の底が抜け、丸い栗が石畳を転がっている。
「一緒に拾おうか」
美咲がしゃがむと、男の子は「橋の下にも行った!」と笑った。二人で六つ拾い、美咲は自分の手ぬぐいに包んだ。
「ばあちゃんの店で、新しい袋もらってくる」
男の子が指さした先は、さっき五平餅を買った朝市の売り場だった。
「じゃあ、一緒に行こう。栗は持っていくね」
男の子と朝市へ戻ると、女性が栗の包みを見て声を上げた。
「うちの孫、また袋を破ったのね」
新しい紙袋に栗を移し、美咲は手ぬぐいをしまった。それから地図の空白を指した。
「ここ、書いてもいいですか」
借りた鉛筆で、小さな橋と、その下に六つの丸を描いた。
女性は地図を覗き込み、ふっと笑った。
「いいね。これを写して、明日から配ろうか」
帰りのバスの窓から、橋が見えた。栗はもう落ちていない。それでも美咲には、あの場所が町でいちばん先に思い出せる場所になっていた。
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テスト休みに入った沖昼子調理師専門学校の校舎は、静寂に包まれていた。
芦田タスクは沖昼子校長先生に呼ばれて、シンとする廊下を校長室に向かって歩いていた。
芦田は、この学校で講師アシスタントとして働き始めて一カ月も経っていなかった。そんなペーペーな講師アシスタントを、日本料理界の重鎮で、本校の校長兼理事長であらせられる沖昼子先生が直々に呼び出すことなど前代未聞だった。
なにか取り返しのつかない大失敗をしたのではないか。芦田はまるで心当たりが無かったにもかかわらず絶望していた。
「まだ少しも昼子先生のお役に立ててないのに……」
芦田は校長室の扉の前に立った。そして、何度か深呼吸をした。緊張は少しもほぐれなかった。もういいやと半ばヤケクソ気味にドアをノックした。
「昼子先生、お呼びでしょうか?」
扉の向こうから昼子先生の甲高い声が聞こえた。入室の許可をいただけたのだと判断して、芦田は静かにドアを開けた。
「失礼します」
「貴様が芦田タスクか!」
校長室へ入室した芦田の正面にいきなり大きな男が現れた。昼子先生以外に人がいるとは思っていなかったのと、大男の威圧的な大声に芦田は面食らった。
「え? え?」
「ふむふむ、なるほど……」
大男はアゴに手を当て、芦田の頭の先からつま先までジロジロと見つめた。その眼光は鋭く、日焼けを繰り返して赤茶けた顔の中にあって、その形相は鬼のようだった。背は高く、格闘家のように筋骨隆々、どこかの軍隊の制服に身を包んだ初老の男。胸を張り、ピンと背筋を伸ばした立ち姿は、明治時代の写真にあった、軍隊のお偉いさんを想像させた。
「ちょ、なんですか」
「貴様、歳は?」
「はい? いったいなにを……」
「年齢はいくつかと聞いておるのだ」
「ちょっと! いきなりなんなんですか? 昼子先生、この人いったいなんなんですか?」
ドアの正面、立派な黒檀の机の向こうに昼子先生はお座りになられていた。芦田と山田の騒々しいやり取りを意に介さず、いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、昼子先生が言った。
「おいしゅうございます」
大男はあらためて胸を張ると、大声で自己紹介を始めた。
「吾輩は、山田登! 日本で一番の登山家だ! 皆からは鬼軍曹と呼ばれておる! 貴様もそう呼んでいただいて結構!」
校長室の窓ガラスがビビビと震えるほどの大声だった。芦田は眉間に皺を寄せ不愉快を表に出しながらも自己紹介に応えた。
「と、登山家の山田登様。えー、私は本校で講師アシスタントをしております、芦田タスクと申します」
「うむ!」
腕を組みながら山田は大きく頷いた。包容力ありげな頷きを返されて、山田はなんだか自分が犬になって調教されているような気分になった。
「で、その日本一の登山家の鬼軍曹さんが、私に何の用ですか?」
「なんだ。昼子先生、まだ、この子に何も説明しておらんのですか?」
「おいしゅうございます」
昼子先生と山田が知り合いだということを芦田は理解した。しかし、料理研究家と登山家が新人講師アシスタントを呼び出す理由は未だ想像もできずにいた。
「一体なんなんですか?」
まるで見当の付いていない芦田に、山田は戦場でミッションを言い渡すが如くテキパキと説明をはじめた。
「先日、エベレストの頂上が意外な成分でできているというニュースが流れたのは知っておるな?」
「それはもう」
「エベレストの頂上は、実は雪が降り積もっているのではなく、フルーチェの元が降り積もっていた、と」
「はい。その報道後、エベレストの頂上を持ち帰って、天然のフルーチェとして売り出す人があらわれ、その希少さから高値で売買されているとか。それが、なにか?」
「そこで昼子先生から吾輩に依頼があったのだ」
芦田は手を叩いた。
「なるほど。鬼軍曹さんに、エベレストへ登ってもらって、そのフルーチェの元を取ってきてもらおうと、そういうわけですね、昼子先生」
「おいしゅうございます」
芦田の浅知恵が、ジョブズのプレゼンの如きファンタスティックな山田の説明を停滞させた。山田は自分が思うように物事を進められないことが嫌いだった。
「黙って聞け、馬鹿者! 貴様、昼子先生のアシスタントでありながら、昼子先生をバカにしているのか!」
出会って間もない人が怒鳴るように話す。そのことが芦田を酷く脱力させた。
「昼子先生は日本一の料理研究家だぞ! そんなお方が未知なる高級料理を味わうためにベストを尽くさないと言うのか!」
昼子先生が日本一の料理研究家なことぐらい知ってるわ。なぜ怒鳴る。めんどくさい。そう思いながらも芦田は尋ねた。
「フルーチェにあった最高の料理法ってなんですか?」
「おいしゅうございます」
「昼子先生のご要望は、エベレストの頂上でとれたての天然フルーチェを食べることだ!」
ゴクリ。固唾が芦田の喉を流れた。
「エベレストの?」
「そうだ!」
「頂上で?」
「そうだ!」
「天然のフルーチェを食べる?」
「そうだ! その登山を吾輩が全面的にサポートさせていただく!」
「え〜、本当に!?」
芦田は昼子先生と山田の二人ともの神経を疑った。
「だって、昼子先生、もう八十八歳ですよ? 大丈夫ですか?」
「おいしゅうございます」
「大丈夫かどうか、ぶっちゃけわからん!」
「わからんって、そんな無責任な!」
「米寿を経てもなお未知なる食材に自ら手を伸ばす! 素晴らしい事じゃないか!」
「素晴らしいですけど……」
と言ったものの、芦田は少しも素晴らしいこととは思わなかった。正気じゃない。芦田はハラハラした。新社会人の、経験の乏しい、決断能力のない新人講師アシスタントをハラハラさせた二人に憎らしさすら覚えた。
「私、よくわからないですけど、結構危ないことしようとしてません?」
「貴様!」
おずおずと物申した若造を一刀両断するように山田が怒鳴った。
「貴様も昼子先生をサポートする立場にいるなら、反対意見を言う前に、夢を実現させるために働くのが道理なんじゃないのか!」
芦田は山田の怒声に頬をぶたれたようなショックを受けた。
芦田は悔しかった。その悔しさは初対面のジイさんに終始高圧的に接せられたことではなく、大好きな昼子先生のことを、料理人ではない山田に諭されたことからくるものだった。
私の方が昼子先生を知ってる。芦田はそう憤った。しかし、その憤りは一時の気の迷いのようなもので、人生を賭けられるような確固たる自信からくるものではないと気がついていた。心のフラつきを感じていた。
精神の直立がやっとの芦田の様子を見て取って、山田は話しを本題に移した。
「さあ、答えたまえ。歳はいくつだ」
「あ、さっきの質問。それ、一体なんなんですか?」
「何を言ってる。登山をするなら体力のある若者にこしたことはない」
「なるほど……。えっ! 登山する!? えっ! 私!?」
「何を言っている。先生が料理をするならアシスタントがいるだろうが」
「でも、フルーチェですよね? ミルクを入れて混ぜるだけですよね?」
「ばかもの! 簡単な料理ほど難しいものだ! ねえ、昼子先生?」
「おいしゅうございます」
「いやいや、プレーンのオムレツじゃないんだから! フルーチェだから! お子様でも簡単に楽しく作れるのが売りだから!」
芦田は畳み掛けた。山田を言い負かそうと口角泡を飛ばした。それはさっきの仕返しだった。フルーチェの手軽さを知らないほどの料理素人の山田に、昼子先生のお心を理解していないと説教され心に傷を負わされたことへの復讐だった。
しかし、その一方で、そうした自分の行動に芦田は嫌悪感を抱いていた。まだ講師アシスタントになったばかりで、少しも昼子先生のお役に立っていない自分が、どの面をさげて昼子先生のお心をより理解していると言えるのか。
山田は見逃さなかった。山田は芦田が抱いた薄っぺらい嫉妬心を踏んづけて反論を始めた。
「貴様、さっきの昼子先生を見くびった発言といい、フルーチェを馬鹿にした発言といい、そのような狭き眼で昼子先生のような立派な料理研究家になれると思っているのか!」
「なに!?」
「いいか、世界の料理を味わいつくした昼子先生だぞ! 日本で一番料理にお詳しい、言わば日本の料理界の宝であらせられる昼子先生だぞ! そんな先生が、その命を投げ出してまで味わおうとされるフルーチェだぞ! そんなフルーチェが、そんじょそこらのフルーチェと同じわけがないだろう!」
「た、確かに……」
芦田はとうとう膝から崩れ落ちた。私は昼子先生のなにもわかっていなかった。その偉大さも志の高さも。芦田は手をついて、荒い息を吐いた。そんな芦田の肩に手を置いて山田が優しく問いかけた。
「どうだ。そんな、世界で一番のフルーチェ、食べてみたいと思わないか?」
芦田は涙に濡れた顔を上げて、先ほどまでのイカつい表情から一転して優しい微笑みを浮かべる山田の顔を見た。
芦田は思い出した。昼子先生を尊敬する一番の理由を。それは料理界に半世紀以上身をおきながらも常に斬新な料理を生み出すガッツ、その飽くなき探究心をお持ちのところだったことを。
「ううう……。私が間違っていました……」
芦田は涙を乱暴に拭って、あらためて山田と向かい合った。
「私! 私! エベレストの山頂で、宇宙に一番近いキッチンで、立派にアシスタントさせていただきます! 昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「決まり、だな」
山田はニヤッと笑った。
「はい!」
芦田はいい顔で返事した。
「アタックをかけるのは三ヶ月後! しばし料理から離れ、貴様には登山のノウハウを身につける訓練に徹してもらう! いいな!」
「イエス!」
「馬鹿野郎! 上官の言うことに応えるときは「サー」をつけろ! 卓球の愛ちゃんのように!」
「イエス・サー!」
「吾輩の訓練は厳しいぞ!」
「イエス・サー!」
「やれるのか!」
「イエス・サー!」
芦田に着いてこいと言わんばかりに、山田は校長室のドアの前に立った。芦田は背筋を伸ばした良い姿勢で山田の後ろに着いた。
「では、昼子先生。こやつを三カ月ほどお借りします。次にお会いする時は、エベレストのふもとです」
「おいしゅうございます」
「では行くぞ! ぜんた〜い進め! オイッチニ! オイッチニ!」
そして、三ヶ月後。エベレスト山頂。
「お~い! 大丈夫か~!」
「は~い! こっちは大丈夫で~す! 昼子先生は大丈夫ですか~!」
「おいしゅう~ございま~~す!」
「よし! ここが……頂上だ!」
「やった~!」
「さあ、昼子先生、こちらへ」
「おいしゅうございます」
「やった! やりましたよ! 昼子先生!」
「バカヤロウ! 喜ぶのはまだ早いぞ!」
「そうでした。さっそく料理に取り掛かりましょう。よろしいですか、昼子先生!」
「おいしゅうございます」
「では、器とスプーンを用意して。山田鬼軍曹! 牛乳よろしくお願いします!」
「承知!」
「さあ、先生、念願のフルーチェですよ! 生涯最高の料理をお願いします!」
「おいしゅうございます」
「私、今、エベレストの頂上にいるんですよね。夢にまで見た場所に。初めてエベレストの山頂に行くっていう話を聞いたときは、正直、昼子先生の頭が残念なことになったのかと思いました。でも、そうではなかった。先生は、常に高い志を持ち、自分の限界を決めず、あきらめず、挑戦し続けていた。本当に素晴らしい方だとあらためて尊敬の念を抱かずにはいられません。この三カ月は本当に苦しかった。慣れない登山訓練。生死にかかわるような厳しいものばかりでした。でも、昼子先生のお役に立ちたい! その一心で頑張ってきました。今、この世界最高峰の頂に立ち、胸にこみ上げてくる思いは、先生への感謝しかありません! 本当にありがとうございます! いや、まだ、お礼には早いですね。本当のお礼は、世界一のフルーチェをいただいたときにさせていただきます。先生! ……先生? ……先生っ! ちょっと、先生、昼子先生! 寝たらだめですよ!!」
「おいしゅう……ございま……」
「先生! ちょっと、しっかりしてください! 鬼軍曹! 牛乳まだですか!?」
「いや、ちょっと、これ……」
「もう! どうしたんですか!? 昼子先生がお待ちですよ!」
「いや、その……」
「どうしたんですか! 鬼軍曹!」
「牛乳がね、」
「牛乳がどうかしました?」
「牛乳が……出てこない。凍っちゃって……」
おわり
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