コメディ・日常
地図にない思い出
673文字
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朝の高恵那町では、川の音より先に木槌の音がする。軒先で杉の箱を組む音だ。
美咲は橋のたもとの朝市で、くるみ味噌を塗った五平餅を買った。包み紙の下から、四つ折りの地図が出てきた。
「おまけ。うちの町の地図」
売り子の女性は、白髪を布でまとめていた。
地図には、共同井戸、古い水車、栗菓子屋。けれど右下の四角だけ、何も書かれていない。
「ここは?」
「そこは、まだ決まってないの」
不思議な答えだった。美咲は五平餅をかじりながら坂を上った。格子戸の隙間から削りたての木の香りがし、用水路には赤い落ち葉が一枚、流れずに引っかかっていた。
昼前、川沿いの小道で小学生くらいの男の子が立ち止まっていた。両手に持った紙袋の底が抜け、丸い栗が石畳を転がっている。
「一緒に拾おうか」
美咲がしゃがむと、男の子は「橋の下にも行った!」と笑った。二人で六つ拾い、美咲は自分の手ぬぐいに包んだ。
「ばあちゃんの店で、新しい袋もらってくる」
男の子が指さした先は、さっき五平餅を買った朝市の売り場だった。
「じゃあ、一緒に行こう。栗は持っていくね」
男の子と朝市へ戻ると、女性が栗の包みを見て声を上げた。
「うちの孫、また袋を破ったのね」
新しい紙袋に栗を移し、美咲は手ぬぐいをしまった。それから地図の空白を指した。
「ここ、書いてもいいですか」
借りた鉛筆で、小さな橋と、その下に六つの丸を描いた。
女性は地図を覗き込み、ふっと笑った。
「いいね。これを写して、明日から配ろうか」
帰りのバスの窓から、橋が見えた。栗はもう落ちていない。それでも美咲には、あの場所が町でいちばん先に思い出せる場所になっていた。
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