コメディ・日常
坂道の歩幅
998文字
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鐘見町の石段は、数えても数えても終わらなかった。
「おばあちゃん、毎日ここを歩いてるの?」
菜月が振り返ると、千代は三段下で手すりにつかまり、息を整えていた。
「天気のよか日だけね」
十年ぶりに訪ねた祖母の散歩に付き合って、もう二十分になる。予定は何もない。それでも菜月はスマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。福岡では駅までの信号待ちさえ惜しくて、歩きながら仕事のメールを読んでいる。
「どこまで行くの?」
「さあ、今日はどこまで行こうかねえ」
千代は笑った。
石段の途中で、千代が木の椅子に腰を下ろした。向かいの理髪店から店主が顔を出す。
「千代さん、今日はお孫さんと?」
「そう。都会から来てくれたと」
店主は椅子の脚を確かめ、ぐらつきを直してから店へ戻った。
「いつもここで休むの?」
「坂を上る日はね。あの店の先代が置いてくれた椅子なんよ」
立ち上がった千代が右膝をかばうのを、菜月は初めて意識した。
次に立ち止まったのは、小さな祠の前だった。
「ここの隣、昔は駄菓子屋だったのよ。菜月が三歳のとき、ラムネを二本も飲んでね」
「覚えてないなあ」
「帰りは抱っこって言うもんだから、この坂を抱えて下りたとよ」
「大変だったね」
「若かったけんねえ」
坂を上りきると、潮の香りがした。赤い屋根の向こうに港が広がり、白い船がゆっくり岸壁を離れていく。
菜月はスマートフォンを取り出し、カメラを起動しかけて手を止めた。
「おばあちゃん、ここで少し座ろうか」
「早く帰りたいんじゃなかったと?」
「え?」
「ずっと先を歩いとったけん」
菜月は自分の足元を見た。急ぐ理由など、最初からなかった。
二人で石段の縁に座った。下から買い物袋を提げた女性が上ってくる。
「あら、千代さん。今日はいい天気ねえ」
千代は嬉しそうに手を振った。
菜月の知らない祖母の毎日が、この坂にはあった。
「明日も散歩する?」
「天気がよければね」
「じゃあ、私も行く」
千代は少し驚いて、それから笑った。
帰り道、千代が塀の上の小さな花を指さした。
「これ、去年は咲かんかったとよ」
菜月は足を止めた。花の名前は二人とも知らなかった。
再び歩き始めたとき、菜月は足元の石段が、中央だけ浅くくぼんでいることに気づいた。長い年月、何人もの人がここを歩いてきたのだろう。
菜月はもうスマートフォンで時刻を確かめなかった。祖母が一段下りるのを待って、自分も同じ段に足を置いた。
坂道は、まだしばらく続いていた。
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