Day 1:忘れられた手紙 / 最後のメッセージ
父が亡くなったという知らせを聞いた。
父と母が離婚したのはもう30年も前。
父のことはよく覚えていない、私はまだ幼稚園くらいで全く記憶にないといえば嘘になるがうっすらと顔を覚えている程度である。
養育費は払ってくれていたが会いに来てくれたことは一度もない。父と母の離婚の理由は知らない。
浮気などというわけではなさそうだが……
喪主は兄だった。
兄とは十代後半ぐらいになってからたまに会うようになった。
父の方に引き取られて私は母の方。離れ離れて育ったため最初はちょっと戸惑ったものだ。
お葬式の父は笑っている。
私の記憶の中の父親はどんな顔をしていたのかもうよく思い出せない。
私にとって父はほぼ知らない他人と言ってもいいだろう。
父にとって私はどうだったのだろう。
焼香しながら何とも言えない切ない気持ちになった。
当然葬式の親戚はほぼわからない。
兄にこっそりと一体誰なのか聞いてみた。
見知らぬ叔父叔母、父のいとこ、あるいはもっと遠縁の親戚。
会話を聞きながらひどく居心地が悪い気持ちになった。
……どうして私はここにいるのだろう。
初めて見る甥っ子と兄の妻。
こちらに気を使ってくれているのだろう、なんだか申し訳ない気持ちになる。
葬式が終わり兄の家に1泊することになった。
私はビジネスホテルに泊まると言ったがどうしてもと言われ断りきれなかったのだ。渡したいものもあると言っていた。
おそらく父の遺品になるようなものなのだろう。
受け取るのがどうにも気が重い。
とはいえ遺産相続の話も兄としなくてはならない。そちらはもっと気が重いのだが。
食後に兄が手紙の束を両手に持って現れた。
一つは母の字で父に当てた手紙だった。
封筒の中を一つ一つ開いてゆく。
「これ、お母さんが?」
「うん、父さんに当ててね」
中には私の写真と何があったかが簡単に記されていた。
手紙も写真も汚れていて所々水が染みたような跡がある。
「よく書斎で見ていたよ。家族の前では隠して見てないふりをしていたけどね」
兄が少し苦笑いのような笑みを浮かべて、そう言った。
「……そうなんだ」
私は何だかちょっと複雑な気持ちになった。
私のことを思って心配しておいてくれたのかもしれない。だけど父から電話がかかってきたことはなかったし、便りの一つもなかった。
兄がもう一つの手紙の束を渡す。
それは封が切られていない父から母に当てた手紙だった。
「父さん、これ出せなかったんだよ」
そう言ってまた苦笑いする兄。
父が母と別れた理由は知らない。
おそらく兄の話からすると相当不器用な性格だったらしい。
渡せなかった手紙の束。
伝えられなかった想い。
それを象徴するかのような封の切られていない手紙。
私はそっとハサミで封筒を開く。
……中には伝えられなかった父の愛が、たっぷりと詰まっていた。
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午後六時、星守町には細かな雨が降っていた。
千尋は宿の窓から空を見上げた。山の稜線は灰色の雲に溶け、向かいの家の屋根から雨粒が絶え間なく落ちている。窓の隙間から、濡れた土と草の匂いが流れ込んできた。
取材用の手帳を開く。「星空観察、中止」。書きつけた文字を見て、千尋はペンを置いた。
楽しみにしていた撮影だった。星の軌跡を背景に町の夜景を紹介する。それが今回の記事の柱になるはずだった。明日の朝には東京へ戻らなければならない。天気が回復するのを待つ時間もなかった。
「天文台なら開いてますよ。星は見えませんけど」
宿の主人に勧められ、千尋は傘を差して坂道を上った。
雨粒が傘を細かく叩く。坂の途中には小さな店が並び、軒先から落ちる雫が舗道の水たまりに輪を作っていた。カメラを取り出しかけたが、千尋はやめた。これでは記事に使える写真にならない。そう考えてから、自分が何を撮ろうとしていたのか、少しだけ分からなくなった。
旧校舎を改装した天文台に着くと、扉の向こうから木の匂いがした。長く使われてきた床や机に染みついた、乾いた木の香りだった。外の湿った空気とは違い、室内には雨音が遠く聞こえる静けさがあった。
管理人の修司が椅子を並べていた。その隣では、少女が望遠鏡をのぞき込み、接眼部のねじを指先で回している。
「すず、レンズを拭いてくれたのかい」
「うん。でも、このねじを回すと中がどう動くのか、まだよく分からない」
すずは顔を上げ、望遠鏡の筒を軽くたたいた。
「星を見る道具なのに、仕組みのほうが気になるんですね」
千尋が声をかけると、少女は少し得意そうに笑った。
「だって、開けてみたくなるんだもん」
「壊さない程度にな」
修司が言うと、すずは「分かってるよ」と返し、またねじを回し始めた。
修司は窓の外を指した。
「あの二階の灯りが見えますか。パン屋さんです。朝四時から仕込みをするので、そろそろ休むところでしょう」
千尋は窓に近づいた。
雨に濡れた家並みの向こうで、一つの窓が蜂蜜を溶かしたような色に光っていた。ガラスに雨粒が残り、灯りはその一つ一つに小さく映っている。写真に撮るなら、もう少し暗くなってから露出を調整したい。そんな考えが先に浮かんだ。
「その隣はね、郵便局のおじさん。テレビの音が大きいんだよ」
すずが口を挟んだ。
千尋は思わず笑った。少女は窓の外を指さし、どの家のことか教えようとしたが、似たような屋根が並んでいて、千尋には見分けがつかなかった。
「すずちゃんには、どの家か分かるんですね」
千尋が感心したように言うと、すずは当たり前のように答えた。
「毎日見てるもん」
修司は机の上に町の地図を広げた。家々の位置には小さな丸が描かれ、それぞれに名前が添えてある。手書きの文字は少しずつ大きさが違い、何度も書き直された跡もあった。
「昔、停電した夜にね。子どもたちと、どの家に誰がいるか確認して歩いたんです」
修司は地図の端を指で押さえた。
「暗くなると、いつも見えていたものが見えなくなるでしょう。だから、どこに誰がいるか知っておくのは大事だと思ったんです。それ以来、町の灯りを見るのが癖になりまして」
窓の外へ向ける修司の目は、星を探すときと変わらないようだった。
千尋は手帳を開いた。最初のページには、観光名所の名前と撮影予定時刻が整然と並んでいる。その下にある「星空観察、中止」の文字を見て、しばらく考えた。
それから、その下に「パン屋」「郵便局」「天文台」と書き足した。
宿から天文台までの道も思い返す。雨宿りをさせてくれた店の軒先。道を教えてくれた八百屋。傘を差している千尋に、足元に気をつけてと声をかけてくれた人。名前は知らない。それでも、あの道を歩いたことは、もう単なる移動ではなくなっていた。
「それ、星座みたいですね」
千尋が地図を見ながら言うと、すずは鉛筆をつかんだ。
「じゃあ、パン屋さんが一等星!」
地図の上に丸が一つ増えた。
「郵便局は?」
「二等星。テレビの音が大きいから、すぐ分かるもん」
修司が声を立てて笑った。千尋も笑いながら、宿の位置に小さな星を描いた。そこから天文台まで、雨宿りをした軒先や八百屋の前を線で結ぶ。
「私の今日の星図です」
手帳の上には、観光名所の名前だけではない、小さな点と線が増えていた。
帰り道、雨は上がっていた。
濡れた舗道には街灯が映り、歩くたびに水面が揺れた。冷たい空気の中に、草の匂いがまだ残っている。千尋は傘を閉じ、空を見上げた。
雲の切れ間に星が一つだけ見えた。
足を止めかけた千尋は、手帳を取り出した。星の名前を調べることも、写真を撮ることもしなかった。代わりに、さっき書き足した町の人々の名前を読み返した。
明日の記事に、星の写真は載せられないかもしれない。
それでも、ページはもう空白ではなかった。
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「あ」と書くと次の語は限定される。それは「あ」の上から「い」を重ねて書いても同じことだった。
僕がこのような手法を思いついたのは、複雑なコーヒーの風味を文字で表して、さもなくばもう高いコーヒーは買わせない、と彼女が決然と主張してきたことに起因する。
そもそも味覚と嗅覚を同時多発的かつ重奏的かつ刹那的かつ無段階的にニュアンスをもたらす「味」という抽象的で主観的で官能的で絶対的なモノを文字で表現しろなどとは無理難題そのものなのだ。文字は縦から下に、あるいは左から右に、その逆であっても不可逆性で単一性の原則からは逃れられない。
故に僕は文字を重ねることにした。これは反逆では決してなくどこまでも誠意に満ちた対応である。
例えば「華々しく」から書き出すとしよう。「華」の上から「々」の上から「し」の上から「く」を書くことになる。「猛々しく」と続けば、更にその上から「猛」と「々」と「し」と「く」を書く。これにより「華々しく」と「猛々しく」は同時性を帯びることとなる。
そうして出来上がる◼️は完璧な文字であり言葉と言えた。
僕はその出来の美しさに震え上がり、過去飲んだいくつものコーヒーの「味」をそこに記し◼️をその数だけ並列した。
やがてそれでは飽き足らず物語を綴るようになった。十万字を重ねた◼️。不思議と指先で触れるとその物語は再生された。細かい些末な微々たる文字の違いはあるかもしれないが、その程度の記憶の齟齬は紙媒体にして同等である。つまり文字は動き蠢いて全体を成している。
物語の◼️もまた並列し増殖した。
半年をかけ一枚の紙の全面を◼️で埋め尽くした時、僕の脳は僥倖一色で満たされた。それは一生をかけ分散して得る幸福を束ね圧縮し一度で味わってしまったのではないかと思われた。
これでまたトップオブトップのコーヒーが買える。
この一枚の傑作集をニスで塗り固めラミネートしジップロックに密閉してから土に埋めようと思う。いつか才能を持った者がそれを掘り当てるだろう。その時ついにこれは、文字を解かれ節となり文となり物語となり書となる、と確信を抱く。
天井を仰ぎ、達成感に身を浸していると、太ももにじんわりとぬるい、熱い、灼熱を感じる。
「ごめん、コーヒーこぼした」
見れば分かる。
「なんかこの紙真っ黒やね。でもほらコーヒーも黒いし。これなんかの現代アート的なやつ?」
重ねられた文字達が解けて爛れて溶けて流れていく。
コーヒーに侵され続けるこの世で一枚の傑作集に指で触れると全てが無惨に無情に融解し霧散していくのが見てとれた。
あっでもほら滲んでもっと現代アートみたいよ、あっこれインスタントコーヒーやからもったいなくはないよ、あっそういえば最近コーヒー屋さん行ってないね今度一緒にいこ、あっそれより熱くない、お風呂入る? あっじゃあせっかくだから一緒に入ろっか。などと彼女が絶望する僕に捲し立てるので、僕は泣いた。
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その音を最初に耳にしたのは、三月になったばかりの、雨の降る夜だった。
築三十年を超える木造アパート「木漏れ日荘」の二〇二号室。僕の城であり、同時に檻でもあるその部屋は、深夜になるとあらゆる音を吸い込み、代わりに「静寂」という名の耳鳴りを吐き出す。
フリーランスのライターをしている僕は、毎日言葉の死体遺棄現場をひたすら彷徨っている。今日も仕事を終え、冷めたインスタントコーヒーを口に含んだ。その時――。
――ふふん、ふふ、ふーん。
鼻歌だった。低く、静かな旋律が、薄い壁の向こう側から染み出してきた。隣の二〇三号室だ。
二〇三号室には先週、新しい住人が越してきた。挨拶はされていない。僕もする気はなかった。都会の、それもこんな安アパートでの近所付き合いは、開けてはいけないパンドラの箱のようなものだ。
そのハミングは妙に耳に残った。曲名は分からない。クラシックのようでもあり、古い歌謡曲のようでもある。ただ、歌い手の機嫌がいいことだけは、壁越しにもありありと伝わってきた。
僕は耳を澄ませた。
――ふふん、ふふ、ふーん。
その音は、窓を叩く雨の音と、部屋の隅にある古びた空気清浄機の低周波音と共に、奇妙な不協和音を奏でていた。
「呑気なもんだな」
独り言をこぼし、僕はパソコンを閉じた。明日もまた、抜け殻のような文字と、誤字脱字の海に溺れる一日が待っている。
それからというもの、夜のハミングは僕の生活の一部になった。夜の十時。あるいは深夜の一時。僕がノートパソコンに向かっていると、決まって壁の向こうから「それ」はやってくる。
ハミングの主は、おそらく女性だ。声の質感にどこか柔らかさがある。彼女がハミングを始めると、僕の殺風景な部屋に、目に見えない色が薄く塗られていくような感覚があった。
面白いことに、ハミングにはバリエーションがあった。
月曜日は、どこか決意を秘めたような力強い旋律。
水曜日は、疲れを癒すようなスローテンポ。
金曜日は、弾むようなスタッカートが混じる。
僕はいつしか、壁に耳を寄せるようになっていた。変質者だと思われたらおしまいだが、幸い、このアパートで僕の行動を監視する者などいない。
ある雨の夜、僕は衝動的に、壁を指の背でトントンと二回叩いてみた。
――ハミングが止まった。
心臓が跳ねると同時に、やってしまったと後悔が押し寄せる。苦情だと思われただろうか。壁を叩くなんて、いかにも神経質な隣人の仕業だ。ところが、数秒の沈黙の後、トントン、と壁の向こうから返ってきた。そして、それまでよりも少しだけ大きなボリュームで、同じ旋律が繰り返された。
それは、言葉のない対話だった。僕がキーボードを叩く音と、雨の音、そして彼女のハミングが、木造アパートの脆弱な壁を境界線にして、不思議な調和を保ち始めた。
僕は彼女の正体を想像した。夜中にハミングをするのだから、水商売だろうか。それとも僕と同じような在宅ワーカーか。あるいは、何か大きな哀しみを抱えていて、それを紛らわすために歌っているのかもしれない。
一度だけ、ゴミ出しのタイミングで二〇三号室のドアが開く音がした。僕は慌ててドアの覗き穴にかじりついたが、見えたのはなだらかな曲線を描くベージュのコートの裾だけだった。
季節が三月の終わりへと加速していく。僕の仕事は繁忙期に入っていた。大手出版社からの依頼が重なり、睡眠時間は削られ、胃の辺りには常に重苦しい塊が居座っていた。そんな中、ハミングだけが僕の命綱だった。
「……ふふん、ふふ、ふーん」
しかしその夜、僕は限界だった。クライアントからの理不尽な修正指示、終わりの見えない作業、バチバチと窓を叩く雨。堪らず、僕はデスクに突っ伏した。
壁の向こうからハミングが聞こえる。でも、今日の僕にはそれが、自分を嘲笑っているかのように聞こえてしまった。
僕は無意識に、喉の奥から声を絞り出していた。
「うるさいな……」
その瞬間、ハミングがぴたりと止まった。 僕はハッとして顔を上げる。
――まさか……。
いや、あんな独り言、壁の向こうに聞こえるはずかせない。だが、ハミングの続きはもう聞こえてこない。ただ、耳障りな雨の音だけが、やたらと大きく部屋の中に響いていた。
翌日も、その翌日も、二〇三号室は沈黙を守った。僕は自分が犯した心の加害に怯えた。
――ただの偶然だ。
必死でそう思い込もうとした。僕の声が届いたわけではない。彼女が飽きたのか、風邪でも引いたのか。あるいは、僕の気配に嫌気がさしたのか。とにかく、偶然だと。
一週間が過ぎた。
僕の部屋は、再び「静寂」という名の耳鳴りに占拠された。仕事は捗らず、部屋は荒れ、僕は自分がどれほどあの曖昧な旋律に依存していたかを痛感した。
四月一日。外は小雨が降っていた。僕はコンビニへ夕食を買いに行こうと部屋を出た。隣の二〇三号室の前を通ると、ドアには「入居者募集中」の札が下がっていた。
足が止まった。昨日まで、あんな札はなかったはずだ。僕は階段を駆け下り、一階に住む大家さんに声をかけた。
「ああ、二〇三号室の娘さんかい? 今朝、急に引っ越していったよ。なんでも、実家の方に戻らなきゃいけなくなったとかでね。礼儀正しい、いい子だったんだけどねぇ」
大家さんの言葉が、雨音に混じって遠くの方で響いた。
――彼女はもういない。
僕が壁を叩いた夜も、僕が「うるさい」と毒づいた夜も、彼女はただ、自分の人生の旋律を奏でていただけだったのだ。
部屋に戻り、僕はいつものようにデスクに座った。壁の向こうは、もう完全な「空洞」だ。誰もいない。ハミングもない。
僕はパソコンを立ち上げようとして手を止めた。
――静かすぎる。
この空白のような静けさに耐えきれず、僕は深く息を吸った。そして、おそるおそる喉を鳴らした。
「……ふふん、ふふ、ふーん」
下手くそな、震えるハミングだった。
彼女がいつも歌っていた、あの正体不明のメロディ。一文字ずつ、記憶を辿るように声を出す。
壁を叩く音は返ってこない。でも、僕の出した声は壁にぶつかり、自分自身へと跳ね返ってきた。
その時、気づいた。ハミングは誰かに聞かせるためのものではない。自分がここにいることを自分自身に確かめさせるための、もっともささやかな儀式だったのだ。もしあの時、僕が「うるさい」という言葉を飲み込んでいたら、彼女は今夜も口ずさんでいただろうか。隣人でいてくれただろうか。
僕はハミングを続けた。
窓の外では、三月の終わりを告げる雨が桜の蕾を濡らしている。僕のハミングは少しずつ熱を帯び、部屋の隅々に溜まった淀んだ空気を震わせていく。
――ふふん、ふふ、ふーん。
不思議だ。自分が歌っているはずなのに、僕の耳には二人の声が重なっているように聞こえた。薄い壁を越えて、過去と現在が、孤独と孤独が、一瞬だけ同じ旋律を共有する。
――ハミングが聞こえる。
それは、僕の声で、彼女の声で、この街で息を切らして生きる、名もなき誰かの鼓動だった。
僕はキーボードに指を置いた。今夜の仕事は、いつもより少しだけ早く終わりそうな気がした。
(了)
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天橋立に来た。
なんとなく、松と白砂の繋がるあの光景を見たくなったから。
小さい頃、家族と一度来たらしい。その時の事を、私は覚えていない。二度目のはずなのに、初めて来た感覚だ。
今、目の前に広がる美しい光景を、当時の私はどう思っていたのだろう。
写真を見ても、思い出せなかった。
親に聞こうか。しかし、何年も会っていない。最近は、連絡も取っていない。
「便りがないのは良い便り」とも言うけれど、あまりにも長く便りがないのは、それはそれで不安になる。
展望台を降りようとすると、看板が見えた。短歌が書かれている。
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天の橋立
スマホで検索してみる。百人一首の中の一つで、小式部内侍が歌った作品らしい。
大江山を越え、生野を通る丹後への道は遠すぎて、まだ天橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙も見てはいません。
と、現代語訳が出ていた。
親元を離れてから、一度も帰省していない。小式部内侍の短歌と違い、天橋立には来た。二度も。連絡して、帰省するのも悪くない。
画面を切り替え、LINEを開く。
母にメッセージを送る。
今度のお盆に、帰ろうと思う。お墓参りもしようと思っている。
母から返事が来た。
『気をつけて帰っておいで』
帰りは行きよりも、足取りが軽く感じた。
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空の色が変わってきたような気がする。
家事を一段落した私は娘を連れて散歩に出かけた。
穏やかな風を感じながら少しずつ季節が春に近づいていくのを感じる。
神社の前を通りかかると甘い匂いがした。
「ママ、いい匂い」
見上げると小さな白い梅の花が咲いている。
春の訪れがほんの少しずつやってきたのだ。
「いい匂いだね」
そう言うと私は神社に一礼し手を合わせた。
鳥居をくぐることなくそのまま神社の前の道を歩いて行く。
ホー、ホッケキョーとウグイスが私たちを見送ってくれる。
田んぼのあぜ道を歩いて行く。
「ママ見て見てつくし」
娘が嬉しそうにそう言った。
「本当だ。つくし摘みしようか」
そう言うと娘がパッと嬉しそうな表情を浮かべる。
「私、いっぱい取る!」
娘はニコニコ笑いながら夢中でつくしを摘み始める。
ふと見ると、小さなふきのとうも顔を出している。
そうだ、これも摘んで帰ろう。
家に帰れば娘と一緒につくしの袴取り。
そういえば子供の頃つくしをいっぱい持って帰って、母と一緒に袴取りをしたな。
懐かしい子供の頃の思い出。
私が料理をするのを娘は興味津々で覗き込んでいる。
食卓に並ぶつくしの卵とじと、ふきのとうの天ぷら。
春に彩られた食卓はいつもよりほんの少し楽しい。
「ママ、つくしちょっと苦いね!」
つくしの卵とじを口に頬張りながら、それでもご機嫌のニコニコ笑顔の娘。
春の訪れを心からかみしめた。
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「かれこれ、我々の部署の業務システムも開発してから30年か」
「部長が若手の時に作ったと聞きました、一からプログラム書き上げて神がかりなコードを書いたと伝説ですよ」
「A課長、それは言い過ぎだよ、 あの頃は徹夜で対処したなあ、その頃から比べて、随分複雑になったものだ。」
「様々な変更がある度に騙し騙し機能を追加しながら延命しましたからね、ここら辺で刷新してもいいかもしれないですね。」
「今度はベンダーに開発を頼む、パッケージシステムにしてはどうだろうか?これで保守要員が大幅に削減するし、カスタマイズも専門家がやってくれる。」
「いいですね!部長、早速ベンダーにアポイント取ります」
こうして夢の業務システムは導入された。
部員たちは喜んだ。
もうシステムに合わせて働く必要はない。
今では毎朝
「この仕事はシステムでどう実現するか」
を考える会議が開かれている。
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雪森町の無人駅を降りると、理沙のブーツは新雪に沈んだ。雪道を二十分ほど歩くと、りんご畑の向こうに選果場が見えてきた。軒下には、使い込まれた木箱が積まれている。
贈答用りんごのパッケージ刷新の取材で訪れた理沙は、古い箱の側面に残る赤い印に目を留めた。丸の中に、小さな山が二つ並んでいる。
「この印は何ですか?」
農園主の源一は、杉板を指で叩いた。
「昔から使ってる印だよ。形の悪いりんごや傷のついた実を集めて、町の学校や一人暮らしの年寄りに配るんだ。売り物にならなくても、味はいいからな」
「今も続いているんですね」
「ああ。待ってる人がいるうちは、やめるわけにもいかねえしな」
そこへ、孫の小春がスケッチブックを抱えてやってきた。
「おじいちゃん、この印、描き直してもいい? 集会所に持っていく箱だけでも、きれいにしたいんだ」
小春のノートには、昔の印を写した絵が並んでいた。源一は箱の傷みを確かめ、刷毛と赤い塗料を持ってきた。
理沙はその様子を見て、ノートを閉じた。
「私にも手伝わせてもらえませんか。デザインの仕事をしているので、印の描き直しならお役に立てると思います」
小春は嬉しそうに見本を差し出した。理沙は木箱に残る線を確かめ、剝げた部分だけを補うことにした。
ところが、木目に筆先を取られ、描いた円が少し歪んでしまった。
「失敗しちゃいましたね」
「いいよ。この箱に合ってるもん」
源一も覗き込んだ。
「どれが高瀬さんの描いた箱か、すぐわかるな。それも目印になるよ」
翌朝、木箱には小ぶりなりんごが詰められた。理沙も一箱を抱え、小春と源一とともに集会所へ向かった。
箱を開けると、お年寄りたちが顔をほころばせた。女性の一人がりんごを頬に寄せる。
「いい匂い……。この匂い、春まで取っておきたいねえ」
帰り道、小春が尋ねた。
「高瀬さんは、何を描くときが一番好きなの?」
理沙は、木箱の赤い印と、りんごを大切そうに持つ女性の姿を思い浮かべた。
「使い終わったあとも、捨てずに手元に残したくなるようなもの、かな」
午後、駅へ向かうバスの中で、理沙は源一からもらったりんごを手に取った。皮には小さな傷がある。それでも、窓から差す冬の光を受けて、赤く艶めいていた。
理沙はりんごを、コートのポケットにそっと戻した。
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僕には彼女がいる
派手な髪、派手なファッション、健康的に焼けた肌
「イマドキ」とはまるで違う
僕のためっていうのが愛おしい
そしてこんなぽんこつな僕を
笑って受け止めてくれる
今日は彼女とデート
もうすぐ約束の時間
どこにいるかなー?
あ!
派手な髪、派手なファッション、健康的に焼けた肌
「お待たせ!」
久しぶりのデート、気合が入ってる?
「なんか今日はいつもより可愛いね」
なのに君は怪訝な顔で
そして、知らない声でつぶやいた
「…え、何? ナンパ~?」
遠くからの、よく知った声
「オイ、またかよ こっちだよ!」
派手な彼女は笑いながら言う
「また目印を足さなきゃな!」
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今年は米の値段の暴落がひどい。
去年の半額の値段だ。あんまりだと思う。
そりゃ、消費者からしてみたら買いやすいかもしれないけれど、中東情勢の不安定さから原油価格の高騰でコストの方は跳ね上がっているのに。
時給換算したら農家の儲けというのは時給二百円くらいになるのだが、だったら農業をやめればいいという簡単な問題ではない。
そんなことをすれば、あっという間に田んぼだったところは雑木林になって荒れ放題になってしまうだろう。
そんな風にするわけにはいかない。
だが近所の田中さんも今年いっぱいで農業をやめると言っていた。田中さんは今年で八十歳になるのだから仕方がないと言えばそれまでなのだが。
それに今年はこの米の値段だ。
やめようか考えているという人は家の周りで田中さん以外にもいるのだ。……わからなくもない。
俺はまだいいが、専業農家の人はもっと 大打撃だろう。
ため息が出る。
農協に米をおろして家に帰るとコーヒーを一杯。
息子が『雨ニモ負ケズ』を朗読している声が聞こえた。
「雨にも負けず、風にも負けず」
俺だってそうだ。
宮沢賢治が農業大学の先生をしていた時は本当にこの詩のように頑張っていたのだろう。
子供の頃、この詩の『暑さの夏にオロオロ歩き』という言葉の意味がわからなかった。夏は暑いじゃん、と子供心に思っていたのだ。
だが大人になればどういう意味かわかる。
農業は気候に左右される。
特に東北の方だったら夏の冷夏で米が育たない。
田んぼの周りを見回りながら様子を伺う。
俺も宮沢賢治と同じように、夏にはオロオロと歩いている。
宮沢賢治がいた時代よりも俺たちの時代はずっと農業が楽になったのだろう。
様々な機械が導入され、俺みたいに兼業農家でもなんとかやっていくことができる。
だが最近の燃料費の高騰、農業をやっていた団塊世代はもう80代になる。俺たちみたいな団塊ジュニアが頑張っても日本の農業は衰退していくのではないだろうか。
ニュースでは今年の米の値段が下がって喜んでいる町の人々の声が放送されている。
俺たち農家から見れば、たまったものではないが。
「隆くん、おかえり!」
ああ、ただいま
妻が入ってきた。
「お疲れだったね!お菓子どうぞ」
俺の目の前にコトンとクッキーの皿をおく。
「ありがとう」
そう言って一つ、つまんで口に放り込む。
妻の手には農協の旅行パンフレットが握られていた。
「ねえ、今年も行かない?」
冬のスキーツアーのチラシを俺に渡す。
俺は手に取ってしばらく考えた。
毎年、妻とスキーに行くのは俺の楽しみだったりする。
いつもこの秋の米が収穫が終わった時期に申し込んでいる。
確かに家族でスキーに行くのはとても楽しみだが……
「たまには違うところでもいいんじゃないか?みゆきちゃん毎年スキーだと飽きてこない?まさるも大きくなってきたんだし、ディズニーランドとかでも」
「私、全然そんなことないよ!隆くん飽きちゃった?」
「いやそんなことはないけど。まさるも大きくなってきたんだしディズニーランドとかでも」
「ディズニーランド はさすがにちょっと人が多すぎて、私はスキーの方がいいな。それに隆くんが滑ってるところ、めちゃくちゃかっこいいもん」
妻のストレートな物言いにドキッとする。
「そうか、じゃあ今年もスキーにしようか」
俺は恥ずかしくなって新聞で顔を隠した。
「よし決まりね!じゃあ申し込んでおく!」
彼女はそう言ってパンフレットを持って行った。
独身時代からお互いスキーが好きで……
だけどこんな風に ストレートに言われると、さすがに心臓がドキドキとする。
俺は心の中で小さくガッツポーズを取った。
雨にも負けず、風にも負けず……
だが雪には勝った!
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