私は呪いのお人形……なんだけど! 最近自動人形というやつが発売されたせいで、私が動いても驚く人間が一人もいなくなっちゃった。ひどいと思わない?
話しかけても髪が伸びても誰も驚かないのよ!
というか私に話しかけてこないでよ!そこの自動人形!
えっ?あんたも呪いの人形だって?
ごめんてっきり、いわゆる自動人形っていうやつかと思った。
えっ?呪いの自動人形?それ、普通の自動人形と何が違うの?
しゃべって動くのは自動人形でもできるんだから、どういう部分が呪いなの?えっ!?持ち主を不幸にする?怪我をさせちゃう?
あんたなんでそんなひどいことするの?
呪いの人形だから?
……私そんなひどいことしないもん!
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チャットに新着通知が届く。姉からスタンプが来ていた。「向かっています!」を目にして、ついついため息が出る。可愛い妹をずいぶん待たせたじゃない。ぼやきながらも、涙がぽろぽろ流れてしまう。あたしが来てから、たった十年だなんて。でもいいよ、観光スポットを案内したげる。ここ、天国のね。
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アマチュア将棋界に、奇妙な噂の絶えない男がいた。
彼と盤を挟む者は、なぜか決まって不運に見舞われる。
ある全国大会常連のベテランは、初心者でも気づくような簡単な詰みを見落として、自玉を頓死させた。ある元奨励会員は、秒読みの緊迫した局面でチェスクロックのボタンを押し損ね、切れ負けした。
対局中に突然の激しい腹痛に襲われて途中棄権を余儀なくされた者もいれば、乗っていた電車が止まり、大遅刻して不戦敗になった者すらいる。
棋譜を並べれば、序盤研究で差をつけられ、苦しい局面を迎えることが多いと分かる。それなのに、ここぞという場面で相手が勝手に転んでしまうのだ。
いつしか周囲は、畏怖と皮肉を込めてこのアマ強豪をこう呼ぶようになった。
「豪運の棋士」と。
乾いた駒音が静かな部屋に響く。
自宅の和室で、彼は一人、将棋盤に向かっていた。
彼の手が伸び、自分の陣地にある銀を動かした直後、今度は向かい側の陣地にある歩を自らつまみ上げ、パチリと進める。傍目には一人二役の研究にしか見えない光景だが、彼の視線は盤の向こう側、誰もいないはずの空間に座る「男」を捉えていた。
「……そこは手堅く受けるんだな」
彼の言葉に、古びた着物をまとった天才棋士の幽霊は、涼しい顔で頷いた。
「当然です。あなたのその手は、次の狙いが露骨ですからね」
幽霊の姿が見え、その声が聞こえるのは、この世で彼一人だけだった。
ただ将棋が指したいという強い未練だけで現世に留まっていた幽霊は、彼と出会い、将棋の手ほどきをした。
「どこかで聞いたような話だな」
そう言って、彼は幽霊の存在をあっさりと受け入れた。
彼にとって幽霊は師匠であり、同時にいつでも好きなだけ盤を挟める練習相手でもあった。
だが、二人の関係は美しい師弟愛などという言葉で括れるものではない。
かつて、地元の大会に出始めたばかりの彼が予選で連敗し、腐りきっていた時期があった。
「もう将棋なんて指したくない。お前とも二度と指してやらない」
そう言って駄々をこねた彼を前に、幽霊は焦った。彼に将棋をやめられてしまえば、幽霊は再び孤独な日々へと逆戻りしてしまう。
将棋を指し続けたい。その一心で、幽霊は禁忌を犯した。
次の大会の対局に立ち会い、霊力で相手のチェスクロックの反応を狂わせたのだ。結果は相手の時間切れ負け。久しぶりの白星に、彼は機嫌を直した。
しかし、何度か同じような奇妙な勝利が続いた頃、彼はそのカラクリに気づいた。そして、幽霊の弱みにつけ込むようにこう言い放ったのだ。
「次の大会も、危なくなったら手を出せ。嫌なら、もうお前とは指してやらないからな」
それ以来、二人は共犯となった。
とはいえ、彼もただ楽をして勝ちたいわけではない。自分の力だけで勝った方が嬉しいに決まっている。だから彼は、普段の対局では手出しを禁じ、代表選抜や本戦トーナメントの勝ち上がりがかかった「どうしても負けられない場面」でのみ、幽霊に不正を命じるようになっていた。
「……ここまでか。俺の負けだよ」
「悪くない中盤でしたが、終盤で少し焦りましたね。あなたらしくない」
「うるさいな。お前が相手だと、どうしても無理攻めになるんだよ」
彼は苦笑しながら駒を片付け始め、ふと手を止めて幽霊を見た。
「でもまあ、先週の大会は助かったよ。完全に俺の負け将棋だったのに、相手があんな簡単な王手飛車の筋を見落とすなんてな。お前が相手の目でもくらませたんだろう」
幽霊は何も答えず、ただ曖昧に微笑んだ。
彼は駒を箱にしまいながら、少し真剣な声色で続けた。
「明日はいよいよ全国大会だ」
彼は盤の向こうに座る幽霊の目をまっすぐに見つめた。
「もちろん、自分の力で勝つつもりで指す。だが……いざという時は、また頼むぞ。断ったらどうなるか、わかってるよな」
脅しを含んだその命令に、幽霊は静かに目を伏せ、恭しく頷いてみせた。
「ええ、心得ています」
その返事を聞いて満足したように、彼は立ち上がり、明日の遠征に備えて部屋を出ていった。
襖が閉まり、部屋に静寂が戻る。
一人残された幽霊は、主のいなくなった将棋盤を見つめながら、誰に聞かせるでもなく心の中でつぶやいた。
(……もうずっと、私は不正などしていないのですがね)
幽霊の助けを借りて勝ち星を重ねるうちに、彼は自信を持って指せるようになり、その過程で実際の棋力もどんどん伸びていった。
さらに言えば、周囲が「豪運の棋士」を意識するあまり、対局相手が勝手にプレッシャーを感じて自滅するようになっていた。
「また何か不吉なことが起こるのではないか」「見えない罠があるのではないか」と疑心暗鬼に陥り、幽霊が指一本触れずとも勝手に転んでいく。
先週の大会も、相手が彼の気迫と異名に呑まれ、勝手に錯覚して自滅しただけの話だった。
彼の実力は、とっくに全国トップクラスの本物になっている。
にもかかわらず、世間はいまだに彼を「豪運」と呼び、彼自身もまた「大事な場面ではズルをして勝っている」と勘違いしたままなのだ。
(まあ、いいでしょう)
現状がこれほど上手く回っている以上、わざわざ真実を伝えてやる必要はない。何より、こうして彼が自分を必要とし、毎日将棋を指してくれる今の暮らしは、幽霊にとって実に心地よいものだった。
明日の全国大会も、彼はきっと自分の力で勝ち切るだろう。そして帰宅後にはまた、自分の手柄ではない勝利の礼を言いに来るはずだ。
幽霊は声もなく笑い、明日の対局を静かに待つことにした。
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アイガー北壁に午後の光が残り、グリンデルワルトの谷に長い影が伸びていた。黄金色のカラマツが風に揺れ、牧草地からカウベルの音がひとつ、遅れてもうひとつ届く。
私は木組みのシャレーが並ぶ小路で、木彫りの水飲み場《ブルンネン》にマイクを向けていた。丸太をくり抜いた水槽には、氷河の雪解け水が絶え間なく注いでいる。欲しいのは、水が木を打ち、石を伝う音だけだった。
トク、トク、と水が跳ねる。
そこへ、登山客のトレッキングポールが石畳を叩く音が重なった。背後では、村人が誰かに挨拶をしている。私は録音を止め、ヘッドホンを外した。
「また、人の声が入っちゃった」
「それ、入れちゃいけない音ですか?」
声のしたほうを見ると、タブレットを抱えた少女が立っていた。画面には音声編集ソフトが開かれ、いくつもの波形が並んでいる。
「仕事で録音をしているんですか?」
「音響編集の仕事よ。今は水の音を録っているところ」
少女は水槽に目を向け、それから手元の画面を見せてくれた。
「学校の課題で、村を歩きながら聴く音声ガイドを作っているんです。観光名所の説明だけじゃなくて、目を閉じても、その場所にいる気分になれるものにしたくて」
画面にはブルンネンの写真と、録音した水音の波形が並んでいた。その下には短い説明文がある。
「でも、水の音だけだと、どこの水場でも同じに聴こえてしまって。さっきの鈴や人の声も録ったんですけど、何を残して何を削ればいいのか、わからなくなってしまったんです」
少女は私の録音機を見た。
「人の声が入ると、やっぱり邪魔ですか?」
「今回、私が録りたいのは水の音だから。でも、あなたのガイドに必要かどうかは、別の話かもしれない」
そう答えながら、私は水槽の向こうに目をやった。
空のポリタンクを並べている老人がいた。少し離れた花壇では、宿の主人がじょうろを傾けている。老人が何か話しかけ、主人が顔を上げて笑った。
少女は録音機を水槽から離し、二人のほうへ向けた。
「この人たち、毎日ここに来るんです。水を汲んだり、立ち話をしたり。観光案内には載っていないけど、こういう時間も村の一部だと思うんです」
老人がポリタンクを石の上に置いた。底が触れて、乾いた音がした。
私はヘッドホンを耳に戻した。水音の奥に、その音が残っている。
「だから、もう一度録りたいんです。今度は水だけじゃなくて、ここで暮らす人たちの音も。ノラさんが録った水の音と、私が録る音を聴き比べたら、何を残せばいいか見つかるかもしれない」
少女の言葉に、私は録音機を見下ろした。
水音だけをきれいに録るなら、マイクの向きを変えればいい。人の声が届かない時間を待つ方法もある。仕事では、そうやって必要な音を選び取ってきた。
けれど、少女のタブレットに並んでいた波形には、水音のほかにもいくつもの音が記録されていた。
「じゃあ、少しだけ録り方を変えてみようかな」
私はマイクの角度を広げた。
木樋を滑る水、飛沫の細かな音、タンクの底が石に触れる響き。遠くではユングフラウ鉄道が谷を抜けていく。カウベルが鳴り、誰かが「またね」と言った。
録音を終えると、私は少女にヘッドホンを渡した。
「聴いてみる?」
少女は片耳に当て、しばらく画面を見ずに聴いていた。
「ずっと鳴っていたんですね、水って」
「うん。人の声がしても、列車が通っても」
今度は少女の録音を聴かせてもらった。
水音は遠くで細く続き、その手前で人々の声や足音が交わっていた。老人がポリタンクを置く音のあとに、宿の主人の笑い声が聞こえる。少し間を置いて、また水が跳ねた。
少女はタブレットを操作し、同じ箇所をもう一度再生した。
「……水、ちゃんと入ってる」
「小さいけどね」
「でも、これなら、ここに来たことがない人にも伝わりそうです」
少女は音声ガイドの編集画面を開いた。水場の由来を説明する文章の下に、短い一文を書き加える。
――この水場では、今日も誰かが水を汲み、誰かが立ち話をしています。
私はその文章を読み、ヘッドホンを耳に当て直した。
水音の奥で、タンクが鳴った。鈴が響き、誰かが笑った。
帰り道、私は街の音に耳を傾けた。
石畳を踏む音。シャレーの窓の奥で、皿が触れ合う音。坂の向こうから届く牛の鈴。風に揺れるカラマツの葉が、かすかに擦れ合っている。
どれも録音するつもりはなかった。
小路の奥で、水がまた鳴った。
私は振り返らず、その音を聴きながら歩いた。
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僕の友人リュウジは宇宙人だ。
中肉中背のそいつは毎朝通便の報告をLINEしてくるようなタイプで、運転は買って出るタイプで、最中は延々とFMラジオをご機嫌に垂れ流し、プレイリストをかけようものならあからさまに無言になり、3秒中2秒は脇見運転をして景色を楽しむタイプだ。
車は僕の所有物なのだけれど。
定期的に開催されるリュウジ主催のバーベキューは乾杯と同時にノラ・ジョーンズがBGMに採用され、それはランダムで繰り返し流される決まりだ。ごく稀にフランク・シナトラのMy Wayが入る。
だから、最初の一枚が焼ける前に
「10年後もこうやってみんなで集まりたいね」
のようなしんみりとしたセリフを誰ともなく発するハメになる。
僕の友人リュウジはとても優しい。
ある日コスモス祭りに行った時、散々道に迷った挙句、季節外れの炎天下を30分歩き、女の子の一人が顔面蒼白になっていることに気付くと
「もう子どもじゃないんだから具合が悪いなら自分で言わないと」
と言い聞かせ、蚊の鳴くような
「ごめん」
を引き出し、コスモスをしっかりスマホに収めた後、法定速度を10キロ下回る速度でコンビニを探す。
僕の友人リュウジはめちゃくちゃモテる。
理由は分からないが中学で出会って以来大学生の今まで彼女が途切れたことがない。しかも全ての元カノとも未だ親密な友人関係にあってバーベキューには必ず元カノの何人かが参加する。
その日のリュウジ主催のバーベキューでのこと。
食事後の焚き火の雰囲気がようやくノラ・ジョーンズに追い付いた頃、僕の友人リュウジは姿を消していた。
気になった僕は彼を探しに行くと山中も山中の木々の隙間で両手を上げ仁王立ちしているリュウジの後ろ姿があった。僕は音を立てずに踵を返した。
僕の友人リュウジはとても気が効く。
バーベキュー解散後、深夜近くに僕の家に着き、リュウジはいそいそと荷物を僕の部屋へと上げ
「疲れてるだろうから座ってろよ。オレがやるから」
と言い、汗を床に滴らせながら、1時間かけて荷下ろしをしてくれる。
少しでも手伝おうものならあからさまに無口になるので僕はただ座って絶妙なバランスで珍妙なシルエットに積み上がる荷物を眺める。
「じゃあ明日また大学でな! 早く寝ろよ」
とリュウジが手を振ったのは午前1時過ぎで、僕の友人リュウジはUFOに乗って深夜の住宅街上空にノラ・ジョーンズをうっすらと垂れ流しながら帰っていく。
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私は一人でパフェを食べられない。
一人で喫茶店に行き、ケーキセットを食べて読書をするのは好き。でもパフェを一人で食べるのは気恥ずかしい。
智美はパフェに付き合ってくれる。
勤務先の市役所の同僚で、友達が少ない私にとって、大事な存在だ。
今日来たのは、老舗の純喫茶。インスタでイチゴたっぷりのパフェが有名だと知ってやってきた。
グレーの髪を後ろに撫でつけた渋いおじさんの店主が、パフェを運んできてくれた。真っ赤なイチゴと真っ白なクリーム、なんてかわいいんだろう。
「いただきます」とスプーンですくい、イチゴとクリームを口の中に入れると、甘さで頭がいっぱいになる。
パフェはスプーンでどんどん底へと掘っていく、冒険的なスイーツだ。
食べ終わったパフェのグラスを見ると、達成感がある。
「千尋」と智美が私の名前を呼んだ。
「私ね、結婚して岩手に行くの」
智美が微笑んで言った。
「え!? お、おめでとう……でも、突然だね」
智美から恋人の話を聞いたことがない。
「これ、新幹線のチケット。結婚式に来てもらいたいの。それでね、スピーチをお願いできるかな?」
テーブルの上に新幹線のチケットが置かれる。私は即答できない。人前で話すことが苦手だし、お祝いの場に自分なんかが話していいのだろうか。
「はっきり言うね。私、ずっと悩んでたの。あなたが私を頼りにしすぎるから。結婚して職場から私がいなくなったら、やっていけるか不安だよ」
そうだ、私は少しでも仕事に自信がないと感じたら、智美に質問して確認してもらう癖がついていた。私はうつむいた。わかってるけど、改めて言われると傷つく。
「大人にならなきゃ……お互いに。結婚の決断がなかなかできなかった……知らない土地でこれから生きていくのは大変だから」
智美が店の外に目をやる。
ベビーカーを押して歩く女性を、彼女は目で追っていた。
その横顔を見つめて、彼女には自分のことを気にせず、安心して結婚してほしいと思った。
「まずはさ、一人でパフェ食べられるようになろ? 新しくできたお店、来週、行ってきなよ」
智美がLINEで、パフェのお店のインスタアカウントを送ってきた。駅近くに新しくオープンしたらしい。店の内装は落ち着いていて、投稿されたパフェの写真はどれも美味しそうだ。
「わかった。私もね、変わらなきゃって思ってたんだ。しっかり者の智美に頼ってばかりだから」
私は真正面から智美を見る。
ちゃんと叱ってくれるいい友達、遠くへ引っ越しちゃうなんて寂しいな。
「結婚式の話、もう少し早くにしてほしかったな」
私は呟く。
「ごめんね、私、すごく悩んでて。なかなか話せなくて」
「岩手かぁ……遠いもんね」
二人の間に沈黙が流れる。
寂しさが胸をよぎった。
「結婚式のスピーチ、がんばるね」
私が答えると、智美は満面の笑顔を見せた。
土曜日の昼過ぎ、私は新しくできたパフェ専門店に来た。本当はオープン時間に来るはずだったけど、なかなか家から出られなかった。ダラダラしていると日が暮れそうで、えいっとメイクをばっちりしてやってきた。
小さな箱のような煉瓦造りの店の入口は、胡蝶蘭が白く眩しい。店内は満員だったが、ちょうど一人が席を立って、すぐに座れた。
去っていったのは、グレーのジャケットを着た若い男性だった。パフェを一人で食べに来る男性か、珍しい。
あの人は私よりも、パフェを一人で食べることに勇気がいるんじゃないかな。まだまだ性差って世の中にあるもの。
さっきまで男性が座っていたカウンターの高い椅子に腰掛けると、緊張はほぐれた。一人だと悪目立ちすると思っていた。
みんなパフェとお喋りに夢中で、私なんか見てない。大丈夫。
私はいちごのパフェにした。
クリームは優しい甘さで、いちごが甘酸っぱい。冷たいバニラアイスが溶けて、底のグラノーラと混ざりあって、最後の一口まで美味しい。
私は周りを気にせず、パフェを一人で平らげた。
これで、智美にパフェを一人で食べられたよって報告できる。彼女にはもっと伝えたいことがある。緊張で泣きそうになっていた初出勤の日から今まで、助けてくれた友人へ。
私はパフェ店を出て、文具屋で新しいノートとペンを買い、喫茶店でスピーチの下書きを始めた。
職場のお昼休憩で、智美から結婚式の準備について聞かされた。華やかでおめでたいことも、色々と大変らしい。
「実はね、千尋に紹介したい人がいるの。婚約者の同僚で……会ってみない?」
私は目を丸くする。
友人から男の人を紹介されるのは初めてだ。
「う、うん。会ってみる」
一週間後、おしゃれなレストランで紹介されたのは、あのパフェを一人で食べていた男性だった。
「初めまして」
彼は少し照れたように笑う。
この人とパフェを食べに行くのも、きっと楽しいだろう。
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突然降り出した雨は土砂降りで、とても止みそうにない。私はコンビニに駆け込んだ。
コンビニのビニール傘コーナーを探す。レジでお金を払って外に出ようと思ったけれどこの雨の中歩いて行くのはちょっと気が重い。しばらく雑誌コーナーにいたけれど雨が止む気配は全くないので仕方なく傘をさして駅に向かって歩き出す。
早くしないと出勤時間に遅れてしまう。
今日は夜勤だけど、引き継ぎ業務もあるからあまりグズグズはしてられない。ズボンの裾がかなり濡れてしまった。どうしてパンプスなんて履いてきたんだろう。……とはいえ長靴で出勤するわけにもいかないのだけど。
駅についてハンカチでズボンを軽く拭く。
改札を通り抜けようとした時、近所の女の子が困った顔をして立っているのが見えた。
「みゆきちゃん?」
近所の中学生の女の子だ。
こっちに気がついて軽く挨拶する。
「こんにちは」
「どうしたの学校の帰り?今日は部活だったの?」
「いえ、塾の帰りです。急に降り出してきちゃって」
「よかったらこの傘使う?」
「え、いいんですか。ありがとうございます。でも、それだと佐藤さんが困るんじゃ……」
「いいよ、これコンビニで買ったビニール傘だし。それに仕事場に着く頃には止んでると思うからね」
私はそう言うと彼女はおずおずと傘を受け取った。
「ありがとうございます」
ペコリと90度にお辞儀して彼女は雨の中を足早に走って行った。
そんな後ろ姿を見て、ふと昔のことを思い出した。
やっぱり中学生ぐらいの時だった、クラスにちょっと意地悪な田中君という男の子がいて私は苦手だった。
だけれどある時大雨で、今の彼女のように駅で足止めを食らっていた。そんな時、たまたま駅にやってきたその男の子がぶっきらぼうに傘を差し出して、
「やるよ」
と一言言って傘を私に押し付けて改札口の中に入って行った。
突然のことで私は何も言えなかった。
後日傘を返してお礼を言ったけど。
……今にして思えば、ぶっきらぼうだったけれどそれはきっと思春期にありがちなコミュニケーションの苦手さからだったのだろうなと思う。
私も当時は彼が苦手だったから、お礼を言うのも小さな声でやっとだった。今だったらもっと違ったのになと思う。
その一件から彼のことはあんまり苦手じゃなくなったけど、自分の方からコミュニケーションを取りに行くのは恥ずかしくってとてもできなかったっけ。
彼女を見送ってなんだか懐かしいような、ほろ苦いようなそんな気持ちが胸に広がっていった。
……どうしてるかな、田中君。
やはり子供時代の同級生というのは成長して学校が別々になったらもう会うことなんて滅多にない。
同窓会なんてものは全くないし、もちろん私の方から企画するような性格でもない。結局中学生の頃の同級生たちとはコミュニケーションは取らず今まで会うこともなかった。
みんなどうしてるんだろう。
懐かしい気持ちに浸っているうちに電車がやってきて私は仕事場に向かった。
夜勤明けの翌日。
眠くてぼーっとしながら家に帰ってきて昼食をとる。
今日の空は昨日の雨のおかげで澄み渡っていてどこまでも蒼い。
ピンポーン!
玄関のチャイムが鳴る。
「はーい、どちら様?」
私は扉を開けた。
「昨日はありがとうございました!」
みゆきちゃんとその父親だろうか、男の人が立っている。
すみません昨日みゆきが傘を借りたみたいで、これはほんのお礼です
男の人は菓子折りの入った紙袋を差し出す。
「ビニール傘ですからそんなお気を使わずに……」
顔をあげた男の人と目が合う。
「あれ?もしかして田中君?」
相手も同じようにきっとびっくりしたに違いない。
目をまたたいてこっちを見ている。
「もしかして、佐藤さん?」
「え、中学ぶり?みゆきちゃんのお父さんが田中君?」
みゆきちゃんはきょとんとしている。
「佐藤さん、お父さんの知り合いだったの?」
「中学生の時の同級生だったんだよ」
田中君は説明する。
何十年ぶりかの再会。
まさかこんな近くに住んでいたとは。
あの頃の記憶がよみがえり懐かしさが溢れ出す。
そして2人で目を合わせ、笑いあったのだ。
青天の空の下、笑い声が響き合った。
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久しぶりに降り立った地元の駅の周りは、雰囲気が大きく変わっていた。ホームからは大型ショッピングモールや数棟のタワーマンションが見え、昔は人影もまばらだった駅構内も賑わっている。変わった景色に落ち着かない私は、そそくさと改札を出て、待ち合わせ場所の南口に歩みを進めた。
ホームから見えていた北口とは違い、見慣れた街並みのままの南口は、私をあたたかく迎え入れてくれる。それでもあらためて振り返り、あんぐりと口を開けていると、「こっちこっち!」と馴染みのある声が聞こえてきた。振り向いた視線の先には母がいたが、前に帰省したときよりも顔のシワが増えている気がする。そして、母の傍らには透き通ったこどものペンギンがいた。あんぐりと口を開けたままの私を見て笑っている。そのとき懐かしい音楽が駅前に響き渡った。
歩き出すこどものペンギン。歩き出す私。私たちはすれ違い、母のもとへとたどり着く。母は私を前に「長旅、お疲れさま」と、頬を緩ませながら伝えてくれる。それなのに私はまた振り返る。その先に抱き合ったペンギンの親子像が見えたから、お土産を持ったまま、私はこどものペンギンになっていた。
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村の朝は、白かった。
水田の向こうに低い山が見えるはずなのに、霧に溶けて輪郭だけが残っている。湿り気を帯びた風が、紗季の頬を撫でていった。
チェンマイの中心部から車で一時間ほど。水野紗季は、静かな農村の道端に立ち、手帳を開いた。
九時、城壁跡。十時、市場。十二時、昼食。
分刻みの線で埋まったページは、東京からそのまま持ち込んだ仕事机のようだった。大きな仕事を終え、ようやく取れた休暇だというのに、旅先でも時間を区切り、次に何をするかを決めている。
長いあいだ、締め切りに間に合わせること、限られた時間で必要なものを集めること、それらを当たり前のように繰り返してきた。予定を立てれば安心できたし、予定どおりに進めば、自分の一日をきちんと使い切った気がした。
けれど今朝は、手帳を見つめている自分が、少しだけおかしかった。
急勾配の屋根を載せた木造の家々が、霧の向こうに並んでいる。軒先には色鮮やかな紙傘が干され、風を受けてゆっくりと揺れていた。傘の骨に張られた紙は、朝の光を透かして淡く色づいている。
その一軒の前で、紗季は足を止めた。
軒先に傘が並ぶ小さな工房だった。開いた傘が、霧の中で花のように咲いている。
「どうぞ。見るだけでも」
声をかけてきたのは、ノイという女性だった。紗季の母より少し若いくらいだろうか。穏やかな笑みを浮かべ、急かす気配もなく、工房の中へ招いてくれた。
作業場には、木枠に張られた紙がいくつも並んでいた。棚には、サー紙と呼ばれる手漉き紙が積まれている。桑の樹皮から作られる紙で、繊維の間には野の花や葉脈が透けて見えるものもあった。
紗季は一枚を手に取った。
指先に触れる紙肌は、均一ではない。繊維が重なったところはわずかに厚く、薄いところは向こうの光を柔らかく通していた。工業製品のような整い方とは違う。けれど、その不揃いさが、かえって心地よかった。
「旅の記録を書こうと思って」
紗季は言った。
「手帳に書くより、ちゃんとした紙に残したくて」
ノイは紙を覗き込み、それから紗季の顔を見た。
「ここに?」
「ええ。せっかく来たので」
「それなら、傘にしてもいいわね」
「傘に?」
「この紙で傘を作るの。旅の記録を描いてもいいし、好きな景色を描いてもいい」
紗季は手元の紙を見た。記録を書くことは考えていたが、そこに何を描くかまでは考えていなかった。
ノイは、棚に並ぶ紙をひとつずつ眺めながら尋ねた。
「もし傘にするなら、何を描きたい?」
紗季は答えに詰まった。
取材なら、質問を用意するのは自分の仕事だ。相手の話を聞き、必要な情報を整理し、記事の形にする。何を聞けばよいか、どこに注目すればよいか、いつだって考えてきた。
けれど、自分が何を描きたいのかと尋ねられたことは、初めてだった。
「……わかりません。考えたこと、なかったです」
ノイは意外そうな顔もせず、頷いた。
「なら、見に行きましょう」
工房の入口に掛かっていた札を裏返す。紗季の手帳には、そんな予定はない。
けれど、断る理由も見つからなかった。
紗季は手帳を閉じ、ノイのあとを歩き始めた。
ノイは何も説明せず、時折立ち止まっては、道端の草や水田の様子を眺めた。紗季もそのたびに足を止めた。急ぐ必要はなかった。少なくとも、今は。
やがてノイが腰をかがめた。
「これ、見て」
指さした先に、蜘蛛の巣があった。
稲の間に張られた細い糸。その一本一本に、朝露が粒となって連なっている。霧の白さが薄れるにつれて、水滴の輪郭が少しずつ浮かび上がり、光を受けてきらめいた。
紗季は息を止めた。
蜘蛛の巣そのものは、珍しいものではない。東京でも、家の軒先や公園の植え込みで見かけることはある。けれど、こんなふうに眺めたことはなかった。いつもなら、目に入っても通り過ぎていただろう。
「去年の雨季、これを描いた人がいたの」
ノイが言った。
「傘を開くと、朝が全部入っていたわ」
紗季は黙って、蜘蛛の巣を見つめた。
朝が全部入っている。
その言葉を頭の中で繰り返してみる。傘の内側に、霧の残る水田を。稲の葉に光る露を。細い糸に連なる水滴を。風に揺れる草を。
絵にするには、小さすぎるものばかりかもしれない。誰かに説明するには、ありふれた景色かもしれない。
それでも、目の前にあるものを、もう少し見ていたいと思った。
手帳の中には、城壁跡も市場も、食事の時間も、すでに書き込まれている。けれど、この蜘蛛の巣を眺める時間は、どこにも書かれていなかった。
予定にないからといって、なかったことにする必要はないのだ。
そう思ったとき、胸の奥で何かが静かにほどけた。
紗季は工房へ戻ると、選んだ紙を膝に載せ、ペンを取った。
「予定のない朝は、白くて、きれいだった」
それだけ書いて、手を止めた。続きは、まだ要らない気がした。
「傘、描いてみる?」
ノイが笑う。
紗季は少し考えて、頷いた。
「はい。……この朝を」
予定より二時間遅れで、市場の昼がはじまる。それも悪くない、と思えた。
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もうあれは何年前になるだろうか。
私は1つの歌と出会った。1つのカセットテープ。
それは当時私がバイトしていたコンビニに置き忘れてあったものだった。深夜のバイト。棚を整理している時に気がついた。
誰かお客さんの忘れ物だろう。
店長に話してしばらく保管していたが持ち主が現れる気配は一向にない。カセットテープには特に持ち主を特定できそうな名前などは書かれていない。
中身を聞けばもしかしたら持ち主に繋がるかもしれない。
そう思った私は店長と話し合いカセットテープを一度だけかけてみることにした。
カセットテープというのは、ほんの少しだけ音声が柔らかい。音質が悪いという人もいるかもしれないが、再生の途中に入るノイズが少し心地よい。
聞いたことのない歌が流れる。
柔らかな若い男性の声。
一体これは誰の歌声なのだろう。
私は想像した。
インディーズで活躍する無名のシンガー。
今の時代ならばCDに焼き増す事が、ほとんどだろうに、彼はノイズの入ったテープの音が好き。
自分が作った初めての曲。
それをテープに録音してコンビニのそっと置いた。
もしかしたらこの店で再生してくれるかもしれない。
そんな淡い希望を抱いて。
いや、違うかもしれない。
このテープが録音されたのは、まだカセットテープの全盛期。
このテープの持ち主は亡くなった父親の形見を持ってコンビニに買い物に来たのではないだろうか。
その父親は、昔ミュージシャンになりたくてこの曲を作って録音したんじゃないだろうか。
お葬式が終わって気が抜けて父の形見のテープを持って弁当を買いに コンビニに寄ったその人は、うっかりとカバンからテープを落としてしまったのではないだろうか。
どこで落としたのかわからなくて探しているかもしれない。
とても耳に残る曲だった。
曲というのは相性があって、その曲は私ととても相性がいいと感じた。
深夜のコンビニでその曲を口ずさむ。
耳に残ったメロディーは心の中で何度も再生され、やがて鼻歌となって私自身の声として微かに深夜のコンビニに響いた。
誰もいない深夜のコンビニ。
知らず知らずに鼻歌になっていることに私自身気がついていなかった。だから、お客さんが入ってきた時にうっかりと鼻歌を歌っていたのだ。
レジにまっすぐやってきたお客さんは
「すみません、その歌……」
と言って困った表情をしていた。
「いらっしゃいませ、どうかなさいましたか」
彼はしばらく困った様子だったが、一言こう言った。
「あの1週間ほど前、カセットテープの落とし物とかないですか?」
そうか、彼の持ち物なのか。
「はいお預かりしております。少々お待ちくださいませ」
私はカセットテープを取りに行った。
「ありがとうございます」
彼の表情がほころぶ。
「……あの、さっき歌っていた曲ってもしかして」
今度は私が言葉に詰まる番だった。
「申し訳ございません。落とされた方がわかるかもしれないと一度だけ再生させていただきました」
「そうでしたか。いえ、お気になさらずに!ありがとうございます。もしかしてこの曲 気に入っていただけましたか!さっき口ずさまれていたので!あっ、変なこと聞いてすみません。その、嬉しかったものですから」
彼の表情は少し嬉しそうになっていた。
「勝手に再生してしまい本当に申し訳ありません」
私はかなり気まずかった。
「いえいえ、ありがとうございました。あの肉まん1ついただけますか?」
「少々お待ちください。黒豚肉まんでよろしいでしょうか」
おそらくそのまま帰るのは気まずいと思ったのか、彼は肉まんを1つ買って帰って行った。
私はカセットテープの持ち主が見つかって少しほっとしていた。
翌日、彼がまた深夜のコンビニにやってきた。
「あ、あの、すみませんこれ」
そう言ってカセットテープを差し出す。
「もし僕の勘違いだったら、すみません!昨日、口ずさまれていたので もし曲を気に入ってくれているのなら受け取ってもらえませんか!ダビングしたやつです」
彼はそう言ってカセットテープを私に渡すと走って帰ってしまった。
私は少し戸惑った。
だが同時にほんの少し嬉しかった。
テープのノイズと彼の歌。
それが深夜のコンビニに響いた。
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