私は一人でパフェを食べられない。
一人で喫茶店に行き、ケーキセットを食べて読書をするのは好き。でもパフェを一人で食べるのは気恥ずかしい。
智美はパフェに付き合ってくれる。
勤務先の市役所の同僚で、友達が少ない私にとって、大事な存在だ。
今日来たのは、老舗の純喫茶。インスタでイチゴたっぷりのパフェが有名だと知ってやってきた。
グレーの髪を後ろに撫でつけた渋いおじさんの店主が、パフェを運んできてくれた。真っ赤なイチゴと真っ白なクリーム、なんてかわいいんだろう。
「いただきます」とスプーンですくい、イチゴとクリームを口の中に入れると、甘さで頭がいっぱいになる。
パフェはスプーンでどんどん底へと掘っていく、冒険的なスイーツだ。
食べ終わったパフェのグラスを見ると、達成感がある。
「千尋」と智美が私の名前を呼んだ。
「私ね、結婚して岩手に行くの」
智美が微笑んで言った。
「え!? お、おめでとう……でも、突然だね」
智美から恋人の話を聞いたことがない。
「これ、新幹線のチケット。結婚式に来てもらいたいの。それでね、スピーチをお願いできるかな?」
テーブルの上に新幹線のチケットが置かれる。私は即答できない。人前で話すことが苦手だし、お祝いの場に自分なんかが話していいのだろうか。
「はっきり言うね。私、ずっと悩んでたの。あなたが私を頼りにしすぎるから。結婚して職場から私がいなくなったら、やっていけるか不安だよ」
そうだ、私は少しでも仕事に自信がないと感じたら、智美に質問して確認してもらう癖がついていた。私はうつむいた。わかってるけど、改めて言われると傷つく。
「大人にならなきゃ……お互いに。結婚の決断がなかなかできなかった……知らない土地でこれから生きていくのは大変だから」
智美が店の外に目をやる。
ベビーカーを押して歩く女性を、彼女は目で追っていた。
その横顔を見つめて、彼女には自分のことを気にせず、安心して結婚してほしいと思った。
「まずはさ、一人でパフェ食べられるようになろ? 新しくできたお店、来週、行ってきなよ」
智美がLINEで、パフェのお店のインスタアカウントを送ってきた。駅近くに新しくオープンしたらしい。店の内装は落ち着いていて、投稿されたパフェの写真はどれも美味しそうだ。
「わかった。私もね、変わらなきゃって思ってたんだ。しっかり者の智美に頼ってばかりだから」
私は真正面から智美を見る。
ちゃんと叱ってくれるいい友達、遠くへ引っ越しちゃうなんて寂しいな。
「結婚式の話、もう少し早くにしてほしかったな」
私は呟く。
「ごめんね、私、すごく悩んでて。なかなか話せなくて」
「岩手かぁ……遠いもんね」
二人の間に沈黙が流れる。
寂しさが胸をよぎった。
「結婚式のスピーチ、がんばるね」
私が答えると、智美は満面の笑顔を見せた。
土曜日の昼過ぎ、私は新しくできたパフェ専門店に来た。本当はオープン時間に来るはずだったけど、なかなか家から出られなかった。ダラダラしていると日が暮れそうで、えいっとメイクをばっちりしてやってきた。
小さな箱のような煉瓦造りの店の入口は、胡蝶蘭が白く眩しい。店内は満員だったが、ちょうど一人が席を立って、すぐに座れた。
去っていったのは、グレーのジャケットを着た若い男性だった。パフェを一人で食べに来る男性か、珍しい。
あの人は私よりも、パフェを一人で食べることに勇気がいるんじゃないかな。まだまだ性差って世の中にあるもの。
さっきまで男性が座っていたカウンターの高い椅子に腰掛けると、緊張はほぐれた。一人だと悪目立ちすると思っていた。
みんなパフェとお喋りに夢中で、私なんか見てない。大丈夫。
私はいちごのパフェにした。
クリームは優しい甘さで、いちごが甘酸っぱい。冷たいバニラアイスが溶けて、底のグラノーラと混ざりあって、最後の一口まで美味しい。
私は周りを気にせず、パフェを一人で平らげた。
これで、智美にパフェを一人で食べられたよって報告できる。彼女にはもっと伝えたいことがある。緊張で泣きそうになっていた初出勤の日から今まで、助けてくれた友人へ。
私はパフェ店を出て、文具屋で新しいノートとペンを買い、喫茶店でスピーチの下書きを始めた。
職場のお昼休憩で、智美から結婚式の準備について聞かされた。華やかでおめでたいことも、色々と大変らしい。
「実はね、千尋に紹介したい人がいるの。婚約者の同僚で……会ってみない?」
私は目を丸くする。
友人から男の人を紹介されるのは初めてだ。
「う、うん。会ってみる」
一週間後、おしゃれなレストランで紹介されたのは、あのパフェを一人で食べていた男性だった。
「初めまして」
彼は少し照れたように笑う。
この人とパフェを食べに行くのも、きっと楽しいだろう。
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俺が今まで本気で人生を諦めた事がなかったのだと気付いたのは、戦争で片腕を失ってからしばらくしての事だった。
片腕を失う前、俺は「いつどうなってもいい」とか「死ぬのは怖くない」と口先で言いながら泥水をすすってきた。時には幸福の女神に微笑まれ、難を逃れた時に舌打ちをした。
けれど戦いの果てに片腕が吹き飛んで、何週間何カ月ともがき苦しんでみて、分かったんだ。自分が、本気で人生を諦めようとした事は一度だってなかったという事に。
俺はいつだって地べたを這い回り、自分の行く道を探して来た。幸運が訪れるのを心の底で祈ってきた。このくだらない世界で、生きていたかった。
久しぶりに高熱が引いた朝、病室の窓際で白んだ空を見た。俺は何度も、この空を見たいって本当は思っていた。諦めきれなかったんだ。だから、この辛気臭い病室で唇を噛んでいる。
片腕がなくなったこの先も、俺は眩しい世界を掴もうとするだろう。辛く苦しいまま、血反吐と悪態をぶちまけながら、諦めきれずに生命の根を伸ばす。
悔しいけど、それが命を宿したまま震える俺の宿命らしい。
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私は浮気をしている。
星のように、遠く。
星のように、輝く。
もう七年も経つのに、あなたの歌は未だに。
在宅ワーク中、ガチャリと扉を開ける音が聞こえた。
「……!」
「……♪」
通話中だったので、お互い手だけ振る。
今でも彼女と同棲しているなんて、信じられない。
彼女はかつて、私の大好きなアーティスト。
そして私はただのファンだった。
ネットシンガーとして、最盛期はかなり人気だった。
でもある時突然、彼女は「自身の活動」に区切りをつけた。
当時は分からなかったが、裏で色々とあったらしい。
引退、失意のどん底。
……のはずが。
「今日からアルバイトに入りました!
接客業は初めてでご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします!」
数日後、同じアルバイトに彼女が入ってきたことで、私の思考は宇宙の彼方へと吹き飛んでしまった。
「おい!四回目だぞ!」
「も、申し訳ございません……」
「失礼しました!お客様。私が代わりに承ります!」
そして彼女は、ただの不器用で手間のかかるバイトの後輩になった。
「う……先輩、本当ごめんなさい」
「いいよ、いいよ!
これからも、じゃんじゃん頼っていいからね」
「……」
店側は迷惑だろうが、あなたを独り占めできるのは幸せだった。
でもこの程度の関係なんて、すぐになくなってしまう。
……何よりまた歌声が聞きたい。
「え……?」
ファンであることを隠して、生まれて初めて同性に告白した。
なんで?
もっと方法があっただろう?と今なら思う。
でも当時はそれくらいしか、あなたを繋ぎ止める方法が思い付かなかった。
「あの……はい、私で良ければ……」
そして、なぜか受け入れられた。
数年後、お互い職に就いた。
私はただの事務職に。
あなたはギター教室の先生に。
どうやら、今はバイト時代のような失敗はないようだ。
「先輩、今日もついてきますか?」
「うん!」
仕事も終わり、すぐ準備する。
夕暮れの川辺。
彼女はたまに弾き語りをしている。
ほとんど人のいない川辺で、あなたの声が響く。
下手なら嘲る人もいただろうね。
皆、絶景でも見たかのような顔で足を止める。
今の時間で良かった。
この程度の人だかりで済んで。
「――」
あなたの歌が終わった。
パチパチと拍手が起こる。
歌っている時のあなたは未だ、私から何光年も先へと離れていく。
そうして瞬く。
「先輩ー?そろそろ帰りますよ?」
自分から繋ぎ止めたくせに。
近くのあなたより、星空で輝くあなたの方が好きなんて。
「う、うん」
この浮気は、煌めく星には知られてはいけない。
本当に愛しているのが、何かを知られてはいけない。
悪い、悪い人間だ、私は。
でも。
星空の下のちっぽけな人間で良かった。
きっと、遠くの星にこの気持ちは届かないから。
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六年生のときに同じクラスだった水原君は、取り立てて目立つ少年ではなかった。少し色が白くて声もそれほど大きくなく、友達も多くなかった。ただ、彼は生き物係を率先して引き受けていた。友人から話を聞くと、彼は毎年いつでも生き物係をしてきたそうだ。先生たちも「水原は他の係はやらないのか」と尋ねていたが、彼は頑なに生き物の世話をし続けていた。
彼について特に思い出があるわけでもなかったが、ひとつだけどうしても忘れられないことがあった。あれは冬休みの直前で、日が極限まで短くなっていた頃だった。家に帰ってから、どうしても明日提出しないといけないプリントを学校に忘れてしまったのを思い出して、私は急いで学校へ戻った。放課後になってそれほど時間が経っていたわけではないのに、日はどんどん傾いてもう辺りに夜の気配が立ち始めていた。その気ぜわしさに、その日の授業で「十二月は師走と言って、先生が走るほど忙しいんだぞ」と習ったことを私は思い出していた。
早く帰りたかったので、上履きに履き替えるのも億劫で私は靴下のまま廊下を歩いた。誰も歩いていない廊下は冷たく、ますます私は早く帰りたいと思った。階段を上って自分の教室のある階につくと、先生がいないのをいいことに私は滑るように教室まで走った。そしてさっさとプリントを持って帰ろうと思って教室のドアを開けると、水原君が窓辺に座っていた。
私はこんな遅くまで教室に誰か残っているとは思わず、心臓が飛び出るくらい驚いた。水原君はガラっと開いた扉の音を聞いて、こちらをゆっくり振り向いた。
「なんだ、真鍋か。こんな時間にどうしたんだ?」
私の登場に水原君は驚かず、私は自分の心臓がまだドキドキしていることが少し恥ずかしくなった。
「忘れ物を取りに来ただけだよ」
「そう」
そう言って、水原君はまた窓辺の方に向き直った。水原君は窓の外を見ているのではなく、教室で飼っている金魚の水槽を見ていたのだった。
「水原君は何してるの」
「金魚見てる」
それは見ればわかるよ、と思った。その金魚は担任の先生が「教室守」と呼んで可愛がっている金魚だった。そして生き物係に餌やりを任命して、時々一緒に水槽を洗っていた。
水槽の中では真っ赤な金魚が一匹と、白がメインの赤い模様がある金魚が一匹、ゆっくりと尾びれを翻していた。エアポンプが吐き出す小さい泡を避けるように金魚はゆらゆらと泳いでた。クラスの皆からその金魚は特別可愛がられているわけではなかったと思うが、ただ金魚はそこにいるだけでよかったのだと今は思っている。
「金魚って、見て楽しい?」
「いや、別に」
楽しくないんだ。それなのに、どうして水原君はこんな時間までずっと金魚を見ていたのか私は気になった。
「楽しくないなら帰れば?」
「そうだね。ありがとう」
そう言って、水原君はランドセルを掴むといそいそと教室から出て行ってしまった。私は短い日が射し込んできた窓辺に近づいて、水槽を覗き込んだ。随分と大きくなった金魚は水槽の中をゆらゆらと漂っていて、射し込んで来た光は金魚の揺れる尾びれと小さな泡の間で弾けていた。
私は呆然と金魚の水槽を覗き込んでいた。随分と大きくなった金魚にとって、この水槽は少し窮屈かもしれない。何度も何度も行ったり来たりを繰り返して、退屈しないのだろうか。そんなことを私は思った。
「あ、そうだ」
開けっぱなしの扉から声がした。急に水原君が戻ってきたのだ。ぼんやり金魚を眺めていた私は、また驚いて教室の入り口に振り返った。
「帰るとき、カーテンしてね。あんまり直射日光当てるとよくないから」
「わ、わかった」
慌てて返事をする私に、水原君は問いかけてきた。
「金魚見て楽しい?」
「ううん、別に」
彼の言うとおり、別に楽しいものではなかった。
「だろう?」
水原君は満足そうに笑って、そしていそいそと帰って行った。私は金魚の水槽と水原君の間に挟まれたような気分になった。それからすぐに思い出したように自分の机からプリントを取って、夢のような気持ちで家に帰った。
それからすぐに冬休みに入り、三学期が始まった。卒業を控えた私たちは師走以上に気ぜわしくなり、私は金魚のことも水原君のことも思い出す暇がなくなった。中学に入ると同時に、水原君は別の学校に行くことになった。私の小学校は近くの中学校に全員持ち上がりのはずであったが、どうして水原君は違う中学に行くのか特に説明はなかった。親の仕事の都合とか、そういうのだろう。何となくそんなことを私は無責任に思っていた。
***
それから随分時が経ち、私も中学生の子供を持つ親の立場になった。古くからの友人に会って話をしているうちに、水原君の話になった。彼女は水原君と高校で同級生だったらしく、様々なことを教えてくれた。そしてそれは、あまり面白い話でもなかった。
久しぶりに会った水原君は、名字が変わっていたという。そして「小学校ぶりだね」と一度話をしたきり、水原君は学校にほとんど来なかったという。気がつけばクラスからいなくなっていて、一年の終わりには退学していたそうだ。
友人は「そんな子いたけど、今頃どうしているかねえ」という感じで私に話してくれたが、私の心は一気にあの短くなった日の射し込む誰もいない教室に戻っていた。
誰もいない教室で、面白くもない金魚を、何故水原君は見つめていたのか。
大人になった今なら、どうして彼がそこにいたのか何となくわかった。金魚を眺めることよりも面白くないことがきっとあったのだろう。だから、先生に追い出されるギリギリまで教室で金魚を見て面白くないことから目を反らしていたんだろうか。日の光を浴びてきらきら輝いていた金魚は、現実よりもきっととても面白かったんだと思う。
そんなことを友人に話しても笑われるだけだと思ったので、私はすぐに別の話題を持ちかけて、水原君の話をこれ以上浮かび上がらせるのを阻止した。それは泡のように弾けて、その後は何事もなく私は友人と別れた。
私は友人と別れた後、あの「教室守」の金魚を思い出していた。ただそこに漂うだけで、それだけでよかった金魚。身体が大きくなって少し窮屈になった水槽の中で一心に泳いでいた金魚。そしてその金魚と一緒に泡のように弾けた水原君のこと。
そんなことを考えていると、スマホに夫から「何時に帰ってくるの」とメッセージが届いていた。それを見て、水原君は私の心の中で二度と取りに戻れない忘れ物になってしまったものだと思った。私は「今帰るところ」とだけ返信をした。
〈了〉
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ふと、薔薇を買いたくなった。
深い紅色の薔薇を、一本買った。何本も買うほどの経済的余裕はない。
人に贈るためじゃない。絵を描くためだ。
部屋の隅に転がっていた酒の空き瓶を軽くゆすぎ、水を注いで花を挿した。
狭い部屋は、殺伐として散らかり放題だ。けれど紅い薔薇が小さなテーブルに一輪やってきただけで、壁に雑に立て掛けたキャンバスたちも転がった酒瓶もどこか気取った顔になる。
小さなキャンバスをイーゼルに置き、花を見つめた。
複雑な丸みや尖りを主張しながら幾重にも重なる花弁。強く巻いた内側から、外側にいくに従い少しずつ解れるように開いた花の上部。花弁はあっけらかんと開いてしまうのではなく、花の上部から萼《がく》にかけてはふくよかな奥行きを持っている。たくさんの花びらが、艶やかな曲線を描きながら茎に向かいひとつに窄まっていく。
これから開こうという力を内包した、濃い紅色。
見つめていると、音もなく佇んでいるはずのその花から放たれる波動に呑まれそうになる。
普段、花は描かない。存在そのものが既に輝いている対象物を描くのは苦手だ。
何故、薔薇を描きたくなったのか。自分でもよくわからない。
一つだけ考えられる理由は——学生時代に好きだった人が、死んだ。
数日前、友人から連絡をもらった。
その人に何も告げられないまま、卒業した。
どうしてるかと思いながら、連絡もしなかった。
「いい絵だね」
あの日の懐かしい声が、耳に蘇る。
鉛筆を持ち、キャンバスにおおまかな下書きをしていく。
生きる意味はわからないのに、大切なものを失う痛みだけが。
全く理不尽だ。
ラフにスケッチしたキャンバスに、色を広げていく。
紅い薔薇。
描きたくない。こんなもの。
描くのが、苦しい。
君に似ている気がするんだ。
目の前のこの薔薇が。
**
四日後。
仕上げた薔薇の絵を眺め、俺は歯軋りした。
キャンバスの中の薔薇は、死んでいた。
花の色も形も、観たままを全て過不足なく描けている。
なのに。
キャンバスに乗せた花弁の紅色が、沈み過ぎているのだろうか? それとも、部屋の明るさが足りないせいか。適当な酒瓶に挿しているのがいけないのか。
どこにも欠落はないのに、何もかもが納得いかない。訳のわからない苛立ちに駆られながら、キャンバスを新しいものに取り替える。
紅色を明るくしてみた。部屋のカーテンを思い切り開け、光を入れてみた。酒瓶ではなく、テーブルに直に花を置いてもみた。
何を試しても、駄目だった。
描きたい薔薇に、近づけない。
さらに三日が経った。
薔薇は萎れかけ、花弁が崩れそうになっている。
冷たい汗を拭い、拳を握りしめた。
なぜ、描き出してしまったのか。紅い薔薇の絵など。
君を俺がもう一度殺してしまうような、そんな気がした。
そう思えば思うほど、キャンバスの薔薇は描きたいものから遠ざかった。
一晩中筆を動かし続けた俺は、翌朝の夜明けの光が部屋に差し込む頃、枯れた薔薇をゴミ箱に捨てた。
紅い薔薇には、もう、手が届かない。
神様は、最初から決めていたんだろう。
どんなに手を伸ばしても、君はやはり俺の手から零れていくのだと。
**
あれから、一年が経った。
俺の中には、あの紅い薔薇がまだ咲いていた。あの日のまま。
毎夜目を閉じると、鮮やかにその色と形が浮かぶ。
瑞々しいその花びらや葉は、手を伸ばせば触れられそうなほどだ。
描きたい。
どうしても、君の薔薇を。
ガバリとベッドから起き上がった。
部屋の小さな照明をつけ、イーゼルに新しいキャンバスを置いて猛然と筆を握った。
白いキャンバスを、黒く塗りつぶしていく。筆を叩きつけるように。
混じり気のない、美しい黒に澄み切った世界が目の前に出現した。
——そうか。
色が、間違っていたんだ。
漆黒の背景の上に、純白の花弁を一枚描いた。
その花びらは、なんと生き生きと輝くことか。
君の薔薇は、紅色じゃなかったんだね。
俺の呟きに応えるように、白い薔薇は一層鮮やかに眼裏に咲き誇る。
艶やかに輝く、白い花びら。その一枚一枚の形さえはっきりと目の前に見えている。
筆から、命が迸る。堰を切ったように。
やっとわかった。
闇の中にあるからこそ、その花は眩しいほどの輝きを放つのだ。
何時間、何日経ったのか。
筆を置いた。
漆黒の闇の中、凛と咲き誇る一輪の白い薔薇が、俺を照らしていた。
とうとう、会えた。
君の薔薇に。
キャンバスが乾くまで、流石に少し眠ろうか。
いい絵だろ?
必ず届けるから。今度は、俺の気持ちも一緒に。
だから、少しだけ、待っててくれ。
這うようにして身体を横たえたベッドで、本当に久しぶりに、少しだけ笑った。
〈了〉
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彼女を初めて見た瞬間、僕は吸い寄せられるように彼女へ声をかけていた。
「すみません、好きです。付き合ってください」
自分でも正気とは思えなかった。常識を疑われても仕方がない行為だし、平手打ちを喰らっても文句は言えない。だが、彼女は驚いて少しだけ目を見開いた後、微笑んで頷いたのだった。
「はい。よろしくお願いします」
出会ってわずか数秒で、僕たちは恋人同士になった。
付き合い始めて間もない頃、僕たちは互いの幼少期の話をした。そこで判明した事実が、この異常な出会いに明確な理由を与えてくれた。
僕は幼い頃から、同じような夢を繰り返し見ていた。大人になった自分が、ある一人の女性と恋に落ち、穏やかな日々を過ごす夢。そして、彼女もまた、同じような夢を見ていたという。
「……それって、前世の記憶だったんじゃないかな」
彼女のその言葉に、僕は強く頷いた。僕たちは前世で恋人同士であり、運命に導かれて今世で再会を果たしたのだ。昔見た夢の答え合わせをするたびに、僕たちの前世の記憶は加速するように蘇っていった。
初めて二人で行った水族館のこと。僕の誕生日に彼女がくれた、少し不器用な手編みのマフラーのこと。くだらない理由で喧嘩をして、雨の中で仲直りしたこと。
さらに記憶を辿るうちに気がついたことがあった。前世の僕たちもまた、出会った瞬間に交際を始めていたのだ。
「もしかして、前前世でも僕たちは恋人だったのかな」
「そうかもしれない。ううん、きっと前前前世……、それよりもずっと前からそうなんだと思う」
今世で彼女と出会ってから、一ヶ月ほど過ぎた頃に事件は起きた。
僕たちの脳内には何十年分もの濃厚な愛の記憶が満ちている。
それを意識するようになった時、僕は少し冷めてしまった。
決して彼女のことが嫌いになったわけではない。ただ、刺激があまりにも足りなかった。付き合って一ヶ月にもかかわらず、老夫婦のような空気感だった。新鮮さは皆無で、会話の展開すら予測できた。
そうして、僕は魔が差した。
僕は別の女性と、一度だけ浮気をしてしまった。絶対にばれないはずだった。証拠は完璧に消したつもりだった。
しかし、付き合い始めて一ヶ月の彼女に、即座に見抜かれてしまった。
今世の交際期間は短くても、前世以前からの通算で言えば、彼女は誰よりも僕の癖や雰囲気を知り尽くした人物だったからだ。僕の立ち居振る舞いひとつで、すべてを察したらしい。
「もう二度としない。頼む、許してくれ」
僕は床に膝をつき、必死に頭を下げた。しかし、上から降ってきたのは冷ややかな声だった。
「許すわけないじゃない。……いったい何度私を裏切れば気が済むの?」
彼女の瞳には、怒りと呆れが混ざり合った深い陰りが宿っていた。
「前世でも、前前世でも……あなたはいつもそう」
その言葉を聞いた瞬間、脳奥の重い扉が勢いよく開いた。
怒涛のように蘇る記憶。
そうだ。思い出してきた。前世でも、前前世でも、前前前世でも、僕は同じように「新鮮味がなくなった」と言い訳して浮気をし、そして……。
僕の視線の先で、彼女が静かにバッグから何かを取り出す。刃渡りの長い、よく研がれた包丁だった。
「今世こそは変わってくれるかなって、ちょっとだけ期待してたんだけどな」
彼女が静かな足取りで近づいてくる。
かつて夢で見た前世の光景がフラッシュバックする。僕は抵抗を諦め、静かに目を閉じた。
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「相談したいことがあって君に会いに来たんだ」
と依頼主は言った。
「君、人の心の中が見えるっていう話を聞いたんだけど」
「それはただの噂だ」
「そうなのかい?だけど君ならば解決してくれるんじゃないかな って思って」
「とりあえず話してみてはくれないか。じゃないと何も解決できないからね」
男は話し始めた。
「毎日夢の中に現れる女性がいるんだ。とても美しい人なんだ。初めの頃はぼんやりと、だけど 近頃は明確に触れるくらいリアリティを感じるんだ。彼女は僕の運命の人なんじゃないかなって思ってる」
そう言って男は似顔絵を差し出した。
正直に言ってあまり上手い絵ではない。
だがその絵を見た時に感じたことがあったのだ。
「君の夢。正直に言ってあんまりいい夢ではないかもしれない。おそらく彼女は実在する人物だ。だけど出会えば君の身に不幸が降りかかってくるよ」
男は顔をしかめた。
「だけど……こんなことを言えばおかしいかもしれないけれど。僕は夢の中の女性に恋をしている。たとえ不幸になっても構わないから夢の中の女性に会いたい。彼女は、彼女は僕の運命の人なんだ!」
男はそう言って似顔絵を大切そうに持ち上げた。
「変なやつだと思っただろ。でも僕は真剣なんだ」
「いいや変だとは思わないさ、だけど不幸になるとしても?本当に君は彼女に会いたいのか」
「もちろん!」
彼はそう言って真剣な眼差しでこっちを見た。
「だったら私からできることは何もない。いずれ君は彼女と出会うだろう。だが本当にいいのか?彼女と出会えば不幸になる。私ならば その未来を回避するために『彼女の夢』を消してしまうこともできるが」
私がそう言うと男は黙った。
「それは嫌です。夢の中の彼女と出会うためならば僕は不幸になっても構わない。いいや、彼女と出会えれば僕は絶対に幸福になる。きっと他人から不幸に見えても僕自身は幸福なんだ」
「ならば私からできることは何もないよ。そのうち彼女に出会うことになるだろうから」
「本当に?」
「ああ」
「本当に僕は彼女に出会える?」
「ああ」
「なんて素晴らしいんだ!ありがとう!ありがとう!彼女は僕の運命の女性なんだ」
男はそう言って似顔絵の女性に口づけをした。
……運命か。
私はテーブルを後にした。これ以上相談に乗っても無駄だろう。
男は自分の運命を受け入れたのだ。
――口付け。
それは呪いにも似て、男の運命を決定づけてしまうものだ。
私が彼の姿を見たのはそれから数年経ってから新聞の紙面でだった。
情事のもつれでの殺人事件。
男は女を殺し、死刑判決を受けた。
留置所の中で男はずっと笑っているらしい。
そのことで弁護士は精神の異常で無罪を勝ち取ろうとしているらしいというのが書かれていた。
確かに、夢の女は彼を幸福にしたのかもしれない。
永遠に醒めぬ夢の中に彼はいるのだ。
もはやどんな音でも目を醒ますことは決してない。
夢に喰われてしまったのだ。
目覚ましの音は虚しく響き、やがて止まって、もう何の音もしない永遠の静寂ばかりが広がってゆくのだ。
――呼び鈴の音がする。
次の依頼主が私を呼んでいる。
次はどんな夢を見て、
醒めたいと望むのだろうか、
それとも夢の中に沈んでいきたいと思うのだろうか。
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突然降り出した雨は土砂降りで、とても止みそうにない。私はコンビニに駆け込んだ。
コンビニのビニール傘コーナーを探す。レジでお金を払って外に出ようと思ったけれどこの雨の中歩いて行くのはちょっと気が重い。しばらく雑誌コーナーにいたけれど雨が止む気配は全くないので仕方なく傘をさして駅に向かって歩き出す。
早くしないと出勤時間に遅れてしまう。
今日は夜勤だけど、引き継ぎ業務もあるからあまりグズグズはしてられない。ズボンの裾がかなり濡れてしまった。どうしてパンプスなんて履いてきたんだろう。……とはいえ長靴で出勤するわけにもいかないのだけど。
駅についてハンカチでズボンを軽く拭く。
改札を通り抜けようとした時、近所の女の子が困った顔をして立っているのが見えた。
「みゆきちゃん?」
近所の中学生の女の子だ。
こっちに気がついて軽く挨拶する。
「こんにちは」
「どうしたの学校の帰り?今日は部活だったの?」
「いえ、塾の帰りです。急に降り出してきちゃって」
「よかったらこの傘使う?」
「え、いいんですか。ありがとうございます。でも、それだと佐藤さんが困るんじゃ……」
「いいよ、これコンビニで買ったビニール傘だし。それに仕事場に着く頃には止んでると思うからね」
私はそう言うと彼女はおずおずと傘を受け取った。
「ありがとうございます」
ペコリと90度にお辞儀して彼女は雨の中を足早に走って行った。
そんな後ろ姿を見て、ふと昔のことを思い出した。
やっぱり中学生ぐらいの時だった、クラスにちょっと意地悪な田中君という男の子がいて私は苦手だった。
だけれどある時大雨で、今の彼女のように駅で足止めを食らっていた。そんな時、たまたま駅にやってきたその男の子がぶっきらぼうに傘を差し出して、
「やるよ」
と一言言って傘を私に押し付けて改札口の中に入って行った。
突然のことで私は何も言えなかった。
後日傘を返してお礼を言ったけど。
……今にして思えば、ぶっきらぼうだったけれどそれはきっと思春期にありがちなコミュニケーションの苦手さからだったのだろうなと思う。
私も当時は彼が苦手だったから、お礼を言うのも小さな声でやっとだった。今だったらもっと違ったのになと思う。
その一件から彼のことはあんまり苦手じゃなくなったけど、自分の方からコミュニケーションを取りに行くのは恥ずかしくってとてもできなかったっけ。
彼女を見送ってなんだか懐かしいような、ほろ苦いようなそんな気持ちが胸に広がっていった。
……どうしてるかな、田中君。
やはり子供時代の同級生というのは成長して学校が別々になったらもう会うことなんて滅多にない。
同窓会なんてものは全くないし、もちろん私の方から企画するような性格でもない。結局中学生の頃の同級生たちとはコミュニケーションは取らず今まで会うこともなかった。
みんなどうしてるんだろう。
懐かしい気持ちに浸っているうちに電車がやってきて私は仕事場に向かった。
夜勤明けの翌日。
眠くてぼーっとしながら家に帰ってきて昼食をとる。
今日の空は昨日の雨のおかげで澄み渡っていてどこまでも蒼い。
ピンポーン!
玄関のチャイムが鳴る。
「はーい、どちら様?」
私は扉を開けた。
「昨日はありがとうございました!」
みゆきちゃんとその父親だろうか、男の人が立っている。
すみません昨日みゆきが傘を借りたみたいで、これはほんのお礼です
男の人は菓子折りの入った紙袋を差し出す。
「ビニール傘ですからそんなお気を使わずに……」
顔をあげた男の人と目が合う。
「あれ?もしかして田中君?」
相手も同じようにきっとびっくりしたに違いない。
目をまたたいてこっちを見ている。
「もしかして、佐藤さん?」
「え、中学ぶり?みゆきちゃんのお父さんが田中君?」
みゆきちゃんはきょとんとしている。
「佐藤さん、お父さんの知り合いだったの?」
「中学生の時の同級生だったんだよ」
田中君は説明する。
何十年ぶりかの再会。
まさかこんな近くに住んでいたとは。
あの頃の記憶がよみがえり懐かしさが溢れ出す。
そして2人で目を合わせ、笑いあったのだ。
青天の空の下、笑い声が響き合った。
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よーし、予言をしてやる!
僕は明日の朝7時に起きる、それから朝ごはんを食べてトイレに行って玄関から靴を履いて出て、電車に乗って学校に行く。
いや、それは予言じゃなくて明日の予定だろ。
さてその予言が果たして当たったかというと、ものの見事に外れてしまった。朝になれば雨……じゃなくて爆弾が降ってきて、朝ごはんを食べている時間もないし、学校に行けば学校が吹き飛んでいた。
そんなバカな、きっとこれは夢に違いない。
家にもう一度戻って布団を頭からかぶって寝る。
それっきり、朝は来なかった。
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「部長! フリーアドレスを導入して、オフィス改革しましょう!」
A課長は熱心に説明した。
「どちらにせよ老朽化で備品交換が必要でしたから。エンゲージメントを上げる施策として、外部にもアピールできます」
「面白そうだね」
部長はうなずいた。
「A課長、ついでに机も大きくして、広々と開放感があるように頼むよ」
「わかりました!」
こうして、新しいオフィスが完成した。
社員からは大好評だった。
以前より誰もが周囲を見渡せるようになり、社員同士の距離も近くなった。
部長も満足そうにオフィスを見渡した。
「いやあ、ずいぶん開放的になったね」
ただ、誰も以前のように、少しだけ一人になれる場所を思い出せなかった。
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