奉仕AIの感情表現を教育するのが、私ことドールトーカーの仕事。メイド型の新しい子は、やたらと微笑んでくる。バグかと思ったら、「好きになってはいけませんか、マダム」だなんて。やめて、そんな純粋な目で見ないで。私が恋に落ちるたびに、貴女達は仕上がって、また私から去ってしまうのだから。
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道端で歯車を拾った。これは一体何の歯車だろう。
歯車が1つかけてしまったらその機械は動かなくなってしまうはずなのに。私は何の歯車なのかを調べてみた。だが一向にわからない。諦めて 私は歯車を放り出した。
それから数百年が経って気がついたんだ。あれはこの世界の歯車だ。世界のとっくに壊れていて、だから争いがたえないのだと。
そして世界はある日 崩壊した。
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最終の連絡船は、わたしが桟橋に着く三分前に出ていた。
白い船尾が沖へ小さくなっていくのを、キャリーケースの取っ手を握ったまま見送る。
あと三分。
駅からここまでの坂道を、もっと急いでいれば間に合った。
いや、本当は分かっている。
駅の改札を出たところで、一度立ち止まったのだ。
このまま実家に帰っていいのだろうか、と考えた。
母にはまだ、会社を辞めたことを言っていない。
そこで使った三分が、そのまま船との差になった。
次の便は明日の朝七時。
海の向こうの実家へ帰るつもりで乗った電車なのに、帰る前に足止めを食うなんて、わたしらしい。
仕事を辞めて二週間。
会社のグループチャットは、退職した翌日に抜けた。同期から届いた「元気?」というメッセージには、まだ返事をしていない。
母とのトーク画面を開くのは、それ以上に気が重かった。
荷造りだけを済ませて、逃げるように家を出てきたのだ。
「お姉さん、乗り遅れ?」
声に振り向くと、桟橋の脇の小屋の前で、エプロン姿の女性が湯気の立つ紙コップを持っていた。
六十過ぎだろうか。日に焼けた丸い顔が笑っている。
「はい……宿、探します」
「この時間は、坂の上の宿は満室よ。今日は祭の前夜だから」
「祭?」
女性は坂道の上を指さした。
ちょうど、家々の軒先にひとつ、またひとつと小さな灯りがともり始めたところだった。
手のひらほどの丸い提灯が、石段の両側に点々と上へ続いている。
「帰り灯。海に出てた人も、町を出てた人も、迷わず戻ってこられるようにって」
「昔からあるんですか」
「千年前からっていう人もいれば、百五十年前に宿屋の主人が始めたっていう人もいるわね」
「だいぶ違いますね」
「去年なんて、漁師の徳さんと郵便局の前の爺さんが、それで三十分けんかしてた」
思わず笑った。
久しぶりに、声を出して笑った。
女性も笑う。
「まあ、町の人は結局、どっちでもいいと思ってるのよ。灯れば」
女性はミツ子さんといって、坂の途中で喫茶店をやっているという。
「ご飯くらい食べていきなさい。宿はそのあと考えましょう」
断る理由が見つからなくて、わたしはキャリーケースを引きずって石段を上った。
ごろごろと音が響いて、少し恥ずかしい。
けれど町の人は誰も振り向かなかった。
軒先で提灯に火を入れていた老人が、手を止めて「こんばんは」と言った。
その向かいでは、小学生くらいの男の子が母親に叱られながら、傾いた提灯を直していた。
町は、わたしとは関係なく祭の前夜を迎えていた。
それが少しだけありがたかった。
喫茶「ともしび」は、六席しかなかった。
壁には古い海図。窓の外では、灯りの連なりが海へ向かって下っていく。
「食べられないものある?」
「特には」
「じゃあ名物ね」
出てきたのは、潮騒プリンだった。
固めのプリンの上で、ほんのり塩の効いたカラメルが波の形に流れている。
「最初は砂糖と塩を間違えたのよ」
「塩を?」
「そう。捨てるのももったいないから食べてみたら、案外いけた」
「それで名物に?」
「うちの名物なんて、だいたいそんなものよ」
ひとさじ口に入れる。
甘さのあとから、少しだけしょっぱさが追いかけてきた。
妙においしかった。
考えてみれば、会社を辞めてから、誰かが自分のために用意してくれたものを、こうして座って食べるのは初めてだった。
コンビニのおにぎりや、駅のパンばかりだった。
目の奥が熱くなった。
慌ててプリンに目を落とす。
「会社、辞めたんです」
自分でも驚くほど、するりと言えた。
ミツ子さんはカウンターの向こうでカップを拭いていた。
「そう」
それだけだった。
だから、続きを言えた。
「実家に帰るつもりなんです。でも、まだ言ってなくて。会社を辞めたことも、これからどうするかも」
「うん」
「帰ったら、何て言おうって、ずっと考えてて」
ミツ子さんはわたしのカップに紅茶を足した。
それから、窓の外を見た。
灯りが風に揺れている。
「私も一回、この町を出たのよ」
「そうなんですか」
「二十年くらい」
意外で、顔を上げた。
「東京?」
「大阪。喫茶店で働いてた」
「それで戻ってきたんですか」
「戻ったというか、まあ、いろいろあって」
ミツ子さんはそこで笑った。
「聞かないで。長いから」
少しだけ黙って、窓の外の灯りを見る。
「帰り灯って、戻ってくる人のための灯りでしょう」
「はい」
「でもさ」
ミツ子さんはカップを置いた。
「戻る場所があるってことは、出ていってもいいってことなんじゃないかって、私は思ってる」
少し考えてから付け足す。
「たぶんね」
窓の外で、風にあおられた提灯がひとつ、大きく揺れた。
向かいの家の老人が慌てて手を伸ばし、火が消えないように支えている。
わたしはしばらく、その様子を見ていた。
胸の奥に詰まっていたものが、なくなったわけではない。
ただ、少しだけ形が変わった気がした。
結局、宿は見つからなかった。
「二階でよければ寝られるから」
そう言われて、断る元気も、もう残っていなかった。
その夜は、喫茶店の二階の、物置になりかけた小部屋に泊めてもらった。
布団には、乾いた畳と、少しだけ潮の匂いが移っていた。
電気を消す。
天井の向こうで、風の音がした。
母に何を言うか、何度も考えた。
会社を辞めた。
しばらく休みたい。
心配しないで。
ごめん。
どれもしっくりこなかった。
スマホを手に取って、母とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは三日前だった。
《いつ帰るの?》
文字を打つ。
《明日の朝の船で帰る》
それだけ送った。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来る。
《うん。気をつけて帰っておいで》
もっと何か聞かれると思っていた。
会社はどうしたの、とか。
何かあったの、とか。
けれど、母は何も聞かなかった。
その短い返事をしばらく眺めてから、わたしはスマホを伏せた。
結局、その先の言葉はひとつも決まらないまま眠った。
翌朝。
七時の便に間に合うように桟橋へ下りた。
坂道の灯りはもう消えていたけれど、石段には蝋の跡が点々と残っていた。
昨日の夜が夢ではなかった証拠みたいだった。
「ほら、持っていきなさい」
桟橋まで見送りに来たミツ子さんが、紙袋を押しつけてきた。
中には、プリンがひとつと、手のひらほどの提灯がひとつ入っている。
「それ、予備」
「もらっていいんですか」
「次に来るとき、点けて」
「次、ですか」
ミツ子さんは、何を当たり前のことを、という顔をした。
「あるでしょう、次」
乗船を知らせるベルが鳴った。
わたしは船に乗った。
今度は、間に合った。
船が岸を離れる。
坂の上の小さな喫茶店がだんだん小さくなり、白い町並みに溶けていく。
実家に着いたら、まず何て言おう。
まだ分からない。
会社を辞めたことを話したら、母は驚くだろう。
父は黙るかもしれない。
この先どうするのかと聞かれても、答えられない。
それでもいいのかもしれない。
すぐに答えが出なくても。
膝の上の紙袋の中で、小さな提灯がプリンの容器に触れた。
こつ、と軽い音がした。
窓の外では、朝の海が光っている。
昨日引いてきたキャリーケースより、膝の上の紙袋はずっと軽かった。
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ミステリー・サスペンス
1323文字
約3分で読了
「昨日さ、金縛りにあったんだよ」
キーボードを叩いていると、ふと昨夜の出来事を思い出し、ディスプレイ越しに向かいの同僚の女に話しかけてみた。
「へえ。疲れてるんじゃないの? 睡眠麻痺って言うんだよ。脳だけが起きてる状態でストレスが原因なんだって」
「ああ、確かにここ最近ずっと月末みたいな忙しさだしね」
なるほどな、と彼女の博識さに感心し、そんなことの為に有給使うのもなぁと有給申請の書式ファイルを開いてみる。もう9月だっていうのに一日も消化してない。
「そろそろ彼女作ったら?」
「一応、アプリはやってるんだけどね。鳴かず飛ばず。どうやったらイイネ来るんだろ」
「ちなみにさ、見えた? 金縛りの時」
「それがさ、老婆や顔面蒼白の美女が乗っかってると思うじゃん。乗っかってたのはなんと白い立方体の箱だったんだよ。乗っかってたっていうか少し浮いてクルクル回ってた」
なにそれ、と彼女は笑う。僕だって『何これ』って思ったさ。
「天井に顔がぁ! とか言い出したら、それパレイドリアだよって言おうとしたのに。つまんない」
キーボードで「パレイドリア」を検索し、鼻で笑うと、何故かディスプレイ越しに飴玉が飛んできて額に当たった。
その日の帰り道。
アパートの目前で右足首に何かが這い上がる感触を覚え、年甲斐もなく僕は跳ねた。
脳裏をよぎったのは蛇。だったけど、そこにいたのはアスファルトの埃にまみれた薄汚いスライムだった。
驚かせやがって、と一抹の恐怖が安堵に変わるとスライムを足で側溝に寄せて落ちるまで見守る。
車に轢かれるよりはマシだし、たぶんそのうち流れていくだろう。
いつものように夕食という名の栄養補給を済ませ、コンビニのワインが侮れないという内容のSNSを上げ、いいねが10個来るまで無為極まりない一時を紫煙と共に過ごす。
ベッドに横になると、当然のように昨夜の事を思い出した。
でも、あれが白い立方体だったかいつの間にか怪しくなってきていた。
五面体だった気もするし八面体だった気もする。
白? いや真っ暗だったから灰色か青かもしれない。
そもそもなんで白だと思っていたのだろう。
そんなことを考えながら見た夢は、蛇に羽と火を与えて、お前はドラゴンだ、と任命する内容だった。
息苦しさから目が覚める。
まだ真っ暗で、また、身体だけが動かない。
ただ今日、僕の上にいたのは若い女性。
「老婆でも顔面蒼白の美女でもなくて残念だったね」
何がだ、と出ない声でツッコむ。
朝。
キッチンから届く音で目が覚めた。
「おはよー。もうパン焼けるから顔洗っておいでって、あれ? 顔色悪いよ?」
「ああ、またなんか、金縛り、だった気がする」
「疲れてるんだよ。有給今週末からだよね。私も休みだしゆっくりしようね」
「そうだっけ?」
そうだっけ? と思い、僕は会社に着くなり有給申請履歴を確認する。
やっぱり、と言うべきなのか、申請受諾の社内メールが届いていた。
「なぁ、僕いつ有給申請してた?」
「先週じゃなかったか?」
返ってくる同僚の声に違和感を覚え、ディスプレイを避けて覗いてみる。
「お前、女じゃなかったっけ?」
「はい? お前何言ってんだよ。いくらなんでも疲れすぎだろ」
僕はなんだか不思議な気分になって、デスクに転がっていた飴玉を口に放り込んだ。
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あなたが褒めてくれた字で綴る。
あなたとあの男が、恋仲になるための文を。
――
「え!?すごい、上手〜!」
同じ学校で同じクラスだったけど、初めて喋ったのは小学校低学年の頃、親に言われ嫌々通った書道教室。
自分の字が教室の先生による「お世辞」以外で、褒められるなんて夢にも思わなかった。
騒いで先生に怒られるあなたを、私はクスクスと笑った。
ハキハキと主張するあなたと、ボソボソしゃべる私。
屈託のない明るい笑顔と、暗く生意気な真顔。
教室の中心と、隅。
全く正反対の私達だったけれど、不思議と好きな漫画やアニメの趣味が合った。
「ねえ、今日も一緒にお弁当食べよ!」
でも仲良くなれたのはそれだけじゃないって、分かったときがある。
昔からどうしたって目立つあなたは、誰かに靴を隠されてしまい、結局見つからなかったとき、私の靴を片方ずつ履いて帰った。
「……ありがとう。」
あの時は靴を履いてない側の足の痛みより、あなたの泣きじゃくる顔の方が私の心を痛めた。
『明るい人物』の奥には、私と通じるところがあったんだ。
そんな、どこか根っこの部分が似ている私達はずっと一緒にいた。
上級生になっても、中学生になっても疎遠になるどころか、ずっと私を輪の中にいれてくれた。
グループの他のみんなも、少し見た目が派手で怖かったけど、意地悪どころか私のたまに言う冗談によく笑ってくれる。
……そして、あなたは恋をした。
一つ上の先輩だった。
私を除いて誰もが、お似合いだと言った。
でもあなたの臆病な部分が、今どきラブレターで想いを伝えたいとか言い出す。
何度も書いたらしい。
でも自分の字が汚くて、恥ずかしくて全部クシャクシャに丸めたんだとか。
「こ、こんなお願いできるの、あなただけなの!
代筆してくれない!?」
「えー、付き合ったらどうせバレるよ?」
違う、本当はそんな理由で断りたいんじゃない。
「いいの、いいの!ねえ親友のお願いだから!」
――
……仕方なく引き受けた。
私は私の好きな人が、別の誰かと付き合う手伝いをしている。
あなたと出会わせてくれたこの『字』で。
一字書くたび、自分の気持ちを自覚する。
一文書き終えるたび、私の心はひび割れる。
でも、だからこそ。
大切なあなただからこそ。
今、幸せを願って『句点』をつけた。
続きを読む
「何でもいいよ」
これまでの恋愛で
一番言ったセリフ
じゃないだろうか。
でも
あなたといると
「これ!」って
自然に言える。
あ、きっと
あなたが
「どっちがいい?」って
聞いてくれる人だから。
『あたらしい顔』より
続きを読む
どのカードを切る?
あなたの表情を
観察する。
あなたとは
恋人になって
そろそろ5年。
友達の期間も合わせれば
もっと。
あなたを動かす
カードだけは手元にたくさんあるのに
なぜか
カードが切れない。
こんなもので
繋ぎ止めてしまって
いいのだろうか。
続きを読む
深く深く
落ちていく。
泡の音?
水の音?
暗い。
息苦しい。
深海魚のなき声が
ちかい
あ…ちがう。
これは
あなたへの未練の声。
もう戻りたい。
地上へ。
続きを読む
あなたは
月なのかな。
いろんな顔があるね。
この前は
とても綺麗で儚くて
今日は少し寂しげ
いつか
スルッといなくなりそうで
寝てるあなたの
前髪に触れた。
『転がる輪郭』より
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以下に記す記録は、旧舟朽国の山間にある廃村の土蔵より、大正十年頃に発見されたものである。筆者は不明。
紙は異様なまでに腐朽していない。
筆致は執拗な熱を帯びているように思われる。
特筆すべきはその文字を形作る墨である。
いや、本当に墨なのだろうか。それは墨よりも濃く深く、光を奇妙なほどに吸収し、世界の裏側を映し出す闇のように思えた。
何人もの民俗学者がこの記録を単なる昔話だと笑い飛ばしたが、彼らはその後、意味不明な言葉を遺して消えた。
私は、この物語を読み終えたあなたが、彼らと同じ道を辿らぬよう願う。しかし、その言葉を、私は持ち合わせていない。
壱:侵入者
老人が畑を耕していたのは、正午を少し過ぎたころのことだった。空の青さが彼に重くのしかかる。
老人が顔をふと上げたとき、畑の端にそれは佇んでいた。
狸か、そう思おうとしたが、彼の脳がそれを否定した。
それの眼は狸のものではなかった。いや、違う。彼の知るいかなる生き物のものでもなかった。金と黄の混じったような虹彩に細い瞳孔が縦に入っている。その奥の瞳孔の色は……。
老人は思考を停止した。本能的な恐怖、拒絶反応からだった。
これをそのままにしてはおけない。意外なほど素直に捕らえられたその侵入者を、老人は震える手で縛り上げ、物置の柱にくくりつけた。
偽:婆汁
老人の妻が物置の闇へ足を踏み入れたとき、それは啜り泣いていた。
正確には、人間の啜り泣くという行為を正確に模倣していたと考えられる。
縄を解いてやれば、この哀れな生き物は救われる。救ってやらねば……。老婆はそう思った。あるいは、そう思わされたのかもしれない。
それが何をしたか、詳細を記すことは差し控える。
しかし、結果として老婆の本質は取り出され、それの一部となった。残された肉体は鍋の中で静かに煮えた。
老人が帰宅したとき、炉端からは汁の香りが漂っていた。
老婆の皮をかぶったそれは完璧に老婆に擬態した。不自然なところはどこにもなかった。
「おじいさん、おかえりなさい。疲れたでしょう。汁ができていますよ」
老人は何も疑うことなく食べた。旨かった。妻にも食べるよう促したが、老婆は黙って微笑むばかりだった。
惨:捕縛
翌朝、それは黙って去った。老婆の皮を丁寧に畳み、畑の中央に置いて去った。
老人は三日三晩その場から動けなかった。
老人の前に現れたのは、一羽のウサギだった。真っ赤な燃えるような眼をしている。血ではない、怒りの赤だ。
ウサギはそれのことを知っていた。その名を知っていた。
「おばあさんの敵を討たせてあげよう」
ウサギは一度も老人を見ることなくそう言い放った。
ウサギのその言葉に頷いた老人は正気を取り戻したかに見えた。
一筋の光すら見つけられない闇の中。そこはこの世の裏側へとつながる異界への入り口だった。
それが不敵な笑みをうかべ、満足そうな様子で苔むした大木の根元でうずくまっている。その濁った金の眼だけが鈍い光を放っている。
それの背後から音もなく現れたのは、あのウサギだった。ウサギはさも親しげにそれの名前を呼んだ。(注1)
※注1ウサギが呼んだ名前はおおよそ人間には発語できないものであったと記録されている。
それがもし今も空腹であったならば……間に合ったかもしれない。しかし、それが振り返った時にはすでに遅かった。
ウサギは銀の縄を一気にそれの体に巻き付けた。おそらく呪術的な効果が付されているその縄は、それの体をぎちぎちと締め上げた。
「さぁ。復讐だ」
屍:復讐
薪を背負わせたそれの背後でウサギは火打石を打った。
カチカチ、カチカチ。
「その音はなんだ」
それは尋ねた。人間の声を模倣しているが、感情は感じられない。
ウサギは答える。
「鳥だ」
ウサギの声からも一切の感情が欠落している。老婆に対しての哀悼も、それに対しての憎しみもない、凍てついた湖面のような平坦さであった。
それの背中に火が付いた。
ウサギはそれを泥の船に乗せた。船は湖の中央でほろほろと崩れ始めた。
それは沈みながら嬉しそうに笑った。初めて見せた歓喜のように見えた。
船が、船と共にそれが、沈むのを確認するかのようにウサギはしばらく湖面から目を離さなかった。
何かが湖の底で脈打っているように、水面が上下しているのを感じた。まるでそれが呼吸しているかのようだった。
獄:永劫
ウサギはそのあとすぐに姿を消した。
老人は回復せず、それ以降一切の食事をとるのをやめた。深夜に湖の方を向いて座り、動かない老人を近隣のものが目撃している。
老人はほどなくして死んだ。老人の死体はその腹部だけが異様に膨れ、熱を持っていた。死後、老人の口からは、温かいままの「汁」が湯気を立ててどろりとあふれ出たという。それはあの日、老婆に成り代わった「それ」が老人にふるまったあの時のままのものだった。
老人の体が自分の妻を体内にとどめておくことを選んだのか、それとも……。
村はほどなくして廃村になった。理由の記録はない。
湖は現在も存在している。目を凝らしてみると、今も微かに、微かに水面が上下している。
廃村の理由を記した記録はなかったが、土蔵には爪でひっかいたような無数の文字が残されていたことを最後に記しておく。それは我々の知る文字でもなく、知られたる言語でもなく、ただ執拗に繰り返される記号のようなものの羅列であった。
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