あたしは快食快眠働き者が自慢の村娘。だけど最近は変な夢見で眠りが浅い。夢の中で誰かに会って、体がぽわぽわふわっとした心地になる。神官様に相談したら、血相変えて「夢魔に魅入られている」だって。今度お祓いするらしい。でも、悪さをされているのかしら。だってその人、後光が差してるんだよ?
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(どうしよう。こんなことなら、『町』になんか来るんじゃなかった)
見知らぬ通りを方向感覚を頼りに必死に走る。
背後から揶揄するような声を上げながら男たちが追いかけてくる。
すれ違う人々は、彼女の窮地を目にすると、一様に目を逸らす。
「助けて!」
彼女の悲痛な叫びを聞きつけたのか。
衛兵らしき男が脇道から顔を出した。が、彼女が誰に追いかけられているのかを悟ると、憐れみの籠った一瞥を投げるだけ。素知らぬふりで近くの店舗へ。ぱたんと扉を閉めてしまう。
何てこと!
治安がなってないってことは聞いていたけど。
(お母さまの言いつけを守って、用事を済ませたらすぐに帰ればよかった。余計な事なんかしなきゃよかった。もうすぐ日が暮れてしまう。どうすればいいのかしら?)
華奢な身体に不似合いの大きなバスケットを抱え、真っ赤なマントを翻しながら、彼女は宵闇の町をひたすら走っていた。
* * * * *
彼女が生まれ育ったのは、森の奥地にひっそりと築かれた、訪れる人もないような隠れ里。
ここ何世代もの間、一族はひっそりと人知れず自給自足の生活を送っている。手に入らない必需品のみ、近くを通りかかる隊商から物々交換で手に入れて。
今年は冷夏で秋の実りが少なく、一族が棲む森の恵みもごくわずか。この冬をどうやって越せばいいのか悩んでいたところに、最年長の祖母が病に倒れた。
食べ物にも事欠く日々。
祖母の容態は悪くなる一方だった。
見かねた誰かが、大きな町に行けば薬草が手に入るかもしれないと言い出し、若く可愛らしい彼女が『町』に買い物に行くことを申し出たのだが。
初めて訪れた『人がたくさん住む町』。
見たことがないほど多くの人。子どもや女たち。そこら中に漂う美味しそうな匂い。
町で一番人通りが多い場所は『市場』と呼ばれ、様々な物を扱う店でにぎわっていた。少なくとも、彼女の目にはにぎわっているように見えた。
彼女の住処に比べれば、ここは多くのものや『食べ物』に溢れている。
「おーい、そこのお嬢さん、この串焼き食べてみないか?塩漬け肉を戻して焼いたもんだが、まあまあの味だぜ。安くしとくからさ」
ぐうぐう鳴るお腹を宥めながら歩いていると、出店の店主が景気良く声をかけた。
「串焼き?塩漬け肉の?」
小首を傾げて考え込む彼女に、店主はすまなそうに言った。
「ここんとこ異常天候でさ、家畜がいかれちまって。生肉が高くて、備蓄用の塩漬けくらいしか庶民には手に入らないのさ」
ほら、味見用、と差し出された小さな『串焼き』をしげしげと眺める。
妙な匂いがするが、とりあえず獣の肉なのは確かだ。ふうふう息をかけて冷ましてから、一口齧ってみる。思ったほど不味くはない。
お金はそれなりに与えられている。効果のあやしい薬草だけじゃなく、問題がなさそうな食べ物を買って帰ればいいのでは?
(そうよ。滋養に富むものを口にできれば、おばあ様の体調はきっとよくなるわ)
手にしたメモを参考に薬草屋台で薬草をいくつか買うと、彼女は残ったお金でそこらで売っている『食べ物』を買いまくった。
様々な類の串焼き、干し肉や塩漬け肉、卵やカモ肉の燻製まで。最後まで持ち運ぶ自信がないので生肉は止めておく。
彼女は、慣れぬ場所でたった一人、懸命に見よう見まねで、持っていたお金すべてを使って買い物をした。
たぶん、それがいけなかったのだろう。
気が付いたときには、辺りは昏く、周囲の人だかりもウソのように消えていて。
いかにも柄の悪そうな男たちに囲まれていた。
「おい、そこの赤いずきんを被った女、えらく羽振りがよいようだな。どこから来た?」
脂の乗り切った体つきのでっぷりと太った男が立ち尽くす彼女に言った。
男たちの一人にずきんを払いのけられ、彼女の素顔があらわになる。
ふわふわとした柔らかそうな赤みがかった巻き毛。長いまつ毛に縁どられた淡い茶色の瞳にピンクのふっくらとした唇。
おびえたように身をすくめる様は、男たちの嗜虐心を妙にそそった。
「こりゃ、驚いた。上玉じゃないか」
しばしの沈黙の後、傍らの男の一人がため息交じりに呟くのが聞こえた。
情欲を帯びた、舐めるような不躾な視線に晒されて、彼女は顔を伏せて身を震わせた。
最初に声をかけてきた主らしき男が下卑た笑みを満面に浮かべた。
「気にいった。娘、お前、私の屋敷に来い!私はこの町の代官だ。言うことをきけば、いい思いをさせてやるぞ」
肥えきった頬がプルンと震え、脂ぎった丸々とした腕が、彼女の方に伸ばされた。
酒臭い息。饐えたような男の体臭が鼻につく。
だめよ。ここじゃ、まずいわ。逃げなきゃ。
一瞬の逡巡の末、ごくりと唾を飲みこむと、彼女は男たちにくるりと背を向けた。
「逃がすな!」
男たちと彼女の追いかけっこが始まった。
* * * * *
走って、走って、走って。
ようやく町の出口に差し掛かったそのとき声がした。
「ここまでだ。あきらめな」
数人の男たちが目の前に立ちふさがった。
どうやら先回りされたらしい。
「代官様がお待ちだ。あのお方はああ見えて、気前のいい方だ。少し我慢すれば、贅沢だってできる。このご時世、悪い話じゃないだろ?」
一番大きな男がこぶしを鳴らしながら、にやりとした。
「そう怯えるなよ。俺たちも後で可愛がってやるからさ」
無駄なく筋肉がついた男の腕が彼女の華奢な肩をがっちりと捕らえた。
「ほら、観念して、こっちへ来な」
彼女はちらりと空を見上げた。
どんよりと曇った夜空に月はまだ見えない。
帰らなくちゃ。月が昇る前に早く。そのためには・・・
「おまえたち、そこで何をしている?」
覚悟を決めた彼女の耳に、静かな、だが威圧的な男の声が響いた。
* * * * *
街灯の明りが照らし出す男の姿に、彼女は直前の決意も忘れて、目を見張った。
襟元を覆うくらいの艶やかな黒髪。やや吊り上がったアーモンド形の漆黒の瞳。すっと通った鼻筋に魅惑的な弧を描く赤い唇。
威厳に満ちた雰囲気から考えて、そう若くはないだろうが、壮年には程遠そうだ。
こういう美貌を人間離れしていると人は呼ぶのだろう。きっと。
ただ話しかけているだけなのに、その仕草は洗練され、気品に満ちている。
(上位貴族なんじゃないかしら?王都に住んでいるという特権階級の?剣は持ってないようだから、『騎士』ではなさそう)
真っ黒な服と黒いマントは、彩がなくても見るからに上等そうだ。
悪党たちを冷たく睥睨して、その紳士は彼女に優しげな笑みを向けた。
「この男たちはあなたに用があるようですが、あなたはどうです?」
問いかけられて、おずおずと首を振る。
男は彼女を背に庇うように、前に踏み出し、一言「去れ!」と命じた。
途端におとなしくなり、すごすごと戻っていくならず者たち。
その聞き分けの良さをちょっと不思議に感じながらも、彼女はほっと息を吐いた。
* * * * *
森の近くの村へ帰るのだと告げると、黒衣の男は、親切にも馬車で送ってあげようと言ってくれ、彼女を町のすぐ外側に停車した馬車まで案内してくれた。
「危ないところをありがとうございました。馬車にまで乗せてくださるなんて。ご親切ありがとうございます。ご迷惑でなければいいのですが」
よく手入れされた手につかまって、生まれて初めてのエスコートで馬車に乗る。
バスケットを預かってくれた御者は一瞬、怪訝な顔をしたが、結局、何も言わなかった。
向かいに腰を下ろした男が鷹揚に言った。
「大したことではない。礼を言う必要はありませんよ」
なおも礼を言おうとする彼女を、男が軽く手を上げて押しとどめる。にっこりとほほ笑みかけて
「たまたま通りかかった場所で、あなたのような可愛らしいお嬢さんに巡り会えるなんて。私の方こそお礼を言いたいくらいです」
ずきんの中のほんのりと染まった顔を覗き込む。
「ご存じなかったのでしょうが、最近、この界隈は物騒でしてね。若い女性が夜な夜な姿を消す事件が続出しているのです」
全然知りませんでした、と呟く彼女に頷いてみせる。
「最近は、夜間、村や町の外に出る女性はほとんどいません。日が暮れると、みんな家に閉じこもってしまう。仕方なく、馬車で一帯を徘徊していたのですが・・・私は今夜、ついているようだ。あなたに会えて本当にうれしいのです」
「あのお、お貴族様」
「私のことは、そうですね、『伯爵』とお呼びください、赤いずきんの可愛いお嬢さん」
「伯爵さまは、どうして、夜、このような場所にいらしたんですか?御者一人だけをお供に?護衛一人連れていらっしゃらないようですが」
怪訝そうに尋ねた彼女に、『伯爵』は下を向くと、肩を震わせて笑いだした。
「伯爵さま?あの、どうかされました、伯爵さま?」
ややしばし笑い続け後、『伯爵』はようやく顔を上げた。
「これは失礼を。久しぶりに上等な食事ができそうで、嬉しくて思わず笑みが」
形の良い赤い唇の両端には鋭利な巨大な『歯』が覗いていた。
真っ黒な瞳は、白目の部分までもが鮮血の赤に変わっていた。
「まさか、あなたは」
呆然と目を見開く娘に、『侯爵』は答えた。
「我は夜の気高き貴族、夜の覇者、吸血鬼。さあ、娘よ、お前の香しい血を味わわせておくれ」
甘く囁くと、少女のずきんを優しく脱がす。頬をなぞった指がその白い首筋にそっと愛戯するように触れた。
* * * * *
(吸血鬼?吸血鬼ですって!?まさか、まだ存在したなんて・・・)
首筋を撫でる死人のように冷たい手。赤い瞳に浮かぶ、隠しきれない獰猛な飢え。人にはあり得ない、鋭くとがった大きな犬歯。
何てことだろう!こんなところで吸血鬼に会うなんて。
「おばあ様が死にかけているんです」
ぽつりとこぼれた言葉に、今にも首筋に歯を立てようとしていた吸血鬼の動きが止まった。
「あなたに会えて本当によかった。これで、おばあ様を助けることができる」
目の前の少女の頬に涙が一筋、二筋としたたり落ちていた。
雲間から月が顔を出したのか。
馬車の窓から差し込む月光が、泣きながら笑うまだ幼さの残る顔を照らす。
「吸血鬼の肝は万能薬。その肉は何よりも美味しく滋養に富む。あなた方吸血鬼は心臓に杭を打ち込まれない限り、日光に当たらない限り、絶対に死なない。私たち《人狼族》》にとって、どれほど食べても永遠に尽きない糧、夢の御馳走。何という幸運でしょう!朝日が昇れば血痕一つ残らない、素敵な『獲物』を見つけられるなんて」
微笑む口元が耳まで裂けた。琥珀色の虹彩が獣のものに代わり、金色に光る。愛らしい顔が見る間に獣顔に代わり、膨れ上がった体躯に服が弾け、赤いコートが宙に飛んだ。
毛むくじゃらの腕が『伯爵』の喉を一撃で潰し、腕を、足を掴むと、無造作に捩じり取った。
* * * * *
朝になって、商用で町に向かう商人が、無残に破壊され、放置された馬車をみつけた。
貴族のものではないかと思われる豪華な馬車の残骸。付近に人影はなく、馬も見当たらない。
いったい何があったのだろうか?
おそるおそる中を覗き込んで見つけたのは、赤いずきんとマント、千切れた女ものの服一式だけ。
商人が持ち帰った見覚えがある赤いずきんに、町の住人達は、代官の手下に追われて町を出た『可憐な少女』のことを思い出した。
少女の身に何が起こったのかはわからなかった。けれど、このありさまでは、彼女はすでに生きてはいないだろう。
少女の悲惨な運命に思いを馳せ、自分たちの非道な仕打ちを反省した町の住人。
彼らは、名も知らぬ少女の冥福を祈って、教会の墓地に彼女の残した服の切れ端を埋めて墓を作った。
その碑に刻まれた言葉は
~ 神よ、どうか我らが罪を許したまえ。赤いずきんの少女の無垢な魂に永久の安息を与えたまえ~
The End
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初めての症例は、アジアの大陸の片隅、小さな村に住む十四歳の少女。
まず、彼女の黒髪に金色の毛髪が混じり始めた。たった一週間で背中半ばまで伸ばされた黒髪はすっかり金髪に置き換わった。次いで、腕や脚に白い羽毛状のものが生えた。毛穴から生えているらしく、生える時には痒みを伴うようだ。少女は皮膚を掻きむしるようになり、綺麗な肌は細かな傷が増えた。
決して裕福ではなかった少女の家。少女の両親は、娘の体から羽毛が生え出したことで、なけなしの金を集め、隣町の病院へ娘を連れて行った。
町医者は少女のその様にあんぐりと口を開け、こんな症例は見たことがない、と同じ言葉を繰り返すばかりで役に立たなかった。
町医者が唯一この件で役に立ったのは、すぐさま大きな街の大学病院に連絡を取ったこと。金がない、それでも娘のことは助けたい、そう泣く両親は、いざとなれば内臓でもなんでも売る覚悟で、娘を連れて町医者の手配で大学病院へ向かう。藁にもすがる思いだった。
大学病院へ着いて早々、名前も知らない機械で、名前も意味も知らない検査をたくさん受けた少女に起きた、最後の異変。
肩甲骨が、まるで翼の成り損ないのような形状に隆起した。
少女は痛がるでもなく、ただ、発熱と意識の混濁に見舞われ、肩甲骨の隆起で仰向けで寝られなくなった以外は、比較的穏やかに過ごし、謎の症状が始まってからちょうど二ヶ月後に眠るように息を引き取った。
この症状はその後、主に各国の有色人種に多く見られるようになる。少女の体が呈した症状のいずれかから始まり、症状が確認されて二ヶ月から三ヶ月で死亡する。
今のところ、致死率は百パーセントの未知の病だった。
そしてこの病は、誰が言い始めたか、いつからか天使症候群と呼ばれるようになる。
高梨沙知は、今年で高校二年生になった、子供と大人の狭間を歩く多感な時期の女の子だった。
学校では吹奏楽部に属し、フルートを吹いていた。成績は中の中から上程度。特に特別なんて持っていない女の子だった。
その日、沙知はいつものように、放課後の音楽室で仲間たちと合奏練習をしていた。
「さっちゃん、さっちゃん」
合奏でいつも後ろにいるクラリネットの美穂に声をかけられる。
「なあに、美穂」
「さっちゃん、ごめんね、なんか白髪?にしてはきらきらした毛が生えてるよ」
「えっ、白髪⁉︎やだやだ、まだ早くない?」
「たまにあることだよ。でも後ろから見てて気になってさ、私でよければ抜こうか?」
「お願いしていい?」
髪が引っ張られる感覚が一瞬。痛みはなかった。
翌日、沙知が朝起きていつも通り洗面所に向かった時に、眠い目を擦りながら見た鏡には髪がまばらに金髪になった自分の姿があった。
テレビで最近よくやっている謎の病のことが脳裏を駆け巡る。
沙知の喉から甲高い悲鳴が迸った。
フライパンで目玉焼きを焼いていた母親が大急ぎで洗面所に駆け込んでくる。父親は驚きすぎて、コーヒーの入ったマグカップを持ったまま呆然としていた。
「沙知!どうしたの⁉︎」
「お、おかあさん」
「沙知!沙知!その頭どうしたの!沙知!」
母親の頭にも沙知が考えたことと全く同じことが浮かんでいた。
天使症候群。
未知の病。
致死率百パーセントの、不治の病。
「お父さん!」
母親が叫んで初めて、父親は飛び上がるようにダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。
沙知は即座に病院に入院することとなった。
テレビの向こう、SNSの向こう側にしかなかった事象が沙知の体に起きている。
それはまるで夢でも見ているような心地だった。ただし、その夢には甘さも優しさも、やわらかいものは針の先ほども含まれていない。
すぐには死なない。特に大きな苦しみもない。ただ、死ぬことだけは確約された病。
それは真綿で包んだ有刺鉄線で首を締め付けられているような感覚だった。
天使症候群は空気感染しないことだけはわかっていたため、沙知の両親はしばらく隔離された後、発症が確認されなかったために帰宅を許された。ただ、沙知への面会権については「天使症候群についての情報の流出による無用な混乱を避けるため」というお堅い理由で一切許されなかった。
沙知はその日から、患者であり、同時に検体になった。この未知の病を治そうとする者もいれば、己の様々な欲を満たすことが最優先の研究者もいる。彼らの目は、沙知をただの特別を持たない女の子でいさせることは許してくれなかった。
面会が許されない代わりに、表情の乏しい看護師が外からの手紙を持ってきてくれた。そこには、母の整った字と、ごはんはちゃんと食べて先生の言うこと聞くのよ、という優しい言葉があったり、沙知の字に似た癖のある字で、語彙の少ない父からの、それでも温かい心配の気持ちがあった。
クラスや部活の仲間からの色紙が届く日もあった。カラフルなペンで彩られてたくさんの筆跡が並んだそれは、ベッド横の棚に見えるように立てかけてある。
美穂からは、色紙のほかに手紙も届いた。沙知と美穂が二人で放課後に行った文具屋でおそろいで買ったキャラクターものの便せんに、美穂の丸っこい女の子らしい文字が並んでいた。
絶対にまた一緒に演奏しようね、という美穂が綴った最後の一文に、沙知はうまく笑えなかった。
沙知はもらった手紙にも色紙にも返事を書かなかった。
正確に言うならば、書けなかった。
「ペンなどの尖ったものは、持ち込みができません」
これは、手紙への返事が書きたいと言った沙知に看護師が無表情で言い放った言葉だ。
沙知は幼いころから察しがいい子供だった。だから、尖ったものが持ち込めない、その意味がわかってしまった。
きっと病院側は、沙知が自分を傷つけたり、あまつさえ自殺などをすることを恐れているのだろう。そして、多分きっと、それは沙知が完治する前に間違いがあってはならないという意味ではなく、貴重な検体が失われることを防ぐ大人のエゴであることも察してしまったのだった。
沙知は二度と手紙の返事が書きたいとは口にしなかった。
看護師にあの時と同じ言葉を言われるのが恐ろしかったから。
沙知にとって、髪が金色になることより、腕から一枚の小さな羽毛が生えてきたことより、自らが人間という舞台を引き摺り下ろされたような感覚が耐え難かった。
血液検査を毎日行うから、腕は採血の痕だらけで青くなっていたし、レントゲンや内視鏡、CTやMRIも日替わりで行われる。
患者としての沙知の呼び名は高梨さんだったし、検体として何か番号を振られていることも医者たちの間の会話で知っていた。
規則正しい生活、勉強や部活動の代わりに日常に差し込まれた様々な検査、友達とコンビニで買い食いした菓子パンの強い甘みは遠い過去のもののようで、質素な病院食はまるで味がしなかった。
沙知が恐れていたのは、自分の姿が変わっていくことではなく、自分という存在が揺らぐことだった。症状が進行する度に、沙知は自分が人間を辞めさせられている気がしていた。それは心をカンナで少しずつ削り取られ、形を変えられていく辛さだった。
沙知の染めていなかった暗い茶色の髪が金色に染まり、腕や脚にはやわらかくて上質な羽毛が広がっていた。肩甲骨は少しずつ盛り上がり始めている。入院してから一ヶ月と三週間経っていた。
鏡を見ることも、ふわふわの純白の腕を見ることも、怖くはない。
それでも、呼び名が高梨さんですらなくなったとき、さすがに沙知は取り乱した。
「検体のバイタルは」
「安定しています」
「……あの、先生、検体って」
「ああ、気にしないで。こちらの話だから」
「先生、私、高梨です、私の名前、高梨沙知です」
「うん、うん、わかってるよ、落ち着いて」
「先生、検体の心拍、上昇しています」
「だから!検体じゃありません!高梨沙知です!私は!私は!」
「あー、鎮静剤の投与を。それから拘束具の用意」
「はい、先生」
沙知が名前すら失った日、鎮静剤で朦朧とする意識と、両手両足に嵌められた拘束具で涙を拭くこともできずに一晩泣き明かした。
毎日来ていた外からの手紙が来なくなって一週間以上が経っていた。
沙知は、自分がきっとこの白い部屋の中ではもう人間ではなくなってしまったのだと悟った。
沙知が名前と一緒に人間であることを取り上げられたあの日から数日経った。
もう誰からも手紙は届かない。
唯一、人間だった頃と変わらず許されていた娯楽のテレビで観たワイドショーでは、天使症候群は汚れた人間が天使という高尚な存在に浄化されていく現象である、と叫ぶ集団がいるらしいと特集が組まれていた。
そのワイドショーの特集の観た沙知は、悲しむでも怒るでもなく、少し納得した。確かに沙知はこの病のせいで、人間ではなくなっていく自分をずっと感じてきたからだ。だが、それももうすぐ終わる。沙知にはなんとなくそれがわかっていた。
ここ数日、熱がある。そして日毎に肩甲骨はその形を変えていた。
きっと、これがこの病の最終段階。
最近は仰向けで寝るのが少し辛い。肩甲骨が邪魔をするからだ。
「私、別にキリスト教じゃないけど、お迎えには天使が来るのかな……それとも自分で飛んでいくのかな」
昼食のスープは薄味で、口に入れたスプーンの金属の味の方が強く感じられるのではないかと思えるほどだった。
無機質なスプーンを唇に当てる。無性に、あの音楽室でフルートが吹きたくなった。お同じ金属製でも、スプーンに息を吹き込むことはできない。フルートのやわらかい冷たさが恋しかった。
西陽が強く差し込むあの教室で個人練習がしたくなった。母親の作った夕飯を食べ、年頃の娘との会話に困る父親とぎこちないコミュニケーションをし、寝る直前まで友達とメッセージを送り合う。そんな日々が特別だったのだと、沙知は初めて愛おしく思った。
半分も食べられなかった昼食を残して、沙知は体を横向きにして静かに眠った。
どうやら沙知の病状は本当に最終段階に入ったらしかった。
発熱と意識の混濁。
沙知の腕には点滴の管が刺され、ここ二日はもう食事も自力では摂れなくなっていた。
睡眠と、意識の浅い浮上を繰り返す。ふわふわとした心地だった。
ふと、沙知の意識が浮き上がった時、既に夜も更けているようだった。
照明が消された部屋、静かな廊下、時計の秒針の音すらしないはずの部屋で、沙知はフルートの音色を聞いた。コンクールの課題曲で、沙知が一番好きなところだった。素早い運指が難しい代わりに美しいメロディーが特徴的な、沙知のパートの見せ場だった。
「さいごに、沙知って、呼ばれたかったなぁ」
誰にも聞かれることのない最期の願いは、一筋の涙と一緒に白い枕に吸われて消えた。
高梨沙知、十六歳。検体番号三〇二八四JPは、吹奏楽部の夏のコンクール前日に息を引き取った。
コンクールの三日後、沙知の訃報を聞いた仲間たちは泣いた。クラリネット担当の美穂が、沙知の名前の書かれた楽譜ファイルを抱きしめて嗚咽に濡れた沙知の名を何度も、何度も呼んだ。
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ポストに封筒が落ちる、コトン、という音を聞いて、私は再び歩き出した。
北の町にあるポストは、円筒形の、古いタイプのポストだった。
こういうポストは観光客向けの演出として残されているものだと思っていた。偏見なのは分かっているけれど、街が持つ歴史とポストが持つ歴史にズレがあるような感覚を覚え、どうも好きになれなかった。
でも私の目の前にある赤い円筒形のポストは、ひっそりとした立ち姿をしていて、北の町とともに同じ時を過ごした気配を持っていた。
誰かに見てもらうためじゃない、生活の一部として立っているポストと向かい合い、私は、ここでしばらく暮らしてみよう、と思った。
自動販売機で缶コーヒーを買って、小さな公園のベンチに腰をかけ、缶を両手で包み込んだ。
ふと、気配を感じて右を見ると、隣のベンチにおばあさんが座っているのが見えた。
さっきまで、公園には誰もいなかったような気が……。
おばあさんは、帽子を目深《まぶか》に被っていて、顔はよく見えなかったけれど、やわらかな微笑みが湛えられた口元だけはかろうじて見えた。 その口元に、なぜか私は懐かしさを覚え、おばあさんに声をかけた。 そして――、
北の町で、こんな話を聞いた。
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満月が煌々《こうこう》と公園を照らす深夜、私は、老婆から受け取った鍵の束をにらみつけていた。鍵は、古い物から新しい物まで大量にあり、リングで一つにまとめられている。
「その鍵は、あんたをむしばんでいる虚しさから解放する扉を開けるものさ。」
昼間、この公園で老婆に言われた言葉を、ひとつひとつ、一言一句《いちごんいっく》ゆっくりと思い返す。
「これから言うことは、絶対に守るんだ。いいね。」
老婆はそう言うと、突き刺すような目で私の目をのぞき込んだ。
「一、扉ひとつにつき鍵はひとつで、一度しか使えない。二、古い物から順に使う。三、満月の深夜、この公園、この場所で、おまえさん一人で扉を開けること。決して他の人と一緒に扉に入ってはいけない。」
老婆は、探るように私の目を見て、フフッと笑った。
「いいかい、一つでも間違うと、帰って来れなくなっちまう。まあ、あんたがそれを望むなら、あたしは止めないがね。」
いつからか、私の心にはぽっかりと穴が空いたような虚しさが棲《す》んでいて、どんどん心を蝕《むしば》んでいった。
今の自分を変えたい!
わらにもすがる思いで一番古い鍵を握りしめると、月明かりの中から、かなり古い木製の扉が目の前に現れた。覚悟を決めて鍵を差し込むと、ガチャリという音とともに扉が開いた。
玄関から中に入り、奥へと歩みを進める。
昭和レトロなガラス障子を開けると、見覚えのある若い女性がロッキングチェアに座り、子守唄を歌っていた。すやすや眠る赤ん坊を胸に抱くその人は、よく見ると若かりし頃の母だった。
まさかこの鍵は……。
母の向こうに、少し新しい扉が見える。私は鍵の束を握りしめ、次の扉へと向かって歩いた。
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遠い遠い昔、人魚姫は恋をした。
それは海の上の船に乗っていた素晴らしい肉体を持った人間の男性だった。
男性はある嵐の晩に船が沈み海に落ちた。
人魚姫は彼を抱えて白い浜辺まで泳いで行った。
そしてそっとキスをしてまた海の底へと潜って行った。
人魚姫は彼のことを忘れなかった。
彼への思いを歌に込めた。
歌は小さなあぶくになって海の中を漂った。
あぶくになった歌を人魚姫は瓶の中に入れた。
恋する気持ちが輝いて瓶の中で小さな魔法になった。
海の上のあの人は一体どうしているのだろう。
人魚姫は毎日考えた。
そして彼のことを考えるたびに歌を歌った。
歌はやはり瓶の中に閉じ込めた。
人魚姫は知っていたのだ。
どんなに好きになっても、人魚と人間は結ばれない。
だからこの想いをそっと瓶の中に閉じ込めて永遠にしてしまおうと。
そうして人魚姫は年老いた。
何百年もの歳月が流れた。
当然だが人間はそんなに長生きはできない。
海の上には今日も船が行く。
ある晩のことだった、嵐で船がバラバラになって海の底に沈んでいった。その船に乗っていた男性を一人のまだ歳の若い人魚姫が救い出した。
彼女は男性に恋をした。
年老いた人魚姫が恋をしたように、まだ少女の人魚姫は人間の男性に恋をしたのだ。
彼女は決して諦めない。
年老いた人魚姫は、瓶の中で魔法へと変わった自分の歌を差し出した。
「行ってごらん地上へ」
自分が行けなかったその先へ。
魔法には代償がつきものだけど、きっとこの子ならば大丈夫。
私の分も恋をして、幸せにおなり。
瓶の中の魔法は一つだけ願いを叶えてくれる。
その代わり自分が大切にしているものを1つだけ差し出さなくてはならない。
少女の人魚姫は迷うことなく、瓶の魔法を飲み干した。
――さて、続きの物語は皆様のご存知の通り――
続きを読む
奉仕AIの感情表現を教育するのが、私ことドールトーカーの仕事。メイド型の新しい子は、やたらと微笑んでくる。バグかと思ったら、「好きになってはいけませんか、マダム」だなんて。やめて、そんな純粋な目で見ないで。私が恋に落ちるたびに、貴女達は仕上がって、また私から去ってしまうのだから。
続きを読む
黒い羽を持って生まれた天使はみんなが朝の光や昼の太陽の下を飛んでいる時に一緒に飛べなかった。
地上の人間にこの羽を見られたら気持ち悪いと思われるんじゃないかと不安だった。
だから、こっそりと夜に空を飛んだ。
不安な気持ちで泣いている子供や寂しい老人のところに行って心を慰めた。
黒い羽の天使は自分の羽が黒くて良かったと思った。
こうして寄り添えるのだもの。
続きを読む
駅前の喫茶店で軽く朝食を済ませると、店員に営業時間を確かめてから店を出た。 素朴だけれど、コーヒーだけでなく料理もおいしかったから、お昼もここでと思ったのだ。 背中でドアが閉まる音を聞いて、私は振り返る。 さっきまで過ごしていた喫茶店をぼんやりと眺め、私は違和感を覚えた。
――明かりがついていない。
私が出た後で明かりを消したのかとも思ったけれど、それなら、暖かさの余韻があるはずだ。でも、窓から漂ってくるのは、静けさと寂しさをたたえた、春を待つ冬のような濃い灰色の闇。明らかに、開店前の店の顔をしていた。
紅茶がお腹に染み渡った感覚を覚えている。 昔ながらのオムライスの、ケチャップと卵の香りが鼻を刺激している。 間違いない。私はここで、朝のひとときを過ごしたんだ。
……過ごしたはずなんだ。
混乱する頭のまま、私はゆらゆらと歩き出した。
しばらく歩いていると、波の音が聞こえ、潮の香りが漂ってきた。
波の音を頼りに海を目指していると、遠くに何かが建っているのが見え、私はそれに近づいた。
「これは、半鐘(はんしょう)?」
古びた木製のやぐらに、小さな鐘がぶら下がっている。火事などの非常時に鳴らし、危険が迫っていることを知らせるためにあるものだ。
やぐらは海に面した場所にあり、北の町を一望できた。
「おや、お客さんとはめずらしいねぇ。」
振り向くと、少し驚いたように微笑むおばあさんが立っていた。
私は小さくおじぎをして軽く自己紹介をした。おばあさんは、千代と名乗った。
「千代さんは、この町の方なんですか?」
「生まれも育ちも、この町さ。」
千代さんは、ゆっくりとやぐらに近づき、柱をそっとなでて半鐘を見上げた。
「戦争が終わってから、もう、何十年も時が過ぎた。あたしはもう、長くはない。」
半鐘を見上げたまま、千代さんは言葉を続けた。
「……玉音(ぎょくおん)放送が流れたあの日も、あたしはこのやぐらの上で、空を見上げていたのさ。」
その言葉から始まった千代さんの物語は、切なくて、胸が張り裂けそうで、終戦という歴史的事実だけでは片づけられない思いであふれていた。
話を終えた千代さんは、ありがとう、と小さくつぶやくと、やぐらに背を向けて歩き出した。
「ああ、そういえば、」
千代さんはそういって足を止め、振り向いて私を見た。
「あんた、作家だと言っていたねえ。」
「はい。いろいろあって、この町まで来ました。」
「おお、そうかい。」
そしてやわらかな笑みを浮かべると、
「大丈夫、きっと、見つかるさ。」
と言って、去っていった。
千代さんを見送りながら、私は、生前に曾祖母(そうそぼ)が話してくれた戦争の話を思い出していた。
母が生まれ育った町は、青森県にある今別町という港町で、曾祖母もそこで暮らしていた。ここから見える景色が、どことなく似ている。
私は、カバンからスケッチのセットを取り出し、半鐘を描いた。それからメモ帳サイズの原稿用紙を取り出して短い物語を書きあげると、今自分が置かれている状況を綴ったメモと猫型の穴が開いた列車の切符とともに、封筒に入れた。
きっと、あの人なら受け取ってくれるだろう。
そう思いながらしっかり封をし、宛先を書いた。
猫叉出版社御中
空の色のような灰色の封筒に切手を貼ってポストに投函すると、晩秋の涼し気な朝の太陽を見上げた。
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我は、旅の聖女と呼ばれている。請われて癒やしの技を使うだけだがの。「娘の病が治りました」「畑がみるみる元気に」これが村人にはすごく喜ばれる。「さすがは女神さまの愛し子ですね」称賛に頬がひきつった。あやつのドヤ顔は二度と見たくない。我は、旅の聖女。労役刑に服している元魔王でもある。
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■月■日
博士と、別の星の言語で行っていたこの日報も、ひとりぼっちの私の日記となってしまいました。
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博士が死に、せっかく学んだ言葉も、もはや私以外に読める船員はいません。
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この交換日記……日報のきっかけは、博士の一声でした。ある日、こんなことを言い出したのです。
「せっかく宇宙に出るんだ。他の星の言語のひとつやふたつ。覚えなくてどうするんだ。」
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「▲▲▲▲●●▲●▲▲▲。●▲●▲●●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。」
博士は、自分は読めないくせに、私にそんなことを言ってきたのです。そのせいで、私は辞書を片手に、同じことを2回書く必要が出来てしまいました。
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でも、なんだかんだ私も楽しんでいたのだと思います。
なぜなら、博士が死んだ後も、私は未だに、同じ内容を別の星の言語で書き続けているのですから。
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さて、あんなに地球を愛していた博士は、30日前、皮肉にも宇宙の中で亡くなってしまいました。原因は、私たちの宇宙船が、宇宙人からの砲撃を受けたことです。
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思えば5年前、宇宙の研究をしている博士が、”とある星が地球を滅ぼそうとしている”という情報を手に入れたことから私たちの旅は始まりました。
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博士は地球を守ろうとし、爆速で宇宙船を作り、操縦士の私だけを連れ、宇宙に飛び出しました。
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順調な旅路、しかし、宇宙船が地球から50万キロほどの距離の時、悲劇が起こりました。
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地球を攻撃する砲撃が、私たちの船に直撃したのです。
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轟音でした。初めて砲撃を受けたときの感情を、私は忘れることができません。
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最初の数発は問題なく耐えることができましたが、攻撃は桁違いでした。私たちの船は、数百、数千、数万と砲撃を受け、エンジン室が壊れてしまいました。
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「操縦士を失うわけにはいかない。修理は俺が外に出て行う。」
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そう言って出て行った博士は、遂に作業中に砲撃を受け、死んでしまいました。
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全てが詰んで、もうどうでもよくなりました。ただ最後に、博士と宇宙船と、博士が愛した地球を見たいと思いました。
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どうせ残された燃料はあと一日分くらいです。明日は私は、最後の燃料を使い、“地球に少しでも近づこうと思います”。
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■月■日
最後の燃料を使い果たした瞬間、驚くべきことが起きました。
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なんと、宇宙船が地球の引力に捕まり、燃料なしで、地球の周りを進みだしたのです。
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もうこの宇宙船は自力ではどこへも行けません。砲撃は未だに続き、船内には今も轟音が響いています。
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それでも、操縦席から見える地球は、青く、青く、美しく見えました。どうやら宇宙船が代わりに砲撃を受けることで、地球のことを守れているようだったのです。
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博士も、博士の作った宇宙船も、死に絶え、燃料が切れても、愛する地球のことを、守り続けていたのです。
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宇宙船は引力に任せ、地球の周りを周ります。このペースだと、残りの食料分で、1周くらいは周れるのかもしれません。そしてきっと、私が死んだあとも、この宇宙船は、博士が愛した地球を、守り続けていくのでしょう。
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私は、私の命が尽きるまで、この轟音の特等席で、美しい星を見続けようと思います。
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2050年、ちょうど10回目の月面着陸を成功させた人類は、月の地面に埋まっている、一冊の本を発見した。それは、”月に生命体が存在した”証拠となる、”異星人の手記”だった。
本の内容のうち、半分は解読が出来なかったが、書き手が、”地球の言語でも記していた”ため、研究者たちは、文章の内容を理解することができた。
手記の最後のページには、こんな言葉が、”地球の言語だけで書かれていた。”
「未来を生きる、美しい地球の皆さまが、いつかこの日記を読んでくれますように。」
その記述から45億年、月という名の宇宙船は、今も地球を守り続けている。
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