SF・ファンタジー
天使症候群
4,420文字
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初めての症例は、アジアの大陸の片隅、小さな村に住む十四歳の少女。
まず、彼女の黒髪に金色の毛髪が混じり始めた。たった一週間で背中半ばまで伸ばされた黒髪はすっかり金髪に置き換わった。次いで、腕や脚に白い羽毛状のものが生えた。毛穴から生えているらしく、生える時には痒みを伴うようだ。少女は皮膚を掻きむしるようになり、綺麗な肌は細かな傷が増えた。
決して裕福ではなかった少女の家。少女の両親は、娘の体から羽毛が生え出したことで、なけなしの金を集め、隣町の病院へ娘を連れて行った。
町医者は少女のその様にあんぐりと口を開け、こんな症例は見たことがない、と同じ言葉を繰り返すばかりで役に立たなかった。
町医者が唯一この件で役に立ったのは、すぐさま大きな街の大学病院に連絡を取ったこと。金がない、それでも娘のことは助けたい、そう泣く両親は、いざとなれば内臓でもなんでも売る覚悟で、娘を連れて町医者の手配で大学病院へ向かう。藁にもすがる思いだった。
大学病院へ着いて早々、名前も知らない機械で、名前も意味も知らない検査をたくさん受けた少女に起きた、最後の異変。
肩甲骨が、まるで翼の成り損ないのような形状に隆起した。
少女は痛がるでもなく、ただ、発熱と意識の混濁に見舞われ、肩甲骨の隆起で仰向けで寝られなくなった以外は、比較的穏やかに過ごし、謎の症状が始まってからちょうど二ヶ月後に眠るように息を引き取った。
この症状はその後、主に各国の有色人種に多く見られるようになる。少女の体が呈した症状のいずれかから始まり、症状が確認されて二ヶ月から三ヶ月で死亡する。
今のところ、致死率は百パーセントの未知の病だった。
そしてこの病は、誰が言い始めたか、いつからか天使症候群と呼ばれるようになる。
高梨沙知は、今年で高校二年生になった、子供と大人の狭間を歩く多感な時期の女の子だった。
学校では吹奏楽部に属し、フルートを吹いていた。成績は中の中から上程度。特に特別なんて持っていない女の子だった。
その日、沙知はいつものように、放課後の音楽室で仲間たちと合奏練習をしていた。
「さっちゃん、さっちゃん」
合奏でいつも後ろにいるクラリネットの美穂に声をかけられる。
「なあに、美穂」
「さっちゃん、ごめんね、なんか白髪?にしてはきらきらした毛が生えてるよ」
「えっ、白髪⁉︎やだやだ、まだ早くない?」
「たまにあることだよ。でも後ろから見てて気になってさ、私でよければ抜こうか?」
「お願いしていい?」
髪が引っ張られる感覚が一瞬。痛みはなかった。
翌日、沙知が朝起きていつも通り洗面所に向かった時に、眠い目を擦りながら見た鏡には髪がまばらに金髪になった自分の姿があった。
テレビで最近よくやっている謎の病のことが脳裏を駆け巡る。
沙知の喉から甲高い悲鳴が迸った。
フライパンで目玉焼きを焼いていた母親が大急ぎで洗面所に駆け込んでくる。父親は驚きすぎて、コーヒーの入ったマグカップを持ったまま呆然としていた。
「沙知!どうしたの⁉︎」
「お、おかあさん」
「沙知!沙知!その頭どうしたの!沙知!」
母親の頭にも沙知が考えたことと全く同じことが浮かんでいた。
天使症候群。
未知の病。
致死率百パーセントの、不治の病。
「お父さん!」
母親が叫んで初めて、父親は飛び上がるようにダイニングテーブルの椅子から立ち上がった。
沙知は即座に病院に入院することとなった。
テレビの向こう、SNSの向こう側にしかなかった事象が沙知の体に起きている。
それはまるで夢でも見ているような心地だった。ただし、その夢には甘さも優しさも、やわらかいものは針の先ほども含まれていない。
すぐには死なない。特に大きな苦しみもない。ただ、死ぬことだけは確約された病。
それは真綿で包んだ有刺鉄線で首を締め付けられているような感覚だった。
天使症候群は空気感染しないことだけはわかっていたため、沙知の両親はしばらく隔離された後、発症が確認されなかったために帰宅を許された。ただ、沙知への面会権については「天使症候群についての情報の流出による無用な混乱を避けるため」というお堅い理由で一切許されなかった。
沙知はその日から、患者であり、同時に検体になった。この未知の病を治そうとする者もいれば、己の様々な欲を満たすことが最優先の研究者もいる。彼らの目は、沙知をただの特別を持たない女の子でいさせることは許してくれなかった。
面会が許されない代わりに、表情の乏しい看護師が外からの手紙を持ってきてくれた。そこには、母の整った字と、ごはんはちゃんと食べて先生の言うこと聞くのよ、という優しい言葉があったり、沙知の字に似た癖のある字で、語彙の少ない父からの、それでも温かい心配の気持ちがあった。
クラスや部活の仲間からの色紙が届く日もあった。カラフルなペンで彩られてたくさんの筆跡が並んだそれは、ベッド横の棚に見えるように立てかけてある。
美穂からは、色紙のほかに手紙も届いた。沙知と美穂が二人で放課後に行った文具屋でおそろいで買ったキャラクターものの便せんに、美穂の丸っこい女の子らしい文字が並んでいた。
絶対にまた一緒に演奏しようね、という美穂が綴った最後の一文に、沙知はうまく笑えなかった。
沙知はもらった手紙にも色紙にも返事を書かなかった。
正確に言うならば、書けなかった。
「ペンなどの尖ったものは、持ち込みができません」
これは、手紙への返事が書きたいと言った沙知に看護師が無表情で言い放った言葉だ。
沙知は幼いころから察しがいい子供だった。だから、尖ったものが持ち込めない、その意味がわかってしまった。
きっと病院側は、沙知が自分を傷つけたり、あまつさえ自殺などをすることを恐れているのだろう。そして、多分きっと、それは沙知が完治する前に間違いがあってはならないという意味ではなく、貴重な検体が失われることを防ぐ大人のエゴであることも察してしまったのだった。
沙知は二度と手紙の返事が書きたいとは口にしなかった。
看護師にあの時と同じ言葉を言われるのが恐ろしかったから。
沙知にとって、髪が金色になることより、腕から一枚の小さな羽毛が生えてきたことより、自らが人間という舞台を引き摺り下ろされたような感覚が耐え難かった。
血液検査を毎日行うから、腕は採血の痕だらけで青くなっていたし、レントゲンや内視鏡、CTやMRIも日替わりで行われる。
患者としての沙知の呼び名は高梨さんだったし、検体として何か番号を振られていることも医者たちの間の会話で知っていた。
規則正しい生活、勉強や部活動の代わりに日常に差し込まれた様々な検査、友達とコンビニで買い食いした菓子パンの強い甘みは遠い過去のもののようで、質素な病院食はまるで味がしなかった。
沙知が恐れていたのは、自分の姿が変わっていくことではなく、自分という存在が揺らぐことだった。症状が進行する度に、沙知は自分が人間を辞めさせられている気がしていた。それは心をカンナで少しずつ削り取られ、形を変えられていく辛さだった。
沙知の染めていなかった暗い茶色の髪が金色に染まり、腕や脚にはやわらかくて上質な羽毛が広がっていた。肩甲骨は少しずつ盛り上がり始めている。入院してから一ヶ月と三週間経っていた。
鏡を見ることも、ふわふわの純白の腕を見ることも、怖くはない。
それでも、呼び名が高梨さんですらなくなったとき、さすがに沙知は取り乱した。
「検体のバイタルは」
「安定しています」
「……あの、先生、検体って」
「ああ、気にしないで。こちらの話だから」
「先生、私、高梨です、私の名前、高梨沙知です」
「うん、うん、わかってるよ、落ち着いて」
「先生、検体の心拍、上昇しています」
「だから!検体じゃありません!高梨沙知です!私は!私は!」
「あー、鎮静剤の投与を。それから拘束具の用意」
「はい、先生」
沙知が名前すら失った日、鎮静剤で朦朧とする意識と、両手両足に嵌められた拘束具で涙を拭くこともできずに一晩泣き明かした。
毎日来ていた外からの手紙が来なくなって一週間以上が経っていた。
沙知は、自分がきっとこの白い部屋の中ではもう人間ではなくなってしまったのだと悟った。
沙知が名前と一緒に人間であることを取り上げられたあの日から数日経った。
もう誰からも手紙は届かない。
唯一、人間だった頃と変わらず許されていた娯楽のテレビで観たワイドショーでは、天使症候群は汚れた人間が天使という高尚な存在に浄化されていく現象である、と叫ぶ集団がいるらしいと特集が組まれていた。
そのワイドショーの特集の観た沙知は、悲しむでも怒るでもなく、少し納得した。確かに沙知はこの病のせいで、人間ではなくなっていく自分をずっと感じてきたからだ。だが、それももうすぐ終わる。沙知にはなんとなくそれがわかっていた。
ここ数日、熱がある。そして日毎に肩甲骨はその形を変えていた。
きっと、これがこの病の最終段階。
最近は仰向けで寝るのが少し辛い。肩甲骨が邪魔をするからだ。
「私、別にキリスト教じゃないけど、お迎えには天使が来るのかな……それとも自分で飛んでいくのかな」
昼食のスープは薄味で、口に入れたスプーンの金属の味の方が強く感じられるのではないかと思えるほどだった。
無機質なスプーンを唇に当てる。無性に、あの音楽室でフルートが吹きたくなった。お同じ金属製でも、スプーンに息を吹き込むことはできない。フルートのやわらかい冷たさが恋しかった。
西陽が強く差し込むあの教室で個人練習がしたくなった。母親の作った夕飯を食べ、年頃の娘との会話に困る父親とぎこちないコミュニケーションをし、寝る直前まで友達とメッセージを送り合う。そんな日々が特別だったのだと、沙知は初めて愛おしく思った。
半分も食べられなかった昼食を残して、沙知は体を横向きにして静かに眠った。
どうやら沙知の病状は本当に最終段階に入ったらしかった。
発熱と意識の混濁。
沙知の腕には点滴の管が刺され、ここ二日はもう食事も自力では摂れなくなっていた。
睡眠と、意識の浅い浮上を繰り返す。ふわふわとした心地だった。
ふと、沙知の意識が浮き上がった時、既に夜も更けているようだった。
照明が消された部屋、静かな廊下、時計の秒針の音すらしないはずの部屋で、沙知はフルートの音色を聞いた。コンクールの課題曲で、沙知が一番好きなところだった。素早い運指が難しい代わりに美しいメロディーが特徴的な、沙知のパートの見せ場だった。
「さいごに、沙知って、呼ばれたかったなぁ」
誰にも聞かれることのない最期の願いは、一筋の涙と一緒に白い枕に吸われて消えた。
高梨沙知、十六歳。検体番号三〇二八四JPは、吹奏楽部の夏のコンクール前日に息を引き取った。
コンクールの三日後、沙知の訃報を聞いた仲間たちは泣いた。クラリネット担当の美穂が、沙知の名前の書かれた楽譜ファイルを抱きしめて嗚咽に濡れた沙知の名を何度も、何度も呼んだ。
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