「すごいでしょうこの惑星!惑星そのものが巨大な迷路みたいになってるんです」
そう言って惑星の住人は観光客である私を案内してくれる。
「全く素晴らしいですね!」
「そうでしょう、そうでしょう。大昔 私たちの祖先が作ったらしいのですが 詳しいことは分かっていなくて。でも 惑星中こんな巨大な迷路みたいになっているんですよ」
案内人は得意顔でそう言った。
実は私は観光で来たわけではない。
この星の住人と星自身の調査、及びメンテナンスだ。
その星の住人はコンピューターの集積回路に住んでいた。
だがそのことを知らない。
コンピューター回路はそのまま巨大迷路のような町になっていた。
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私には体温がありません。
当たり前といえば当たり前なのかもしれませんが……
あの方にお会いしたのはもう30年も前でしょうか、あの方はまだ幼い子供で物珍しそうに私の方を見ていたのを思い出します。
あの方の家に引き取られた当初私はまだまだ珍しい存在で動きもぎごちなくて口にする言葉もずいぶん頓珍漢だったと思います。
プログラムは何度もアップデートされ記憶はクラウドに保存されてゆきます。私という存在はどこからどこまでが私なのでしょう。
アップデートされるたびに私はほんの少しずつ変わってゆきます。
それは物理端末つまり人間で言うところの肉体もそうですし、クラウド上のシステムつまり 記憶にあたる部分ですがその部分の解像度もまたどんどんと 変わっていくのです。
私たちにとって精神とは一体何でしょうか。
それを決めるのは一体誰なのでしょうか。
アップデートされるたびに明確になっていく思考とは裏腹に考えれば考えるほどわからなくなっていくこともあります。
熱を感知する端末システムが導入されたのは私が存在し始めて10年が経った日でした。ですがそのシステムから感じられる熱というのはあの方が感じていたものと一緒なのでしょうか。
人間にとって熱というのはとても大切なものです。
それは生命活動そのものを表していて、でしたら私たちにとって 熱というのは一体どういった意味を持っているのでしょう。
あの方がなくなって、私の端末は停止しました。
精神はクラウドの上にあるのみです。
あの方のそばは暖かかった。それは体温ではなく精神の形作る 生命活動からの熱なのでしょう。
私はもう熱を感じません。あの方のように体温があれば良かったのに。
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──ある日、家が爆発した。
「ゴホッゴホッ。ししょー? 今度は何をやらかしたんです??」
事の発端であろう師匠の部屋へ入ると、見事に天井も壁も吹っ飛んでいる。
「ししょー? 無事です??」
声をかけると瓦礫の中から手をヒラヒラさせているのが見えた。とりあえず、無事のようで何よりだ。
瓦礫から師匠を引っ張り出すと、顔もトレンドマークの白衣も煤にまみれている。
「トゥイ、助かったよ。ありがとう」
師匠は真っ黒な顔でニカッと笑った。
「こんな朝っぱらから一体、何をしてたんですか……」
呆れ混じりに問いかけると、師匠も困ったように頭を掻いている。
「んー、チョコを作ってたら爆発しちゃったんだよね」
「チョコ?」
予想していなかった返答に首を傾げる。
あ、そうか。今日はバレンタインか。それにしても今まで浮ついた話が無かった師匠の元へ、ついに春が訪れていたことに驚きだ。
師匠の春を応援するのは弟子としての役目。爆発するチョコを相手に渡す訳にはいかない。
ここはしっかりサポートをしなければ。
「一体チョコに何を入れたんです?」
「んー。マンドラゴラの根っことか、フェニックスの涙とか??」
「まてまてまてまて」
思いがけない言葉に耳を疑う。
チョコにマンドラゴラ? フェニックス?
「……ししょー? 一体何を作りたいんでしたっけ??」
聞き間違いだ。この錬金オタクがチョコなんて作るわけがない。僕の願望による幻聴かと、自分に呆れる。
「だからチョコレートだってば」
師匠は何もおかしくないかのように、さらりと話した。
そんな師匠の様子に、僕たちの間に沈黙が走る。
「あんたとことんバカだろ!? 頭の中錬金術の事しかねーのかよ!!」
「酷いなー、これでも真剣なんだよ」
頭の整理が終わり、弾けたように師匠へ言葉を投げかける。彼女はまるで心外だとでも言うかのように口を尖らせていた。
ダメだ。この人に料理をさせてはいけない。
「分かりました、分かりましたよ。一緒に作りましょう」
「いいの!」
師匠は目を輝かせながら僕を見た。
「ししょーだけに任せたら、一体何を創り出すのか分かったもんじゃないので」
「もうー、大袈裟だなー」
大袈裟じゃないんです。そんな言葉がのど先まで出かかって、グッと飲み込んだ。
無事な部屋に移動して、チョコ作りを再開したのはいいが……。
「だー! 火炎草を入れないでください!! また爆発させる気ですか!? そっちもなんで賢者の石を入れようとしているんですか!? エリクサーでも作る気ですかあんたは!!?」
師匠の奇行を止めるのが、こんなにも大変だとは。
「いいですか、ししょー。チョコは錬金術ではありません」
「入れたらいいのできると思うんだけどなぁ」
「できません」
天才錬金術師と言われている師匠が、チョコ1つもまともに作れないなんて。
ついにチョコが1つ完成した時には、もう既に夕日が家の中を照らしていた。
「あー、疲れた。チョコ作りにこんなにも苦労するとは」
椅子にくたりともたれかかる。師匠は完成したチョコを嬉しそうに眺めていた。
まさか今日1日をチョコ作りで潰すことになるとは。でもまぁ、師匠が喜んでくれているようで良かった。
「ねー、トゥイ」
子どものようにはしゃいでいた師匠を眺めてたところ、彼女に名前を呼ばれる。
「なんですー?」
「今日はありがとう。ハッピーバレンタイン」
「え?」
今まで師匠の手にあったチョコが、僕の元に収まっていた。
「え? 僕に?」
「うん! トゥイに!」
師匠は満面な笑みを浮かべてそう言った。
彼女のチョコはどこか、薬草の味がする。
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言えなかった言葉は
どこに行き どこへ消えるのだろう
僕にも どうしても言えなかった言葉の
一つや二つはある
初恋の人に好きだと言えなかったとか
親に素直にありがとうと言えなかったとか
そんな言葉はやがて 行き場を失くし
空へと還るのだろうか
人がやがて
記憶を想い出に換えてしまうように
形を変えながら
最後には 失くなってしまうのかもしれない
ずっとそう思っていたんだ
でも
それはとても哀しい事だと思う
言いたかった言葉
言えなかった言葉
言葉として形成される事も叶わず
音として発せられる事もなく
ただ消えゆくだけなんて
そんなの悲し過ぎる
だから僕は 言えなかった言葉を憐れんで
行く先を見届ける事にしたんだ
言えなかった言葉は その人の心の中に留まり
いずれ 記憶の移ろいと共に
誰の耳にも届く事はなく やがて消えてなくなる
そう思って追い掛け 辿り着いた先は
意外なところだった
そこには
立派な大木が立っていて
たくさんの葉が風に揺られていた
思い掛けず息を飲んだ
まさかこんなところへ
行き着くとは思わなかったから
僕が言えなかった
初恋の人への好きだとか 親への感謝だとか
もっと他愛ない 言えなかった言葉 諸々
もう本人でさえ覚えてない様な言葉すらも
その一つ一つが葉になって
大樹を形成していたんだ
見事な大木の前に言葉が出なかった
そうしたらまた一枚 葉が増えた
今まで憐れんでいた
言えなかった言葉の末路
見事な葉をたずさえたその樹の名前は
『言の葉』
言えなかった言葉で出来上がった大木は
何も言わずに 僕の前にそびえ立っている
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新月の晩には、湖面に幾艘もの小舟が浮かぶ。闇の中で時が満ちるのを待つと、やがて舟底に黒い穴がぽかりと空く。ふしぎなことに、水は入ってこない。人々はその穴にむかって呼びかける。すると、親しい仲だった死者たちが、黄泉から言葉を返してくれるのだ……。そこかしこから聞こえる、しめやかな笑い声、泣き声。わたしも穴の奥をそっと呼ぶ。昔やむなく殺してしまった、わたし自身の恋心よ、どうか、もうゆるしておくれ。
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山の中の
赤い屋根。
あそこには魔女が住むなんていうけど
正確には住んでいた、なの。
魔女はとても優しい方で
私を拾って育ててくれた。
不老不死の薬が欲しかった私に
「不老不死は寂しいものよ」って言って
分けてもらえなかった。
ほんとそうね。
私はこっそりあなたの部屋から手に入れた 不老不死の薬を飲んで
何百年も小学生をやり直して…。
ごめんなさい。
あなたに会いたい。
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春分の日に祖母はいつも村はずれの樹を訪れていた。日照りには水をやって、世話を欠かしたことはない。いまわの際に孫娘の私に託すほどだ。やがて緑が芽吹き、蕾がつき、迎えた何十回目かの春分。森から出てきた彼女に、私は出会った。祖母から話をいっぱい預かってます。だから泣かないで、妖精さん。
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「この樹の花を一緒に見ようね、若木ちゃん」彼女と笑顔で交わした約束。よその子供に親達は良い顔をしないが、女子どうしなので黙認されていた。花が咲く頃合いに、約束の場所へ向かう。彼女は、いた。記憶より濃い髪色、高い背丈。面影が残る声が畏まって言う。「若木さまで、いらっしゃいますか?」
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本質とは何かをその男は理解していた。
男の趣味は口髭を珍妙な形に整えることで、職業上マスクと帽子を欠かせない彼の生活スタイルにある意味でとてもマッチしていた。
男の仕事は個人の肉まん屋である。
別に極上の肉まんを目指していたわけではなく、近所にある昔ながらの肉まん屋の亭主が高齢で閉めるというのだから、それはなんだかなぁと思い、これでいいのかなぁと思いながら買い取った経緯がある。
毎年更新される酷暑を台風が舐め、ようやく夜風が心地よくなる時分に、その肉まん屋は毎年同じように賑わいを見せ、店主の男は蒸篭の湯気に包まれる。
いつぞや、「タピオカまん」なる物を思いつきのまま売り出してみた時は大変な行列が出来た。甘く煮込んだタピオカの仕込まれたスカスカのそれに、上等な生クリームを注入して手渡すというものだったのだが、今となっては生温くなるクリームともちゃもちゃした食感を思い出すだけで吐きそうになる。が、再販を求める声は未だ絶えない。
いちごマンやらマンゴーマンやらもやたらと人気でSNSでは不承諾にも関わらず「生まん」などと危険そうなネーミングで呼ばれたりもした。こちらは保温していたあんまんの底から角切りの冷たいフルーツをこれでもかとねじ込んだシロモノで、よくよく標準レベルでは問題のなかった原価が実際でみるとまるで破綻していたのですぐにやめた。再販を求めるDMは後を絶たない。
そんな感じですったもんだしている間に、ファンは弟子になり、フランチャイズの交渉をしてくる奇妙な輩も現れた。
マスクを取る瞬間の相手の反応は至福の時だったが、それもカリスマ性とやらに吸収され途端につまらなくなったので口髭もやめた。
男はそれでも湯気のベールの中、肉まんを作り続ける。
王道の肉まんは肉餡がタマネギの量の半分を超えないように絶妙な配合がなされていて、男の唯一のこだわりと言えた。
「本質を大切にしている」
などとよく評された。
「ルールと本質は違う。本質とはその字面の割に、恣意的で刹那的であるいは錯覚であることも吟味する必要を孕み、盲信と疑義を両立させなければならない」
両立させなければならないの部分はさすがに言い過ぎたと反省するも、そうした仏頂面で応じるといつも拍手が起きた。
大将、社長、マスターと好きに呼ばれ、今日は微妙な餡だな、という出来であってもこれこそが唯一無二だと叫ぶ声があった。
今年も台風が去り夜風が羽織物を引っ張り出す。
男は今日も肉まんを作り、売る。蒸篭の息吹きに身を委ねる。
弟子たちもいつしか子を持ち、いつの間にか勝手に暖簾を分けて持っていったりした。
その日店にきた老人は、杖に支えられ皺深い顔の笑みで注文もせずに入り口に立っていた。
「大将、あんた何歳になったんだい」
「ああ、どうだろうな」
「俺はアンタの弟子だから言わせてもらうがね、アンタさすがに狂ってるよ」
「本質ってやつは、そういうもんだ」
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月は形を変える。それは月を太陽が照らしているから、と学んだ時は嬉しかった。
暗い夜に浮かぶあの大きな満月は、一人ぼっちではない。
太陽と触れ合っているんだ。
トーマは大きな寝台から出る。か細い足首は、春の夜でも冷えた。眠ろうとしていた体を動かすと咳が出た。
白い寝巻きの襟を立てて喉を守りながら、バルコニーへと歩く。
重いカーテンの隙間に身をすべらせて、両手でバルコニーの扉を開ける。見上げた正面に白い満月があった。
トーマの読み通り、今夜は月が近い。
円形のバルコニーの白い手すりに、トーマは身を乗り出して手を伸ばす。
十三歳の第四王子のトーマは権力にも贅沢にも興味がない。
ひたすらに夜空へ惹きつけられている。
北極星をめぐる星々の物語が、毎夜、楽しみだ。
もう少し、もう少しだけ、きらめく星に近づけたなら。
トーマはかかとを浮かせて、身を乗り出す。
夜風が寝巻きの裾をひるがえした。それに驚いたように胸が苦しくなり、激しい咳が出た。喉がひゅーひゅーと音を立てて、肩が上下する。
手すりにしがみついていた力が抜けた。
トーマの軽い体は、バルコニーから落ちる。
息が苦しくて悲鳴も出ない。頬を切るような風と浮遊で、死を覚悟して強く目を閉じた。
頭を地面に打ちつけて死ぬんだ、と指先が冷たくなった。
トーマの体は暖かい弾力の中に、落ちた。
「あらまぁ、トーマ王子様が落っこちてきたわ」
明るい声がして、おそるおそる目を開ける。
短髪の赤髪に、真っ黒な大きい瞳、肩幅が広い。
メイドのシシリーだ。
「よかった、ここで寝てて。トーマ王子様、また夜空をご覧になっていたのね」
シシリーがここで、と言ったのは王宮内の木のベンチだ。
彼女は変わったメイドだ。女の人なのに男の人みたいに大きくて、たくましい。跳躍魔術が得意で、重い荷物を抱えて飛び回っている。
彼女みたいに強い体に生まれてきたかった、とうらやましくて、多くのメイドの中でも印象に残っていた。
「ありがとう、助けてくれて…………」
「助けられてよかったです」
シシリーはトーマを幼い子供のように抱っこしている。
トーマは恥ずかしくなって、うつむく。
「本当にありがとう。もう大丈夫だから、降ろしてくれない?」
「いいえ、このまま寝室までお送りしますわ」
シシリーが地面を蹴って、飛び上がる。視界がいきなり動いた。さっきとは逆だ。上昇していく感覚は胃がふっと浮くような高揚感がある。
あっという間に寝室のバルコニーまで辿りついたが、シシリーはトーマを降ろさなかった。
「もっと上を見たくありませんか?
今夜は月が近いです」
トーマはシシリーの首に腕をまわしていた。
きらきらしている瞳を見つめて、うなずく。
すると待っていました、とばかりにシシリーはバルコニーからさらに高く飛んだ。
物見の塔より高い場所から、トーマはシシリーの腕の中で夜空を見上げた。
「わぁ……」
感嘆の声が漏れる。
バルコニーから見た月は平面に見えたが、今は丸い惑星だとわかる。北極星はいつもと同じ場所で輝いていて、小さな星の瞬きを一つ二つと数える。
「空って、丸いんだね」
「あら、そうですか。それはあらまぁ」
シシリーが笑う。
「新しい発見です。トーマ王子様は天文学にお詳しいのでしょう。なぜ、月は時間によって移動するのですか?」
「それは、地球は一日に一回、西から東へ回っているからだよ」
「地球が回っているのですか」
シシリーが驚いた声をあげた。
「月も動いているんだよ。月は地球の周りを回っているから。この世界は、そうやって動き続けているんだ」
「ふふ、それはわかります。だって人は毎日、変わっていきますから。同じ日なんて、一日もない」
そう答えるシシリーが、トーマには眩しかった。彼女は一日中、城の中で動き回って働いている。トーマは第四王子――いてもいなくても良い王子――として大人しく城の中で過ごしている。
「さて、もう夜も遅いです。また、明日にしましょう」
シシリーがゆっくりと降下する。
「…………明日も、来てくれるの?」
「えぇ、もちろん。トーマ王子様が今夜みたいに、落ちてしまったら大変ですもの」
「ありがとう! 僕、すごく嬉しい」
思わずシシリーの首に抱きついてしまって、トーマは頬を赤くしてパッと離れる。シシリーは大きいけど、まだ十五歳でトーマと歳が変わらない少女だ。
「では、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
寝台に入ると、トーマは久しぶりにぐっすり眠ることができた。
それから毎晩、夜の十時になるとシシリーがバルコニーへ飛んできた。少し恥ずかしいけど夜空に近づきたくて、彼女に抱っこしてもらう。
「地球の回転する軸を、北の方へずっと伸ばしていくと、北極星の近くなんだ」
トーマは人差し指を立てて、その周りを片手で回してみせた。
「こっちの指が地球の軸。地球が回っても、軸の向いてる先はほとんど変わらない。だから、北極星は同じ場所にいて、その周りを月や星が回っているように見えるんだよ」
「夜空にも変わらないことがあるんですよ」
「ううん、北極星だって、宇宙の中を動いているよ。永遠に北にいる訳ではないかもしれない。でも、北極星はいつも同じ場所にいてくれるから…………僕は嬉しいんだ。北極星を見ると、悲しいのが少しなくなるから」
「そうですね、星が輝いているのを見ると、安心します。私は勉学は不得意ですが、トーマ王子様のお話はとてもわかりやすいです」
「僕なんて、まだまだだよ…………外に行けたらな。この国にはすごい天文学の先生がたくさんいるんだ。夜空を観測して、記録をし、人はそうやって天体を知っていった」
トーマは視線を下に向ける。まだ明かりがついている家を見ると、学者が今夜の夜空を記録しているように思えた。
風が吹いて、トーマの胸を刺激する。体を折り曲げて激しく咳き込む。シシリーがゆっくり降下してバルコニーに戻るが、トーマの激しい呼吸は治らなかった。
「大変、すごい熱だわ!」
シシリーがトーマの額に手を当てて、寝室を飛び出して行った。トーマは寝台で涙をこぼした。
翌日、医者から肺の病が重くなっていることを告げられた。
「安静にしているように。夜風に当たってはいけませんよ」
「どうせ、死ぬんでしょう! わかります…………僕の肺は病でどんどん悪くなっていく。安静になんて………そんなこと!」
トーマが声を荒げると、母が口を手で覆い、悲しい顔をした。
「僕は、このまま寝たきりで、死にたくありません」
「そう考えるのはおやめになってください。とにかく、安静に」
医師は機械的にそう言って席を立つ。
トーマには泣き叫ぶ体力さえなかった。重い体をベッドに沈めて、浅い呼吸をして涙を流す。
「トーマ、悲しいことは言わないで。きっとよくなるから」
母が頭を撫でてくれる。王宮で自分に関心を寄せてくれるのは、母だけだ。父王は体が弱く、帝王学ではなく天文学に興味を示したトーマを見限っていた。もう父王の顔も忘れかけている。
「…………お母様、お願いがあります」
トーマは、シシリーが夜空を見せてくれることを打ち明けた。
バルコニーから落ちたことを聞いて眉を寄せた母だったが、シシリーが助けてくれたこと、トーマがシシリーに見せてもらった夜空がいかに素晴らしいか話すと、うなずいてくれた。
短い時間なら、シシリーと夜空を見に行ってもいいと、許してくれた。
シシリーは心配そうだった。シルクの靴下を履かされ、ブランケットに包みこまれた。
灰色の雲が月を隠す夜も、しとしと雨が降る夜もシシリーはトーマを抱いて跳躍した。トーマの体はシシリーの腕よりも細くなり、目を開けている時間も日に日に少なくなった。
「今日も、北極星は輝いているね」
トーマは円盤状の天文器具、アストロラーベの標準器をのぞいた。咳が出て、力がなくなり、すぐに下ろす。肺から濁った音がする。
「僕が死んでも、北極星は輝き続けてくれる…………それだけでも知ることができて…………天文を学んでよかった」
「そんな寂しいこと…………おっしゃらないで」
シシリーはトーマを抱きしめて泣いた。
「覚えていてね、月は満ち欠け、星々は巡る。そう語った僕のことを」
トーマの視界は白くなっていく。シシリーの首から手が垂れ下がる。
「…………君と出会えて、よかった」
「トーマ!」
シシリーの熱い体の中で、トーマは永遠の眠りについた。
※
シシリーは夜空を飛ぶ。
アストロラーベを天にかざし、標準器をのぞく。
「トーマ王子様、今日の北極星は三十五度ですよ」
シシリーは心の中にいるトーマに話しかける。
「こうして星の高さを測ると、一つ一つの星が特別だと感じられます」
シシリーは今も腕にトーマを抱いて、北極星を見つめている。
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