今日のマスターはいつも通りではなかった。
コーヒーは相変わらずとても美味しい。
ここのコーヒーは県内でも有名な焙煎所の物。
でも彼が淹れるとこうも違う。
何と言うか、疲れない。
まるでコーヒーを溶かした水のように、でも決して薄いわけでもなく香りも高い。
冷めるにつれて明確に甘くなる液体。
これがプロなのだろうと是非もなく納得してしまう。
マスターはおそらく不器用な人種なのだろう。
愛想が悪い訳でもなく、むしろサービスに小さなチョコレートテリーヌをくれたりもする。
私が話せば真っ直ぐに聞いてくれるが、彼から話しかけてくることはほとんどない。
それでも、今日はカウンターの向こう側にいる彼にはどこか違和感がある。
なんだろう。
たまに注文が重なると、まるで誰かと誰かが彼一人を操作してるみたいに全てを合理的にこなす。
静かに、とても素早く、そして綺麗に。
トーストも飲み物もテイクアウトも。
彼は同時進行に最短で終わせる。
アルバイトの子が全てを渡し終わった後、彼は小さな息を落とす。
その姿がとても色っぽくて、それを見たくて私は通っている節がある。
見守っていたいような、独占したいような。
目が合うといつものように少しだけ微笑んでくれる。
今日はその時間が0.1秒だけ短い気がした。
経営が上手くいっていないのかな。
体調が悪いのかな。
今日も美味しかったと伝えたい。
それだけのことを今日の彼は私に躊躇させる。
*
今日のマスターは何かおかしい。
だいたいカウンターから出ずにひたすら作る側だけど、いつにもまして引き篭もっている気がする。
「これ、お願いね」
優しいのか素っ気ないのか、いつも通りの短い指示。
滑舌なのか声量なのか今日はやたらと聞き取りにくい。
よく来る窓際のお姉さんも、どうやらマスターの異変に気づいている。
なんとなく、そんな気がする。
彼女は間違いなくマスターに気があるから。
私が先週、マスターに連絡先交換したらなどと言ってしまったせいだろうか。
ということはマスターも意識しているのか。
煮え切らない、なんてめんどうな中年なんだろう。
ああ、だから独身なのか。
かわいい。
でも、なんだか私まで話しかけにくくなっている。
ねぇ、マスター。
そんなに気負うくらいなら、私でもいいんですよ?
お店終わったら、ご飯に誘ってみようかな。
*
どうしてこうなったんだろう。
全ていつも通りの朝だった。
いや違う。
どうしてこうなったか、ではない。
どうして気付かなかったか、だ。
無情にも営業時間はやってくる。
お客様も来てくださる。
手を抜く理由はどこにもない。
今日もいつも通り、最高の商品と最高の時間を、だ。
だがしかし、この無様極まりない有様。
恥ずかしさと悔しさで涙が出そうだ。
僕は、今日、パンツを履いていない。
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「わあ!おめでとうございます!」
初老の女性が弾けるように笑い、5万円をトレーに乗せ男に渡す。深く被った紺色のキャップ、すこしサイズの合わないサングラスにマスク。5万円を受け取った男はアクリル板の向こうにいる女性を無表情に見ていた。
当選したスクラッチくじを満足そうに眺める女性に、男はぺこりと頭を下げる。3歩歩いたところで5枚の札を上着のポケットに突っ込む。ポケットの中で札に触れたまま男は真っ直ぐ駅へと向かった。5駅先で降りた男は、自転車に乗り、ゆったりと漕ぎ始める。
伝統的日本家屋、といえば聞こえはいいが、住宅街の端に佇む、古びた平家がその男の住まいだ。
自転車を止め、置き配ボックスの中を除き、引き戸の鍵を回す。その先は玄関、ではなくまた引き戸。一畳分のスペースの壁には警備会社の社名が刻まれた小箱が掛かっている。
『P!解除しました』
人差し指をかざし、中からウィーンと小さな音が解錠を知らせた。その先にようやく玄関。踵の踏まれたスニーカーを脱ぎ捨て、廊下に男の足音が響く。端にたまった埃が出迎えるように揺れる。廊下の途中にある扉を開くと便器がある。その足元のトイレマットを剥がし、廊下へ放った。現れた床下収納の取ってを起こし、引き上げ、男はその中へ足を突っ込み、身を沈める。
真っ暗な地下施設を1歩進むと、呼応するように数珠繋ぎに照明が起動する。その先には鈍く反射する極めて無機質で重厚なアルミ色の扉が鎮座する。
壁に据えられた装置に親指を突っ込み、その下のテンキーで素早く8桁を打ち込む。ジャコンと鋼鉄が脱臼し、扉がいじらしくその厚みを晒す。扉には文字が浮かぶ。
『3 5 160533』
それは解錠の日時、秒数までを示したものだった。
「あ!」と男は声を洩らし、ガタンと扉を押し閉める。ズボンのポケットからスマートフォンを出し、電源ボタンを押したまま、足早に短い通路を駆け、また便器の麓から顔を出す。ディスプレイが起動を知らせる。カレンダーアプリを開くと同時にバナーが現れ、
「3月5日 18時 ゆかさん イタリアン」
と示した。
今は16時8分。男は鼻からひとつ息を落とし、トイレマットを元の位置に戻す。
男は静かに居間で湯を沸かし、至極丁寧にコーヒーを淹れた。湯気を纏った一筋の銀線が命を吹き込むように粉を膨らませる。淹れたコーヒーを片手に男はタバコに火をつける。鼻腔の全てを吐き出し、ニュースアプリを開く。玉石混交の記事を流して、適当にタップする。生活保護を取り上げた記事だった。そのコメント欄に
「病気ならともかく普通に生きてたらこんなことにならない」
そんな文字が目についた。
投げるように煙を吐き出し、タバコの火を押し消す。スマートフォンを伏せ、男は身支度を始める。髪を整え、歯を磨き、肌を整える。白シャツの上に綿で編まれた灰色のジャケット、ストレートのデニム。ジャケットのポケットから銀色の腕時計が出てきたのでそのまま付けた。黒のローファーを履き、自転車に跨る。
駅前のイタリアン。
予約していた名前を告げ、案内されるとすでに女性が席についていた。緩く巻いた髪に赤いニット。アイボリーのスカートに、黒のパンプスはヒールが削れ、仕事帰りを思わせた。
「遅くなってすみません。タカです」
「ゆかです。お写真より素敵ですね」
適当に褒め合った二人の男女は、アラカルトを広げグラスワインで乾杯。形骸化された既定路線を定型分で殴り合うように、アプリデートの練度を数分で測り合った。
「投資家って書いてありましたけど、どういった…」
丁寧なようで語尾を濁す、いかにも大人らしい聞き方に、男は片頬を引く。
「パチンコとか、競馬とか」
「え…それってギャンブル…」
「まあ、お金がお金を稼ぐので…」
女の反応を受けて男は思わずポケットのタバコの箱に手を当てる。
ワインのおかわりはなく、イタリアンを後にした。自転車置き場で深々と一服し、愛車を押しながらまだ賑やかな駅前通りを縫っていく。
帰宅するとポケットの三万と幾らかをテーブルにだし、カップに残っていたコーヒーを飲み干す。タバコに火をつけ、スマートフォンを取り出す。
「明日もか。パチンコか」
次に開いたのは別のカレンダーアプリ。
3月5日 150215 ○○駅○○通り春のスクラッチ 5万円
3月6日 123312 ○○町パチンコ 13番台 4万2千円
3月8日 162809 ○○県○○市○○施設内 宝くじ売り場 5万円
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7月31日 112110 ○○県○○市○○通り サマージャンボ連番 7億円
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バナナの皮を被った男と目が合った。
「ああ。どれだけ疲れているんだオレは」
思わず声が洩れて出た。
すっかり人の引いた帰り道。
ポツリ、ポツリと付いた街灯を潜り、帰路を辿る。
すっかりと光を消した、何屋か分からない店内にバナナの男はいた。
当然、そんな不審者からは秒で目を逸らした。
しかし、あの皮色。街灯に薄く照らされただけだったが、オレの目は誤魔化せない。
あの色は自然追熟ではない。
15℃の環境で色付け、つまり意図的に追熟されたバナナだ。
丁寧に愛を持って追熟したバナナは、レモンのように染まり、針で刺したようなシュガースポットを生む。張りのある皮は宝剣のように反射するのだ。
ああ、また脳内がバナナに侵されていく。あれはバナナの亡霊だったのではないか。あるいは妖精? あんなくたびれた男の妖精? 最悪だ。
それもこれも、あの暑苦しい熱血シェフのせいだ。ゴールデンウィークから切り替わるコースのデザート。指定された素材はバナナ。
ああ、面倒くさい。ただでさえ、系列のおしゃれカフェがデザートを一新するタイミングだと言うのに。アホ面下げた若いパティシエールの顔が思考の邪魔をする。
キャラメリゼ? コンフィ? 馬鹿を言うな。星付きフレンチのガストロノミー(美食学)を舐めるんじゃあない。
ふと足元が明るくなる。
セブンイレブンが町の廃れを拒絶するように光を撒き散らす。今日はスモークタンを買う気にはなれないな。帰ろう。このまま。
そうだ。ソルベはどうだ。
果肉の酸化を防ぐために、メインに合わせて、真空と冷却を開始。バナナの野生感ある風味を損なわせないためにベースミックスには直前に配合。そしてバナナの皮を煮出した熱々のバターだ。カルピスバターがいいだろう。ホワイトラム、いや少しコニャックを混ぜ、スパイスを加えバターを乳化。局所的にカソナードを振り、仕上げにキャラメリゼ。岡山バナナの暴力的な糖度を僅かなフルールドセルがさらに狂わせる。野生、しかし強烈で華々しい香り、食感、温度差、舌にまとわりつくベルベットのコク。コーヒーでも紅茶でも、鼻腔を犯す共犯者となり得る。
ああ完璧じゃないか。これはイケる。
そうだ家にバナナがあったな。彼女が食べてなければ試作を食わせよう。
なんて爽快な気分だ。足が軽くて仕方がない。
すれ違った女が怪訝な表情を見せたが今のオレはそれどころじゃない。今の女も休みの日ともなれば「カフェ巡り」と称し、どうせオレの考えたスイーツをパシャパシャと写真に収めるに違いない。あんな目を向けたこの俺が作っているとも知らずにな。ああ、愉快だ。
いや、待て。待てよ。
そうだったオレの彼女は馬鹿舌だった。
つい先日も、冷凍庫に眠らせていたいちごを、ふんだんにつかったとんでもミートソースパスタを貪るように食べていた。かろうじで味はまとまっていたが、異国どころかあれはもはや異世界の料理だ。
「これまた作って!」
二度と作るか。あざとらしく目を輝かせてもダメだ。名古屋人の味覚はさっぱり理解出来ん。
だいたいなんであんな女と同棲することになったんだ。
ただ顔が良くて、ちっちゃくて、声が可愛くて、胸がいい感じなだけの…。
いや、違う。早歩きになっているのは、別の理由だ。
そう。バナナだ! バナナを作るるんだ! オレのバナナを食べさせるんだ!
「ただいま」
「おかえり!」
「バナナってもう食べた?まだあるかな?」
「頭、おかしくなったん?」
なんだこの女は。帰りざまに。
そんな緩い服を着ていれば暴言も許されると思っているのか。
「なんで頭にバナナの皮乗せとるん…」
部屋の姿見には、眩く照らされた素晴らしい色のバナナを被った、不審者が映っていた。
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ある路地裏に小さなポットが捨ててあった。そのポットの外見は非常に美しく…というよりも新品と同じ輝きを持っていた。まるで次のオーナーを探しているかのようだった。
ある日の夜、サラリーマンの男が、ほろ酔い気分でそのポットが捨ててある路地に入った。尿意を催したのだ。男は勢いよくアルコールの入った尿を、ポットのそばで撒き散らした。
股間のチャックを閉め、いざ家路に着こうと踵を返したとき、ポットが男の目に飛び込んだ。
「なんだこれ、新品じゃないか。」
そう呟きながら男はポットを持ち上げ、シゲシゲとポットを顔に近づけて確認した。傷一つなかった。
「こりゃ得したな。ネットで新品って嘘ついて売れば小遣いになるじゃないか。デザインもなかなか洒落てる。」
そう言いながら、数千円に変化するであろうポットを撫でた。
その時…。
ボンッ!
と、突然ポットが勢いよく開いた。硫黄くさい煙を撒き散らし、あたりは真っ白になった。男は咳き込みながら、煙を追い払うようにブンブンと腕を振り回した。
ようやく煙が消えた時、目の前に小汚い中年が立っていた。禿げた頭皮に大きなホクロが乗った鼻。小麦色というより土気色の肌。ニヤッと笑うと、ガチャガチャの歯がむき出しになった。服装はシャツにステテコに草履。部屋着といえる服装だった。
目の前に突然見知らぬ中年現れたにもかかわらず、男は微塵も恐怖を感じなかった。むしろ男は、その中年の小汚い格好を見て、中年を鼻で笑った。
「お前が俺をよんだのか?」
「は?呼ぶ?」
いきなり現れた中年にお前と言われ、男は少しムッとした。中年は構わず続けた。
「さっきポットをこすったじゃないか。そのポットをこすると俺を呼んだことになるんだよ。見渡すとここにはお前さん以外いないようだ。だとすればお前さんが俺を呼んだに違いない。」
中年は格好から想像できる通り、鄙俗で下品な言葉遣いで、誰でもできる推理を男に披露した。
男はその話を聞いて、アラビアンナイトを連想した。中年の登場の仕方はアラビンナイトに酷似している。魔法のランプがポットになったのと、中身が少しへんてこりんな中年だという点が違うが、ひょっとすればこいつはものすごい力を持っているかもしれない。そうだ、人は見かけによらない。男は期待に胸が膨らんだ。
「お前、ひょっとしてアラビアンナイトを想像しているだろ?」
男の心の内を見透かしたかのように中年は言った。笑うときの歯が真っ黄色で不快だった。
「俺を呼び出した奴らは全員がアラビアンナイトを想像するんだよな。確かに登場方法はそっくりだが、俺はお前の欲を満たすために登場んじゃないよ。むしろ俺は、お前を不幸にするために出てきたんだ。」
さあ、全然違う方向に話が進み始めたぞ。男は眉間にしわを寄せ、首を傾げた。
「じゃ、あなたはアラビアンナイトに出てくるような魔人ではないのですか?」
中年はかっかっかと大笑いしてこう言った。
「俺はお前を不幸のどん底に陥れるために出てきたんだよ。俺に名前はないが、みんな俺を悪魔って呼んでるよ。」
「でも悪魔って黒くて尻尾が尖っていて牙が鋭い姿をしているのではないのですか?しかもそんなに下品な話し方をするなんて私の思っている悪魔とは随分違うようなのですが…。」
「お前もそんなこと信じてたのか?それはお前ら人間が、がどこから仕入れたかわからないガセネタを信じてるだけだ。さて、お前さんを不幸にするからな。」
男は一歩後ずさりした。中年は運動ができなさそうな体型をしている。このまま走り去ったら逃げれる気がしないでもなかった。
「おっと、逃げようってたってそうはいかないよ。俺はどこまでもついていく。何しろ悪魔だからな。安心しろ。俺ができることは男女の恋仲をぶっ潰すことだけだ。これも知られていないが、悪魔は愛を破壊することしかできない。それ以外の力はお前ら人間が勝手に想像したガセネタだ。だからパートナーがいない連中にとって俺は無害だ。もしお前に女がいなければ俺はさっさと消えてやる。しかし…待てよ…。」
中年は目をカッと開いた。
「お前女がいるな。やった、お前の愛をぶっ潰してやる。覚悟しろよ。もう俺を止めることはできないぞ。はははははははははは…。」
中年は一人勝手に大笑いをし、一瞬、真っ赤に光ったかと思うと、その場から消えてしまった。
一人取り残された男はその場に立ちすくんだ。中年が勝手に盛り上がって、勝手に消えていったので、どう反応すべきかわからなかったのだ。
「俺の愛が一つ消えたのか…。」
男は肩を落としてその場を後にした。その後ろ姿には哀愁が漂っていた。
さて、数か月後。息を弾ませた男は、またあのポットを目的に路地裏を訪れた。
「なんて便利なんだよこのポットは。」
男は浮気も不倫も平気な生粋の遊び人だった。
男は迷いなくポットをこすった。
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彼女が放屁した。
極めて間抜けで、しかし同時にどこか愛嬌のあるその音は、椅子がズレた音などではなく間違いなく屁だった。
食器の泡を流す水の音が、まるで水流が増したかのように嫌に際立つ。
ソファで寛いでいるほどよく巻かれた茶髪は、ピクリともすることなく、一年前に流行った淡い青春映画を見続ける。
「あら、河童が鳴いたわ」
ポツリと彼女は、まさかそんな言葉を置いた。
この女は何を言っているのだ。
もう別れよう。
そんな小さな、しかし決意に似た想いが芽を出した。
「河童は鳴かないよ」
僕は綺麗になった食器を、出来るだけ音を立てずに、シンクの端にかけた水切りラックに置く。
今日のランチは春キャベツと桜海老のオイルパスタ。
しっかりとオリーブオイルに煮出したガーリックと鷹の爪、ひっそりと忍ばせたターメリックとコリアンダーが見事に良い仕事をし、春キャベツの甘さと桜海老の香ばしさ、そして強烈な旨味が極上なまでにパスタに絡んだ絶品だった。
なるほど、こうやって振り返れば腸の働きが促進されても何もおかしくない材料が含まれている。
フォークを洗い終わる頃、納得した僕に贖罪の意識が芽生えた。
「鳴くのよ。河童は」
この女はまだ河童に罪を着せようとしている。
なんなんだこの確固たる厚かましさは。
「河童はね、いいかい。子どもだけでの川遊びは危険だと言い聞かせる為に生まれた、神様に等しい存在なんだよ」
彼女のあまりの厚かましさに耐えれず、語尾がやや強くなってしまった。
「君は『あやかし』の起源をそう捉えるのね」
あやかし? 何を言っているんだ。僕は河童の話をしている。
胃の辺りが熱くなり、成人男性に相応しい言葉の選定に難儀する僕を見向きもせず彼女は続けた。
「人はね、間違いを認めると標的にされるの。間違いを認めた人に対して、人はあたかも自分が被害者であるかのように、間違った人に対して危害を加える権利を得たと錯覚するの」
一体全体、何を言っているんだろうか。
「河童は?」
生ごみをまとめた小さな袋の口を縛って僕はゴミ箱に落とした。
「でも、間違いを自ら認めるような人は決して他人のせいにはしない。そこで芽生えた知恵が『あやかし』よ」
河童はどこに追いやられたのだろう。
僕はこの女を少し恐ろしいと思えてきた。
コーヒーメーカーが抽出完了の緑のランプを灯す。
放屁を断固として認めない彼女に、引導のコーヒーを渡そう。
そう決めた僕は、食器棚から河童色のマグカップと愛らしい紺色のマイマグを取る。
が、振り返ると彼女がいた。
肩にかかる緩やかな茶髪が光に透ける。
カップを握る僕の両手に彼女の指が這い、絡む。
唇の艶はパスタのせいだろうか。
僕は窮地に追いやられる。
いや窮地のエリアを自ら拡張しつつある。
あと二センチも近づかれると、吐息より先にヤツが触れてしまう。
「どうしたの?」
滑らかに動く唇から僅かに覗く白い歯。
『の』の余韻が、いや圧とも言える口の形が、強すぎる。
落としそうになるカップは僕と彼女の指が支えている。
磁器の冷たさがどうにもこうにも彼女の指の熱を際立たせ僕の鼓動を囃し立てる。
「これ」
眼前にいる筈なのにまるで耳元で囁かれたようだった。
たったそれだけの言葉が、もう僕の全てを掌握してしまったのだ。
「河童のせいで…」
そう。
河童のせいだ。
河童のせいで僕は煮詰まったコーヒーを飲むことになるのだった。
続きを読む
海外製のグラインダーも、やたら高価な手挽きミルも、何種類ものドリッパーに、人体工学に基づいて作られた調温ケトルも、高性能な電子スケールも、全部捨てた。
僕はもう珈琲を淹れない。
淹れ始めたきっかけは単に母に褒められたからだった。
小学四年生の僕は毎朝どんな顔をして淹れてたのだろう。
そしていつしか、彼女のため、妻のため、僕は毎朝毎朝淹れ続けてきた。
今、僕しかいないこの部屋に珈琲の香りは立たない。
明日も明後日も珈琲の香りが立つことはない。
職場ではたまに求められる。
簡素なドリップバッグだって僕にかかればそれなりの珈琲になる。
「さすがだね」
こんなただの液体にどれだけの歳月とコストをつぎ込んだか。
今となっては馬鹿馬鹿しく虚しい。
仕事を終え家に帰ると、朝シンクに置いたコップはそのままそこにいる。
なぁお前は今日一日、何をしていたんだ?
水滴がシンクに落ちた。
蛇口も開いていないのに。
長い夜が始まる。
Youtubeは未だに珈琲関連の動画をおすすめしてくる。
無気力に人差し指は自動でスワイプをしてくれる。
暗い部屋でスマホの光だけが世界に灯る。
きっとひどい顔してるんだろうなとふと思う。
公式アカウントか上司からしか来ないLINE。
タップしてはスワイプして、溜まったバッジを消費していく。
━━らぁいんっ!
馬鹿みたいな通知音が真夜中の暗闇で鳴る。
別れた妻だった。
心拍数が上がる。
間髪無くタップして刹那だけ後悔する。
送られてきたのは珈琲の写真。
「あなたの珈琲が今でも一番美味しかった」
画面が滲む。
横隔膜が揺れる。
「また、飲んでほしい」
そう打って、送れずに消す。
蛇口から、水滴が落ちた音がした。
続きを読む
雨の日は無性に眠たい。
低気圧だとか、胎児の頃の記憶だとか、そんな事はどうだっていい。
この雨音に包まれ、是非もなく、まどろんでいたい。
瞼の重さが心地よい。
地球の重力に……感謝を。
━━「なんて怠惰なオスなんだ」
そこにいたのはチロルハットを被り、煙管を咥え、シェル型のシングルソファーに、偉そうに大きく脚を組んで座っている蛙。
蛙。
「雨なんだ。勘弁してくれ」
「我々はこの時期こそに、全命をかけ、種の繁栄に賭すというのに。お前はなんという様だ」
「だから、だよ。蛙主人。君らの活動に、少しの邪魔にもならないよう僕はこうしている」
「やい、オスよ。オスの使命はなんだ」
「言わせるな。そんなこと」
「分かっているのだろう!ならば雨が降ろうと、地が乾き照り上げようと!」
蛙主人は勢いよくソファーから立ち上がった。
頭と胴のバランスに似合わず、脚は長い。
「今すぐ起き上がり、飯を食い、メスを追え!」
━━なんて目覚めだ。
近年稀なレベルの気怠さが僕を襲う。
「立飲屋 小生意気」
酒でも飲んでもう一度床に着こうと、近所の立ち飲み屋に入る。
「いらっしゃい!」
カウンターの中央で、珍しく女が一人で飲んでいる。
なるほどな。
「大将、ぬる燗一本。それと、おまかせを」
ここでの「おまかせ」はだいたい珍味かジビエの一品が出る。
まさに「小生意気」。
最初に来た時は猪肉ベーコンの天ぷらだった。
それ以来、ここを贔屓にしている。
「はいお待ち!今日はウシガエルの唐揚げだよ!」
なるほどな。
「大将、もう一匹揚げてくれる?」
続きを読む
僕は猫が嫌いだ。
理由? あつかましい、の一言に尽きる。
一方で僕の師は猫を溺愛している。
なにかしらの感染症に罹り脳がイカれてしまっていると言っていいほどには溺愛している。
ある日。
僕と師、おっさん二人で町中華のランチを堪能した帰り道。
路地の塀に群がる五匹もの猫が、井戸端会議をしていた。
ほらな。
コイツらは信用ならない。
そうやって密談を重ね、人類を都合よく利用する算段を企てているのだ。
パン!っと両手を合わせて、僕は猫どもを散らす。
「お前なにやってんだよ!」
結構な威力で肩パンを受ける。
それは決して師弟関係における愛の鞭などではない。
ましてや五十になろうかというのおっさんのすることでもない。
喫茶店に入る我ら中年二人。
僕らは一服しながら、酷く一方的に猫の素晴らしさについて僕は師から講釈を賜る。
曰く、例えば地蔵様がそうであるように、「猫」という記号はすでに人類の中で一般化され、固定されている。
つまり猫は偶像として、神仏に等しい存在なのだ、と師は話す。
そんなこと言われても嫌いなものは嫌いだ。
「君が大した理由もなく猫を嫌うのは、同族嫌悪なのかもしれない…」
師はふと視線を落とし、少し深刻そうにコーヒーを啜る。
ああ、なんだ、そうだったのか。
つまり僕は、神の眷族であった。
店を出ると、路地にある塀の質感を、無意識に目で確かめていた。
なるほど。確かにあそこからなら世界を睥睨出来そうだ。
続きを読む
ゴーヤがたくさん取れたからと母が持ってきてくれた。
それを見ながら今日のメニューを考える。
子供たちは夏休みに入って昼も夜もよく食べるから正直野菜をもらえるのはありがたい。
とはいえ、そんなにゴーヤのレシピを知っているわけではないので クックパッドで調べる。
『てぃーださんさん』 という方のレシピ。
『てぃーださんさん』って どういう意味だろう?
ググれば『お日様さんさん』という意味らしい。
なんとなく頭の中にゴーヤ畑と沖縄の青い空が思い浮かんだ。
この方のレシピは、どれもとても美味しそうである。
ゴーヤチャンプルの他にゴーヤのツナサラダ、 天ぷら、味噌汁に入れるレシピもある。
「よし今日はゴーヤ尽くしだ!」
ゴーヤは苦みがあって子供たちはあまり好きではない。
だからしっかりと味付けをしたり先に湯がいておいたり、 なるべく子供たちが喜んで食べてくれるように下準備をしっかりとする。
ゴーヤのチャンプルを作りながら昔沖縄旅行に行ったことを少しだけ思い出した。さんさんと輝く太陽。
日本なのに南国の雰囲気とても心地よくて、 懐かしくてとても楽しい思い出だ。
いつかまた行ってみたいと思うけれど、 なかなか時間が取れない。結婚して子供を育ててというのはそういうことかもしれない。
食卓の上はゴーヤづくしである。
太陽の恵みをいっぱい浴びた、苦くて美味しいゴーヤがこれでもかと並んでいる。
「いただきます!」
食卓は笑顔が溢れた。
続きを読む
駅前。雑然とした改札口から少し離れた路上で、ギターをかき鳴らしている男がいた。
微かなギターの音にふと仕事で疲れた足を止めてから、吸い寄せられるように男の元へ行く。彼は小さなアンプ一個を歩道に置き、ただただギターを弾いていた。乱れ舞うような手捌き、アンプから漏れ出る弾んだ音の連なり。気づけば、夢中になって彼のギターを聞いていた。
彼は、俺の存在に気づいていないみたいだった。ただ夢中で楽しそうにギターを弾いていた。ひたすら自分の音に塗れた世界に浸って、陶酔して、笑っていた。それを、俺はとくとくと胸を弾ませながら見つめる。
散々だった今日の出来事が、ギターの鋭い音の中に溶けていく。会社でミスをした事、上司から嫌味を言われた事、彼女に明後日のデートをドタキャンされた事。全部が、激しい音に飲まれていく。彼の紡ぐ音楽が俺の全てをうやむやにしてくれた。
演奏がひとしきり終わった頃。俺は彼に何か言おうか迷ったけど、ただ何も言わずに笑ってみせた。彼は夢中でギターを弾いていた時とは打って変わって、少し恥ずかしそうにはにかんで会釈をする。俺も軽く会釈をして、彼がギターをしまい出す前に改札口へ向かった。
しばらく電車に乗って、最寄り駅に着いてから一気に走り出す。寒空の下、冷たい空気を切り裂いて家までひたすら走った。頭の中は、刻まれた名も知らぬ音楽でいっぱいだ。
あんな風に、自由な世界を手に出来たら。音に出来たなら。世界はきっと、鮮やかなんだろう。
笑って走る。いつか俺も、この手で自由を奏でられたらいいなと思う。
鳴りやまない音楽を胸に、夜の住宅街を駆け抜けた。
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