コメディ・日常
河童のせい
1,364文字
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彼女が放屁した。
極めて間抜けで、しかし同時にどこか愛嬌のあるその音は、椅子がズレた音などではなく間違いなく屁だった。
食器の泡を流す水の音が、まるで水流が増したかのように嫌に際立つ。
ソファで寛いでいるほどよく巻かれた茶髪は、ピクリともすることなく、一年前に流行った淡い青春映画を見続ける。
「あら、河童が鳴いたわ」
ポツリと彼女は、まさかそんな言葉を置いた。
この女は何を言っているのだ。
もう別れよう。
そんな小さな、しかし決意に似た想いが芽を出した。
「河童は鳴かないよ」
僕は綺麗になった食器を、出来るだけ音を立てずに、シンクの端にかけた水切りラックに置く。
今日のランチは春キャベツと桜海老のオイルパスタ。
しっかりとオリーブオイルに煮出したガーリックと鷹の爪、ひっそりと忍ばせたターメリックとコリアンダーが見事に良い仕事をし、春キャベツの甘さと桜海老の香ばしさ、そして強烈な旨味が極上なまでにパスタに絡んだ絶品だった。
なるほど、こうやって振り返れば腸の働きが促進されても何もおかしくない材料が含まれている。
フォークを洗い終わる頃、納得した僕に贖罪の意識が芽生えた。
「鳴くのよ。河童は」
この女はまだ河童に罪を着せようとしている。
なんなんだこの確固たる厚かましさは。
「河童はね、いいかい。子どもだけでの川遊びは危険だと言い聞かせる為に生まれた、神様に等しい存在なんだよ」
彼女のあまりの厚かましさに耐えれず、語尾がやや強くなってしまった。
「君は『あやかし』の起源をそう捉えるのね」
あやかし? 何を言っているんだ。僕は河童の話をしている。
胃の辺りが熱くなり、成人男性に相応しい言葉の選定に難儀する僕を見向きもせず彼女は続けた。
「人はね、間違いを認めると標的にされるの。間違いを認めた人に対して、人はあたかも自分が被害者であるかのように、間違った人に対して危害を加える権利を得たと錯覚するの」
一体全体、何を言っているんだろうか。
「河童は?」
生ごみをまとめた小さな袋の口を縛って僕はゴミ箱に落とした。
「でも、間違いを自ら認めるような人は決して他人のせいにはしない。そこで芽生えた知恵が『あやかし』よ」
河童はどこに追いやられたのだろう。
僕はこの女を少し恐ろしいと思えてきた。
コーヒーメーカーが抽出完了の緑のランプを灯す。
放屁を断固として認めない彼女に、引導のコーヒーを渡そう。
そう決めた僕は、食器棚から河童色のマグカップと愛らしい紺色のマイマグを取る。
が、振り返ると彼女がいた。
肩にかかる緩やかな茶髪が光に透ける。
カップを握る僕の両手に彼女の指が這い、絡む。
唇の艶はパスタのせいだろうか。
僕は窮地に追いやられる。
いや窮地のエリアを自ら拡張しつつある。
あと二センチも近づかれると、吐息より先にヤツが触れてしまう。
「どうしたの?」
滑らかに動く唇から僅かに覗く白い歯。
『の』の余韻が、いや圧とも言える口の形が、強すぎる。
落としそうになるカップは僕と彼女の指が支えている。
磁器の冷たさがどうにもこうにも彼女の指の熱を際立たせ僕の鼓動を囃し立てる。
「これ」
眼前にいる筈なのにまるで耳元で囁かれたようだった。
たったそれだけの言葉が、もう僕の全てを掌握してしまったのだ。
「河童のせいで…」
そう。
河童のせいだ。
河童のせいで僕は煮詰まったコーヒーを飲むことになるのだった。
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