コメディ・日常
僕はもう珈琲を淹れない
684文字
約2分で読了
海外製のグラインダーも、やたら高価な手挽きミルも、何種類ものドリッパーに、人体工学に基づいて作られた調温ケトルも、高性能な電子スケールも、全部捨てた。
僕はもう珈琲を淹れない。
淹れ始めたきっかけは単に母に褒められたからだった。
小学四年生の僕は毎朝どんな顔をして淹れてたのだろう。
そしていつしか、彼女のため、妻のため、僕は毎朝毎朝淹れ続けてきた。
今、僕しかいないこの部屋に珈琲の香りは立たない。
明日も明後日も珈琲の香りが立つことはない。
職場ではたまに求められる。
簡素なドリップバッグだって僕にかかればそれなりの珈琲になる。
「さすがだね」
こんなただの液体にどれだけの歳月とコストをつぎ込んだか。
今となっては馬鹿馬鹿しく虚しい。
仕事を終え家に帰ると、朝シンクに置いたコップはそのままそこにいる。
なぁお前は今日一日、何をしていたんだ?
水滴がシンクに落ちた。
蛇口も開いていないのに。
長い夜が始まる。
Youtubeは未だに珈琲関連の動画をおすすめしてくる。
無気力に人差し指は自動でスワイプをしてくれる。
暗い部屋でスマホの光だけが世界に灯る。
きっとひどい顔してるんだろうなとふと思う。
公式アカウントか上司からしか来ないLINE。
タップしてはスワイプして、溜まったバッジを消費していく。
━━らぁいんっ!
馬鹿みたいな通知音が真夜中の暗闇で鳴る。
別れた妻だった。
心拍数が上がる。
間髪無くタップして刹那だけ後悔する。
送られてきたのは珈琲の写真。
「あなたの珈琲が今でも一番美味しかった」
画面が滲む。
横隔膜が揺れる。
「また、飲んでほしい」
そう打って、送れずに消す。
蛇口から、水滴が落ちた音がした。
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