1.まよい森とコトリ
むかしむかし、あるところに、コトリという小さな女の子がいました。
コトリは、ふわふわの髪をしていて、にっこり笑うと、まわりの人もつられて笑ってしまうような、やさしい心の持ち主でした。
ある日、コトリはパパとママといっしょに、新しい町へ引っ越してきました。
新しい家は少し古い壁の家で、そのうしろには、大きな森が広がっていました。
「この森は“まよい森”っていうのよ」
町の人たちは、こわばった顔で教えてくれました。
「ふしぎな声が聞こえるし、中に入ったら、もう出られないんだって。だから、近づいちゃいけません」
大人たちは、みんな、まよい森をこわがっていました。
けれど、コトリの目には、その森が、どこかさみしそうに見えたのです。
ざわざわ揺れる木の枝も、かげる夕日もうす暗い光も、なにかをうったえているように思えました。
その晩のこと。
コトリがふかふかのおふとんにくるまって、すやすや眠ろうとしたとき。
「……さみしいよう……」
どこからか、小さな声が聞こえてきました。
風の音かな?
夢の中の声かな?
それとも……ほんとうの声?
次の夜も、そのまた次の夜も、声はかすかにひびいてきました。
コトリは、どうしても気になって、とうとうひとりでこっそり、まよい森へ行ってみることにしました。
森の中は、ひんやりと冷たく、しんと静かでした。
木の枝がざわざわと揺れて、まるで「おいで」と言っているみたい。
コトリは、ふかふかの苔におおわれた道を、ちいさな足で、ぺたん、ぺたんと歩いていきました。
すると、とても古い大きな木の前に、たどりつきました。
そのとき、
「……見つけてくれたの?」
すぐそばで、かすかな声がしました。
コトリがふりかえると、そこにいたのは、すきとおった、まっ白な小さなおばけ。
おばけの子は、しょんぼりとした顔で、コトリを見あげました。
「さみしかったの。みんな、わすれちゃったの。わたしのことも、森のことも……」
そう言って、おばけの子は、コトリの手をそっとにぎりました。
その手は、ひやっと冷たいのに、ふしぎとやさしさがいっぱいでした。
「……いっしょに、あそんでくれる?」
コトリは、こくんとうなずきました。
ふたりは、森の中でかくれんぼをしました。
コトリが木のうしろにかくれると、おばけの子はふわりふわりとさがしにきます。
葉っぱをつかってままごともしました。小さなおさらにのせた葉っぱのお料理を、ふたりで「いただきます」と言って、わらいあいました。
あそんでいるうちに、暗かった森は、だんだんとやさしい緑の光につつまれていきました。
ざわざわしていた木も、どこかうれしそうに見えました。
ふたりは、なんどもなんども、にっこり笑いました。
やがて、外が明るくなりはじめました。
大人が目をさますまえに、コトリは家に帰らなくてはいけません。
森の出口まで来ると、おばけの子は、にっこりして言いました。
「ありがとう。あなたが、わたしの声をきいてくれて、うれしかった」
その姿は、やわらかい光になって、森の奥へと消えていきました。
コトリは、そっと手をふりました。
その夜から、まよい森の「さみしいよう」という声は、もう聞こえなくなりました。
でも、コトリにはわかっていました。
森は、ちゃんと見ていてくれる。
そして、こたえてくれる声があれば、もう、さみしくなんてないのです。
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令和になってもド派手成人式がニュースになるくらいだから、昭和時代の北九州のヤンキー文化はコテコテに濃かった。当時はヤンキーというよりもツッパリという言葉を使ったものだが、本当に彼らは突っ張ってたのか?って思う。
同じ福岡県でも博多はミュージシャンなどを輩出する。一方で北九州は、人口比を勘案しても、かなり博多に見劣りする。北九州のヤンキーは、ツッパリの格好をして目立つことがゴールだと思っている節がある。表現活動は目立つことがスタートで、そこから先は中身勝負だと思うのだが……。そういう愚痴を言いたくなるのが北九州のヤンキー・ツッパリ文化かも知れない。
昭和時代、今よりもヤンキー文化が華やかな頃の北九州では、そこそこ成績のいい、真面目な生徒でも、ファッションに興味があると、入学を機に高校デビューすることがある。そして言うのである。
「この髪の色は生まれつきです」
「このチリチリ頭は天然パーマです」
流行を追うだけなら、テクノカットにでもすれば、校則に引っかからないのかも知れない。でもその発想はない。ヤンキーに見えなければファッションが成立しないと信じている。ヤンキーでも聖子ちゃんカットは多かったが、それではヤンキー認定されないから髪色をいじる。
家では親が子に言うのである。
「テストの学年順位が〇〇位以内なら、そういう格好を許す」
県立の中堅普通科高校に入学した藤島隆は、そんな生徒の一人である。髪の毛をチリチリにして入学してきた。ちょっとの間だけサッカー部で頑張ったが、キツくなってやめた。そして、チリチリ頭がそこそこに長くなった段階でリーゼントにした。タレントで言えば、嶋大輔みたいな髪型になった。
藤島は中森明菜ファン。当時のアイドルは髪の毛をカラーリングすることは稀で、明菜も黒髪だったが、アイドルには珍しく不良性で人気の出たアイドル。だから藤島は、高校入学して間もないうちに、髪の毛が赤茶けた女子が気になった。彼にとって、その赤毛女子は「少女A」だった。
女子の名前は松田恵美子。彼女も高校デビュー。タレントの誰かを意識したわけではないが、なぜか髪は赤くした。色白だから、自分には赤が似合うと思ったのかもしれない。普通のヤンキー女子は、金色系の茶髪だから赤系の茶髪は目立った。なお、松田は髪色以外は普通の生徒だった。むしろおとなしめといってよい。
偶然だが、松田は嶋大輔の熱烈なファン。だから、藤島隆と松田恵美子はよく言えば運命の二人、悪く言えば破れ鍋に綴じ蓋……。夏休み前には付き合い始めた。
同級生は二人を見て、あやうさを感じた。あまりにも偶然の趣味の一致。藤島は、松田の中に少女Aを見ている。松田は藤島の中に嶋大輔を見ている。二人ともアイドルの代替と巡り会ったのだ。「こんなの長続きするわけない……」みんな成り行きを見守った。
最初の危機は高3の時、松田が就職活動で黒髪に戻した。でも乗り切った。
次の危機は藤島が大学4年の時、就職活動でリクルートカットにした。当時は就職活動は4年生になってからだった。
「俺も、もう22やけの〜」などと、藤島は照れ臭そうに言い訳した。
この危機も難なく乗り切った。
でも、結婚して3年で離婚した。
離婚届を提出するとき、藤島隆が自虐的な冗談を言って、二人で笑った。久しぶりにお互いに顔を見合わせて笑った。
「そういえば、こんな表情することあったな」
二人ともそう思ったが、そのまま離婚届を提出し、受理された。
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我は、旅の聖女と呼ばれている。請われて癒やしの技を使うだけだがの。「娘の病が治りました」「畑がみるみる元気に」これが村人にはすごく喜ばれる。「さすがは女神さまの愛し子ですね」称賛に頬がひきつった。あやつのドヤ顔は二度と見たくない。我は、旅の聖女。労役刑に服している元魔王でもある。
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水の流れる音が、この町の呼吸音だ。
蔵波(くらなみ)町。
城下町の面影を残す街には、細い堀割が網の目のように巡っている。黒漆喰の土蔵が水路に沿って並び、黄ばみ始めた柳の葉が水面を流れていた。観光用の小舟の櫂の音が、石橋の下に響いている。
石橋のたもとにある『夕菅(ゆうすげ)硝子店』。藤野 梢(ふじの・こずえ)は、この店の三代目だ。店を引き継いで三年。グラスや器を作るかたわら、近隣の町家から頼まれる硝子細工の繕いを引き受けている。
からん、と引き戸の真鍮鈴が鳴ったのは、水路に午後の光が揺れ始めた頃だった。
「ごめんくださいな」
水路の向かいで和菓子屋を営む八千代さんが、風呂敷包みを抱えて立っていた。
「いらっしゃい。お茶でも淹れましょうか」
「今日はね、これをお願いしたくて。奥の座敷の行灯の硝子なんだけど、掃除のときに手が滑って……」
木箱には、すり硝子の円筒形の笠が入っていた。縁が三日月形に欠け、薄紙に包まれた破片が添えられている。乳白色の硝子には、繊細な撫子の花が彫り込まれていた。
「お母様の嫁入り道具でしたよね」
「ええ。古いものだから諦めようかとも思ったんだけど。夕方、これに明かりを灯すと、畳にやわらかな影が落ちてね。水音と合わさると、落ち着くのよ」
梢は破片を縁に合わせた。透明な樹脂なら継ぎ目を目立ちにくくできる。けれど、この白い硝子には、細い金色の線も似合いそうだった。
「金継ぎにしてみるのは、どうでしょう」
「お茶碗にする、あれ?」
「硝子にもできるんです。ただ、ここに金色の継ぎ目が残ります。漆を使うので、何週間かかかりますけど」
八千代さんは眼鏡を上げ、梢の指先を覗き込んだ。
「ここだけなのね」
「はい。撫子の模様はそのまま残せます」
しばらく笠を見てから、八千代さんは頷いた。
「急がなくていいわ。また、あの座敷で使えれば」
八千代さんを見送ると、梢は作業台に笠と破片を並べた。
そばに置いた携帯の画面には、昼に同級生から届いた写真が残っていた。新しい職場だという。窓の向こうに、知らない街のビルが並んでいる。
返事は、まだ書きかけだった。
この町で生まれ、この町で育った。大学時代は東京にいたけれど、ビル風と人々の歩く速さに馴染めず、この水辺へ戻ってきた。
明日はグラスを仕上げて、いつもの道を通って届ける。その先の予定も、だいたい分かっていた。
梢は携帯を伏せ、破片を手に取った。縁に合わせ、指先で段差を確かめる。位置を決めて漆で継ぐまで、窓の外を見ることはなかった。
顔を上げると、軒下の提灯に灯がともっていた。対岸の豆腐屋から白い湯気が上がる。子どもたちの「また明日」が、石畳に響いた。
それから数週間、梢はほかの仕事の合間に、漆の固まり具合を確かめながら継ぎ目を整えた。
仕上げの漆に金粉を蒔く頃には、窓の外の柳も枝が目立つようになっていた。
仕上げを終えた笠を、作業場の試験用ランプにはめる。スイッチを入れると、ぽっ、と柔らかな光が灯った。
撫子の花の下に、細い金色の線が浮かんでいた。笠の向きを変えると、継ぎ目がきらりと光る。夜の蔵波の水路を、月明かりがなぞるようだった。
「……できた」
翌日の夕方、梢は笠を薄紙で包み、木箱に戻して店を出た。
軒先の落ち葉を掃いていた近所の人が、箒を止める。
「梢ちゃん、お疲れさま。日が短くなったねえ」
「ほんとですね」
箱を抱え直すと、袖口から冷たい風が入った。
八千代さんの店では、奥の座敷に通された。笠を外した行灯が、畳の上に置かれている。
梢は笠を台座にはめ、継ぎ目の位置を確かめてもらってから明かりをつけた。
「まあ……」
八千代さんは両手を胸の前で合わせた。
「触ってもいい?」
「ええ」
指先が、金色の縁をそっと辿った。
「ここだったのね、欠けたところ」
指を離し、もう一度灯りを見る。
「割れたときは胸が痛かったけれど……この線も、いいわね」
梢はようやく息を吐いた。
八千代さんは行灯を少し奥へ寄せた。撫子の影も、それにつれて動いた。
「そうそう。この明かりがないと、夕方、ここが落ち着かなくて」
店先で物音がした。八千代さんは腰を浮かせかけ、振り返った。
「ありがとう。梢ちゃんがこの町にいてくれて、よかったわ」
帰り道、梢は石橋の上で足を止めた。
水路の両脇に、点々と灯りがともっている。八千代さんの店の奥にも明かりが見えた。
手元の風呂敷を畳む。木箱を預かったときには、あの座敷が暗くなっていることまで考えていなかった。
柳の葉が一枚、橋の下へ流れていく。
梢は水音に耳を傾け、深く息を吸い込んだ。
「さて、明日もいいものを作ろう」
風呂敷を腕に掛け、工房へ続く石畳を歩き出した。
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忌まわしき誕生
老いた祈祷師が後に語ったところによれば、難波の外れに住む夫婦が住吉大社の祭壇に向かって捧げた祈りは、いかなる神聖な存在にも届かなかったに違いない。
むしろそれは、人智の及ばぬ次元の狭間にわだかまる、名状しがたき何者かの注意を引いてしまったのではないかと、私は戦慄とともに推察する。
子は生まれた。しかし正しい意味での誕生と呼んでよいものか、私には判断がつかない。
その寸法は、人の指一本にも満たなかった。近くで見ても、遠目で見ても、目に映る寸法は変わらないように思えた。
だがより不安を掻き立てたのは、大きさではなく、その目であった。夜の池の底を思わせる、深く、光を飲み込む双眸。それを見た産婆は三日後に原因不明の熱病で没し、見舞いに来た僧侶は「あれは人の子の目ではない」と呟いた後、寺に籠って二度と外に出なかった。
都への旅路
彼が十五の歳になっても、その肉体は誕生の時と寸分違わぬ大きさのままであった。これは単なる奇形ではない。これは法則の否定である。自然の秩序への嘲弄である。
彼は椀を舟とし、箸を櫂として川を下った。それは、立身出世のためなどという矮小な人間的な動機ではない。彼はただ、流れる水面に浮かぶこの世界の境界を測定していた。難波という狭い局所から、因果の錯綜する都へ。 己の瞳を通じて深淵がこの世界をより効率よく観測するための座標へと、彼は転移した。
のちに京の文献庫で発見された或る絵師の覚書には、この旅路で彼を目撃した者の証言が記録されている。
「小さき者が椀に乗りて流れを渡る。しかし奇妙なことに、水面に波紋が立たなかった。まるで彼が、我々と同じ現実の層に存在していないかのように」
これは川の水が彼を物質として認識していなかったと考えられる。もしくは自然が彼を拒んだものであったのかもしれない。
また、旅の途中、彼が野宿した地では翌朝、草が奇妙な幾何学模様を描いて枯れていたという記録も残されている。
鬼との遭遇
大臣の屋敷に奉公した彼は、姫君の傍に仕えた。姫君は当初この矮小な従者に好奇の目を向けたが、やがて、彼の側にいる時だけ見る夢の内容を、侍女に語るのをやめた。侍女が「いかなる夢にございますか」と問うても、姫君はただ首を振り、「言葉にできない形の夢」とだけ答えた。
鬼が現れたのは、秋の祭りの夜であった。
後世の怪談集が伝えるように、鬼は確かに二体いた。しかし目撃者たちの証言を突き合わせると、それらは角を持つ、いわゆる鬼の姿かたちをしていたのではない、ただ、目撃した者たちの眼が、脳が、その異常な輪郭を既存の概念にあてはめねば破滅してしまうがゆえに、かろうじて鬼として認識したに過ぎない。
大きさについても証言は一致せず、最も信憑性の高い記述は単にこう述べるのみである。
「それらは、存在してはならない角度から、存在してはならない形で、そこにいた」
一寸法師は針の刀で鬼に立ち向かった。
剣戟があった——と、遠巻きに見ていた人々は言う。しかし後に姫君が語ったところによれば、実際に起きたことは、こうだった。
一寸法師が針を突き出すたびに、鬼の周囲の空間に裂け目が走り、そこから色のない光が漏れ出た。その光が鬼の皮膚を切り裂いていった。
鬼たちは逃げた。鬼が恐れをなして逃げたのだ。
打ち出の小槌
鬼が落としていった打ち出の小槌を、姫君が振るった。
「大きくなれ」
その言葉とともに何が起きたか。彼の肉体は、音を立てて変容していった。バキバキと軋む音を響かせて伸びる骨格、それにつれて引き攣れるように薄く延ばされた皮膚の下に脈打つ血管。姫は気を失った。
一寸法師は痛みと引き換えに一夜にして人並みの大きさを得た。
これを慶事として記録した文献は多い。しかし私が長年の調査の末に入手した、姫君自身の日記の断片には、その夜についてこう記されている。
「小槌を振りて、彼は大きくなった。しかし何かがずれた。人の形を得たその顔を見た時、私は気づいた。目だけは、変わっていないことに。あの、深淵のような目だけは」
彼は一寸法師改め、今若丸と名を改め、姫君と婚儀を挙げ、やがて高い位を賜ったという。
終章
目出度し、目出度し。そう伝承は締めくくる。
しかし難波の老いた祈祷師が、死の床で残した最後の言葉を、私はここに記録しておかねばならない義務を感じる。彼は長年、あの夫婦の祈りが、何に届いたのかを調べ続けた人物だった。
「住吉の神は、答えなかった。では何が答えたのか。そして、何の目的で……」
それ以上、彼は語らなかった。
語れなかったのか、語ることを恐れたのかは、今となっては知る術がない。
慶事の後、都では奇妙なことが続いたと記録にある。
夜ごと人々が見る夢に、寸法はひとつの指ほどなのに影だけが大きい人影が登場するようになったこと。その夢を見た者は皆、決まって同じ言葉で目を覚ました。
「——」
それは、我々には発音不可能な音節、あるいは我々の言語体系では翻訳できない何かであった。
——この手記の筆者については不明。某年、京郊外の廃寺にて発見。筆者の行方は知れず。
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「額縁に蝶が並んでいるように見えたと?」
「はい、とても、とても綺麗だったんです。黒や茶色、錆色をした蝶が、額縁に沿って綺麗に並んでいたんです」
「ほう」
「額縁に飾ってあるのは、亡くなった愛猫の写真でね、色合いも似ているもので、最初見た時は目がおかしくなったかと驚きましたよ」
「その蝶は飛んでいきましたか」
「いいえ。この目で捉えた瞬間蝶は消えて、元の額縁の姿に戻ってしまいましたよ」
「他にもそういった経験はあるのですか?」
「ええ。よく字消し屑や壁の染みなんかが、小さな虫に見えて、時々動いている気配がするのでゾッとしますよ。本当に小蠅がいる時もありますので、いつも二度見してしまいます」
「確かに、あの見た目ですから、私にも見えてしまうかもしれませんね。では、処方箋を出しておきますね」
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ミステリー・サスペンス
2277文字
約5分で読了
清水リュウイチの恋は終に叶わなかった。
彼がレイと出会ったのは、高校受験に失敗し滑り止めの私立男子高が決まり不承不承と通学し始めた最初の春の5月の中頃。
登校中の電車で清水リュウイチはレイに一目惚れをした。一目惚れをしたその衝撃は純然を極め、崖から落とされた直後に落雷を受け落下してすぐさま後頭部をハンマーで打ち付けられた程度には眩暈がし、それはいわゆる初恋であった。
初めて言葉を交わすことになったのは公立に通っていたレイが清水リュウイチより数日早く卒業式を迎えた日であって、3年間も声をかけられなかったのは清水リュウイチの性格とかしか他に言いようがない。
ようやく食事に行ったの互いに25の時だった。直後、レイは清水リュウイチではない男性と子を作り、結婚した。
それから年に一度、清水リュウイチとレイは食事に行ったりした。一度食事に行くと2年空いたりするので、正確には年に一度未満ということになる。
ほとんどの場合、清水リュウイチの方から誘ったが稀にレイの方から誘うこともあった。さらに稀の頻度で二人は手と手を繋ぐ瞬間があった。それ以上の男女らしい行為は無かった。
レイの生涯でファミリーネームは三度変わったがどのタイミングであっても清水リュウイチとはそれ以上の関係にならなかった。別段、レイの方も清水リュウイチをパートナーの対象あるいは候補として見ていなかったわけではないがレイが僅かなシングルマザーとしての期間、清水リュウイチは仕事がやたらと忙しくなったりひとりっ子ゆえに親の看病をしていたりした。
やはり、清水リュウイチとレイは手と手を繋いぐことがあった。
清水リュウイチはその生涯を独身で全うした。無論、子孫を残すこともなかった。
数多の映画を鑑賞し小説を読み、紡がれる多くの架空の人生に自身を重ねるなどしての幾多の時を過ごした。
最後にレイと食事をしたのは70を過ぎた頃だったが、いつを最後とするかは互いに主張が食い違うので曖昧な記憶としてそれぞれに残った。曖昧な理由は認知能力の低下のせいかもしれなかった。
孤独は定年を迎えても身体機能を損なってもなお変わらぬ脅威を保持しピタリと密着して離れなかったので清水リュウイチは誤算だったと最期にボヤく。
その人生において最後に読んだ物語はレイの持ってきた病院の待合室にあったという『100万回生きた猫』だった。
「もし、生まれ変わったら……」
燃え尽きる蝋燭のように揺れ、途切れ途切れの意識の上澄みで、清水リュウイチはレイの言葉を最後までは聞き取ることができなかった。
*
リュウジは中学から高校卒業を迎えるまでに三人の女性と関係を持った。客観的に恋人と呼ばれもした。
一人目は清水イチカで二人目は清水フタバで三人目は清水ミカで同じ姓であっても三人に血縁関係は無い。少なくとも確認出来る範囲においては。
リュウジがこの奇妙な偶然に気付いたのは、大学卒業後新卒入社した会社で付き合い始めた清水ユカの時であり、思い返せば今までの彼女はみんな清水だったなぁと初めてぼんやりとゆっくりと過去を振り返っていた。実は大学ではさらに二人の清水なんたらと付き合っていた。
新卒で入社した先で出会った二つ上の先輩である清水ユカは歴代白い猫を飼い続けているらしかった。単に好みなのだと彼女は言った。リュウジはその3代目とされる白い猫に決して懐かれることはなく、会う度に四肢のどこかに二つ並ぶ小さな丸い傷を作った。
そういえば、とリュウジはふと思う。過去に存在する清水達も何かしらの白い猫のキーホルダーやTシャツや帽子やノートやペンなどを大事にしていたような気もする。気がするだけなので記憶に補正が入っている可能性も十分にあり得た。
過去の清水達はというと、リュウジは特にSNSに熱心な方ではなかったし、能動的に現状を知ろうともしなかった。興味もさっぱり湧かない。つまり生死すらも定かではない。過去友好的で密接な関係であっても、人生で二度と関わることの無い予定の他人の生死がそれほど重要な事柄とはリュウジにはまるで思えなかった。無論、訃報が届けばそれなりに雰囲気にのまれ悲しんだし、涙ぐんだりもした。
30歳を前にした転職後にリュウジより少し若い清水カナと知り合い、結婚前提という但し書きの付いた交際が始まった。より正確には転職先で暇を持て余した末に始めたマッチングアプリで知り合った。公には共通の友人の開いた食事会で知り合ったということとされた。
清水カナは白い猫や猫のグッズ等に興味を示さなかったが意外にもそれこそがリュウジに運命めいたものを感じさせる要素の多くを占めた。
「だって私は白い猫を見つけたんだもん」
「どこに?」
「場所の話じゃないわ」
リュウジとリュウジのファミリーネームを冠したカナの間に出来た子は女性で名を千春といった。取り立てて幸福と不幸の落差もなく、一般的とされる一般家庭としての時間を、リュウジの一家は平穏無事に過ごしていった。
「やっぱりあなたが先に逝くのね」
最期の時、リュウジは終焉の恐怖と充足感の濁流の中、カナの問いに頷く。
「信じてもらえないかもしれないけど」
カナはリュウジの骨ばった手をどこまでも優しくどこまでも強く握り、
「私が生涯愛したのはあなただけなの」
と涙を流して伝える。
「そんなわけあるか」
リュウジは弱々しく伸び切った声帯を震わせ、微笑してみせる。
「そんなことあるの。だってあなたも私に出会ってようやく白くなれたのだから」
その言葉がいつか娘の千春と読んだ絵本を指しているのだとリュウジが理解する頃、彼の魂はその身を離れていった。
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■月■日
博士と、別の星の言語で行っていたこの日報も、ひとりぼっちの私の日記となってしまいました。
■■●、●●●●●●●●▲、●▲●▲●●▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲●●▲、▲▲▲▲▲▲▲●▲●▲●●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
博士が死に、せっかく学んだ言葉も、もはや私以外に読める船員はいません。
●●▲●▲、▲▲▲▲●▲▲▲●●▲、▲▲▲●●●▲●▲▲●●▲▲▲▲▲▲▲。
この交換日記……日報のきっかけは、博士の一声でした。ある日、こんなことを言い出したのです。
「せっかく宇宙に出るんだ。他の星の言語のひとつやふたつ。覚えなくてどうするんだ。」
▲▲●●●●……●●▲▲▲▲▲▲▲、●●▲●●▲▲▲▲▲。▲▲▲▲▲▲▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
「▲▲▲▲●●▲●▲▲▲。●▲●▲●●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。」
博士は、自分は読めないくせに、私にそんなことを言ってきたのです。そのせいで、私は辞書を片手に、同じことを2回書く必要が出来てしまいました。
●●▲、●●▲●▲▲▲▲▲▲▲、●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
▲▲▲▲▲、●▲●●▲●●▲▲●▲■●●▲●●▲●●▲▲▲▲▲▲▲。
でも、なんだかんだ私も楽しんでいたのだと思います。
なぜなら、博士が死んだ後も、私は未だに、同じ内容を別の星の言語で書き続けているのですから。
▲▲、▲▲▲▲▲▲、●▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲●▲▲▲。
▲▲▲▲、●●▲●▲▲▲▲●▲▲●▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
さて、あんなに地球を愛していた博士は、30日前、皮肉にも宇宙の中で亡くなってしまいました。原因は、私たちの宇宙船が、宇宙人からの砲撃を受けたことです。
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●●▲、●▲▲▲●▲▲●●▲、●●●▲●●▲●▲▲▲▲▲▲。
思えば5年前、宇宙の研究をしている博士が、”とある星が地球を滅ぼそうとしている”という情報を手に入れたことから私たちの旅は始まりました。
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博士は地球を守ろうとし、爆速で宇宙船を作り、操縦士の私だけを連れ、宇宙に飛び出しました。
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順調な旅路、しかし、宇宙船が地球から50万キロほどの距離の時、悲劇が起こりました。
●●▲●●、▲▲▲、●●●▲●●▲▲、■■●★★▲▲▲●●▲●、●●▲●▲▲▲▲▲。
地球を攻撃する砲撃が、私たちの船に直撃したのです。
●●▲●●▲▲▲▲●●▲▲▲、●●▲●▲▲●▲●●▲▲▲▲▲▲。
轟音でした。初めて砲撃を受けたときの感情を、私は忘れることができません。
●●▲▲▲。●▲▲●▲●●▲●▲▲▲▲▲●●▲、●▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
最初の数発は問題なく耐えることができましたが、攻撃は桁違いでした。私たちの船は、数百、数千、数万と砲撃を受け、エンジン室が壊れてしまいました。
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「操縦士を失うわけにはいかない。修理は俺が外に出て行う。」
「●●●▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。●●▲●▲●▲●▲●▲。」
そう言って出て行った博士は、遂に作業中に砲撃を受け、死んでしまいました。
▲▲●▲▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲、●●▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲、●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
全てが詰んで、もうどうでもよくなりました。ただ最後に、博士と宇宙船と、博士が愛した地球を見たいと思いました。
●▲▲●▲▲、▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。▲▲●●▲、●●▲●●●▲、●●▲●▲▲●●▲●▲▲▲●▲▲▲▲。
どうせ残された燃料はあと一日分くらいです。明日は私は、最後の燃料を使い、“地球に少しでも近づこうと思います”。
▲▲▲●▲▲▲●●▲▲▲●●●▲▲▲▲▲。●●▲●▲、●●▲▲▲▲●▲▲▲▲、“●●▲●▲▲▲●▲▲▲▲●▲▲▲▲”。
■月■日
最後の燃料を使い果たした瞬間、驚くべきことが起きました。
●●▲●●▲▲▲▲●▲●●、●▲▲▲▲▲▲●▲▲▲▲▲▲。
なんと、宇宙船が地球の引力に捕まり、燃料なしで、地球の周りを進みだしたのです。
▲▲▲、●●●▲●●▲●●▲●▲▲、●●▲▲▲▲▲、●●▲●▲▲▲▲▲▲▲▲。
もうこの宇宙船は自力ではどこへも行けません。砲撃は未だに続き、船内には今も轟音が響いています。
▲▲▲●●●▲●●▲▲●▲▲▲▲▲▲▲●▲▲▲▲▲。●●▲●▲▲●▲、●●▲▲▲▲●▲●▲▲▲▲▲▲▲。
それでも、操縦席から見える地球は、青く、青く、美しく見えました。どうやら宇宙船が代わりに砲撃を受けることで、地球のことを守れているようだったのです。
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▲▲▲▲●●●▲●▲▲▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲、●●▲▲●▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲。
博士も、博士の作った宇宙船も、死に絶え、燃料が切れても、愛する地球のことを、守り続けていたのです。
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宇宙船は引力に任せ、地球の周りを周ります。このペースだと、残りの食料分で、1周くらいは周れるのかもしれません。そしてきっと、私が死んだあとも、この宇宙船は、博士が愛した地球を、守り続けていくのでしょう。
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私は、私の命が尽きるまで、この轟音の特等席で、美しい星を見続けようと思います。
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2050年、ちょうど10回目の月面着陸を成功させた人類は、月の地面に埋まっている、一冊の本を発見した。それは、”月に生命体が存在した”証拠となる、”異星人の手記”だった。
本の内容のうち、半分は解読が出来なかったが、書き手が、”地球の言語でも記していた”ため、研究者たちは、文章の内容を理解することができた。
手記の最後のページには、こんな言葉が、”地球の言語だけで書かれていた。”
「未来を生きる、美しい地球の皆さまが、いつかこの日記を読んでくれますように。」
その記述から45億年、月という名の宇宙船は、今も地球を守り続けている。
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ミステリー・サスペンス
2805文字
約6分で読了
猛吹雪が、世界を白い絵の具で塗り潰したように視界を奪っていた。
吸い込む空気は冷たいを通り越して痛く、喉の奥をざらりと削っていく。膝まで沈む雪をかき分けながら進むうちに、指先の感覚はとうに消え、耳の奥では自分の鼓動だけが妙に大きく響いていた。
針葉樹の影に、ぼんやりとオレンジ色の光が滲む。
山小屋のような古い建物の前に立ち、凍りついた真鍮のドアノブに体重を預けて押し開けた。
重い扉がきしみ、カラン、と乾いたベルが鳴る。
吹雪の音が一瞬で遠ざかり、むせ返るほどの暖気が肌にまとわりついた。薪ストーブの爆ぜる音、柱時計の規則正しい刻音、壁際の本棚に並ぶ擦り切れた洋書。飴色のカウンターの奥では、くすんだ照明が柔らかい影を落としている。
「いらっしゃい」
低くよく響く声が、店の奥から届いた。
黒いタートルネックを着た大柄な男が、布巾でグラスを磨いている。探偵事務所を兼ねているというこの店のマスターだ。四十代半ばだろうか。整った顔立ちなのに、口元にはどこか人を食ったような皮肉めいた気配がある。
僕は雪のついたコートを脱ぎ、カウンターの端の丸椅子に腰を下ろした。
膝の上で組んだ両手が小刻みに震えているのは、寒さのせいではない。
「人を探してほしい」
自分でも驚くほど掠れた声が出た。
マスターは手を止めず、淡々とグラスを磨き続ける。
「雪山で遭難か」
「いや。街から突然消えた。僕の……大切な友人なんだ」
喉が乾いて、舌がうまく動かない。
吐き出そうとしているのは、氷のように固く冷たい嘘だ。自分さえ騙せるほどの、完璧な嘘。
マスターは磨き終えたグラスを頭上の棚に戻すと、無言で背を向けた。
棚の奥から、使い込まれた銅製のクラシックな手挽きミルを取り出す。
ホッパーに焦げ茶色の豆が流し込まれ、ハンドルがゆっくりと回された。
硬い豆が砕かれる低い振動が、静寂の落ちた店内に響き渡る。
外の風が、窓ガラスを鋭い爪で引っ掻くように鳴った。
「失踪はいつだ」
「十日前。急に連絡が途絶えた」
「警察は」
「行っていない。事情があって、表沙汰にできない。だからあんたに頼みに来た。腕がいいと聞いた」
嘘を重ねるたび、胃が鉛のように重くなる。背中を冷たい汗が伝い落ちる。
マスターは挽いた粉をドリッパーに移し、細口のケトルを火にかけた。
「あんた、手がひどく震えてる」
背を向けたまま、マスターがぽつりと言う。
「……外が、異常に寒いからだ」
「息も浅い。目が、さっきからドアと時計を往復している。何かに追われてる人間の目だ」
心臓が跳ねた。
僕は組んでいた手をほどき、膝に押し付ける。
「気のせいだ」
シューと、ケトルの湯が沸騰する音がした。
マスターは火を止め、温度計を差し込む。湯が落ち着くまでの十数秒、沈黙が店を満たした。
ストーブの爆ぜる音だけが、やけに鼓膜を打つ。
マスターが静かにケトルを傾けた。
糸のように細く、柔らかな弧を描く湯の筋が、ドリッパーの中心に落ちる。
挽きたての粉が湯を含み、琥珀色のガスを放ちながら美しいドーム状に膨れ上がった。濃密で、微かに焦げたような香りが一気に店内に立ち込める。
張り詰めた空気の中、立ち昇る細い湯気からどうしても目を逸らせない。カラカラに乾いた喉が、その匂いに当てられてピクリと動いた。
「人間は嘘をつくと、どこかに綻びが出る」
湯の滴る音と同じリズムで、マスターが言う。
「瞳孔、声の調子、筋肉の硬さ。外が異常に寒いにしては、あんたの体温は不自然なほど低い。血が内臓に集まってる証拠だ」
「何を言ってるのか、わからないな」
「そうか」
ドリッパーが外され、白い湯気を立てる黒い液体が、灰色の陶器のカップに注がれた。
マスターはソーサーにカップを乗せ、僕の目の前に音もなく滑らせた。
「これは特別なマンデリンだ」
マスターの墨色の瞳が、湯気越しに僕を射抜いた。
「嘘をついている人間が飲むと、泥のように苦く感じる」
僕は目の前のカップを見つめた。
波打つ漆黒の水面が、血の気を失った僕の歪んだ顔を映し出している。
嘘を見破る珈琲など、そんなものあるはずがない。
ただの三文芝居だ。ハッタリに決まっている。そう思いながら、震える手でカップを持ち上げる。
陶器の熱が、凍てついた皮膚を焼き切るように熱い。縁に唇を押し当て、少しだけ傾けた。真っ黒な液体が、舌の上を滑り落ちる。
――苦い。
舌の根を鷲掴みにされるような、鋭い苦味。喉の奥が焼け焦げ、胃が縮む。
息が詰まった。
カチャリ。
手が滑り、カップがソーサーにぶつかって甲高い音を立てた。
「苦かったか」
逃げ場はない。
視界が歪み、喉の奥から黒い塊がせり上がる。ポケットの中のスマートフォンが、けたたましく振動しているような錯覚に襲われた。あの夜と同じだ。彼からの着信を告げる、無機質な振動音が耳の奥で鳴りやまない。
「……僕が、見捨てたんだ」
言葉ではなく、溶けた後悔がこぼれた。
「あいつは身に覚えのないことで叩かれてた。デマだ。僕は知ってた。無実だって。あいつが潔白だって。あの日、あの時間に、あいつが僕と一緒にいた証明を持っていたのは、僕だけだったんだ」
呼吸が乱れる。
「でも言えなかった。巻き込まれたくなかった。僕の人生が壊れるのが怖かった。だから黙った。あいつが一番助けを求めてた夜に、スマホの電源を切って、毛布にくるまって震えてた。着信を何度も、何度も、無視して……!」
止まらない。
頬を熱いものが幾筋も伝い落ちる。膝に置いた両手に、ポタポタと絶え間なく雫が落ちて、ズボンの生地に黒い染みを作っていった。
探してほしいんじゃない。
ただ、自分の目で、選択の結末を知るのが怖かっただけだ。
どれほど泣いただろう。
狂ったような動悸が、少しずつ落ち着きを取り戻し始める。
「……珈琲が嘘を見破るわけないだろう」
マスターの声は、もう冷たくなかった。
顔を上げる。マスターはカウンターに両肘をつき、静かな瞳でこちらを見下ろしていた。
「ただの深煎りだ。あんたの脳が、罪悪感で味を歪めただけだ」
僕は目の前のカップを見下ろした。
黒い水面から立ち昇っていた湯気は、すでに消えかかっている。
「もう一度飲んでみろ。冷めた頃がちょうどいい」
言われるがまま、僕は再びカップの取っ手に指をかけた。
今度は震えなかった。
冷めかけた液体を口に含む。
先ほどの、舌を刺すような苦味はない。代わりに、熟れた果実のような、丸みを帯びた甘みと深いコクが、舌全体を優しく包み込んだ。
喉の奥を滑り落ちた液体が、胃の腑に仄かな熱を灯す。
「マンデリンは冷めるほど甘くなる。嘘が溶けたなら、なおさらだ」
マスターはコートを手に取った。
「行くぞ」
「どこへ」
「あんたの依頼だ。まずはスマホの電源を入れるところからだな」
扉が開く。
外は相変わらずの猛吹雪だったが、不思議と、さっきほどの絶望的な寒さは感じなかった。
口の中には、マンデリンの静かな甘みが残っている。
凍りついていた心臓が、ゆっくりと溶け始めていた。
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私は共感覚の持ち主だ。
共感覚…。
この特殊能力を理解している人間が、この世の中にどれほどいるだろうか?
私は断言する。共感覚という言葉を知っている人間がいるとしても、この感覚の苦悩を真に理解している人は、共感覚を備えた人間だけであるということを。それほどにこの感覚は苦しいのである。
私は幼き頃から、聴覚から得るあらゆる音に対して、色彩を感じてしまう「色聴」と言われる感覚を持っている。
昔、ピンク・フロイドというバンドのシド・バレットという人物がいた。彼も「色聴」を持っていたそうだ。
彼は、音で捉えた色に対して、楽器を使いレスポンスを返した。
あらゆる音が色を帯びて脳内に侵入してくる。そのおかげで、「色聴」を持つ者の脳髄は、様々な色に襲われ、混乱してしまう。
世界は音で溢れている。私にとって世界とは、赤や青や黄に塗られた狭い部屋にいるのと同じだ。故に私は今でも、色の情報に翻弄される毎日を過ごしている。気が狂ってしまいそうだ。この色鮮やかな眩しさに耐えられる者はそういないだろう。
シド・バレットの話に戻そう。
多くの共感覚の持ち主は、その感覚から興じる苦悩を、何らかの方法を用いて、己の脳内から脳外へアウトプットする。これは、共感覚の持ち主であるが故、共感覚という常軌を逸した感覚から少しでも逃れようとする逃避行為なのだ。
シド・バレットはその代表者だ。
彼は楽器の演奏ができたので、音で捉えた不純を音で吐き出すことができた。彼の奏でる音楽の多くは、混沌と混乱に満ち溢れた誰にも理解しがたい作品であった。
さて、かくいう私も、「色聴」から逃れる術を持っている。
「絵」だ。
私は幼少の頃から、色彩に己が支配されそうになった時、筆を持ち、紙にその情報をアウトプットした。
小学生の時の課題で、「遠足の思い出」というテーマで絵を描く時、同級生の多くは、目で捉えた画を画用紙に描いた。が、私は目で捉えた色だけを画用紙に描いた。その絵はキャンパスをぐちゃぐちゃに塗りたくっただけの絵だった。
勿論教師は首を傾げ、私の描く絵に理解を示さなかった。
毎日絵を描き続けたおかげで、私の作画技術はどんどん上達して行った。十代二十代で描いた作品数は数百から数千にのぼった。その作品のほとんどが難解な作品であった。
ある日、変な絵を描き続ける私に対して、テレビの取材がやってきた。レポーターはカメラの前でこう紹介した。
「難解ながらも美しい作品を多く描く画家」
確かに若き日の私は鮮やかな色を描くことが多かった。精神的に未熟であった私は、音に対して美麗な部分しか見えていなかったのだ。
しかし、30歳をすぎた頃から、私の作風は大きく様変わりした。
世の中の美麗な部分しか見る事の出来ない十代二十代と違い、精神的に成熟した私は、世の中には醜悪な一面があるということを知ったのである。
空は一見美しいが、必ず夜がやってくる。
月は一見美しいが、着陸すると荒れ果てた大地でできている。
太陽は神秘的に見えるが、実際は地獄のような業火に覆われている。
悲しきかな、音もそうであった。
音は、表面的にいくら美しい色をしていても、その裏には醜悪な色が存在しているのであった。
いつしか私は、その事実に怯えるようになった。
次第に私は、感じた感覚をいかにリアルに表現するかということに尽力し始めた。
感じた感覚のまま、筆を走らせる私…。
感じた感覚を表現するために、私は手段を選ばなかった。
時には虫を殺し、その体液を使った。
またある時には、自分の排泄物をキャンバスに塗りたくった。
いつしか私の描く作品は、彩度の高い作品ではなく、陰々滅々とした画風に変わった。
皮肉にも、私の絵が高値で取引されるようになったのは、この頃であった。
生活は楽になったが、音に潜む醜悪な色彩からは逃げることが出来ず、私は常に怯えていた。
馬鹿げたことに、私の絵は数千万から、時には億単位で取引されるようになった。
裕福であるが、私の心は貧相であった。
冒頭で紹介したシド・バレットは、1968年にバンドを脱退している。その後、二枚のソロアルバムを残してはいるが、彼は何かに怯えるように、イギリスの田舎へ身を隠した。そして、60歳になるまで、メディアの前に姿を現すことはなく、極度の鬱病と糖尿病になり、この世を去った。
死ぬ寸前は、目がほとんど見えなかったそうだ。
精神的に追い詰められた私は今、シド・バレットと同じ道を歩もうとしている。
音に怯え、色に怯え生きている私…。
人は私をどう見ているだろうか?大馬鹿者だと揶揄しているかもしれないし、かわいそうなやつだと、同情しているかもしれない。
しかし、今やそんなことすらどうでも良い。
今、目の前にあるこの絵が私の最後の絵になるかもしれないのだから…。
ついさっき私が感じた色は真紅であった。
当然、真紅をテーマにした作品が完成した。
気がつけば、私の左手首から先は椅子の横に転がっていた。
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