鐘見町の石段は、数えても数えても終わらなかった。
「おばあちゃん、毎日ここを歩いてるの?」
菜月が振り返ると、千代は三段下で手すりにつかまり、息を整えていた。
「天気のよか日だけね」
十年ぶりに訪ねた祖母の散歩に付き合って、もう二十分になる。予定は何もない。それでも菜月はスマートフォンを取り出し、時刻を確かめた。福岡では駅までの信号待ちさえ惜しくて、歩きながら仕事のメールを読んでいる。
「どこまで行くの?」
「さあ、今日はどこまで行こうかねえ」
千代は笑った。
石段の途中で、千代が木の椅子に腰を下ろした。向かいの理髪店から店主が顔を出す。
「千代さん、今日はお孫さんと?」
「そう。都会から来てくれたと」
店主は椅子の脚を確かめ、ぐらつきを直してから店へ戻った。
「いつもここで休むの?」
「坂を上る日はね。あの店の先代が置いてくれた椅子なんよ」
立ち上がった千代が右膝をかばうのを、菜月は初めて意識した。
次に立ち止まったのは、小さな祠の前だった。
「ここの隣、昔は駄菓子屋だったのよ。菜月が三歳のとき、ラムネを二本も飲んでね」
「覚えてないなあ」
「帰りは抱っこって言うもんだから、この坂を抱えて下りたとよ」
「大変だったね」
「若かったけんねえ」
坂を上りきると、潮の香りがした。赤い屋根の向こうに港が広がり、白い船がゆっくり岸壁を離れていく。
菜月はスマートフォンを取り出し、カメラを起動しかけて手を止めた。
「おばあちゃん、ここで少し座ろうか」
「早く帰りたいんじゃなかったと?」
「え?」
「ずっと先を歩いとったけん」
菜月は自分の足元を見た。急ぐ理由など、最初からなかった。
二人で石段の縁に座った。下から買い物袋を提げた女性が上ってくる。
「あら、千代さん。今日はいい天気ねえ」
千代は嬉しそうに手を振った。
菜月の知らない祖母の毎日が、この坂にはあった。
「明日も散歩する?」
「天気がよければね」
「じゃあ、私も行く」
千代は少し驚いて、それから笑った。
帰り道、千代が塀の上の小さな花を指さした。
「これ、去年は咲かんかったとよ」
菜月は足を止めた。花の名前は二人とも知らなかった。
再び歩き始めたとき、菜月は足元の石段が、中央だけ浅くくぼんでいることに気づいた。長い年月、何人もの人がここを歩いてきたのだろう。
菜月はもうスマートフォンで時刻を確かめなかった。祖母が一段下りるのを待って、自分も同じ段に足を置いた。
坂道は、まだしばらく続いていた。
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美大の合格発表。
あなたの番号はあって、私はなかった。
――
「ねえ、りんちゃん、またお絵かきしよ!」
幼馴染でずっと一緒に遊んだ。
「ねえ、今度このコンテスト一緒に出そうよ!」
正直、最初はそこまで絵が好きだったわけじゃなかったと思う。
「え!高校一緒なの?また一緒に描けるね!」
金魚のフンと言われても仕方ないと思う。
「ここの美大、目指そうと思うんだ」
でも――。
「……うん、私も一緒のところだよ。」
美大予備校の順位で悔しくて、しゃがんで泣いているあなたを見た。
あんなに上手い人たちに負けて、本気で悔しがれるあなたを見た。
「全員が筆折るくらい、私の絵で魅させてやる」と殺気立つあなたを見た。
その怖いくらいの熱が、とっても眩しくて羨ましくて。
輪郭から漏れ出た光くらいしか見られなかったんだ。
白飛びした逆光から、わずかに見えるオレンジ色しか。
私はそのオレンジ色を、ずっと見ていたかった。
でも他人に引っ張られて、生きていけるほど甘い世界じゃない。
合格発表の日、ちっとも嬉しそうじゃないあなた。
私を真剣に見つめてくるあなた。
「来年は受かってね、下手くそ。じゃないともう眼中にないから」
あなたの言葉はキツくて、だからこそ奥底の期待が伝わった。
――
「うん、ごめん。もう一年挑戦させて。」
両親に無理を言う。今日から晴れて浪人生だ。
もうあのオレンジ色は、遠く向こうへ行ってしまった。
でもあの光と熱が残した「火花」ならある。
まだ光どころか、炎ですらない私の衝動を今日もキャンバスにぶつける。
「眼中にないなら無理やりにでも、振り向かせてやる。」
ついでに、あなたの語気もうつってしまった。
まあそれはいいか。
明日もきっと描ける。
あなたがいなくても、私はもう描ける。
あのリムライトをもう一度、傍で見たいから。
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「豊胸しよっかな。どう思う?」
二枚のトーストがオーブンで焼かれながら僕はコーヒーを淹れる。この愛でるべきルーティンの中、彼女が唐突に扱いづらいクエスチョンマークを叩きつけてくること自体は、そこまで珍しいことではないにしても、今日の思いつきは些かその性質に問題があった。
「そういうのは女友達に話すことじゃない?」
と、僕はもう少し思考時間の猶予が欲しい。
「どうして? あなたの問題でもあるんじゃない?」
「……たしかに」
完璧なきつね色に染まったトーストを一枚ずつ二枚の皿に乗せ、淹れ終わったコーヒーを二つのマグカップに注ぐ。
彼女はこれを見計らい、テレビのボリュームを下げ、冷蔵庫からピーナッツクリームを取り出し、食器棚からバターナイフを選び、僕らはほとんど同時にテーブルに着く。
「ねえ、やっぱり大きい方が嬉しいでしょ?」
そんなことを言われると僕の視線が『そっち』に促されるのは不可抗力と言って差し支えない。冷えて硬くなったピーナッツクリームを熱いトーストの上に伸ばしていく彼女の所作が、何故か何か何処か魔女的な妖艶さを感じさせる。
「まず、前提として。僕は君の胸だから好きなのであって、そこに大きい小さいは判断基準として設けられていない」
「じゃあ、私がすっぴんで横を歩いてても何も思わないわけ?」
「ん? んん? それはどちらかと言うとノーブラで出歩くに等しいんじゃないかな」
「朝から変なこと言わないで」
……どうしたいんだよ。
彼女からバターナイフを受け取り、僕もピーナッツクリームをトーストに押しつける。
━━『あなたはもっとあなたになる』
テレビから流れてくる何百回と聞いた美容整形のCMの広告文句に、彼女の視線が少しだけ揺れた。
「あぁ、こいつのせいか」
事態を飲み込んだ僕はコーヒーを啜る。エチオピアの深煎りの苦酸っぱさはピーナッツクリームと良く合う。
「君の」
少し恥ずかしそうに、あるいはバツが悪そうに視線を落とす彼女に僕は毅然と告げる。
「化粧品メーカーを僕がいちいち指定しないように、君の好きにすることに僕は反対しない。ただ僕の気持ちは胸の大小に左右されることなんてことはないよ」
「やっぱり小さいって思ってたんだ」
「そうは言ってない。……言ってない」
「今日お買い物行くでしょ? 胸の大きい人探そうよ。目の前にするとあなたの生理的欲求もその偏屈な理性より前面に出て来るでしょ」
「ああ、そうだ。ピーナッツクリームも予備が無いんだった」
パッケージに目を遣ると『ピーナッツバター20%』の表示。何度もおかわりしているのにまるで気付かなかった。
何故か何かまるで詐欺にでもあったかのような気分になり、僕はスマートフォンで100%のピーナッツバターを検索する。
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日常の喧騒に追われていると、私たちの視野はいつの間にか足元やスマートフォンの画面の数インチだけに狭まってしまうことがあります。
しかし、ふとした拍子に夜空を見上げるとき、私たちは誰しもが圧倒的な広がりを持つ「宇宙」という存在とつながっていることに気づかされます。
科学がどれほど進歩しても、人類が解明できている宇宙の領域は全体のわずか5%にすぎないと言われています。
残りの95%は未だに正体不明のダークマターやダークエネルギーといった謎に包まれています。
これほど未知に満ちた空間でありながら、不思議なことに、私たちの身体を構成する炭素や鉄といった元素は、かつて遠い宇宙で寿命を迎えた星々が超新星爆発を起こした際に飛び散った「星のかけら」そのものです。
つまり、私たちは宇宙を観察しているようでいて、実は宇宙の一部が自分自身を振り返っている状態だと言えます。
近年、宇宙開発は劇的な進化を遂げています。かつては国家主導の巨大プロジェクトだったものが、今や民間企業による宇宙旅行や小惑星の資源開発といったビジネスの場へとシフトしつつあります。
宇宙飛行士でなくとも、誰もが日常の延長線上で宇宙を語る時代がすぐそこまで来ています。
しかし、宇宙の本当の魅力は、そうした技術的な進歩や壮大なスケール感だけにあるのではありません。
ある宇宙工学の研究者が書いたエッセイのタイトルに『ワンルームから宇宙をのぞく』というものがあります。
この言葉が示唆するように、私たちが暮らす四角く狭い部屋と、何百億光年先まで広がる終わりのない宇宙は、まったく同じ物理法則によって支配されています。
コップからこぼれる水滴の丸みと、宇宙に浮かぶ地球の丸みは同じ原理です。
そう考えると、宇宙は決して手の届かない遠い場所ではなく、私たちの何気ない日常のすぐ隣に、静かに息づいていることが分かります。
眠れない夜や、答えのない未来に少し疲れてしまったとき、ほんの少しだけ窓の外に目を向けてみてください。
冷たくきらめく星々の光は、何光年もの時間をかけて今あなたの瞳に届いています。
広大な未知の広がりに想いを馳せることは、自分自身というちっぽけで、それでいて奇跡的な存在をそっと愛おしむための、最高の方法なのかもしれません。
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英会話講師サラは、休日はなるべく人が混まないところを散策する。
別に賑やかなところは嫌いではない。ただ、大都会・東京の静かな街を歩いていると、細い路地の角、古びた石段の上などに、突然立派な寺社が現れることがある。
「宗教が生活に溶け込んでる。これがリアルジャパン!」
英会話スクールでは、比較的生徒が少ない土日のシフトを希望した。人が少ないとレッスンが早めに終わる。そういうときはチャイムが鳴るまでフリートーク。サラはこの時間が楽しくてしかたない。
映画の話をすることがある。「一番好きな映画は?」と聞くと、年齢層高めの生徒では、かなりの確率で「ローマの休日」と答える。若い人でも「ローマの休日」を知ってる人は多い。とても興味深い。
「日本人って、壁を乗り越えてのハッピーエンドよりも、宿命を受け入れるせつない恋が好き?」
土日の生徒は年齢層高めで、日曜日の午後だけ時間が空く子育て中の主婦や、平日は部活で忙しい高校生なんかが交じる。そんな中に、普通のサラリーマンで、いつも日曜の午後にレッスンを入れる30歳くらいの男がいた。サラは男に「なぜ日曜なの?」と聞いたことがある。答えは平凡。
「休日にうちにいても暇だから」
休日に予定がないのがバレるから、普通、若い人は土日は敬遠しがちなんだけど……。「変わってるけど、正直な人」
サラは元々快活でアクティブなオージーガールだから、人が集まるイベントも嫌いではない。今月末の花火大会には、友達と一緒に行く約束をした。
「人混みに行くなら、絶対浴衣! サンダルではなく、ちゃんとした木の下駄!」
花火大会はまだ先だったが、土曜日の仕事終わりに、街で浴衣と下駄を買った。1時間かけて選んで、オーストラリア国旗のような色調の浴衣にした。
翌日の日曜。特に急いだわけではないが、担当したすべてのレッスンで時間が余った。だから、すべてのレッスンで花火大会に着ていく浴衣と下駄を見せて自慢した。ラストのレッスンの生徒は「うちにいても暇だから」男。
飲み込みが早い生徒なので、レッスンは早めに終了。早速、浴衣と下駄を見せた。すると、今までの生徒とは違う反応をした。
「この人、浴衣そっちのけで下駄の鼻緒を指で広げてる。擦れて皮が剥けるのが心配なんだって……」
「浴衣のこと、褒めてくれないなあ。お世辞も言えないなんてコミュニケーション下手? でも親切……」
男は鼻緒に指を引っ掛けて、ぐいぐい引っ張る。額にうっすら汗がにじんでいる。サラは「もういいよ」と言おうとしてやめた。男に任せることにした。
「『誰と行く?』って聞かないの、たぶん世界で彼だけだよ。私に興味ない? そんなこと聞いたらセクハラになると思ってる?」
「私が外国人だから、女として見られない? でも、こんなに優しい」
いろいろ考えた。
「無愛想だけど優しい……。ちょっと変わっててミステリアス」
終了のチャイムが鳴った。男は下駄をサラに返して、花火大会に行く前に下駄を履いて、十分足に慣らすように念を押した。
「サンキュー。バーイ」
サラは教室を出た。
快活でアクティブなオージーガール。サラはいろいろ確かめたい。
「よし、来週は浴衣でレッスンだ!」
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真冬の夜のアスファルトは、凍てつくような冷たさだったろう。街灯もまばらな真っ黒の道は、どれほど心細かったろう。朦朧とする意識の中で、車のライトは怪物に見えたかも知れない。
――瀕死の仔猫。この時にはまだ、死んでいるように見えた。
側溝の脇にぺたりと倒れていた。一度は車を寄せて止めた父だが、弟が車を降りようとすると渋い顔をした。「やめておけ」そう言う父を無視してドアを開け、歩道へ飛び出た弟。
結局そう言うのなら、何故車を停めたのか私には理解出来なかった。父は矛盾したり、一貫性のない言動をする人だったから。普段はむかつく弟だけど、この時ばかりは少し勇敢に思えた。
父は終始、やれやれといった顔をしていて、私は何も言えずに黙っていた。
12月初旬の夜。学校から帰る車の中。たまたま、父親が学校まで迎えに来てくれた日だった。近くで仕事をしていたらしい。
だけど気分は浮かない。もうすぐクリスマスだというのに、サンタさんなんて居ないと気づいてしまった私の気分は、絵の具をすすいだ後の濁った水のようだった。
さっきまで丁度、文化祭の看板製作をしていたからか、そんなイメージが湧いた。日が落ちるまで毎日作業している間、普段からそんなことを考えていた。暗い夜の学校。体育館の外の蛇口から出る、冷たい水で筆をすすぐ。
そんな日々の帰路に、死にかけの猫なんて、やっぱり神様もいないんじゃないかと思えた。幼い頃から信じていたものが一つずつ無くなっていく感覚が、私の心に影を落とした。
ぽたり。ぽたり。暗い色の絵の具が雨粒のように、心の奥の真っさらなところへ降り注ぐ。
弟が、仔猫をふんわりと抱きかかえて戻ってきた。そのシルエットは、余りにも小さい。
車輪に轢かれたのか、ぶつかったのか……手足は動かずぐたりとしているけど、何故か外傷は無い。それが幸いと言えるのか、私には判断すらつかなかった。もしかすると内臓に損傷があるかも知れない。だとしたら、もうこの小さな命は、消えかけの灯火かも知れない。
瞼を半分だけ一生懸命に持ち上げて、「助けて」と口を開いたかに見えた。少なくとも私には、そう見えたのだった。
家に連れ帰って、まずペットボトルにお湯を入れた即席の湯たんぽを作る。
父も母も、特に何も言わなかった。親とはなんとなく距離があって、弟とはいつも支え合って生きているような感じがしていた。他の家がどうかなんて知らない。
二人で相談して、どうしたら良いかを考えた。中学一年生の私と、小学六年生の弟の知識では不十分に違いなかったけど、仔猫の苦痛を和らげる方法だけを一生懸命考えていた。
仔猫は温かい湯たんぽに、とりあえず一安心したようだった。目を細めて静かに丸まっていた。家でも成猫を飼っていたので、その子の餌を砕いて与えたけど食べなかった。この晩は、つきっきりで見ていた。
翌日、土曜日で学校が休みだったので、ペット用品を弟と買いに出掛けた。
弟と話し合って、動物病院へは連れていかないことにした。手持ちのお小遣いはほとんど無かったし、親に言っても無駄だと確信していたのもある。それに、今朝になったら仔猫はもぞもぞと動くようになっていた。
ミルクを飲ませてあげれば、きっと体力もつくはずだ。
粉雪がちらつくグレーの街並み。普段と変わらない街なのに、私の心は少しうきうきしていた。不謹慎だと思った。けれども、小さな猫をただ、可愛く思えた。元気になってくれたら、どんなに嬉しいことだろう。
弟は、この日はあまり話さなかった。
家に帰ってから仔猫用の粉ミルクを作り、哺乳瓶で与える。ごくごくと勢いよく飲む姿からは、生きたいという思いが伝わってくる。そしてその動作はとても、愛らしかった。
その翌朝、仔猫はまだ治っていない四肢を僅かながらも動かして、懸命に歩こうとしていた。どうやら元気と気力を取り戻したようだ。一日に何度か、ミルクを作って与える……子育てみたいだなぁと思った。
こんなふうに、父と母も私たちを育ててくれたのだろうか。赤ちゃん一人でミルクを飲めるはずは無いから、きっとそうなのだろう。どんな気持ちで育ててくれたのかは分からないけど、なんだか少し想像できて、勝手に嬉しい気持ちになった。
そういえば、中学生になってから、苦しい気持ちばかり多い気がしている。嬉しいことが、減っている。サンタさんのこともそうだけど、周囲の劇的な変化についていけない感覚だ。
例えば、仲の良かった男子に彼女が出来たり。遠慮したり、されたり……色々な人間関係を考えると、以前のように素直に行動してはいけないんだなと知った。
それから、私もよく知らない別のクラスの人に告白されたりもした。とても驚いてしまった。人からどう思われてるのかを考えると、何故だか気持ち悪いと思った。そんなふうに感じてしまうことにも、罪悪感を覚えた。
どうして皆、要領よく生きられるんだろう。ものすごい早さで変わっていく世界に、どうして普通の顔してついていけるんだろう。
海の底へはゆっくり沈まないと、身体が順応できないって聞いたことがある。今の私はまるで、いきなり深海に引きずり込まれた、浅瀬の魚みたい。
ほんとうは帰りたい。何も知らなくても許された場所へ。
猫は、喋らない。ふわふわの毛と、何か言いたげな眼差しで、私を見つめてくれるだけ。私はその眼差しを、都合よく解釈すればいいだけ。
学校から帰ってきて、ご飯とお風呂を急いで済ませて、仔猫と過ごした。とても静かな夜だった。
勝手に温かい気持ちになり、満たされた気分になれる。だから、可愛いって思うのかもしれない。
そして、何日か経った。
弟にミルクのお世話を任せた日の夕方、仔猫は死んだ。突然のことだった。ほんの少し、人間が目を離したその時に。
弟も私も泣いた。
父は、こうなることがわかっていたのだろうか。黙って、死骸になった仔猫を土に埋めた。
命の重さとか、考えてみたけど、ぐちゃぐちゃの思考では何も答えが見当たらなかった。それに、もう先に生きた人たちがずうっと昔から考えてきたことなんでしょ。そう思うと、私が今考えることに意味はあるのか、知ってなんになるのか、そんな思いも湧き上がってくる。
誰も教えてくれない。実感とともに湧き上がる想いは、自分で得ないと分からないんだろう。早く大人になってその答えを知りたいのに、世界のスピードは速いようでいて、こんな時だけはスローモーションのように感じられる。
冬の乾いた風が、頬を撫ぜる。それでも涙は乾かない。
あの日の冷たい路上で、誰にも気づかれること無く死ぬのと、ほんの少しだけ長く生きて、今日死ぬのと、どちらがこの子にとっては幸せだったのだろう。
もしかしたら、苦しくて痛くて、私を恨んでいたかも知れない。
あの時すぐに病院へ連れて行ってあげていれば、今も生きていたかも知れない。
この涙は、人間のエゴだ。分かっているにも拘わらず、私は泣いていた。泣き続けた。助けて良かったのだと、自分自身に言い聞かせるように。
数日後、弟と一緒に野花を摘んで、仔猫のお墓に供えてあげた。
お墓と呼んでいいのかも分からない、ほんの少しだけ盛られた土。
懸命に生きた小さな命は、もう分解され始めてるのかな、なんて考えてやめた。幻のように土に溶けていくんだ。
私だっていつかは死ぬ。仔猫とおなじように。
私は仔猫が幸せな場所へ帰れますようにと、祈った。
ふと、弟と視線があった。
瞳の奥の言いたい言葉が、分かる気がした。
もう泣かない。
いつかまた思い出すよ、私に寄り添ってくれた、君の毛並みを。
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僕がとにかく「じゃんけんが弱い」ということに気付いたのは、5歳の時だった。
ある梅雨の週。ほしぞら幼稚園きりん組の教室の中。はるちゃんと、今日はどちらが『どうぞのいす』の絵本を読むかを決めるためにしたじゃんけん。それで8連敗をしたことがきっかけで、もしかして自分はとんでもなくじゃんけんが弱いのではないかと自覚した。
もちろん、必ずしもじゃんけんに負ける”必敗”というわけではない。普通の人のじゃんけんの勝率が50%だとしたら、僕の勝率は20%くらい、といったところだ。
だから、小学校3年生の時に、クラスメイトの山崎に、「田中、お前めっちゃじゃんけん弱いってマジ?」と聞かれてじゃんけんをしたときに、普通に勝ってしまい、「なんだよ~~!!弱くないじゃん!」と嘘つき扱いされたこともあった。(理不尽だ!!!)
それなのに、僕の人生は、ここぞというときにじゃんけんをさせられることが多かった。中学2年生のとき、男子と女子のどちらがプールの掃除をするかで、男女それぞれの代表がじゃんけんをして決めることになったときがあった。僕は、「今日この日のために!田中はジャンケンに負け続けたんだよ!!」という山崎の謎理論によって男子代表に選出され、女子代表にあっという間に負けた。(5本勝負で全敗した)
女子たちから「やったー!!コハ最高!」と女子代表が褒められている横で「なんのためにこれまで負け続けたんだよ!」とあまりにもトンチンカンなディスられかたをしたのは今でも覚えている。
唯一、じゃんけんの弱さが功を奏したのは、高校生のとき、ずっと好きだった渡辺さんに告白をしたときだった。渡辺さんは、僕のくだらない話にも笑ってくれて、そんなときに見せる、いたずらっ子みたいな笑顔がとても好きだった。
文化祭の終わりに、一生分の勇気を出して「僕と付き合ってください。」と告白したら、「じゃあ、私に10回中1回でもじゃんけんで勝てたらいいよ?」と返された。
脈ナシ過ぎて遠回しに振られたのかと思ったが、その顔にいたずらっ子みたいな笑顔が浮かんでいるのを見て(かわいい)、行けると思い、絶対に勝つと心に決めた。そして負けた。
見るからに沈んだ僕を見た渡辺さんは、いたずらっ子みたいな笑顔から、申し訳なさそうな笑顔に変わって、「やっぱ田中くんってわかりやすいな。すごくへこんじゃって……。ごめんね、ちょっといじわるしちゃった。付き合おうよ」と言ってくれた。後から聞いたら、7連敗、8連敗と負けを重ねるごとに絶望していった僕が、なんだかかわいく見えてOKしたとのことだった。
そして、付き合って7年記念日の今日。
僕は、渡辺さんにプロポーズをする、最後の勇気が出せないでいた。
準備もしっかりとしたはずだった。しっかり指のサイズや好みもリサーチして、指輪も用意した。ここまでのデートのルートや、感触も上々だった。
もしかしたら自分は、じゃんけんだけでなく、勝負事やここぞという場面全部に弱いのではないか。決心を前にすると、そんなネガティブな感情が浮かんできてしまうのだった。僕は渡す予定の指輪を右手に握りしめ、嫌な気持ちを払おうとする。
すると、渡辺さんが沈黙を破って僕に言った。
「あのさ。今日私に、何か渡そうとしてたものあったんじゃないの?」
「うぐ」僕は動揺する。
「しょうがないなあ」渡辺さんはそういうと、一歩先に進み、僕の方を振り返ってこう言った。
「じゃあ、私と今からじゃんけんして?もし田中くんが勝ったら、観念して、勇気出してよ。」
「な、なんでそれをじゃんけんで…」
「いいから。ここぞというときのために、今まで負け続けてきたんでしょ?」
渡辺さんは、なんで今じゃんけんを選んだんだと、僕の頭は真っ白になった。でも、最後の”ここぞというときのために、今まで負けてきたんでしょ?”の言い方には、有無を言わせない力強さを感じた。
そうだ。今日みたいな日のために、僕は負け続けてきたんだ。それに、もう何を出すかを考える必要もない。僕が出せる手は、一つしかない。
「じゃん、けん、ぽん」
僕は、指輪を握りしめた右手で、そのままグーを出した。
そして、渡辺さんは、チョキを出していた。
「あ……。勝った……」
全身に入っていた力が、ふっと抜ける。ここぞという勝負に、僕は勝ったのだ。
すると、目の前の渡辺さんが、ふふっとふき出して、いたずらっ子の笑顔を浮かべた。
「あははは。やっぱ田中くんわかりやすすぎ!!」
「え、そ、そう?いや、だって僕、じゃんけん超弱いのに。このタイミングで勝てたから……」
「違うよ!ごめんね。田中くんが特別弱いんじゃないんだよ。私が、田中くんのクセを読めるってだけなんだ。だって、”15年以上も一緒にいる”から。ほら、田中くん、別に私以外の相手には、たまには勝ててたでしょ?」
あ、と思った。思い返せば、そうだった。幼稚園で『どうぞのいす』を取り合った時も、中学校でプールのじゃんけんをしたときも、高校で告白をして10連敗したときも、全て、相手は、今目の前にいる【渡辺小春】さんだった。
これまでの自分の敗北の原因に思いをはせていると、渡辺さんが「ほら」と先を促す。
「はい。じゃあ、約束。君が勝ったから。」
そういうと、渡辺さんは、チョキだった手をパーにして、手の甲を上にして、薬指を強調するように僕に差し出した。
負けないように僕も、グーにしていた手を開いた。
続きを読む
「斎藤 ■■様 ポイントキャンペーンのお知らせ」
銀行からよく見る、キャンペーン資料が届いていた。
しかし、名前が間違っている。
俺の名前は「佐藤」だ。
アパートの前の入居者が登録し忘れたのか?
それとも単純に間違えられたのだろうか?
だとしたら失礼だなと思い、ごみ箱に捨てた。
今日は金曜日だ。
仕事で疲れて、もう何も考えたくない。
土曜日。
「斎藤 ■■様 ○○創刊号のお知らせ」
また「斎藤」の名前で届いている。
何らかの雑誌、その創刊号のお知らせだ。
こんなお知らせを頼んだ覚えはない。
何なんだ、一体。
せっかくの休みなのに面倒くさい。
連絡して、もう送らないようにしてもらおうか。
はあ、やることが増えてしまった。
――
月曜日、結局面倒で何もせず出社する。
こうやって後回しにするから、余計気疲れするんだろうな。
「おーい、さいとうー!こっちちょっと手伝ってくれ」
ん?聞き間違いか?
上司から仕事の指示と書類を受け取る。
あの郵便物を思い出し、自席に座る。
――思わず、書類を落としてしまった。
「斎藤 ■■」
自席に置かれたネームプレートも、社員証も。
俺の名前じゃない。
あの郵便物に書いていた名前と同じだ。
急いでスマホの連絡帳を見る。
自分:「斎藤 ■■」
父:「斎藤 ■■■」
母:「斎藤 ■」
姉:「斎藤 ■■」
変わっている、何もか蜉ゥ縺代※縲∽ソコ縺ッ譁手陸縺倥c縺ェ縺�ゆソコ繧呈カ医&縺ェ縺�〒菫コ縺ッ菴占陸縺�縲�――――――
――――
――
―
「おい、斎藤」
「はい!」
俺は「斎藤 ■■」、普通の会社員だ。
いつも通り、事務仕事を片付ける。
そう、今日も何も変わらない普通の一日を過ごす。
続きを読む
私は作曲家
目下 スランプ中である
かつては ヒットメーカーとして持て囃された事もある
これまで いくつもの流行りの曲を作っては
いくつもの曲を使い捨てにされてきた
私には 長い間 人の心に残るような
そんな曲を作るのは無理なのだろうか?
そう思うと その事実が頭から離れず
新しい曲を書く事が出来ない
多少のスランプなら これまで幾度も経験したが
今回ばかりは重症のようだ
今日も曲を書こうと努力はしてみるものの
やはり駄目だった
どうしても 新しい曲が書けない
所詮
私には才能がなかったという事だろうか…?
「えぇい! クソ!」
もうやめだ 今日は寝てしまえ
……
ふて腐れて眠りに就くと
その日 私は夢を見た
誰かがピアノを弾いていた
それは私かもしれないし 他の誰かかもしれない
そんな誰かが ピアノを弾いている夢
夢にまで音楽が出てくるとは 本当に重症である
これは明晰夢と呼ぶんだろうか?
私はこれが夢である事を認識しながら
誰かが弾くピアノに耳を傾ける事にした
(これは…)
演奏されるメロディーは どこか不思議で懐かしく
そして何よりも甘美な音色だった
今まで聴いた事もないような
夢の中で夢見心地になるような
そんな曲を その誰かが演奏していた
……
朝になり 私は目を覚ます
脳裏にはあの曲が焼き付いたままだった
居ても立ってもいられず すぐに五線譜にペンを走らせ
あの曲を書き記して演奏してみる
「……」
私が今まで書いてきた 使い捨てにされた曲の数々は
使い捨てになるべくして 使い捨てになったのではなかろうか?
そう思える そんな曲
「この曲を… この曲を発表すれば」
きっと この曲ならば
人々の心にずっと残るだろう
スランプなんて 容易く払拭できるに違いない
だが…
だが そこで私はふと悩む
果たして この曲を自分の曲として
世の中に発表してもよいものだろうか?
これは 夢の中で『誰か』が演奏していた曲だ
私が実力で書いたものではない
だが しかし
あくまで 私自身が見た夢だ
それはきっと 私の脳が構築して生まれたに違いない
……
この曲は 天使が授けてくれた祝福の曲なのだろうか?
それとも 悪魔が囁いた悪い悪戯の曲なのだろうか?
これまで 本当に沢山の曲を書いてきた
それならば
それならば 一度くらい…
こんな風に授かった曲を自分のものとして発表しても
それは 罪にはならないのではないだろうか…?
そう 一度くらいなら…
……
私は悩みに悩んだ挙句
この曲を世には出さない事にした
私はプロの作曲家
使い捨てにされようと 自分の曲は自分の手で書きたい
そしていつか 使い捨てにされないような人の心に残る曲を
本当の意味で 自身の力で作り上げたい
きっと その時に見える景色は絶景に違いない
そんなチャンスを
夢の中で『誰か』が弾いていた曲で
自らの実力以外で成し遂げてしまうのは
あまりにも もったいないだろう?
結局
この 夢の中で聴いた曲をしまい込み
私はスランプと戦いながらも 新たな曲を生み出すため
今日もまた 必死で五線譜と格闘する日々を送るのだった
……
なぁ ところで
世の中に発表しなかったとしても
愛しのあの娘に この曲をこっそり弾いて聴かせるのは
それは罪じゃないよな?
この曲を「愛し君に捧げる」とか言って 演奏すれば
彼女はもう私の虜だろう
天使も悪魔も それくらいなら
きっと許してくれるに違いない
私が作った曲じゃない事は秘密にしておけばいい
ああ それがいい
ふふっ 次に会う日が今から楽しみだ
続きを読む
殺してやりたいほどの憎悪というものは実在する。
あいつを殺すと決めたのは、数年も前のこと。結婚当時、いい関係は最初だけだと皆にいわれたが、正直、信じてはいなかった。他人事だと思っていた。
何が直接の原因なのかは既に解らないが、修復不可能だということは解る。離婚という冷静な選択は、溢れる憎悪で既になく、だからこそ必死の思いでこの毒薬を入手したのだ。貯金の大半をつぎ込んでしまったが、後悔など微塵もない。
顔も見たくない、ではなく、殺したいのだ。存在そのものに嫌悪感を抱くのだ。
計画は簡単。毒薬を食べ物に混ぜて飲ませ、死体を車で森に運び、埋める。後は警察に行方不明だと通報すればいい。
あいつも私も生命保険に入っているから、保険金目当ての殺害だと疑われるかもしれない。アリバイ工作が必要だろうか? いや、保険金の受け取りは死亡が確認されてからの筈だから、死体が発見されなければ、保険金目当てという動機は成り立たないから大丈夫だろう。あの森の奥の地中深くなら、まず見付からない。
おまけに、世間体はおしどり夫婦で、揉め事の類には一切縁がなく、傍目には動機などないように見える。
……実行は、今日だ。
「おかえりなさい。あら? それは?」
「ああ、お土産。取引先から頂いた菓子だよ。美味しいんだとさ」
「ふぅん。ご飯、すぐに食べる?」
「頼むよ。……あ、しまった。君、明日出かけるっていってたっけ?」
「ええ、同窓会」
「車、ガレージにそのまま入れちゃったよ。今のうちに君のと入れ替えておくから、キー貸して」
「あなた、久しぶりの休暇なのに、私一人だけ楽しんで、何だか悪いわね」
「いいよ。久しぶりの同窓会なんだろ? こっちはのんびりしてるから」
「……どう?」
「うん、これ、本当に美味しいわ」
「えーっと、へぇ、これって京都の有名な菓子屋じゃなかったっけ?」
「ん? あ、知ってる。前にテレビで観たことあるわ」
「こんな安ビールのつまみにするのは勿体なかったかな?」
「ふふ、そうかもね。お茶にする?」
「ははは、まさか。さてと……」
「あら、もう寝るの? お休みの前なのに?」
「今日、仕事が忙しかったんだ。お先に」
「おやすみなさい」
……。
……何だか頭がくらくらする。手がしびれてきた。吐き気も……一体何が?
足に力が入らず、もがいているうちに床が迫ってきた。フローリングに額を打ちつけ、血が広がったが、頭痛の方が激しい。息が苦しい。胸が熱い。水を飲まなければ。喉をかきむしるが、熱いのは内側だ。視界が狭くなってきた。嘔吐、吐しゃ物が狭い視界を埋める。全身が痙攣し、床を何度も跳ねた。
何が、いや、誰が? ……あいつ? ……もう……駄目だ……誰か……。
「――聞き込みは?」
「はい。夫婦仲は問題なかったようです。住宅ローン以外に金銭面のトラブルもありません。仕事も順調ですし、直接の動機は相変わらず見当たりませんね。」
「そうか。全く、俺にはさっぱり解らんね。心中にこんな馬鹿高い薬、使うか?」
「最後の贅沢って奴じゃないですか?」
「ふん。贅沢の割には、見事な死に様じゃないか。お前も見ただろ? 今正に殺されるってな形相。夫婦でにらみ合ってる仏なんて、俺は始めて見たぞ」
――おわり
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