一日の終わり
しゃかしゃかしゃか
僕は机に肘をつき
しゃかしゃかしゃか
君との履歴を見返してる
しゃかしゃかしゃか
僕は君にこんなにも夢中で
しゃかしゃかしゃか
すべてを君と結びつけてしまう
しゃかしゃかしゃか
こんな風に机に飛び散った雲も
しゃかしゃかしゃか
やっぱり君の顔
しゃかしゃかしゃか♪
「見て! 歯磨きの泡が!」
しゃかしゃかしゃか♪
「君に見えてきた!」
しゃかしゃかしゃか♪
思わず伝えた甘酸っぱい想いも
しゃかしゃかしゃか♪
君からの通知音で甘々さ!
しゃかしゃか…しゃか…
「きしょい、もう関わらないで」
しゃか………う…
歯磨き粉って、"辛い"んだ
続きを読む
ラジオつけるとコーヒーを一杯。
大好きなDJのおしゃべりを聞く。
それはとても楽しい時間でもあるが、ラジオというのは一方的に喋るだけで 私の方から何かをしゃべるということはない。相手に話しかけるということはできないのだ。
一人暮らしの中で人との会話というのが本当に減ってしまった。
いや正直に言えば、職場での会話はそれなりに多い。だが腹をわって話せる相手というのはいない。
案外みんなそんなものなのかもしれない。
本音を言いたくても言えずに言葉を飲み干す。だからきっとAI 相手に愚痴やおしゃべりをする人が増えていくのだろうなと思う。だが実際のところAIというのは自分にとって耳当たりの良い言葉しか言ってくれないのだ。
心の中に残るのはもう何年も前にあなたが言ってくれた言葉だった。大丈夫私は元気だよ、心の中で届かないあなたに向かってそう言った。あなたの言葉が頭の中で再生される。
――私は今日も、あなたの言葉で生きている。
続きを読む
秋風に彼岸花が揺れるシーズンがやってきた。
駅前の花屋による。母が好きだった撫子の花を買う。
本来ならばこの花は春から初夏にかけてに咲く。
だが 園芸店では温室で栽培された花が並ぶ。本来のシーズンとはかけ離された偽りのシーズンに花を咲かせるのだ。
私はその花を買ってそのまま母の墓参りに行く。
母のことだ、仏花はあまり好きじゃないだろう。
柔らかい撫子の花の色が母の笑顔を思い出させてくれる。
母は柔らかな桃色が好きだった。
まるでこの花のような。
駅から15分ほど歩いて墓地へと着いた。
お彼岸の墓参りであちらこちらに花がいけてある。
私は撫子の花を供えた。
母は私が大学進学の時に病気であることを黙っていた。
それは母の優しさだったんだろうが、結果として私は母が亡くなった時に会えなかった。
大学を出て就職して社会人一年目のことだ。
とても信じられなくて裏切られたような気持ちになったのを覚えている。
悲しみというのは急には押し寄せてこない。
混乱と不安と信じたくないという気持ちがごちゃ混ぜになって 実家へと帰った。
葬式が終わって、それでもまだ信じられなくて。
母がいないのだと実感したのはずっと後になってからだ。
お母さん……
もっといっぱい話したいことがあったのに。
風に揺れる撫子の花を見ながら顔見上げると、
母が好きだった撫子色に空は染まっていた。
続きを読む
薄毛という現実はその男の日常に張り付くように突きつけられて久しい。
40歳を迎えた平日。弓張月の元、煌々と聳え立つマンションの一室、鏡の前に立つ男は目を瞑って天を仰いでいた。
閉じた双眸の内側に映し出されるのはオーシャンズ12のブラット・ピット。やがて手にしたバリカンのスイッチを入れる。
震える固体の唸りは迫り来る軍靴のそれ。こぼれ落ちそうな決意。なんとか意が形を成した機を逃すまいと、手中で震えるバリカンを頭皮に当てる。
唸りは呻きに変わる。
鏡に現れた頭皮は退路を断たれた一本道に立ったことを知らせる。頭蓋に響く振動がアドレナリンを抽出しているかの如く、男は夢中になり一気に自身の頭を刈り上げた。
そして。
「これは、存外、悪くはないんじゃないか」
首から肩にかけてびっしりとへばりついた我が髪だった物。そんな状態にあっても鏡に映し出された新しい人物に、いやいやどうして、とひとり納得の言葉を浴びせる。細かく手入れしていた愛する口と顎の髭も、5mmの髪に合わせて薄く整える。
男は昂りを沈めようと冷たいシャワーを浴びた。パンツを脱ぎ忘れていたことなどどうでもいいと即座に切り捨てられるほどの快活な気分を堪能しながらとめどなく流れ出る水の出口を仰ぐ。
脱衣所の鏡に映る裸の入道。摂生した甲斐を現す上半身に力を入れ、情けなくなりそうな表情を堪えて和製ブラット・ピットの誕生を祝した。
退路の存在しない一筋道はリニアなのだ。つまり進む以外の選択肢は無い。
その日から男は全身の体毛と皮膚に満遍なく気を配った。やがて顔から首にかけての皮膚はなめし革となり、肘から指先にかけては光沢を纏った。変化にかかった期間は実に一週間。自己肯定感の徒となった40歳の男は、馴染みのバーへと繰り出す。
9月の雨上がり。じっとりとした湿気の歓楽街。鬱陶しいほど眩しい21時過ぎ。雑居ビルの3階にあるいかにも敷居の高い扉を坊主頭は開けた。
いらっしゃいませ、と雰囲気に溶け込ませた絶妙な声量でマスターが迎える。明らかに三度見した後、少し上がった口角で無言のままカウンターのひと席を手で促した。
「ジントニックから?」
「あ、分かりますか?」
「男前は何しても男前」
肩を竦めた中年は妖艶に照らされる頭をペコリと下げる。短く整えられたマスターの黒髪は10年経っても変わらないなと、男はその流れる所作に見惚れ思考を脇に置いた。
キンキンに冷えたジントニックは口腔温度に従いその芳醇な香りを揮発させる。男の鼻腔をボタニカルに包まれたライムが満たした頃、漸くBGMのジャズに緊張を預け、カウンターから頭を遠退ける。
マスターが他の客の軽口に乗り始め、男はスマートフォンを取り出す。アプリを開く刹那、黒画面に映し出されるイカツイおっさんの額に鈍い光が反射していた。
マッチングアプリは写真を挿げ替えたところで通知無しの変わり無し。スワイプして5枚目の写真が髪のある頃だったこと気付く。アンニュイな癖毛を生かしたミディアムヘアー。目にかかる前髪。整えた髭。今の自分とかけ離れたソイツは僅か十数日前の自分だと思うと殊更愛おしい。名残惜しくもアプリから写真を消し、ジントニックで喉を鳴らした。
「お一人ですか?」
綺麗なソプラノ声が耳に触れた。まったくラッキーなヤツがいるなと、後回しにしていた部下のLINEに目を通す。
「あ、あの。お兄さん?」
続く声に顔を上げた。いや、顔を上げたのはほぼ反射であって、自分がオジサンであることはちゃんと自覚している、と男の思考回路は狼狽する。
が、女性と目が合った。
「え、あ、こんばんは」
「ふふっ。こんばんは。お一人ですか?」
どう見ても20代。いや下手をすれば10代もあり得る、あ、いや、ここはバーか、と。男の心中は捕まる所を探しふためく。
「あ、はい、どうも、独身です……」
「いや聞いてないって」
コロコロと全身を揺らして女が笑う。マスターはグラスをクロスで包んだままくるっと背を向けた。肩が震えている。
「なんかっ……色気っ、すごいなって、思ったん、ですけど」
ツボに入った笑いをなんとか抑制しながら女は続けた。
「ちょっと、ごめんなさい、でも、一緒に飲みましょうよ」
いいのか、とたじろぎを露わにする男を余所に、マスターは女の隣の空席にウイスキーを差し出しす。
ジントニックの後はずっとウイスキーなのだ。
つまり、こちらにどうぞ、と。
続きを読む
亡くなった父の遺品を整理する。
たくさんの本、いくつもの美しいジャケットのレコード盤、しゃれたレコードプレーヤー。ちょっと今では手に入らない品だ。
いや、この形は蓄音機といった方がふさわしいのかもしれない。
錆びついたラッパのような形の部分は何というのだろうか。
もっとも、レコードプレーヤーと蓄音機の違いなど私には分からないのだが。
衣服や使い古した日用品なんかは処分することはできても、そこにあった品々に父の心が宿っているようで私は処分するのをためらった。
それでも愛好家の方にお譲りできればとフリマアプリで手放したものもあるがどうしてもやはり手放せないものはあった。
このレコードプレーヤーはまだ使えるだろうか。
一応 専門店に電話して 壊れてないかを見てもらう、やはり修理が必要な部分はあって久しぶりに家に帰ってきたレコードプレーヤーを見て父が帰ってきたような気分になった。
父の本棚から1枚のレコードを取り出しそっとレコードプレーヤーの上に置く。
私はそっと針を落とした。
ノイズの入ったメロディーはまるで川の流れの音に似ている。
このノイズの寂れた音が私は好きだった。
子供の頃、父の書斎からよく流れてきた音だ。
ノイズの入ったメロディーを雑音まじりと判断するか、それとも美しく情緒的な音だと判断するかは 個人の感性の違いだと思う。
父はその音を愛していた。
音楽はレコード という川の水に溶け、ノイズと混ざり合いながら私たちの耳に聞こえる。
それはまるで自然の川の流れのように溶け込み合い 一つの景色を作っているのだ。
書斎の父、うたたかな光の中で仕事をする父の姿が思い浮かぶ。
「おかえり」
レコードプレーヤーにそっと手を当てる。
そこに宿る父の魂が、帰ってきたと思った。
続きを読む
その日、ウィリアムは賭けに勝った。
朝の校舎は、汗や柔軟剤の匂いの代わりに、ひんやりとした木の香りが漂っている。教室の戸に触れるウィリアムの指は、わずかに震えていた。意を決し、勢いよく戸を開くと、ジョンが机に突っ伏して泣いていた。
彼の肩は小刻みに揺れている。クラスには人気がなく、机や椅子が陽に染まっている。その内の一つ、窓際の席に座っているのがジョンだった。
デカい体格と不釣り合いな、やたらと甲高い声でしゃくり上げている。手をクロスさせ、机の両端にしがみついているらしく、机の足がフローリングに擦れる。その様子は、地殻変動を阻止しようとする巨人そのものだった。
巨人は、何やらブツブツと呟いている。
「もっと……違うミ……べきだ……」
その姿を見たウィリアムは、わざわざ廊下に戻っからガッツポーズをした。そして、トムの鼻をくじくための様々な名文句を思い浮かべた。彼の表情は大きく歪んでいく。しかし、スラリと通った鼻筋はむしろ、その存在感を強めていた。
一週間前のことだ。ウィリアムとトムは、どちらがクラス一のプレイボーイであるかで揉めた。「五十人の女を抱いた」だとか、「モデルを彼女にして手痛く振ってやった」だとか、ハタから見れば猥雑きわまりない内容だ。しかし負け知らずの彼らにとって、それは名誉を賭けた闘争だったのだ。
侃侃諤諤の大論争の末、とうとう痺れを切らしたトムがこう言った。
「ウィリアム。恋の、賭けをしようじゃないか。僕は恋愛のテクニックには自信があるんだ。これから一週間で、クラス一番モテないジョンのやつに、そのテクニックを教える。ヤツにガールフレンドが出来たら、僕のテクニックは本当だってことさ」
「じゃあ俺はスミスに付く。スミスも似たようなナードだ」
「あぁ。賭け金は二百ドルだ。失敗した方が払う。そでいいかな?」
トムのワックス臭い頭が揺れた。ウィリアムの返事は一つしかない。
「二百ドルのカメラなら、お前のマヌケ面がよく写るだろうな」
そうなじると、トムは口角を上げ、困ったように眉をひそめた。しかし表情とは裏腹に、目は不敵にギラついてきた。
「そのカメラを潰して、ポルシェのエンブレムにしてあげるよ。ま、そうはならないだろうけどね」
そして、約束の一週間が過ぎる。スミスに彼女をつけてやるのは造作もないことだった。後は、ジョンの様子を見れば結果が分かるだろう。ウィリアムはそう踏んでいたのだ。
「おい、ジョン」
ウィリアムは、泣き崩れるジョンに声をかけた。勝手に持ち上がっていく頬を戻しつつ、意外そうな声を出してやる。
「どうしたんだよ。ジョン」
哀れな大男の肩に触れる。それは、スポーツ選手が手にしたトロフィーを触れる気分に似ていた。陶酔感で目の前がチカチカしてくる。さらに厄介なのは、彼の嗜虐心は抑えが効かないということだ。相手の弱味につけ込み、徹底的にいたぶるのが、彼の至上の喜びだったのだ。
少し待っていると、ジョンの声が嗚咽の合間にこぼれはじめた。
「トムが……オレに……女の……けど、……られ……たんだよ」
トムが、女に、られた?
ウィリアムの脳内で、欠けた言葉のピースが埋まっていく。
「トムが、オレに女の扱いを教えてくれたけど、結局フラれた……って、そう言いたいのかよ? おい!」
ウィリアムはジョンの肩を揺さぶった。ウィリアムの細い指は、ジョンのたるんだ肉に包まれていく。ウィリアムは、肩を揺するリズムに合わせ、タップダンスでも踊り出しそうだ。しかし核心を聞き出すまでは、そうしまいと心に誓っていた。
「おいジョン! 彼女が出来なかったんだよな? トムの野郎は口だけ野郎だ。そうだろ?」
ウィリアムはもう演技を止めていた。美しい鼻にシワをよせ、半ば笑ったような怒声を吐く。彼の盛り上がった眉に陽が当たり、くっきりと影を落とした。ウィリアムの相貌は、彼の嫌悪する父親そのものだった。
「おい! そうなんだろ! ジョン!」
そう問い詰めると、ジョンは勢いよく頭を上げてこう怒鳴った。
「違ぇよ! トムがオレに女をくれたけど、二人とも車に跳ねられて死んだんだよ!」
露わになったジョンの顔には、何重もの包帯が巻かれていた。
続きを読む
「あー幽レディ?」
「違う違う違う! 右! 右だって!」
「分かってるって!うるさいなあ……」
「分かってない! そこ左!」
「今、右って言ったじゃん!」
「さっきは右! 今は左!」
「うるさぁぁぁい!」
コントローラーを握ったまま叫ぶと、リビングが一瞬だけ静かになった。
一瞬だけ。ほんとに一瞬。
「ほらぁ、死んだ。だから言ったのにー」
「誰のせいだと思ってんの!?」
画面の中央で、私のキャラクターが無惨に倒れていた。
背後から「あーあ」「あちゃー」「やれやれ」などなど、声が十人分聞こえてきた。
いらいらしながら、私は振り返った。
「ゲームくらい静かにやらせてよ!」
「だって見てると口出したくなるじゃん」
ソファの背もたれに逆さまになっている赤茶色のショートヘアが、けらけら笑う。
茜。
声が大きい。態度も大きい。身長も高い。
「今のは夏帆、あんたが悪いよ」
「何が!?」
「回避、遅かったし」
金髪の巻き髪を指に絡めながら言ったのは、麗華。
家の中でもメイクが完璧な女。
「ゲームとかしたことないくせに」
「見れば分かるよ」
「分かんないよ、普通!」
「……次は、左から来ると思う」
小さな声がした。
見ると、リビングの隅で小夜が膝を抱えている。
淡い藤色の長い髪。
小柄で華奢。
大きすぎるパーカーの袖から、指先しか出ていない。
「小夜?」
「たぶん……左……」
「なんで?」
「なんとなく……」
私は画面を見る。
復活。
進む。
左から敵。
「うわっ!」
「ほらぁ……」
「小夜すご!」
「だから言ったのにぃ……」
萌え袖で口元を隠しながら、小夜がしょんぼりする。
「もっと早く言ってよ!」
「言ったよぉ……」
「聞いてあげなよ」
「聞いてたから!!」
「聞いてないじゃん」
「みんな同時に喋るからわかんないの!」
また始まった。
ああでもない。
こうでもない。
回復しろ。
逃げろ。
戦え。
アイテムを拾え。
その宝箱は怪しい。
大丈夫だから開けろ。
やっぱり罠だった。
「もうゲームやめる!」
「えー!」
「もう一回!」
「じゃあ次、私にやらせて!」
「触れないでしょ!」
「あ……そっか」
これが、私の日常だ。
*
私は十人の幽霊と暮らしている。
一軒家。
二階建て。
築年数は知らない。
少なくとも綺麗ではない。
雨の日には二階の廊下が少し臭うし、階段は三段目だけやたら軋む。
冷蔵庫は古い。
お風呂は狭い。
でも部屋だけは多い。
だから十人も住み着いた。
――らしい。
私が来たときには、もう全員いた。
長身で騒がしい茜。
金髪巻き髪で美容にうるさい麗華。
藤色の長髪に萌え袖、いつも何かを心配している小夜。
黒髪ボブで料理好きの千景。
青みがかったショートヘアでゲーム廃人のミオ。
ふわふわした茶髪で、ちょっとふっくらした食いしん坊の杏。
銀髪ロングで無口なくせに、笑いのツボだけ妙に浅い冬花。
派手なピンク髪と濃いメイクで、恋愛話になると誰よりうるさいマナ。
背が低くて童顔なのに、口を開けば毒しか出てこない柚。
最後が、黒髪を腰まで伸ばした、この家最年長のお姉さん役、環。
そして、人間の私――夏帆。
十一人暮らし。
いや。
正確には、
人間一人と、幽霊十人暮らし。
「ねえ」
マナが私の肩から顔を出した。
「今日どうだった?」
「……うわあ、変なところから顔出さないでよ。で、何が?」
「何がじゃないでしょ。例の男の子」
「……あー」
「喋った!?」
「ちょっとだけ」
「なんてなんて!?」
「プリント回して、って」
「キャー!」
「うるっさい!」
なぜその程度で盛り上がれるのだ。
「脈ありじゃん!」
「どこが!?なんで?逆に」
「わざわざ話しかけてきたんでしょ?」
「後ろの席だから!」
麗華が呆れた顔をする。
「マナの恋愛相談だけは聞かない方がいいわよ」
「なんでよ!」
「前回も『絶対脈あり』って言った男、彼女いたじゃない」
「あれは事故!」
「恋愛に事故とかあるの?」
柚がぼそっと言った。
「マナ、見る目ないもんね」
「柚ぅ!!」
「事実」
「でも……」
小夜が萌え袖を口元まで持ち上げる。
「その人……やめたほうがいい気がする……」
全員が止まった。
「出た」
「小夜の予感」
「今度は何?」
「分からないけど……なんとなく……」
私は頭を抱えた。
「お願いだから私の恋を十人で審議しないで!」
*
夕食も大変だ。
食べるのは私だけなのに。
「味噌汁薄くない?」
「ちょうどいい!」
「野菜少ない」
「昼に食べた!」
「肉焼きすぎ」
「これくらいが好きなの!」
「ご飯もう少し食べたら?」
「環まで!」
十人が私の夕食を囲んでいる。
誰も食べない。というより、食べられない。食べるフリをするだけ。
なのに全員、口を出す。
杏なんて毎晩、
「一口だけでいいから食べたい……」
と、私のご飯を恨めしそうに見つめている。
「幽霊って太らないんでしょ?」
「うん」
「いーいなあ」
「食べられないけどね」
「それは嫌だけど……」
「でしょ?」
妙なところで意見が一致した。
*
夜。
お風呂に入れば、扉の向こうから声がする。
「シャンプー変えた?」
「麗華、分かるの?」
「香りが違う」
「怖いから!」
「幽霊だからね」
「そういう怖さじゃない!」
ベッドに入れば、
「明日何時起き?」
「七時」
「六時半にしなよ」
「なんで?」
「髪巻くなら時間かかるよ」
「巻かない!」
「例の男子いるんでしょ?」
「マナ、まだ言ってるの!?」
眠れない。
本当に眠れない。
「もう! みんな静かにして!」
ずっとうるさい。うるさすぎる。
布団を頭まで被った。
しん、とした。
珍しく、本当に静かになった。
……。
…………。
静か。
やっと眠れる。
なのに。
なんだろう。
少しだけ、寂しい。
布団から顔を出す。
部屋には誰もいない。
「……みんな?」
返事がない。
さっきまであんなにうるさかったのに。
起き上がる。あれ。どうしたんだろう。
「茜?」
いない。
「マナ?」
いない。
「小夜?」
返事がない。
胸の奥が、きゅっとした。
私はベッドを降りる。
廊下へ出た。
一階から小さな声が聞こえる。
「……だから、今日は私が」
「ダメ。昨日も言ったじゃん」
「でもそろそろでしょ?」
「まだいいんじゃない?」
リビング。
扉の向こう。
十人の声。
私はそっと開けた。
「何してるの?」
全員が振り返った。
「あ」
「起きてた」
「ごめん、うるさかった?」
「いや……」
私は胸を撫で下ろした。
「急にいなくなるから」
茜が笑う。
「何それ。寂しかった?」
「違うし」
「寂しかったんだ」
「違う!」
「かわいっ」
「うるさい!」
でも。
本当は少し安心していた。
うるさい。
鬱陶しい。
ゲームの邪魔をする。
恋愛にも口を出す。
ご飯にも口を出す。
お風呂にも。
寝る時間にも。
何にだって口出ししてくる。
だけど。
「……私、やっぱりみんなといるの好きかも」
言ってから後悔した。それはもう激しく。
後悔ってこういうことかって思ったよ。
十人の顔が一斉にこちらを向いた。
「えっ」
「今なんて?」
「録音した?」
「してない!」
「もう一回言って?」
「もう言わない!」
「好きって言った!」
「そんなこと言ってないから!」
「言ってたよぉ……?」
「小夜まで!」
笑い声が響く。
私はため息をついた。
やっぱりうるさい。
でも。
このうるさいが、好きだ。
「それで?」
私は訊いた。
「何の話してたの?」
十人が顔を見合わせた。
環が私を見る。
「そろそろかなって」
「何が?」
「交代」
「…………もう?」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。
マナが頬を膨らませる。
「もうって何よ。結構長かったじゃん!」
「だって私、まだ――」
「ずるい!」
「私も外行きたい!」
「プリン!」
「杏はそればっか!」
「映画館行きたい!」
「ゲームの新作!」
「彼氏作りたい!」
「マナはやめときな」
「なんでよ!」
私は笑った。
「もうちょっとだけダメ?」
「ダメー!」
「順番!」
「約束でしょ!」
十人に責められる。
私は渋々、自分の胸元に手を置いた。
「……分かったよ」
目を閉じて
ゆっくりと息を吐く。
身体から、力が抜けていく。
足先が薄くなる。
指が透ける。
鏡を見る。
そこに私は――
映っていなかった。
「はぁ」
私は宙へ少し浮かんだ。
「やっぱこっち、楽」
「おかえり」
環が笑った。
「ただいま」
そう。
この家に、
人間は一人もいない。
十一人。
全員、幽霊。
ただし。
一人だけ。
順番で、人間のふりをする。
学校へ行く。
買い物をする。
ゲームをする。
ご飯を食べる。
恋だってする。
私たちの、
人間ごっこ。
「次! 私!」
「私!」
「はいはいはい!」
「多数決にする?」
「じゃんけん!」
「幽霊がじゃんけんしてどうすんの」
騒ぎの中。
小さな声がした。
「……わ、私も……」
全員が止まる。
小夜が萌え袖から指先だけを出して、そっと手を挙げていた。
「小夜?」
「わ、私も……人間……やってみたい……」
「聞こえない!」
「茜!」
「もっと声出して!」
「む、無理ぃ……」
「じゃあ小夜!」
「決定!」
「えっ」
「おめでとう!」
「待って、心の準備が……」
「明日からね!」
「えぇぇ……」
小夜が泣きそうになった。
でも。
少しだけ笑っていた。
環がそんな小夜を見て、優しく声をかける。
「小夜、準備はいい?」
「……た、たぶん」
*
翌朝。
玄関に小夜が立っていた。
萌え袖のまま。
「小夜」
「……なに?」
「手、出したほうがいいよ」
「……やだ」
「その袖でご飯食べる気?」
「…………」
「スマホも落とすよ」
「…………」
「手洗うたびに袖びちゃびちゃになるよ」
「……出す」
小夜が渋々、袖から手を出した。
「寒い……」
「春だよ!」
十人で笑った。
小夜が玄関の扉を開ける。
朝の光が差し込んだ。
「じゃあ……行ってきます」
「いってらっしゃーい!」
扉が閉まる。
静かになった。
ほんの一秒だけ。
「ねえ! ゲームしよう!」
「やる!」
「私、指示する!」
「やめて! 昨日それで負けたんだから!」
私は笑った。
昨日まで、
あっち側にいた。
今日からは、
こっち側。
「違う違う!」
私はテレビの前まで飛んでいく。
「右! 右だって!」
「うるさい!」
「そこ左!」
「今、右って言ったじゃん!」
「さっきは右! 今は左!」
みんなが笑った。
この家では今日も、
ひとりだけが人間になる。
そして十人が、
そのひとりを、
うるさいくらい見守っている。
続きを読む
その刹那、時が止まった。
声を発するより早く、視界が暗くなる。
ほんの一刹那だった。
遅れて、衝撃が全身を駆け抜ける。
その刹那、理解した。
何かが来る。
「俺が刹那だ」
刹那――そう名乗った男を呼び捨てにした刹那、体が重くなる。
刹那の逡巡が命取りになる。
そう悟った刹那には、もう遅かった。
捕まえようと伸ばした手を、刹那のうちに影がすり抜ける。
そして刹那にして距離を取った男は、笑った。
ほんの刹那ほどの笑みだった。
視線が交わったのも、わずかな刹那。
その刹那だけは、刹那では済まなかった。
主の帰宅後、家に平穏が訪れるのはいつも刹那の間だけだ。
そんなものは、いつだって刹那にして終わる。
今夜も一刹那たりとも油断できない。
またその刹那、異変は起きた。
空気が震えた。
廊下の奥から、高笑いが響く。
刹那ののち、小さな影が姿を現す。
「私も刹那よ」
小さき侵略者は刹那にして駆け出した。
刹那の迷いもなかった。
刹那の判断で進路を定め、刹那のうちに間合いを詰める。
そしてその刹那を制した小さき刹那が、容赦なく腹部へ突進した。
息が止まる。
刹那の間、意識まで遠のいた。
だが相手は刹那も待ってくれない。
その瞬間の欲求、
その瞬間の満足、
その瞬間の快楽だけを求める姿は、あまりにも刹那的だった。
もはや刹那主義と呼んでも差し支えない。
二つの刹那が重なる。
刹那と刹那が交差する。
刹那と刹那の狭間に、刹那の沈黙が生まれた。
そして、最後の刹那。
声が響いた。
「おかえり! パパ!」
パパは一刹那、目を丸くした。
次の刹那には、いつもの顔へ戻っていた。
ただ、その口元だけが。
ほんの刹那だけ、緩んだ。
これが刹那家――SF(セツナファミリー)。
続きを読む
A:この間さ、夜中に小腹が空いたから近所のコンビニに行ったのよ。
B:夜中のコンビニはつい行っちゃうよな。肉まんとか買いたくなるし。
A:そうそう。でさ、レジに商品持って行ったら、すっごいハキハキした深夜のバイトの男の子が立ってたのね。
B:あー、夜中なのに元気な店員さんだと、こっちもちょっと嬉しくなるよな。
A:いや、元気とかのレベルじゃないの。俺がカゴを置いた瞬間に、その店員が「いらっしゃいませ! 本日は数あるコンビニの中から、当店をお選びいただき誠にありがとうございます!」って深々とお辞儀したんだよ。
B:丁寧すぎるな。高級ホテルじゃないんだから。
A:でさ、俺がポテトチップスとお茶をレジに出したの。そしたら店員が、ポテトチップスの袋を両手でうやうやしく掲げてさ、「こちら、ジャガイモの命を限界まで薄くスライスし、油の海で試練を与えた一品でございます」って紹介してきたんだよ。
B:言い方が大袈裟だよ。ただのうすしお味だろ。
A:お茶の時もすごかったよ。「こちらは、富士山のふもとで育った茶葉が、自らの人生をかけて絞り出した一滴にございます。温めますか?」って。
B:冷たいペットボトルのお茶を温めるなよ。
A:だから俺もちょっと圧倒されちゃって、「いや、そのままで大丈夫です」って言ったの。そしたら店員が「かしこまりました。そのままのあなたを受け入れます」って言ってきた。
B:お前を受け入れるなよ。お茶をそのままにするだけだろ。
A:そこからお会計に移るんだけど、その店員が「ポイントカードはお持ちですか?」って聞いてきたのね。俺、持ってなかったから「ないです」って答えたの。
B:まあ普通はそこで終わりだよな。
A:そしたら店員が、ものすごく絶望した顔になってさ。「……左様でございますか。ポイントという名の『小さな幸せ』を、お客様は自らドブに捨てるお覚悟なのですね」って、泣きそうな声で言ってきたんだよ。
B:ドブに捨ててねえよ。ただカード作ってないだけだろ。
A:あんまり悲しそうな顔をするから、俺も申し訳なくなっちゃって、「じゃあ、今から作れますか?」って聞いたんだよ。そしたら店員が急に笑顔になって、「ありがとうございます! では、こちらの用紙に、お客様の『前世の記憶』をご記入ください」って言ってきた。
B:書けるわけねえだろ。名前と住所を書かせろ。
A:俺も「前世の記憶はちょっと覚えてないです」って断ったら、店員が「チッ、これだから現世の人間は」って小さく舌打ちしたんだよね。
B:急に態度悪くなったな。何なんだよその店員。
A:で、支払いの時さ、俺が千円札を出したの。そしたら店員がその千円札を透かして見て、「お客様、こちらの野口英世ですが、少しお疲れのようでございます。代わりに私が、この英世をマッサージしてもよろしいでしょうか」って言い出した。
B:お札をマッサージすんなよ。シワが伸びるだけだろ。
A:あいつ、レジの下からちっちゃいマッサージ器取り出して、千円札の野口英世の肩のあたりをトントン叩き始めたんだよ。
B:印刷された肩を叩くな。時間の無駄だろ。
A:でさ、やっとお会計が終わって、袋に詰めるってなった時に、店員が「袋はご利用ですか?」って聞くから、俺は「あ、じゃあ一枚ください」って言ったの。
B:今は有料だからな。
A:そしたら店員が、レジ袋をパッと広げてさ、「こちらの袋ですが、最大で『夢と希望』が3キロまで入る仕様となっております。本日はどちらを詰め込みますか?」って聞いてきた。
B:ポテトチップスとお茶を詰めろよ。それ買いに来たんだから。
A:俺もそう言ったの。「ポテチとお茶を入れてください」って。そしたら店員が「……お客様は、現実主義者でいらっしゃるのですね。夢を追うことを忘れた大人ほど、哀しいものはございません」って、また勝手に落ち込み始めたんだよ。
B:うるせえよ。コンビニのレジで人生を説教される筋合いねえわ。
A:最終的にさ、袋に商品を入れて手渡してくれる時に、その店員が俺の目をじっと見てこう言ったんだよね。
B:最後はなんて言ったんだ?
A:ひと言、「お気をつけて。この先、右に曲がると『未来』、左に曲がると『過去』に繋がっております」って。
B:怖いよ。ただの十字路だろ。
A:俺、怖くなって、とりあえず真っ直ぐ進んだの。そしたら、気がついたら自分の家のリビングにいたんだよね。
B:あ、真っ直ぐ行ったら家だったんだ。
A:ううん。コンビニの自動ドアを出て、一歩踏み出したら、もうリビングのソファの上だった。
B:ワープしてんじゃねえか!
A:で、手元を見たら、コンビニの袋の中に、ポテトチップスとお茶じゃなくて、見たこともない「光る球体」が入ってた。
B:それ、さっき店員が言ってた「夢と希望」じゃねえか。
A:いや、店員からの手紙が入ってて、「お買い上げありがとうございます。こちらは店長の生霊でございます」って書いてあった。
B:一番いらねえよ! 返品してこい!
A:いや、もう返品出来ないんだよね。
B:なんでだよ。返すだけだろ。
A:もう食べちゃった。
B:いや、店長の生霊食ったんかい! もういいよ。
A・B:ありがとうございました。
続きを読む
食事は「何を食べるか」より「誰と食べるか」が大事なんだよ。
誰かがそんなことを言っていた。
隣には同期きってのアイドルAさん。
仕事終わりにも関わらず、女性らしい香りが挙動の度振りまかれる。髪も肌も光沢を帯び、同じ人類とは思えない彼女は今、僕の20センチ隣に着いた。
向かいには主任のB。出来れば一生顔を合わせたくもないこの男は、残酷なことに僕の上司である。つまり二度と会いたくない人物と毎日顔を合わせている。
このガヤガヤとした場末の居酒屋も、Aさんと二人きりならどんなに煌めいて、あるいは幻想的にも見えただろう。
それがどうだ。Bというノイズがいるせいでこうも酸素が薄くなる。と、同時にBのパワハラじみた誘致が無ければ、Aさんと並んで食事というこのシチュエーションを、僕が自力で成し得たかと言うと甚だ微妙と言う他ない。
おしぼりに濡れるAさんの左手に視線を逃すのもそろそろ潮時を迎えよう。
「お前ら、いいか?部長はここの唐揚げを一口齧って二口目でレモンをかけて召し上がる。お前ら絶対にレモンには触るなよ?」
「「はい!承知しました」」
このしょうもない忠告をあと何度受けるんだ。スキンヘッドに年の割に童顔のBが、オフィスに比べ薄暗い、そしてノスタルジックで陽気な雰囲気の中ではまるでひょっとこの面に見えてきた。くりくりした眼が刺すようにこっちを見据える。地獄である。課長よ、早く来てくれ。そして早く解散してくれ。
「はい! Bでございますぅ! お疲れ様ですぅ。かしこまりました! ……いえいえ! お待ちしておりますぅ! ……あ、はい! はい! あぁ〜、課長、お気を遣わせて申し訳ございません。あ、はい! はい! それではお待ちしておりますぅ! 失礼いたしますっ!」
Bの電話の呼び出し人は課長だろうな。遅れるから先に始めてくれといったところか。
「主任。課長もうお着きになりますか?」
「いや。あと30分ほどかかるから先に始めておいてくれ、だそうだ。A君。今の私の言葉からそれくらい読み取ってくれないと困るよ〜! まぁ君くらい可愛かったら許されるだろうけどねっ! ビール三つ頼んで!」
「いや〜すみません」
へへへと明らかに困惑のこもった微笑でAさんは応えた。このハラスメントボールめ! っとBの頭を僕はペチンペチンと叩いた。もちろん脳内でだ。
ビール三つが運ばれてくると、Bは店員さんに「25分後に唐揚げ揚げたてで」と傍迷惑な注文を加えた。こんなタコ親父の無茶振りを眩しいほどの笑顔で了承する店員の彼女は尊い。
やけに重たいジョッキで乾杯し、苦く弾ける冷たい液体を自虐的に咽喉へ送る。あるいはこれからの苦悶タイムを乗り切るためのエナジードリンクだ、これは。
「あぁ〜。Cさ。今、俺が口つける前に飲んだろ? お前、そういうところだからな? や、俺は許すけど課長や上の方は、そういう所見てるからな? いいか、課長来た時は気をつけるんだぞ?」
もう最悪だ。
「あ、申し訳ございません。ノドが乾いていたので、つい」
「ほぉ〜。言い訳するようになったなぁ。お前。成長したじゃないか!」
「あの、主任。私も気付かず飲んじゃってました。えへへ……」
途轍もなく苦い後味を残して胃の中で踊る液体を恨めしく思った。
「ここの唐揚げホント美味しいんですよ! あとマグロカツも絶品ですよ!」
Aさんのフォローに胸が締め付けられる。というか、Aさんこの店知ってたんだ。だから二つ返事で来たのか。
「お、A君はここ知ってるのか! でも、課長は油物気にするからなぁ。唐揚げ以外は油物禁物だから」
「あ! そうなんですか! 先に聞いてて良かったです!」
救いのマグロカツまで牽制されてしまった。これはセーフ、これはアウトなど供物の選定をしているせいでビールは一向に進まない。手をつけられないお通しのきんぴらに、僕は同情と共感を覚えた。
「やぁやぁ。お待たせしたね」
柔らかい表情を引っ提げてようやく課長が到着した。
「課長ぅ〜! どうぞどうぞ!」
Bは漫画のように飛び上がり課長を上座へ送った。僕の正面に着くまでの一瞬。課長の卓上への一瞥を僕は捉えてしまった。Bの「上の人は見ている」という一言は金言であり呪いであった。僕はビールが美味しく飲めるまで年単位を要することを悟ったのだ。
「あ! お姉さん! ビール4つ! あとさっきの唐揚げ持ってきてね!」
「お、B君、気が利くじゃないかぁ! ここの唐揚げは絶品なんだよ!」
課長が上座に収まると、
「あ、私ちょっとお手洗い失礼します」
僕の20センチ隣の憧れは虚空となった。Bと目が合い、その眼光はジョッキを空けろと急かしてくる。当然、それは僕とAさんのジョッキを指す。
一体何ccになるのか。2杯分のたっぷりと残った苦汁を胃へ追いやる。
時を置かずに4杯のジョッキと唐揚げが運ばれ、Aさんも戻ってきた。
更に重くなったジョッキで乾杯。薄膜の威厳を貼り付けた課長と、満面の皺をこさえたCの顔を眺めながら、口をつけるタイミングを刹那の間で計る。なんて不味いんだ。
「さ! じゃあいただきましょうか!」
トイレですっかり切り替えを済ませたAさんが高らかに言う。
「おう! 若い者は沢山食べなさい! 次のプロジェクトも頼むよ!」
課長の言葉で、これは先週終わったプロジェクトの慰労会なのだと悟った。だとすれば真っ先に声をかけられた僕は、もしかすると昇進の兆しでもあるのだろうか。そう考えると目の前の唐揚げがやけに美味しそうに見えないこともない。
「じゃあ、マヨネーズかけますねぇ〜!」
Aさんがおそらく厨房でもらってきたのであろう業務用のどデカいマヨネーズを、何の躊躇も無く唐揚げの上に絞り出す。
薄黄色い軟液がどっぷりと覆う。どことなく卑猥なその光景。街中で時限爆弾でも見つけたかのように固まるB。威厳の膜がただれ落ちた課長。僕はといえば、箸を伸ばし、口の周りがマヨネーズだらけになる覚悟で齧り付いた。ガリっと衣を裂き、溢れ出す肉汁を舌上にまとわせる。脂、醤油、にんにく、生姜、肉の旨味。迸る唾液。いっそビールに溺れ死にたい気分だった。
続きを読む