コメディ・日常
脱皮━MAN━
1,786文字
約4分で読了
薄毛という現実はその男の日常に張り付くように突きつけられて久しい。
40歳を迎えた平日。弓張月の元、煌々と聳え立つマンションの一室、鏡の前に立つ男は目を瞑って天を仰いでいた。
閉じた双眸の内側に映し出されるのはオーシャンズ12のブラット・ピット。やがて手にしたバリカンのスイッチを入れる。
震える固体の唸りは迫り来る軍靴のそれ。こぼれ落ちそうな決意。なんとか意が形を成した機を逃すまいと、手中で震えるバリカンを頭皮に当てる。
唸りは呻きに変わる。
鏡に現れた頭皮は退路を断たれた一本道に立ったことを知らせる。頭蓋に響く振動がアドレナリンを抽出しているかの如く、男は夢中になり一気に自身の頭を刈り上げた。
そして。
「これは、存外、悪くはないんじゃないか」
首から肩にかけてびっしりとへばりついた我が髪だった物。そんな状態にあっても鏡に映し出された新しい人物に、いやいやどうして、とひとり納得の言葉を浴びせる。細かく手入れしていた愛する口と顎の髭も、5mmの髪に合わせて薄く整える。
男は昂りを沈めようと冷たいシャワーを浴びた。パンツを脱ぎ忘れていたことなどどうでもいいと即座に切り捨てられるほどの快活な気分を堪能しながらとめどなく流れ出る水の出口を仰ぐ。
脱衣所の鏡に映る裸の入道。摂生した甲斐を現す上半身に力を入れ、情けなくなりそうな表情を堪えて和製ブラット・ピットの誕生を祝した。
退路の存在しない一筋道はリニアなのだ。つまり進む以外の選択肢は無い。
その日から男は全身の体毛と皮膚に満遍なく気を配った。やがて顔から首にかけての皮膚はなめし革となり、肘から指先にかけては光沢を纏った。変化にかかった期間は実に一週間。自己肯定感の徒となった40歳の男は、馴染みのバーへと繰り出す。
9月の雨上がり。じっとりとした湿気の歓楽街。鬱陶しいほど眩しい21時過ぎ。雑居ビルの3階にあるいかにも敷居の高い扉を坊主頭は開けた。
いらっしゃいませ、と雰囲気に溶け込ませた絶妙な声量でマスターが迎える。明らかに三度見した後、少し上がった口角で無言のままカウンターのひと席を手で促した。
「ジントニックから?」
「あ、分かりますか?」
「男前は何しても男前」
肩を竦めた中年は妖艶に照らされる頭をペコリと下げる。短く整えられたマスターの黒髪は10年経っても変わらないなと、男はその流れる所作に見惚れ思考を脇に置いた。
キンキンに冷えたジントニックは口腔温度に従いその芳醇な香りを揮発させる。男の鼻腔をボタニカルに包まれたライムが満たした頃、漸くBGMのジャズに緊張を預け、カウンターから頭を遠退ける。
マスターが他の客の軽口に乗り始め、男はスマートフォンを取り出す。アプリを開く刹那、黒画面に映し出されるイカツイおっさんの額に鈍い光が反射していた。
マッチングアプリは写真を挿げ替えたところで通知無しの変わり無し。スワイプして5枚目の写真が髪のある頃だったこと気付く。アンニュイな癖毛を生かしたミディアムヘアー。目にかかる前髪。整えた髭。今の自分とかけ離れたソイツは僅か十数日前の自分だと思うと殊更愛おしい。名残惜しくもアプリから写真を消し、ジントニックで喉を鳴らした。
「お一人ですか?」
綺麗なソプラノ声が耳に触れた。まったくラッキーなヤツがいるなと、後回しにしていた部下のLINEに目を通す。
「あ、あの。お兄さん?」
続く声に顔を上げた。いや、顔を上げたのはほぼ反射であって、自分がオジサンであることはちゃんと自覚している、と男の思考回路は狼狽する。
が、女性と目が合った。
「え、あ、こんばんは」
「ふふっ。こんばんは。お一人ですか?」
どう見ても20代。いや下手をすれば10代もあり得る、あ、いや、ここはバーか、と。男の心中は捕まる所を探しふためく。
「あ、はい、どうも、独身です……」
「いや聞いてないって」
コロコロと全身を揺らして女が笑う。マスターはグラスをクロスで包んだままくるっと背を向けた。肩が震えている。
「なんかっ……色気っ、すごいなって、思ったん、ですけど」
ツボに入った笑いをなんとか抑制しながら女は続けた。
「ちょっと、ごめんなさい、でも、一緒に飲みましょうよ」
いいのか、とたじろぎを露わにする男を余所に、マスターは女の隣の空席にウイスキーを差し出しす。
ジントニックの後はずっとウイスキーなのだ。
つまり、こちらにどうぞ、と。
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