コメディ・日常

遠い町のどこかで

2,697文字 約6分で読了
 その町へ行くには、各駅停車の電車を三度乗り継ぎ、最後には一日に数本しか走らない、一両編成のディーゼル車に揺られる必要があった。  線路脇に生い茂る夏草が、電車のボディをパチパチと叩く。そのたびに、私は自分がどこか、取り返しのつかないほど遠い場所へ運ばれていくような錯覚に陥った。  ――遠い町のどこかで。  誰が言ったのかも分からないそのフレーズが、窓の外を流れる緑の波に重なっては消える。  三か月前まで、私は東京の広告代理店で、分単位、いや秒単位のスケジュールに追われていた。  深夜、コンビニの冷え切った弁当を食べている途中、ふと自分の指先が震えているのに気づいた。何に対しての恐怖なのかは分からない。ただ、ここではないどこかへ行かなければ、私は私でなくなってしまうという確信だけがあった。  退職届を出し、荷物をまとめ、私はスマートフォンの地図を無造作にスクロールした。指が止まったのは、地図の端、海と山に挟まれた小さな空白の地点だった。  降り立った駅は「渚崎(なぎさき)」という無人駅だった。改札を出ると、潮の香りが混じった、少し重たくて温かい風が吹いた。  駅前には錆びた看板を掲げたタバコ屋と、シャッターの下りた文房具店があるだけだ。時間が止まっているのではなく、あまりにもゆっくりと流れているために、動いていることに気づかないだけなのだと感じた。  私が借りたのは、坂の上にある古くて大きな平屋だった。大家さんは足の悪い老婆で、名前をトキさんと言った。 「何もない町だよ、ここは。若者が来るなんて珍しいねぇ」  トキさんはしわくちゃの手で私に麦茶を差し出しながら、不思議そうに笑った。 「何もないのが、いいんです」  本心だった。ここには私を急かすディスプレイも、見知らぬ他人の不機嫌な視線も、何者かにならなければならないという強迫観念もない。  この町での生活は、驚くほど単調だった。朝、鳥の声で目を覚まし、顔を洗って裏庭の小さな畑をいじる。午後は近くの小さな図書館で、ボランティアとして本の整理を手伝う。夜はトキさんから分けてもらった野菜で簡単な食事を作り、暗闇が町を飲み込む前に眠りにつく。  最初の一か月は、その静寂が怖かった。耳鳴りがするほどの静けさの中で、自分の心臓の音だけが大きく響く。私は自分が透明な存在になって、そのまま消えてしまうのではないかと怯えた。  でも、二か月が過ぎる頃、私の感覚は少しずつ変わり始めた。  図書館で古い郷土資料を整理している時、一枚の写真を見つけた。五十年前の、この町の祭りの様子が写っている。白黒の写真の中で、今の私と同じくらいの年齢の男女が満面の笑みで踊っている。背景にある建物は、今では朽ち果てて空き地になっている場所だ。  その時、気づいた。私が「何もない」と思っていたこの場所には、確かに誰かの人生があったのだ。ここで生まれ、恋をし、働き、そして老いていった人たち。彼らにとって、この町は世界の中心であり、帰るべき場所だった。「遠い町」というのは、あくまで私から見た主観に過ぎない。誰かにとっては、ここが唯一の「ここ」なのだ。  ある日の午後、私は防波堤に座って海を眺めていた。すると、地元の女子高校生が一人、隣にやってきた。彼女はセーラー服の襟を風になびかせながら、黙って海を見ていた。 「ねぇ、お姉さん」  唐突に、彼女が声をかけてきた。 「はい?」 「東京から来たんでしょ? 何でこんな、世界の果てみたいなところに来たの? スタバもないし、服を買うところもない。みんな、ここを出て行きたいって思ってるのに」  彼女の瞳には強い憧れと、それと同じくらいの諦めが混じっていた。  私は少し考えてから答えた。 「私はね、自分の場所を見失ったから来たんだと思う。ここに来れば自分が誰なのか、思い出せるような気がして」  彼女は鼻で笑った。 「変なの。私はここじゃないどこかへ行けば、もっと素敵な自分になれると思ってるのに」  彼女との会話は、鏡を見ているようだった。  かつての私は、ここではないどこかを求めて全力で走っていた。そして、今ここにいる私は、かつていた場所から逃げてきた。でも、どこまで逃げても、どこまで追い求めても、私は私を連れて歩くしかない。  「遠い町」なんて、本当はどこにもないのかもしれない。自分が立っている場所を愛せるか、あるいは受け入れられるか、それだけのことなのだ。  夏が終わり、風が秋の気配を運んできた頃、私は一通の手紙を書いた。宛先は、かつての職場の同期だった友人だ。 「お元気ですか? 私は地図の余白みたいな町で、ゆっくりと息をしています。ここは本当に遠い場所です。でも、ここにある風も、光も、人々の営みも、全てが本物です。今まで私は、遠くにあるものばかりを見て、足元の石ころに気づかずに転んでばかりいました。でも今は、その石ころの冷たさや、形の違いを楽しめるようになっています」  手紙を持ってポストに行く途中、トキさんとすれ違った。 「おや、顔色が良くなったねぇ。あんた、もうすぐここを発つんだろう?」  図星だった。自分でも無意識のうちに、次の場所へ向かう準備を始めていた。 「分かりますか?」 「何となくね。ここは止まり木みたいなもんだ。羽を休めた鳥は、また飛んでいかなきゃいけない」  トキさんは優しく微笑んで、私の肩を叩いた。 「どこへ行っても、あんたがここで過ごした時間は消えないよ。遠い町のどこか。そこでの記憶が、いつかあんたを支える日が来る」  私は冬が来る前に、この町を発つことに決めた。  最後の夜、私は二階の窓から町を見下ろした。小さな電球の灯りが、ポツリ、ポツリと点いている。それぞれに物語があり、それぞれの「今」がある。  私はこの町の名前を一生忘れないだろう。でも、明日からはまた、別の「ここ」を探して生きていく。  翌朝、駅のホームに立つ私の手には、小さな鞄一つ。そして、やってきた一両編成の電車に乗り込む。ディーゼルの音が響き渡り、ゆっくりと列車が動き出す。  窓の外、ホームの端でトキさんが小さく手を振っているのが見えた。私はその姿が見えなくなるまで、何度も手を振り返した。  電車は、昨日までいた「遠い町」を背にして走る。トンネルを抜けるたびに、空の色が変わっていく。  私は手帳を開き、新しい真っ白なページにペンを走らせた。    「遠い町のどこかで、私は私を見つけた」    書き終えると、心地よい眠気が襲ってきた。  ガタン、ゴトン……と響くリズムは、もう私を急かすことはない。私は目を閉じ、まだ見ぬ次の町へと想いを馳せた。  どこへ行こうと、そこが私の居場所になる。そんな根拠のない、けれど強い確信が、胸の中に静かに灯っていた。 (了)
2026/09/30 ・ 👁️ 253回 ・ 💬 0件

\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ

まだ感想はありません。

0 / 1000文字