その他
潮が引くのを待つあいだ
4,433文字
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その町は、一日のうち数時間だけ、海と地続きになる。
かつては炭鉱で栄えたというが、今は錆びついた鉄骨の残骸と、潮風に削られて角の丸くなったコンクリートの塊が散らばるだけの、ただの行き止まりの土地だった。
若い人々はとうに移住し、残されたのは、自分がいつからここにいるのかさえ忘れてしまったような老人たちと、いくつかの空き家、そして数軒の潰れかけた店だけである。
シンジがその町にやってきたのは、十月の初め、よく晴れた、しかしどこか冷え冷えとした日の午後だった。
駅とは名ばかりの、一本のレールと古びた上屋があるだけの停留所で降りたのは、シンジ一人だった。
彼の手には、小さな古いアタッシュケースが一つだけ握られていた。
中身は空だった。重さを持たない鞄は、風が吹くたびにシンジの膝を軽く叩いた。
シンジは宛てもなく歩き、やがて波打ち際に面した「水底亭」という看板のある、小さな食堂兼民宿のような建物の暖簾をくぐった。
店内には、潮の匂いと、大根を醤油で煮詰めたような、低く沈んだ匂いが充満していた。奥の帳場に、白髪をきっちりと三つ編みに結った老女が座っていた。彼女はシンジを見ると、驚く風でもなく、ただ小さく頷いた。
「泊まりかね」
「ええ。何日になるかは、まだ分かりませんが」
「いいよ。どうせ部屋はいくらでも空いている。ただね、ここは夜になると電気が消えるよ。町全体の発電機が、もうだいぶ弱っているからね」
老女は「キヨ」と名乗った。彼女が案内してくれた二階の部屋は、窓を開けるとすぐ下に海が迫っていた。満潮に近いのか、波頭が不規則に崩れる音が、床板を通じて足の裏にまで伝わってくるようだった。
シンジが部屋の唯一の家具である文机の前に座ると、キヨは言った。
「何か、書きに来たのかい」
「いいえ。何も」
シンジは答えた。
「むしろ、なくしに来たんです」
キヨはそれ以上何も聞かず、襖を閉めて去っていった。
シンジがここに来た理由は、極めて曖昧だった。東京での生活は、まるで目の粗い紙で皮膚をこすられ続けるような、微小で持続的な痛みに満ちていた。
何が原因というわけではなかった。仕事も、恋人も、友人関係も、すべてが少しずつ、しかし決定的に「どうでもいいこと」に変質してしまっていた。
ある朝、目覚めると、自分の名前の発音が思い出せなくなった。喉の奥でつっかえるその奇妙な音節に耐えかねて、彼は適当な列車に乗り、レールの終着点を目指した。それがこの町だった。
夕方、シンジは海岸へ降りた。
潮は引き始めていた。水が退いていくにつれて、灰色の砂の下から、無数の黒い物体が姿を現した。
それは、かつて人間が使っていた道具の残骸だった。ねじ曲がったスプーン、ガラスの割れた腕時計、あるいは何の機械か分からない歯車。
それらはすべて、海洋生物の死骸やフジツボに覆われ、もはや元の役目を完全に喪失していた。
砂浜の端に、一人の男が立っていた。男はしゃがみ込み、引き抜かれたばかりの海草のように濡れた衣服を身にまとって、砂を掘り返していた。
「何か探しているんですか」
シンジが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。年齢はシンジと同じくらいに見えたが、その瞳には陽光を全く反射しない、深い濁りがあった。
「探しているんじゃない」
男は掠れた声で言った。
「埋めているんだよ」
「何を?」
「言葉さ」
男は、手のひらに載せた小さな石ころをシンジに見せた。それはただの石ではなく、表面に鋭利な刃物で『昨日』と刻まれていた。
「ここに埋めるとね、次の満潮のときに、海が綺麗に洗っていってくれるんだ。そうすると、頭の中が少しだけ軽くなる」
男はそう言うと、手際よく砂に深い穴を掘り、その石を落として丁寧に砂を被せた。そして、自分の名前は「オサム」だと名乗った。
「君も、何か埋めたいものがあるんだろう。だからこんな、陸の壊死したような場所へ来た」
オサムの言葉は、非難するでもなく、同情するでもなく、ただ事実としてシンジの胸に落ちた。
「僕には、埋めるべき言葉さえ残っていない気がします」
「それはいいことだ」
オサムは立ち上がり、ズボンの砂を払った。
「本当に空っぽになれたなら、あとはここで潮が引くのを待つだけでいい」
その夜、キヨの予告通り、夜の九時を迎えると同時に、町全体の明かりが一斉に消えた。
部屋は完全な闇に包まれた。シンジはベッドに横たわり、目を開けたままでいた。
視覚が奪われると、聴覚が異常なほどに研ぎ澄まされた。窓の外で、波が寄せては返す。その音は、巨大な生き物が規則正しく呼吸しているようでもあり、あるいは、世界そのものがゆっくりと咀嚼されている音のようでもあった。
シンジは自分の胸に手を当てた。心臓は動いている。しかし、その鼓動が誰のためのものなのか、確信が持てなかった。
東京に残してきたアパートの鍵、引き出しの中の未払いの請求書、スマートフォンの画面に並ぶ、もう二度と返信することのない名前たち。
それらが、遠い宇宙の出来事のように思えた。
二日目も、三日目も、シンジはただ砂浜を歩いた。
町には時計がなかった。あるのは、潮の満ち引きという、もっと大きな、そして容赦のない時間の区切りだけだった。
オサムは毎日、同じ場所に現れた。彼は日ごとに異なる石を埋めていた。『約束』、『記憶』、『未来』。
彼が埋める言葉は、どれも一般的なものばかりだったが、オサムにとっては命の一部を削り取るような作業であるらしく、石を埋めるたびに、彼の身体は目に見えて薄くなっていくように思えた。
「すべてを埋め尽くしたら、どうするんですか」
ある午後、シンジは尋ねた。
オサムは、遠くの水平線を眺めながら答えた。
「海の向こうに、もう一つの町があるらしい。そこには、言葉を持たない人たちだけが住んでいて、誰も誰かを傷つけないし、誰かを思い出すこともない。潮が完全に引ききった一瞬だけ、そこへ続く道が現れるんだ」
「それは、おとぎ話でしょう」
「かもしれない。でも、信じるほかに、この波の音に耐える方法がないんだよ」
その日の夕方、シンジはキヨの食堂で、干からびた魚の塩焼きを食べた。キヨは古いラジオから流れる、雑音混じりのクラシック音楽に耳を傾けていた。
「キヨさん」
シンジは箸を置いた。
「オサムさんという人に会いました」
キヨはラジオの音量を少し下げ、シンジを見た。その目は、すべてを知り尽くしているかのように静かだった。
「ああ、あの哀れな子ね」
「彼は、海の向こうの町へ行くと言っていました」
「あの海にはね、何も一方向のものなんてないんだよ」
キヨは静かに言った。
「寄せては返す。それだけさ。あの海に何かを捨てたつもりになっても、それはいつか、形を変えて必ず砂浜に打ち上げられる。あの男の子が埋めているのは、自分がかつて海に捨てて、再び戻ってきたものたちさ。彼は同じことを、もう何年も繰り返している」
シンジは息を呑んだ。
「じゃあ、消えることはできないんですか」
「消える、とはどういうことかね」
キヨはシンジの空のアタッシュケースに目をやった。
「器を空にしても、空気は残る。人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ。どれだけ遠くへ逃げたつもりでも、足元には常に、自分の影がへばりついているだろう」
その夜、シンジは激しい嵐の音で目を覚ました。
窓ガラスがガタガタと鳴り、激しい雨が容赦なく叩きつけていた。満潮の時刻のようだった。
海は狂ったように咆哮し、まるですぐ下の道路を飲み込もうとしているかのようだった。
シンジはたまらなくなって、部屋を飛び出した。階段を駆け下り、宿の玄関を出ると、容赦のない雨と潮風が身体を叩いた。
彼は導かれるように砂浜へ向かった。
暗黒の海が、白い泡を立てて迫っていた。その波打ち際に、人影があった。オサムだった。
オサムは、濁流のような波の中に膝まで浸かりながら、必死に地面を掘ろうとしていた。しかし、押し寄せる波が瞬時に砂をさらい、穴を作ることを許さない。
「オサムさん!」
シンジは叫んだが、声は風にかき消された。
オサムは振り返った。その顔は、涙か雨か分からない水滴で濡れそぼっていた。
彼の両手には、大きな、何の文字も刻まれていない真っ黒な岩が握られていた。
「重すぎるんだ!」
オサムが叫んだ。
「これが最後の言葉なのに、重すぎて砂に埋まらないんだ!」
「それは何なんです!」
「僕の名前だ!」
オサムは叫び、その岩を海へ投げ込もうとした。しかし、押し寄せた巨大な高波が、オサムの身体を激しく打ち据えた。オサムの身体は力なく後ろへ倒れ、波の渦の中に巻き込まれていった。
「オサムさん!」
シンジは海へ飛び込もうとした。しかし、その瞬間、彼の脳裏にキヨの言葉が蘇った。
『人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ』
シンジの足が止まった。波が引き、オサムの姿はどこにもなくなっていた。ただ、彼が持っていたはずの真っ黒な岩だけが、波打ち際にぽつんと残され、引き波に洗われていた。
シンジはよろよろと近づき、その岩を拾い上げた。それは、驚くほど軽かった。まるで軽石のように、中身がすべて空洞であるかのように。
岩の表面には、何も書かれていなかった。しかし、シンジには分かった。それは、オサムのものであり、同時に自分のものでもある、形を失った「生」の質量そのものだった。
翌朝、嵐は嘘のように去り、世界には残酷なほどの青空が広がっていた。
潮は、今までにないほど深く引いていた。普段は見ることのできない、沖合の海底の泥や、貝殻の群生が、天日の下にさらされていた。
オサムの言っていた「もう一つの町へ続く道」は、どこにもなかった。あるのは、ただ乾燥していく、広大な、湿った砂の平原だけだった。
シンジはアタッシュケースを持って、水底亭を出た。キヨは帳場に座ったまま、何も言わずに彼を見送った。ただ、彼の手にあるケースが、昨日までとは違って、かすかに重みを持っていることに気づいているようだった。
シンジは駅へ向かう道すがら、もう一度海岸を見下ろした。
遠くの波打ち際で、小さな光の粒が跳ねていた。それは、海が返し続ける、無数の人間たちの記憶の破片のようだった。
シンジはポケットから、小さな石を取り出した。昨夜、オサムの岩のそばで見つけた、小さな、滑らかな石だ。彼はそれに、宿の文机にあったペンで、自分の本当の名前を書きつけていた。
彼はその石を、砂浜に向けて投げたわけではなかった。ただ、そっとポケットの奥深くへ戻した。
消えることはできない。捨てることもできない。
ならば、この重さを抱えたまま、もう一度、あの目の粗い紙のような世界へ戻るしかない。
停留所に、一両きりの列車が近づいてくる音が聞こえた。
レールの軋む音が、潮騒の中に静かに溶けていった。シンジはケースをしっかりと握り直し、ホームへの階段を上り始めた。
潮は、またすぐに満ちてくるはずだった。
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