ホラー・怪談
わたしだけ、知らない
3,348文字
約7分で読了
今日の雨は、夕方からずっと降っていた。
午後十一時十二分。
私は古びた待合室の隅で、濡れたローファーを見つめていた。
土砂崩れの危険があるらしく、電車は止まっている。次に動くのは早くても明朝。
最悪だった。
「君、高校生?」
顔を上げると、四十代くらいの男が立っていた。
「……はい」
「家の人、迎えに来てくれないの?」
「無理みたいです」
待合室には、ほかに二人。
スマホを何度も確認するスーツ姿の男と、壁にもたれている若い女。
私を入れて四人。
知らない大人たちと一晩。
怖くないと言えば、嘘になる。
*
最初におかしなことが起きたのは、十一時四十分だった。
「……誰だよ」
スーツの男が立ち上がった。
手には一枚の紙。
日付。金額。会社名らしい文字。
私には意味が分からなかった。
けれど男の顔から、血の気が引いていた。
「どこにあったんですか」
「俺の鞄」
「最初から入ってたんじゃ?」
「そんなわけない!」
声が響き、私は肩を震わせた。
「……悪い」
「いえ」
怖かった。
はやく帰りたい。
*
日付が変わる頃、今度は女がスマホを見て固まった。
「なんで……」
画面には暗い駐車場。
女と、知らない男が近い距離で写っていた。
「誰が送ったんだ?」
「知らない番号……」
「その写真は?」
「知らない!」
女が叫んだ。
「あの……」
私はペットボトルを差し出した。
「お水」
「……ありがとう」
手が震えていた。
少し前まで怖いと思っていた大人が、急に小さく見えた。
*
一時を過ぎても、誰も眠らなかった。
「偶然じゃないだろ」
スーツの男が言った。
「ここにいる誰かがやってる」
沈黙。
三人の視線が、最後に私へ向いた。
「……私?」
「こんな子なわけないだろ」
最初の男が私の前へ立った。
「高校生だぞ」
「高校生なら何もできないの?」
女が言う。
私はバッグを抱きしめた。
「私、何も知りません」
「分かってる。怖いよな」
頷いた。
本当に怖かった。
*
一時二十七分。
待合室の古いスピーカーから、突然声が流れた。
『あのときは仕方なかった』
最初の男の声だった。
『俺だって、ああするしか――』
そこで切れた。
「あなたの声でしょ」
「知らねぇって言ってるだろ!」
「何をしたの?」
「何もしてない!」
男が椅子を蹴った。
私は耳を塞いだ。
「やめて……」
「すまん」
男はすぐに目を逸らした。
紙。
写真。
録音。
誰かが何かを知っている。
でも、誰なのか分からない。
三人は互いを疑い始めた。
声が大きくなる。
「お願いだから……」
怖かった。
もうほんとに帰りたかった。
*
二時十三分。
突然、照明が消えた。
いくつものスマホの光が灯る。
「ない……」
「何が?」
「私のスマホ……!」
涙が出た。
数分後、私のスマホは待合室の外にあるベンチの下から見つかった。
「私、外に出てない」
「誰かが持っていった?」
また沈黙。
「もう嫌……」
「朝になれば帰れるから」
最初の男が言った。
「何もしてない人間まで怖がる必要はない」
その言葉で、なぜか誰も喋らなくなった。
*
三時四十六分。
「……待てよ」
スーツの男が顔を上げた。
「俺の紙。あんたの写真。それから、あんたの録音」
最後に私を見る。
「君だけ、何もないな」
「スマホなくなったじゃない!」
「見つかっただろ。俺たちは違う。全部、知られたくないものだ」
「……やめてください」
涙が落ちた。
「私、何も知らない」
「君はどうして今日、ここにいる?」
「電車が止まったから」
「違う。こんな時間まで、どこにいた?」
「やめろよ」
「この子がここへ来る理由がない」
「あるよ」
小さく言った。
「ずっと前から」
*
「……どういう意味?」
私はスーツの男を見る。
「十一か月」
女を見る。
「八か月」
最後の男。
「一年と四か月」
「何の話だ」
「見てた時間」
「……誰を」
「皆さんを」
誰も動かなかった。
「俺たちは今日初めて会った」
「うん、そうだよ」
「じゃあ――」
「私は初めてじゃない」
スーツの男を見る。
「去年の四月十九日。雨の日でした」
「……何を言ってる」
「濡れた革靴のまま家に入るの、嫌いですよね」
男の顔から表情が消えた。
女を見る。
「コーヒーに砂糖入れなくなったの、六月から。でも苦いの嫌いだから、飲むときちょっとだけ眉間に皺が寄る」
「気持ち悪い……」
「かわいいですよね」
最後の男を見る。
「怒ると、左手の親指を握りますよね」
男が自分の手を見る。
握っていた。
「……誰に聞いた」
「誰にも」
「じゃあ、どうやって――」
「ずっと見てきたから」
さっきまであんなにうるさかったのに。
静かになった。
*
「全部、お前だったのか。紙も、写真も、録音も」
「さあ……どうでしょうか」
「答えろ!」
肩が跳ねた。
大きな声は苦手だ。
「怒鳴らないでください」
「ふざけるな!」
「ほら。また時計触ってる」
「……何?」
「嘘つくと、時計触る」
男の手が止まった。
「じゃあ、俺たちが今日ここにいるのも……お前が呼んだのか」
「呼んでないですよ」
「だったら、なんで三人ともここにいる」
「来るようにしただけです」
「同じだろ!」
「皆さん、自分で来たじゃないですか」
「この雨も、電車が止まったのも?」
「それは知らないです」
「は?」
「私も困ってたんですよ。帰りたかったの、本当です」
誰も信じてくれなかった。
「あ、そうだ。スマホは私です」
「……何?」
「私だけ何も起きなかったら、変でしょう?」
「泣いてたのも?」
「怖かったのは本当ですよ」
「何が怖いのよ」
「ばれそうだったから」
女は何も言わなくなった。
*
「なんでこんなことするの」
「皆さんのことが好きだから」
「……何?」
「ずっと観察してたら、好きになりました。だから、これからも見ていたいんです」
「もう私たちに関わらないで!」
胸の奥が少し痛くなった。
「……嫌なんですか?」
「当たり前でしょ!」
「そうなんだ」
私はスマホを取り出した。
「じゃあ、仕方ないですね」
「何が」
「皆さんのこと、知ってる人に教えます。会社とか、ご家族とかに」
三人の顔が変わった。
「今まで通りでいてくれたら、何もしません」
「何をすればいい」
「何も?」
私は首を傾げた。
「普通に暮らしてください。これからも、ずっと私の観察対象でいてくださいね」
三人は呆然と立ち尽くしていた。
「大丈夫です」
私は笑った。
「私がちゃんと、愛でてあげますから」
「断ったら?」
スーツの男だった。
「じゃあ、試してみます?」
スマホの画面を二度触った。
「はい」
「……何した」
「送ってあげました」
男のスマホが震えた。
画面を見た男の顔が変わる。
「……妻からだ」
もう一度、震えた。
「やめろ。取り消せ」
「もう手遅れです」
私は残った二人を見る。
「お二人は、どうしますか?」
返事はなかった。
「……よかった。仲良くできそうですね」
「俺のはもう送ったんだろ」
「はい」
「だったら俺は終わりだ。もう脅せるものがない」
「終わり?」
「だから、俺にはもう――」
「誰が、解放するって言いました?」
男の口が止まった。
「私、そんなことひと言も言っていませんよ」
「だって、もう秘密は――」
「さっき送りました」
「だったら何で俺を――」
「だって」
私は首を傾げた。
「あなたのこと、まだ全部知らないですから」
「……いつまで俺たちを観察する」
「私が満足するまで」
「それはいつだ」
「分かりません。強いて言うなら、飽きるまで、かな」
「それがいつかって聞いてるのよ」
「それを知りたいから、見てるんですよ」
秘密も知っている。
癖も知っている。
どんな顔で嘘をつくのかも。
でも、これから三人がどんな人になるのか。
それだけは、まだ知らない。
だから見ていたい。
「……ねえ。こっち見て」
誰も動かない。
「お願い」
しばらくして、一人が顔を上げた。
次に一人。
最後の一人。
三人と目が合った。
よかった。
私は笑った。
「ようやく会えた」
*
午前六時。
電車が動き始めた。
「お待たせしました。もう大丈夫ですよ」
駅員が入ってきた。
「一人だったの?」
三人は少し離れたところにいた。
誰もこちらを見なかった。
「いえ」
「怖かったでしょう。知らない大人ばっかりで」
私は笑顔のまま、
「はい」
と答えた。
本当に怖かった。
最後まで、ばれないかと思って。
嫌われちゃったけど、それくらいなら大丈夫。
バッグを肩に掛ける。
改札へ向かう前に、もう一度だけ振り返った。
三人とも、まだ私を見なかった。
せっかく、やっと会えたのに。
まあ、いいや。
これからも、ずっと見ていられるから。
私は笑った。
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