ホラー・怪談
舟朽異境・泥舟考、あるいはカチカチ山
2,158文字
約5分で読了
以下に記す記録は、旧舟朽国の山間にある廃村の土蔵より、大正十年頃に発見されたものである。筆者は不明。
紙は異様なまでに腐朽していない。
筆致は執拗な熱を帯びているように思われる。
特筆すべきはその文字を形作る墨である。
いや、本当に墨なのだろうか。それは墨よりも濃く深く、光を奇妙なほどに吸収し、世界の裏側を映し出す闇のように思えた。
何人もの民俗学者がこの記録を単なる昔話だと笑い飛ばしたが、彼らはその後、意味不明な言葉を遺して消えた。
私は、この物語を読み終えたあなたが、彼らと同じ道を辿らぬよう願う。しかし、その言葉を、私は持ち合わせていない。
壱:侵入者
老人が畑を耕していたのは、正午を少し過ぎたころのことだった。空の青さが彼に重くのしかかる。
老人が顔をふと上げたとき、畑の端にそれは佇んでいた。
狸か、そう思おうとしたが、彼の脳がそれを否定した。
それの眼は狸のものではなかった。いや、違う。彼の知るいかなる生き物のものでもなかった。金と黄の混じったような虹彩に細い瞳孔が縦に入っている。その奥の瞳孔の色は……。
老人は思考を停止した。本能的な恐怖、拒絶反応からだった。
これをそのままにしてはおけない。意外なほど素直に捕らえられたその侵入者を、老人は震える手で縛り上げ、物置の柱にくくりつけた。
偽:婆汁
老人の妻が物置の闇へ足を踏み入れたとき、それは啜り泣いていた。
正確には、人間の啜り泣くという行為を正確に模倣していたと考えられる。
縄を解いてやれば、この哀れな生き物は救われる。救ってやらねば……。老婆はそう思った。あるいは、そう思わされたのかもしれない。
それが何をしたか、詳細を記すことは差し控える。
しかし、結果として老婆の本質は取り出され、それの一部となった。残された肉体は鍋の中で静かに煮えた。
老人が帰宅したとき、炉端からは汁の香りが漂っていた。
老婆の皮をかぶったそれは完璧に老婆に擬態した。不自然なところはどこにもなかった。
「おじいさん、おかえりなさい。疲れたでしょう。汁ができていますよ」
老人は何も疑うことなく食べた。旨かった。妻にも食べるよう促したが、老婆は黙って微笑むばかりだった。
惨:捕縛
翌朝、それは黙って去った。老婆の皮を丁寧に畳み、畑の中央に置いて去った。
老人は三日三晩その場から動けなかった。
老人の前に現れたのは、一羽のウサギだった。真っ赤な燃えるような眼をしている。血ではない、怒りの赤だ。
ウサギはそれのことを知っていた。その名を知っていた。
「おばあさんの敵を討たせてあげよう」
ウサギは一度も老人を見ることなくそう言い放った。
ウサギのその言葉に頷いた老人は正気を取り戻したかに見えた。
一筋の光すら見つけられない闇の中。そこはこの世の裏側へとつながる異界への入り口だった。
それが不敵な笑みをうかべ、満足そうな様子で苔むした大木の根元でうずくまっている。その濁った金の眼だけが鈍い光を放っている。
それの背後から音もなく現れたのは、あのウサギだった。ウサギはさも親しげにそれの名前を呼んだ。(注1)
※注1ウサギが呼んだ名前はおおよそ人間には発語できないものであったと記録されている。
それがもし今も空腹であったならば……間に合ったかもしれない。しかし、それが振り返った時にはすでに遅かった。
ウサギは銀の縄を一気にそれの体に巻き付けた。おそらく呪術的な効果が付されているその縄は、それの体をぎちぎちと締め上げた。
「さぁ。復讐だ」
屍:復讐
薪を背負わせたそれの背後でウサギは火打石を打った。
カチカチ、カチカチ。
「その音はなんだ」
それは尋ねた。人間の声を模倣しているが、感情は感じられない。
ウサギは答える。
「鳥だ」
ウサギの声からも一切の感情が欠落している。老婆に対しての哀悼も、それに対しての憎しみもない、凍てついた湖面のような平坦さであった。
それの背中に火が付いた。
ウサギはそれを泥の船に乗せた。船は湖の中央でほろほろと崩れ始めた。
それは沈みながら嬉しそうに笑った。初めて見せた歓喜のように見えた。
船が、船と共にそれが、沈むのを確認するかのようにウサギはしばらく湖面から目を離さなかった。
何かが湖の底で脈打っているように、水面が上下しているのを感じた。まるでそれが呼吸しているかのようだった。
獄:永劫
ウサギはそのあとすぐに姿を消した。
老人は回復せず、それ以降一切の食事をとるのをやめた。深夜に湖の方を向いて座り、動かない老人を近隣のものが目撃している。
老人はほどなくして死んだ。老人の死体はその腹部だけが異様に膨れ、熱を持っていた。死後、老人の口からは、温かいままの「汁」が湯気を立ててどろりとあふれ出たという。それはあの日、老婆に成り代わった「それ」が老人にふるまったあの時のままのものだった。
老人の体が自分の妻を体内にとどめておくことを選んだのか、それとも……。
村はほどなくして廃村になった。理由の記録はない。
湖は現在も存在している。目を凝らしてみると、今も微かに、微かに水面が上下している。
廃村の理由を記した記録はなかったが、土蔵には爪でひっかいたような無数の文字が残されていたことを最後に記しておく。それは我々の知る文字でもなく、知られたる言語でもなく、ただ執拗に繰り返される記号のようなものの羅列であった。
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