SF・ファンタジー

生きていない駅|旅の記録 03

1,948文字 約4分で読了
作者:福子
 顔を上げると、隣のベンチに座っていたおばあさんは、いつの間にか姿を消していた。 あのおばあさんから鍵にまつわる不思議な話を聞いたような気がするのだけど、どういうわけか、記憶はぼんやりしているし、そこにおばあさんが座っていた痕跡も気配も感じられなかった。  私は、眉間にしわを寄せ、自分の手の中の缶コーヒーを睨みつけた。  夢でも見ていたのだろうか。 ……いや、そんなはずはない。 眠っていたのなら、缶コーヒーを地面に落としてしまってもおかしくないのに、私の左手は、今も意志を持って缶を握りしめている。 私は強い緊張で震える息を吐き、それにしても、と、つぶやいた。 握りしめた缶コーヒーはすっかり冷たくなっている。冷めた、ではない。キンキンに冷えているのだ。それだけ、時間が経っているということを表していた。 おそるおそる時計を見ると、お昼はとっくに過ぎていた。 この公園に来てから、三時間以上経っている。 全身を震えが駆け巡り、呼吸が苦しくなった。 キンキンに冷えたコーヒーを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に入れ、逃げるように公園をあとにした。  いったいここはどこなのだろうか。 私は、どこに来てしまったのだろうか。  どうやら私は、ふらふらと駅まで戻って来たらしい。 この町で暮らしてみようと思ったけれど、得体のしれないこの町に、私は凍りつくような恐怖を覚えていた。  帰ろう。 何を探しに来たのかも、何が見つかるのかもわからないけれど、もう、そんなのはどうでもいい。  駅舎に入ろうとして、私はビクッと身体を震わせ立ち止まった。 駅は、生きていなかった。 建物は蔦(つた)が絡み、中は落ち葉とほこりだらけで、改札口には錆びたチェーンがかけられていた。  混乱する脳内で、たったひとつ理解できたのは、私はこの町に留まらなければならない、ということだけだった。  足は自然と、あの喫茶店に向かっていた。  とりあえず、何か食べよう。 お腹を満たして、紅茶でも飲んで、心と身体を落ち着けよう。 それからだ、これからどうするのかを考えるのは。  喫茶店に明かりがともっている。 ドアを開けると、今朝と同じ店員がにっこり笑って、いらっしゃいませ、と言った。 私はカウンター席に座り、オムライスを注文した。「すみません、オムライスはやってないんですよ。」 私は目を丸くした。「え、だって、今朝、このお店で一番のおすすめだって……。」 私の言葉を聞いて、今度は店員さんが目を丸くする番だった。「いえ、一番のおすすめはナポリタンです。それに、お客様がこの店にいらっしゃったのは、今が初めてですよ……。」  とりあえず、ナポリタンを注文すると、店員さんは調理を始めた。「……オムライスがおすすめと、朝の私が言ったんですね?」 パスタをゆでながら、店員さんがそう言った。「はい、とても美味しかったです。はやりのふわとろではないですが、素朴で、懐かしくて、優しい味でした。」 私は、手元のお冷をもてあそびながら、グラスの水面に映る自分の顔を見つめた。「……今朝、朝早くにそこの駅に降り立って、心細さと混乱の中、このお店の明かりを見つけました。そして、オムライスを頂いて、町を歩いてみようと思えたんです。」 ふう、とため息をつき、ケチャップの少しツンと鼻を刺激する匂いをゆっくり味わった。「でも、不思議なことが続いて、混乱して、もう帰ろうと思ったのに、駅は……空っぽでした。」 お待たせしました、と、店員さんがナポリタンを私の目の前に置いた。 スクランブルエッグが添えられていて、卵とケチャップの香りが私を満たしていった。「このお店を始めるとき、おすすめをオムライスにするかナポリタンにするか迷ったんです。……そうですか、美味しかったですか。」 店員さんは、ゆっくり目を閉じると、銀色のトレーをぎゅっと抱きしめ、嬉しそうに微笑んだ。 そして今度は、ゆっくりと目を開けると、少し悲しそうな瞳を私に向けた。「あの駅は、廃線になってからずっと、何年も前から使われていません。それなのに、ときどき、あの駅に降り立ったとおっしゃる方が、この町にいらっしゃるんです。」 店員さんは、何か言いたそうに顔をゆがめたれど、ごゆっくりどうぞ、と言って、調理場に戻った。  ナポリタンも、オムライスに負けないくらい美味しかった。 食後にレモンティーとケーキを味わっていると、店員さんが私に近づき、あの、と声をかけた。「寝泊まりするところはお決まりですか? もしまだでしたら、ここの二階でよければ空いています。」 私は二、三度まばたきをして、いいんですか? と気の抜けたような、間の抜けた声で聞き返した。「はい。軽食ではありますが、お食事もご用意できます。ご希望であれば、オムライスも。」  こうして私は、北の町で暮らす初めての夜を、喫茶店の二階で過ごした。
2026/10/23 ・ 👁️ 24回 ・ 💬 0件

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