ホラー・怪談
なにかいる
3,901文字
約8分で読了
蒸し暑い熱帯夜だった。
エアコンは22度に設定されているはずなのに、室内の空気は澱み、肌にじっとりと嫌な汗がまとわりつく。
都内の古いワンルームマンションに引っ越してきてから、ちょうど二ヶ月が経つ。会社員の上田拓也がその「違和感」を覚え始めたのは、ほんの一週間ほど前のことだった。
最初は、些細なことだった。
仕事から帰ると、朝出かける前にきっちりと閉めたはずのクローゼットの引き戸が、ほんの数センチだけ開いている。
最初は自分の閉め忘れか、あるいは電車の振動のせいだろうと考えた。
しかし、それが毎日のように続く。
ある日は、キッチンの換気扇のスイッチが入っていた。またある日は、洗面所の鏡に、まるで濡れた手でなぞったような歪な一本の線が引かれていた。
誰かが、自分の留守中に部屋に入っているのではないか。
そう考えると、背筋に冷たいものが走った。ストーカーか、あるいは空き巣の類いだろうか。
管理会社に相談したが、鍵や窓にこじ開けられた形跡はなく、防犯カメラにも不審な人物は映っていないという。
取り合ってもらえなかった拓也は、自衛のためにインターネットであるものを購入した。
動体検知機能付きの、小さなネットワークカメラだ。
手元に届いたその日の夜、拓也はそれを本棚の隅、部屋全体とクローゼットが画角に収まる位置に設置した。
スマートフォンに専用のアプリを入れれば、外出先からでもリアルタイムで部屋の様子を確認できるし、何かが動けば自動で録画され、通知が届く仕組みになっている。
これで証拠を掴んで、警察に駆け込もう。そう思っていた。
翌日、拓也はいつも通りに出勤する。オフィスで仕事をしている間も、ポケットの中のスマートフォンが気になって仕方がなかった。幸い、午前中は何の通知も来なかった。
昼休みになり、会社のデスクで弁当を食べ終えた拓也は、何気なくスマートフォンのアプリを開いた。
画面には、誰もいない静まり返った自分の部屋が映し出されている。カーテンの隙間から差し込む昼の光が、畳まれた布団や机を虚しく照らしていた。
「……なんだ、やっぱり気のせいだったのかな」
安堵とも落胆ともつかない息を吐き、画面を閉じようとしたその時だった。
画面の奥、部屋の隅にあるクローゼットの引き戸が、ほんの少しだけ動いたように見えた。
拓也は息を呑み、画面を凝視した。スマートフォンの画面を指でピンチアウトし、クローゼットの周辺を拡大する。
引き戸は、やはり数センチだけ開いていた。その暗い隙間に、拓也の目は釘付けになった。
暗闇の中に、何かがある。
それは、白かった。
球体に近い、人間の頭ほどの大きさのものが、クローゼットの床すれすれの低い位置に転がっているように見えた。
いや、転がっているのではない。それは、じっと静止していた。
拓也がさらに画像を拡大すると、背中の汗が一気に噴き出すのが分かった。
それは、人間の「顔」だった。
ただ、尋常な顔ではなかった。皮膚は死人のように土気色で、髪の毛は一本もなく、完全にハゲ上がっている。
そして何より異常なのは、その配置だった。目と鼻と口が、まるで粘土を乱暴に捏ね繰り回したかのように、中心に向かってぐにゃりと歪んで配置されていた。
その歪んだ顔にある、異様に巨大な二つの眼球が、クローゼットの隙間からじっと、カメラのレンズを見つめている。
拓也は悲鳴を上げそうになるのを、必死で手で押さえた。
心臓が警鐘のように激しく脈打つ。頭の中が真っ白になり、指先がガタガタと震えた。
スマホの画面の中の「それ」は、微動だにしない。ただ、見つめている。
カメラの向こうにいる拓也の存在を、完全に知っているかのような、深く、底知れない悪意に満ちた視線だった。
「帰らなきゃ……」
拓也は上司に「急に体調が悪くなった」と嘘を告げ、半ば飛び出すように会社を後にした。
電車に飛び乗り、スマートフォンを何度も確認する。画面の中の怪物は、相変わらずクローゼットの隙間からカメラを睨み続けていた。
動体検知の通知が来なかったのは、その怪物が「全く動いていない」からだ。ただそこに存在し、凝視している。その事実が、たまらなく恐ろしかった。
最寄り駅に着き、拓也は全力で走った。
九月のじっとりとした湿気を含んだ風が顔を叩くが、暑さなど微塵も感じない。
全身を支配しているのは、凍りつくような恐怖だけだった。
マンションの階段を駆け上がり、自分の部屋の前に立つ。
ドアノブに手をかけた瞬間、強烈な躊躇いが襲ってきた。このドアを開けたら、あの歪んだ顔の怪物が、本当に室内にいるのだ。
しかし、このまま放置するわけにはいかない。
拓也は震える手で鍵を差し込み、一気にドアを開け放った。
「誰かいるのか!」
大声を張り上げながら、拓也は狭い玄関を通り抜け、一部屋きりの居室へと踏み込んだ。
部屋の中は、静まり返っていた。カーテンの隙間から西日が差し込み、埃が光の粒となって宙を舞っている。
拓也はすぐに本棚の上のカメラを見た。レンズはしっかりとクローゼットの方を向いている。
そして、ゆっくりと視線をクローゼットへと移した。
引き戸は、閉まっていた。
一歩、また一歩と近づき、クローゼットの戸を勢いよく開ける。
中には、ハンガーに掛けられたスーツや、いくつかの衣装ケースがあるだけだった。奥の暗闇にも、誰も隠れていない。
ベッドの下も、キッチンの陰も、トイレも、風呂場も、すべて確認したが、誰もいなかった。
「……いない?」
拓也はへなへなとその場にへたり込んだ。全身からどっと冷や汗が流れ落ちる。
やはり、仕事のストレスで見間違いをしたのだろうか。あの不気味な顔は、クローゼットの中の荷物の影か何かが、スマートフォンの画質の粗さによって顔のように見えただけではないのか。シミュラクラ現象というやつだ。
そう自分に言い聞かせ、無理やり笑おうとした。
拓也はポケットからスマートフォンを取り出し、確認のために再びアプリを起動した。
自分が今いる部屋の映像が、画面に映し出される。
画面の中の部屋は、カメラの視点から捉えられている。
床に座り込んでスマートフォンを眺めている自分の後ろ姿が、そこにはっきりと映っていた。
「あぁ、やっぱり誰もいないじゃないか……」
安堵の言葉を漏らそうとした拓也の視線が、画面の一角で凍りついた。
画面の中の部屋。
座り込んでいる拓也のすぐ後ろにあるクローゼットの引き戸が、ゆっくりと、音もなく開き始めていた。
「え……?」
拓也は現実の首を動かし、後ろを振り返った。
クローゼットの戸は、きっちりと閉まっている。
何も起きていない。
しかし、スマートフォンの画面の中では違った。
引き戸は完全に開き、あの、髪の毛のない、顔のパーツが中心に歪んで集まった土気色の怪物が、ずるりと這い出てきている。
怪物は長い、骨と皮だけの細い手足を不自然な方向に折り曲げながら、蜘蛛のような動きで、床に座る拓也の後ろ姿へと近づいていく。
現実の部屋には、誰もいない。音もしない。
だが、手の中の画面では、怪物が拓也のすぐ背後にまで迫っている。
これは過去の録画映像ではない。画面の右上には「LIVE」と赤く点滅している。紛れもない、今この瞬間のリアルタイムの映像だった。
(後ろを見ちゃダメだ)
本能がそう叫んでいた。振り返っても、現実の視界には何も映らないだろう。しかし、画面の中では、怪物の長い指が、自分の肩に触れようとしている。
拓也の身体は恐怖のあまり完全に硬直した。指一本動かすことができない。エアコンの冷気が、じっとりと濡れた背中を冷やしていくが、心臓は狂ったように熱く脈打っている。
スマートフォンの画面の中で、怪物は拓也の背中にぴたりと張り付いた。
そして、その歪んだ顔を、拓也の右肩越しにぐいと突き出した。
怪物の巨大な眼球が、画面の中で拓也の顔をじっと見つめる。
そのとき。
現実の拓也の右肩に、じわりと、氷のように冷たい、湿った「重み」が落ちてきた。
部屋の空気は変わらないはずなのに、右の耳元だけが、異常に冷たい。
現実には誰も見えない。しかし、確かに「そこにいる」という確信が、肌を通じて伝わってくる。
画面の中の怪物は、ゆっくりと口を開いた。その口の中には、ぎっしりと、人間のものとは思えない細かく鋭い歯が並んでいる。
怪物は画面越しに拓也の目を真っ直ぐに見つめながら、その裂けた口を、拓也の耳元へと近づけていった。
現実の拓也の耳元で、カサリ、と乾いた肉が擦れるような音がした。
そして、じっとりと湿った冷たい息が、拓也の鼓膜を直接揺らした。
「みーつけた」
それは、聞き覚えのある、しかし酷く歪んだ、拓也自身の声だった。
恐怖が頂点に達し、拓也の視界が暗転しかけたその瞬間、スマートフォンの画面が突然、激しい砂嵐に覆われた。チチチ、という電子音と共に接続が切れ、画面は真っ黒な沈黙へと戻った。
静寂が部屋を包む。
肩の重みは、消えていた。耳元の冷たい息も、もう感じない。
拓也は激しく荒い呼吸を繰り返しながら、這うようにして部屋の隅へ移動し、壁に背中をぴったりと押し付けた。これでもう、後ろから襲われることはない。
拓也は震える手で、暗転したスマートフォンの画面を見た。
電源が落ちたわけではなかった。ただアプリが落ちただけのようだ。画面の黒いガラスには、自分の怯えきった顔が鏡のように映り込んでいる。
拓也は、ふと気づいた。
スマートフォンの画面に映る、自分の顔。
その顔の背後、つまり、自分が今背中をぴったりと押し付けているはずの「壁」の中から。
髪の毛のない、歪んだ二つの眼球が、壁を透過するようにして、じっと自分を見つめ返していることに……。
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