コメディ・日常
ハミングが聞こえる
2,858文字
約6分で読了
その音を最初に耳にしたのは、三月になったばかりの、雨の降る夜だった。
築三十年を超える木造アパート「木漏れ日荘」の二〇二号室。僕の城であり、同時に檻でもあるその部屋は、深夜になるとあらゆる音を吸い込み、代わりに「静寂」という名の耳鳴りを吐き出す。
フリーランスのライターをしている僕は、毎日言葉の死体遺棄現場をひたすら彷徨っている。今日も仕事を終え、冷めたインスタントコーヒーを口に含んだ。その時――。
――ふふん、ふふ、ふーん。
鼻歌だった。低く、静かな旋律が、薄い壁の向こう側から染み出してきた。隣の二〇三号室だ。
二〇三号室には先週、新しい住人が越してきた。挨拶はされていない。僕もする気はなかった。都会の、それもこんな安アパートでの近所付き合いは、開けてはいけないパンドラの箱のようなものだ。
そのハミングは妙に耳に残った。曲名は分からない。クラシックのようでもあり、古い歌謡曲のようでもある。ただ、歌い手の機嫌がいいことだけは、壁越しにもありありと伝わってきた。
僕は耳を澄ませた。
――ふふん、ふふ、ふーん。
その音は、窓を叩く雨の音と、部屋の隅にある古びた空気清浄機の低周波音と共に、奇妙な不協和音を奏でていた。
「呑気なもんだな」
独り言をこぼし、僕はパソコンを閉じた。明日もまた、抜け殻のような文字と、誤字脱字の海に溺れる一日が待っている。
それからというもの、夜のハミングは僕の生活の一部になった。夜の十時。あるいは深夜の一時。僕がノートパソコンに向かっていると、決まって壁の向こうから「それ」はやってくる。
ハミングの主は、おそらく女性だ。声の質感にどこか柔らかさがある。彼女がハミングを始めると、僕の殺風景な部屋に、目に見えない色が薄く塗られていくような感覚があった。
面白いことに、ハミングにはバリエーションがあった。
月曜日は、どこか決意を秘めたような力強い旋律。
水曜日は、疲れを癒すようなスローテンポ。
金曜日は、弾むようなスタッカートが混じる。
僕はいつしか、壁に耳を寄せるようになっていた。変質者だと思われたらおしまいだが、幸い、このアパートで僕の行動を監視する者などいない。
ある雨の夜、僕は衝動的に、壁を指の背でトントンと二回叩いてみた。
――ハミングが止まった。
心臓が跳ねると同時に、やってしまったと後悔が押し寄せる。苦情だと思われただろうか。壁を叩くなんて、いかにも神経質な隣人の仕業だ。ところが、数秒の沈黙の後、トントン、と壁の向こうから返ってきた。そして、それまでよりも少しだけ大きなボリュームで、同じ旋律が繰り返された。
それは、言葉のない対話だった。僕がキーボードを叩く音と、雨の音、そして彼女のハミングが、木造アパートの脆弱な壁を境界線にして、不思議な調和を保ち始めた。
僕は彼女の正体を想像した。夜中にハミングをするのだから、水商売だろうか。それとも僕と同じような在宅ワーカーか。あるいは、何か大きな哀しみを抱えていて、それを紛らわすために歌っているのかもしれない。
一度だけ、ゴミ出しのタイミングで二〇三号室のドアが開く音がした。僕は慌ててドアの覗き穴にかじりついたが、見えたのはなだらかな曲線を描くベージュのコートの裾だけだった。
季節が三月の終わりへと加速していく。僕の仕事は繁忙期に入っていた。大手出版社からの依頼が重なり、睡眠時間は削られ、胃の辺りには常に重苦しい塊が居座っていた。そんな中、ハミングだけが僕の命綱だった。
「……ふふん、ふふ、ふーん」
しかしその夜、僕は限界だった。クライアントからの理不尽な修正指示、終わりの見えない作業、バチバチと窓を叩く雨。堪らず、僕はデスクに突っ伏した。
壁の向こうからハミングが聞こえる。でも、今日の僕にはそれが、自分を嘲笑っているかのように聞こえてしまった。
僕は無意識に、喉の奥から声を絞り出していた。
「うるさいな……」
その瞬間、ハミングがぴたりと止まった。 僕はハッとして顔を上げる。
――まさか……。
いや、あんな独り言、壁の向こうに聞こえるはずかせない。だが、ハミングの続きはもう聞こえてこない。ただ、耳障りな雨の音だけが、やたらと大きく部屋の中に響いていた。
翌日も、その翌日も、二〇三号室は沈黙を守った。僕は自分が犯した心の加害に怯えた。
――ただの偶然だ。
必死でそう思い込もうとした。僕の声が届いたわけではない。彼女が飽きたのか、風邪でも引いたのか。あるいは、僕の気配に嫌気がさしたのか。とにかく、偶然だと。
一週間が過ぎた。
僕の部屋は、再び「静寂」という名の耳鳴りに占拠された。仕事は捗らず、部屋は荒れ、僕は自分がどれほどあの曖昧な旋律に依存していたかを痛感した。
四月一日。外は小雨が降っていた。僕はコンビニへ夕食を買いに行こうと部屋を出た。隣の二〇三号室の前を通ると、ドアには「入居者募集中」の札が下がっていた。
足が止まった。昨日まで、あんな札はなかったはずだ。僕は階段を駆け下り、一階に住む大家さんに声をかけた。
「ああ、二〇三号室の娘さんかい? 今朝、急に引っ越していったよ。なんでも、実家の方に戻らなきゃいけなくなったとかでね。礼儀正しい、いい子だったんだけどねぇ」
大家さんの言葉が、雨音に混じって遠くの方で響いた。
――彼女はもういない。
僕が壁を叩いた夜も、僕が「うるさい」と毒づいた夜も、彼女はただ、自分の人生の旋律を奏でていただけだったのだ。
部屋に戻り、僕はいつものようにデスクに座った。壁の向こうは、もう完全な「空洞」だ。誰もいない。ハミングもない。
僕はパソコンを立ち上げようとして手を止めた。
――静かすぎる。
この空白のような静けさに耐えきれず、僕は深く息を吸った。そして、おそるおそる喉を鳴らした。
「……ふふん、ふふ、ふーん」
下手くそな、震えるハミングだった。
彼女がいつも歌っていた、あの正体不明のメロディ。一文字ずつ、記憶を辿るように声を出す。
壁を叩く音は返ってこない。でも、僕の出した声は壁にぶつかり、自分自身へと跳ね返ってきた。
その時、気づいた。ハミングは誰かに聞かせるためのものではない。自分がここにいることを自分自身に確かめさせるための、もっともささやかな儀式だったのだ。もしあの時、僕が「うるさい」という言葉を飲み込んでいたら、彼女は今夜も口ずさんでいただろうか。隣人でいてくれただろうか。
僕はハミングを続けた。
窓の外では、三月の終わりを告げる雨が桜の蕾を濡らしている。僕のハミングは少しずつ熱を帯び、部屋の隅々に溜まった淀んだ空気を震わせていく。
――ふふん、ふふ、ふーん。
不思議だ。自分が歌っているはずなのに、僕の耳には二人の声が重なっているように聞こえた。薄い壁を越えて、過去と現在が、孤独と孤独が、一瞬だけ同じ旋律を共有する。
――ハミングが聞こえる。
それは、僕の声で、彼女の声で、この街で息を切らして生きる、名もなき誰かの鼓動だった。
僕はキーボードに指を置いた。今夜の仕事は、いつもより少しだけ早く終わりそうな気がした。
(了)
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