コメディ・日常
574文字 約2分で読了

早春の食卓

 空の色が変わってきたような気がする。 家事を一段落した私は娘を連れて散歩に出かけた。 穏やかな風を感じながら少しずつ季節が春に近づいていくのを感じる。 神社の前を通りかかると甘い匂いがした。 「ママ、いい匂い」 見上げると小さな白い梅の花が咲いている。 春の訪れがほんの少しずつやってきたのだ。 「いい匂いだね」 そう言うと私は神社に一礼し手を合わせた。 鳥居をくぐることなくそのまま神社の前の道を歩いて行く。 ホー、ホッケキョーとウグイスが私たちを見送ってくれる。  田んぼのあぜ道を歩いて行く。 「ママ見て見てつくし」 娘が嬉しそうにそう言った。 「本当だ。つくし摘みしようか」 そう言うと娘がパッと嬉しそうな表情を浮かべる。 「私、いっぱい取る!」 娘はニコニコ笑いながら夢中でつくしを摘み始める。 ふと見ると、小さなふきのとうも顔を出している。 そうだ、これも摘んで帰ろう。  家に帰れば娘と一緒につくしの袴取り。 そういえば子供の頃つくしをいっぱい持って帰って、母と一緒に袴取りをしたな。 懐かしい子供の頃の思い出。 私が料理をするのを娘は興味津々で覗き込んでいる。 食卓に並ぶつくしの卵とじと、ふきのとうの天ぷら。 春に彩られた食卓はいつもよりほんの少し楽しい。 「ママ、つくしちょっと苦いね!」 つくしの卵とじを口に頬張りながら、それでもご機嫌のニコニコ笑顔の娘。  春の訪れを心からかみしめた。
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作者:しとえ
2026/10/14 • 👁 47回 • 💬 0件
児童文学
853文字 約2分で読了

嵐の夜の演奏会

 雨風が強い晩でした。 暖炉の火のそばで温まっているとふと扉を叩く音。 コンコン! 誰かが訪ねてきます。 扉を開けると小さな男の子が立っているではありませんか、土でドロドロの足。 「どうしたの坊や?」 「あのねボク空の上から落ちちゃったの」 しょぼんとしている男の子の頭には小さな角。 迷子になった雷の坊やです。 外では雷が響きます。 「坊や!坊や!どこに行った!」 雷のお父さんが探しているのでしょう、外は嵐。 川の水はあっという間に増えて行きます。 「お父さん探してるね」 「どうしよう。ボクがここにいるってどうしたらわかるかな」 「うーん」 私はしばらく考えました。 「雷の音に負けないように大きな声でボクはここだよって言ったら聞こえるかな」 男の子はそう言いました。 「そうだね聞こえるかもしれないね!」 私はもともとミュージシャンでした。 家には楽器や機材、マイクだってあります。 坊やを連れて楽器の部屋へ。 「わーすごい!」 ドラムのセットを見て男の子は大興奮! 「お父さんのみたい!」 「お父さんもこんな感じのドラムを叩いているの?」 「うん、お父さんは雷さまだからすごくタイコが上手いんだ!」 「じゃあこれを叩いてマイクで空に向かって叫んだら お父さんに届くんじゃないかな」 「叩いていいの⁉」 男の子は大喜びでドラムの前に座りました。 夜の演奏会の始まりです。 窓のそばにスピーカー、音を大きくして空にまで届け。 男の子は太鼓を叩きマイクで大きな声で歌い、私はシンセサイザーを弾きました。 大音量が響きます。 その音を聞いた雷さま。 「息子の声がするぞ!上手に叩いているじゃないか!」 慌てて空から降りてきました。 「坊や!」 「あのねお父さん、お姉ちゃんと太鼓を叩いてお父さんに聞こえるように一緒に演奏したんだ」 そう嬉しそうに話す坊や。 「お世話になりました」 そう言って深々と頭を下げる雷さま。 後には晴れ渡った朝の空と虹。 こうして2人は帰って行ったわけですけど、雨の日時々空を見上げては、坊やと雷さまが一緒に演奏しているのかもしれないなと思って私はにっこり微笑みました。
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作者:しとえ
2026/10/14 • 👁 39回 • 💬 0件
コメディ・日常
372文字 約1分で読了

夢の業務システム

「かれこれ、我々の部署の業務システムも開発してから30年か」 「部長が若手の時に作ったと聞きました、一からプログラム書き上げて神がかりなコードを書いたと伝説ですよ」 「A課長、それは言い過ぎだよ、 あの頃は徹夜で対処したなあ、その頃から比べて、随分複雑になったものだ。」 「様々な変更がある度に騙し騙し機能を追加しながら延命しましたからね、ここら辺で刷新してもいいかもしれないですね。」 「今度はベンダーに開発を頼む、パッケージシステムにしてはどうだろうか?これで保守要員が大幅に削減するし、カスタマイズも専門家がやってくれる。」 「いいですね!部長、早速ベンダーにアポイント取ります」 こうして夢の業務システムは導入された。 部員たちは喜んだ。 もうシステムに合わせて働く必要はない。 今では毎朝 「この仕事はシステムでどう実現するか」 を考える会議が開かれている。
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作者:Mワークらぼ
2026/10/14 • 👁 29回 • 💬 0件
恋愛
686文字 約2分で読了

ナガミヒナゲシ

彼女はまた下校中に足を止め、その花をスマホカメラに収める。 ナガミヒナゲシの淡い赤色の花を。 「何度も言ってるけどその花、害がある外来種なんだよ?」 「うん、聞いた聞いた」 「じゃあ具体的には?」 「うん、聞いた聞いた」 ――こいつ。 「アレロパシーって言って、周りの花とかが育ちにくくなるの。」 「自分勝手な人みたいだねー」 「……あと茎とか葉から出る乳液は、かぶれる程度の毒あるから触らないでね」 「かぶれる程度、ね」 「そんな花を見かけるたび、撮って何が楽しいの?」 彼女は私の言葉に、ようやくスマホから目を離した。 そして、どんどん近づいてくる。 いや、ちょっと近すぎな――。 「ッ……!」 彼女の柔らかな唇が、私の頬に触れた。 「な、何なの?」 「前、いきなり唇にしたら怒ったから」 またスマホに目を戻す彼女。 「そういう問題じゃないって」 「好きな花なんて、人それぞれじゃん。 そりゃ迷惑な人もいるだろうけどね。」 「……」 「恋人と同じ名前の花、嫌いになる方がおかしくない? 『永見 雛芥子(ナガミ ヒナゲシ)』さん」 「はあ、もう好きにしたら……」 「はーい、好きにしまーす」 私は無知な人が嫌い。 両親は「可愛い」からと、何も知らずに私の名前をつけた。 私は自分が嫌い。 人と関わるのが怖くて、毒のある言葉を吐いて遠ざける私が。 そして、それを全部知ってて愛してくれるこいつが―― ――大っ嫌い。 ああ、顔が火照って熱い。 「ねえ、もう終わった?」 「うん!早く帰ろ」 「はい、はい」 あなたは振り向かず私の前を歩く。 呆れる声と裏腹に、 愛する人のキスで、少しだけスキップしてしまったことだけは。 ……どうか、あなたに知られませんように。
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2026/10/14 • 👁 23回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
276文字 約1分で読了

影法師

 夜になってあたりが真っ暗になってしまったので影法師はそっと眠っている宿主から離れました。  どうせ夜なんだから鍵がなくても困らないだろう。 影法師はこっそりと闇に紛れて街をうろつ行きます。 塀の上の野良猫に挨拶し、可愛いあの子の影とダンスパーティー。  踊り疲れて家に帰ってきて、また宿主にくっついて熟睡しました。 朝になって宿主が目を覚ましたけれど影法師は寝たまま。 疲れちゃったのだから仕方がないのかもしれません。  だから宿主が可愛いあの子のところに行ったのに、彼女の影に気づかずに熟睡しておりましたとさ。  おかげで後日、夜にあった時に彼女の影に振られてしまいました。
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作者:しとえ
2026/10/14 • 👁 46回 • 💬 0件
コメディ・日常
932文字 約2分で読了

赤い印の贈りもの

雪森町の無人駅を降りると、理沙のブーツは新雪に沈んだ。雪道を二十分ほど歩くと、りんご畑の向こうに選果場が見えてきた。軒下には、使い込まれた木箱が積まれている。 贈答用りんごのパッケージ刷新の取材で訪れた理沙は、古い箱の側面に残る赤い印に目を留めた。丸の中に、小さな山が二つ並んでいる。 「この印は何ですか?」 農園主の源一は、杉板を指で叩いた。 「昔から使ってる印だよ。形の悪いりんごや傷のついた実を集めて、町の学校や一人暮らしの年寄りに配るんだ。売り物にならなくても、味はいいからな」 「今も続いているんですね」 「ああ。待ってる人がいるうちは、やめるわけにもいかねえしな」 そこへ、孫の小春がスケッチブックを抱えてやってきた。 「おじいちゃん、この印、描き直してもいい? 集会所に持っていく箱だけでも、きれいにしたいんだ」 小春のノートには、昔の印を写した絵が並んでいた。源一は箱の傷みを確かめ、刷毛と赤い塗料を持ってきた。 理沙はその様子を見て、ノートを閉じた。 「私にも手伝わせてもらえませんか。デザインの仕事をしているので、印の描き直しならお役に立てると思います」 小春は嬉しそうに見本を差し出した。理沙は木箱に残る線を確かめ、剝げた部分だけを補うことにした。 ところが、木目に筆先を取られ、描いた円が少し歪んでしまった。 「失敗しちゃいましたね」 「いいよ。この箱に合ってるもん」 源一も覗き込んだ。 「どれが高瀬さんの描いた箱か、すぐわかるな。それも目印になるよ」 翌朝、木箱には小ぶりなりんごが詰められた。理沙も一箱を抱え、小春と源一とともに集会所へ向かった。 箱を開けると、お年寄りたちが顔をほころばせた。女性の一人がりんごを頬に寄せる。 「いい匂い……。この匂い、春まで取っておきたいねえ」 帰り道、小春が尋ねた。 「高瀬さんは、何を描くときが一番好きなの?」 理沙は、木箱の赤い印と、りんごを大切そうに持つ女性の姿を思い浮かべた。 「使い終わったあとも、捨てずに手元に残したくなるようなもの、かな」 午後、駅へ向かうバスの中で、理沙は源一からもらったりんごを手に取った。皮には小さな傷がある。それでも、窓から差す冬の光を受けて、赤く艶めいていた。 理沙はりんごを、コートのポケットにそっと戻した。
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作者:TakaTuki
2026/10/14 • 👁 40回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
1323文字 約3分で読了

人間を作る

 神様は、とても退屈していた。  世界はもう、だいたい完成していた。  空も海も山も、作り終えた。  やることがない。  神様は長いこと椅子に座っていた。 「……暇だな」  あくびをして、机の上を見る。  そこには、土のようなものが山になって置かれていた。 「これで何か作るか」  神様は土を手に取った。  こねて、丸めて、伸ばす。  頭と胴体をつくる。  腕と脚をつける。  最後に顔を彫り込んだ。 「人間……とか?」  思いつきで作ったにしては、それらしい。  神様は少し嬉しくなった。 「せっかくだし、もうちょっと面白くしよう」  パチンと指を鳴らす。  人間の横に、いくつもの数字が浮かんだ。  心の清らかさ。  ずる賢さ。  表現力。  好奇心。  愛情。  神様は楽しそうに数字を眺めた。 「心の清らかさ……25」  数字を変える。 「ずる賢さ……5」 「それから、魅力は高めで……と、よし」  最後に、胸の奥へ小さな光を入れる。  人間が目を開けた。  神様は思わず身を乗り出した。  人間は、不思議そうに周囲を見回している。 「いいね」  神様は満足すると、その人間を地上へ送った。人間は、何も知らないまま街へ降りていった。  自分がいつ生まれたのかも知らない。  誰につくられたのかも知らない。  ただ、人間として生き始めた。  神様は、それを眺めていた。  しばらくすると、人間は誰かと出会った。  友達になり、やがて恋をした。  その相手も人間を好きになり、二人は結婚した。 「ふふ」  神様は嬉しそうに笑った。 「いいじゃないか」  そして、また人間をつくった。 「こいつは、ずる賢さを少し下げて……」 「こいつは、愛情を高めたら面白そうだ」  人間をつくり、地上へ送る。  それを延々と繰り返す。  それが、神様の新しい遊びになった。  たくさんの魅力的な人間が送り込まれていく。 「人間って、面白いなあ」  神様は毎日、地上を眺めていた。  そんなある日。  ふと、気づいた。 「……あれ?」  子供が、いない。  神様は首をかしげた。  別の街を見る。  やはりいない。 「……なんでだ?」  そして、ある夫婦を見つけた。  二人は仲がよかった。  けれど、子供はいない。  別の夫婦を見る。  そこにもいない。  また別の夫婦。  やっぱりいない。  神様は、そこで初めて気づいた。 「あ、……そういえば」  神様は、人間を作るときの記録を確認した。  そこには一つ、空欄があった。 『繁殖力』  神様は、その文字を見つめた。  そして、ぽん、と手を叩いた。  思い出した。 「これ、設定するの忘れてた」  もう遅かった。  地上にいる人間は、すべて神様が作った人間だった。  神様は、何も言わずに地上を見つめた。  一人。  また一人。  人間が死んでいく。  新しい人間は、生まれない。  街から、国から人が消える。  やがて。  最後の一人が死んだ。  神様は、それを黙って見ていた。 「……終わったな」  神様は椅子から立ち上がった。  机の前に戻り、土のようなものを、二つ取り出す。  こねる。  神様は、いつものように数字を表示する。 「繁殖力……」  神様は、しっかりと数字を確認した。 「よし」  二人の胸に、小さな光を入れる。  男が目を開けた。  女も目を開けた。  神様は、二人を地上へ送る。  誰もいなくなった世界へ。  そして、送り出す直前。  ふと思いついたように、二人に名前をつけた。 「アダムくん、イブちゃん」  二人は振り返る。  神様は笑った。 「いってらっしゃい」
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作者:文系の人
2026/10/14 • 👁 26回 • 💬 0件
SF・ファンタジー
793文字 約2分で読了

人生は蚊取り線香に劣るのか

蚊取り線香は 人生とよく似ている 灯火を産声として ぐるぐると回りながら ゆっくりと 最後には燃え尽き その生を全うす 燃え尽きた後は 何も残らない点においては 尚の事 人生とそっくりだが 強いて述べるなら 人間は燃え尽きても 尚 志は受け継がれる (事もある) 物質的な意味においては 最後は無に帰すのが美しく 本来 あるべく姿と考える 故に 蚊取り線香は 人生よりも優れた存在だと言える 人間は無に帰すには時間が掛かり 何より人の手が必要だ 故に劣っている ならば人生は 蚊取り線香以下の儚くも醜きものなのか 案ずる事はない 蚊取り線香は 火を点けた瞬間から ただただ終息へと向かい そして最後には燃え尽きる 始めから終わりへと向かい 歩き 副次的に 蚊を取りはするが (本来の役目ではあるが) 蚊取り線香本人にとっては 実はそんな事は どうでもいいと思っている 見据えた物事に対して一直線 というのは 武士のごとく潔くも感じるが 実のところ そうでもない (回りくねってもいるし) 何せ 何も生み出さない 奴らは一切の他人の意見も受け入れずに ただひたすら 己の成すべき事に向かってひた走る事しか出来ない 愚かで罪な存在なのである それに対して 人間はどうだ 人生はどうだ 人と人 手を取り 支え合い 譲り合い 協調し 時に反発し合い そして深く深く理解し合う なんと美しい事か 蚊取り線香には到底 成し得ない芸当である 尊ぶは人情であり 人の和であると捉えると 驚くなかれ なんと人生は蚊取り線香をも超える存在なのである そうして なんだか 蚊取り線香を憐れに思えてきた私は 外から内に向かって燃え尽きる点を不憫に感じ ついには 『内から火を点けてみる』 という暴挙に出るのであった こうして 過ぎし夏を懐かしみ そして 移りゆく秋を迎え入れるのでした (ほら 来年になると湿気っちゃうし… それは蚊取り線香にとっての死 どうせ死を迎えるのであれば せめて燃やし尽くしてやろうと思うのは 蚊取り線香に対する せめてもの餞であり 手向けであると私は考える)
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作者:lue
2026/10/13 • 👁 52回 • 💬 0件
その他
4433文字 約9分で読了

潮が引くのを待つあいだ

 その町は、一日のうち数時間だけ、海と地続きになる。  かつては炭鉱で栄えたというが、今は錆びついた鉄骨の残骸と、潮風に削られて角の丸くなったコンクリートの塊が散らばるだけの、ただの行き止まりの土地だった。  若い人々はとうに移住し、残されたのは、自分がいつからここにいるのかさえ忘れてしまったような老人たちと、いくつかの空き家、そして数軒の潰れかけた店だけである。  シンジがその町にやってきたのは、十月の初め、よく晴れた、しかしどこか冷え冷えとした日の午後だった。  駅とは名ばかりの、一本のレールと古びた上屋があるだけの停留所で降りたのは、シンジ一人だった。  彼の手には、小さな古いアタッシュケースが一つだけ握られていた。  中身は空だった。重さを持たない鞄は、風が吹くたびにシンジの膝を軽く叩いた。  シンジは宛てもなく歩き、やがて波打ち際に面した「水底亭」という看板のある、小さな食堂兼民宿のような建物の暖簾をくぐった。  店内には、潮の匂いと、大根を醤油で煮詰めたような、低く沈んだ匂いが充満していた。奥の帳場に、白髪をきっちりと三つ編みに結った老女が座っていた。彼女はシンジを見ると、驚く風でもなく、ただ小さく頷いた。 「泊まりかね」 「ええ。何日になるかは、まだ分かりませんが」 「いいよ。どうせ部屋はいくらでも空いている。ただね、ここは夜になると電気が消えるよ。町全体の発電機が、もうだいぶ弱っているからね」  老女は「キヨ」と名乗った。彼女が案内してくれた二階の部屋は、窓を開けるとすぐ下に海が迫っていた。満潮に近いのか、波頭が不規則に崩れる音が、床板を通じて足の裏にまで伝わってくるようだった。  シンジが部屋の唯一の家具である文机の前に座ると、キヨは言った。 「何か、書きに来たのかい」 「いいえ。何も」  シンジは答えた。 「むしろ、なくしに来たんです」  キヨはそれ以上何も聞かず、襖を閉めて去っていった。  シンジがここに来た理由は、極めて曖昧だった。東京での生活は、まるで目の粗い紙で皮膚をこすられ続けるような、微小で持続的な痛みに満ちていた。  何が原因というわけではなかった。仕事も、恋人も、友人関係も、すべてが少しずつ、しかし決定的に「どうでもいいこと」に変質してしまっていた。  ある朝、目覚めると、自分の名前の発音が思い出せなくなった。喉の奥でつっかえるその奇妙な音節に耐えかねて、彼は適当な列車に乗り、レールの終着点を目指した。それがこの町だった。  夕方、シンジは海岸へ降りた。  潮は引き始めていた。水が退いていくにつれて、灰色の砂の下から、無数の黒い物体が姿を現した。  それは、かつて人間が使っていた道具の残骸だった。ねじ曲がったスプーン、ガラスの割れた腕時計、あるいは何の機械か分からない歯車。  それらはすべて、海洋生物の死骸やフジツボに覆われ、もはや元の役目を完全に喪失していた。  砂浜の端に、一人の男が立っていた。男はしゃがみ込み、引き抜かれたばかりの海草のように濡れた衣服を身にまとって、砂を掘り返していた。 「何か探しているんですか」  シンジが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。年齢はシンジと同じくらいに見えたが、その瞳には陽光を全く反射しない、深い濁りがあった。 「探しているんじゃない」  男は掠れた声で言った。 「埋めているんだよ」 「何を?」 「言葉さ」  男は、手のひらに載せた小さな石ころをシンジに見せた。それはただの石ではなく、表面に鋭利な刃物で『昨日』と刻まれていた。 「ここに埋めるとね、次の満潮のときに、海が綺麗に洗っていってくれるんだ。そうすると、頭の中が少しだけ軽くなる」  男はそう言うと、手際よく砂に深い穴を掘り、その石を落として丁寧に砂を被せた。そして、自分の名前は「オサム」だと名乗った。 「君も、何か埋めたいものがあるんだろう。だからこんな、陸の壊死したような場所へ来た」  オサムの言葉は、非難するでもなく、同情するでもなく、ただ事実としてシンジの胸に落ちた。 「僕には、埋めるべき言葉さえ残っていない気がします」 「それはいいことだ」  オサムは立ち上がり、ズボンの砂を払った。 「本当に空っぽになれたなら、あとはここで潮が引くのを待つだけでいい」  その夜、キヨの予告通り、夜の九時を迎えると同時に、町全体の明かりが一斉に消えた。  部屋は完全な闇に包まれた。シンジはベッドに横たわり、目を開けたままでいた。  視覚が奪われると、聴覚が異常なほどに研ぎ澄まされた。窓の外で、波が寄せては返す。その音は、巨大な生き物が規則正しく呼吸しているようでもあり、あるいは、世界そのものがゆっくりと咀嚼されている音のようでもあった。  シンジは自分の胸に手を当てた。心臓は動いている。しかし、その鼓動が誰のためのものなのか、確信が持てなかった。  東京に残してきたアパートの鍵、引き出しの中の未払いの請求書、スマートフォンの画面に並ぶ、もう二度と返信することのない名前たち。  それらが、遠い宇宙の出来事のように思えた。  二日目も、三日目も、シンジはただ砂浜を歩いた。  町には時計がなかった。あるのは、潮の満ち引きという、もっと大きな、そして容赦のない時間の区切りだけだった。  オサムは毎日、同じ場所に現れた。彼は日ごとに異なる石を埋めていた。『約束』、『記憶』、『未来』。  彼が埋める言葉は、どれも一般的なものばかりだったが、オサムにとっては命の一部を削り取るような作業であるらしく、石を埋めるたびに、彼の身体は目に見えて薄くなっていくように思えた。 「すべてを埋め尽くしたら、どうするんですか」  ある午後、シンジは尋ねた。  オサムは、遠くの水平線を眺めながら答えた。 「海の向こうに、もう一つの町があるらしい。そこには、言葉を持たない人たちだけが住んでいて、誰も誰かを傷つけないし、誰かを思い出すこともない。潮が完全に引ききった一瞬だけ、そこへ続く道が現れるんだ」 「それは、おとぎ話でしょう」 「かもしれない。でも、信じるほかに、この波の音に耐える方法がないんだよ」  その日の夕方、シンジはキヨの食堂で、干からびた魚の塩焼きを食べた。キヨは古いラジオから流れる、雑音混じりのクラシック音楽に耳を傾けていた。 「キヨさん」  シンジは箸を置いた。 「オサムさんという人に会いました」  キヨはラジオの音量を少し下げ、シンジを見た。その目は、すべてを知り尽くしているかのように静かだった。 「ああ、あの哀れな子ね」 「彼は、海の向こうの町へ行くと言っていました」 「あの海にはね、何も一方向のものなんてないんだよ」  キヨは静かに言った。 「寄せては返す。それだけさ。あの海に何かを捨てたつもりになっても、それはいつか、形を変えて必ず砂浜に打ち上げられる。あの男の子が埋めているのは、自分がかつて海に捨てて、再び戻ってきたものたちさ。彼は同じことを、もう何年も繰り返している」  シンジは息を呑んだ。 「じゃあ、消えることはできないんですか」 「消える、とはどういうことかね」  キヨはシンジの空のアタッシュケースに目をやった。 「器を空にしても、空気は残る。人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ。どれだけ遠くへ逃げたつもりでも、足元には常に、自分の影がへばりついているだろう」  その夜、シンジは激しい嵐の音で目を覚ました。  窓ガラスがガタガタと鳴り、激しい雨が容赦なく叩きつけていた。満潮の時刻のようだった。  海は狂ったように咆哮し、まるですぐ下の道路を飲み込もうとしているかのようだった。  シンジはたまらなくなって、部屋を飛び出した。階段を駆け下り、宿の玄関を出ると、容赦のない雨と潮風が身体を叩いた。  彼は導かれるように砂浜へ向かった。  暗黒の海が、白い泡を立てて迫っていた。その波打ち際に、人影があった。オサムだった。  オサムは、濁流のような波の中に膝まで浸かりながら、必死に地面を掘ろうとしていた。しかし、押し寄せる波が瞬時に砂をさらい、穴を作ることを許さない。 「オサムさん!」  シンジは叫んだが、声は風にかき消された。  オサムは振り返った。その顔は、涙か雨か分からない水滴で濡れそぼっていた。  彼の両手には、大きな、何の文字も刻まれていない真っ黒な岩が握られていた。 「重すぎるんだ!」  オサムが叫んだ。 「これが最後の言葉なのに、重すぎて砂に埋まらないんだ!」 「それは何なんです!」 「僕の名前だ!」  オサムは叫び、その岩を海へ投げ込もうとした。しかし、押し寄せた巨大な高波が、オサムの身体を激しく打ち据えた。オサムの身体は力なく後ろへ倒れ、波の渦の中に巻き込まれていった。 「オサムさん!」  シンジは海へ飛び込もうとした。しかし、その瞬間、彼の脳裏にキヨの言葉が蘇った。 『人間はね、自分が生きてしまったという事実からは、どうやっても逃げられないんだよ』  シンジの足が止まった。波が引き、オサムの姿はどこにもなくなっていた。ただ、彼が持っていたはずの真っ黒な岩だけが、波打ち際にぽつんと残され、引き波に洗われていた。  シンジはよろよろと近づき、その岩を拾い上げた。それは、驚くほど軽かった。まるで軽石のように、中身がすべて空洞であるかのように。  岩の表面には、何も書かれていなかった。しかし、シンジには分かった。それは、オサムのものであり、同時に自分のものでもある、形を失った「生」の質量そのものだった。  翌朝、嵐は嘘のように去り、世界には残酷なほどの青空が広がっていた。  潮は、今までにないほど深く引いていた。普段は見ることのできない、沖合の海底の泥や、貝殻の群生が、天日の下にさらされていた。  オサムの言っていた「もう一つの町へ続く道」は、どこにもなかった。あるのは、ただ乾燥していく、広大な、湿った砂の平原だけだった。  シンジはアタッシュケースを持って、水底亭を出た。キヨは帳場に座ったまま、何も言わずに彼を見送った。ただ、彼の手にあるケースが、昨日までとは違って、かすかに重みを持っていることに気づいているようだった。  シンジは駅へ向かう道すがら、もう一度海岸を見下ろした。  遠くの波打ち際で、小さな光の粒が跳ねていた。それは、海が返し続ける、無数の人間たちの記憶の破片のようだった。  シンジはポケットから、小さな石を取り出した。昨夜、オサムの岩のそばで見つけた、小さな、滑らかな石だ。彼はそれに、宿の文机にあったペンで、自分の本当の名前を書きつけていた。  彼はその石を、砂浜に向けて投げたわけではなかった。ただ、そっとポケットの奥深くへ戻した。  消えることはできない。捨てることもできない。  ならば、この重さを抱えたまま、もう一度、あの目の粗い紙のような世界へ戻るしかない。  停留所に、一両きりの列車が近づいてくる音が聞こえた。  レールの軋む音が、潮騒の中に静かに溶けていった。シンジはケースをしっかりと握り直し、ホームへの階段を上り始めた。  潮は、またすぐに満ちてくるはずだった。
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作者:河内謙吾
2026/10/13 • 👁 37回 • 💬 0件
コメディ・日常
266文字 約1分で読了

愛の足し算

僕には彼女がいる 派手な髪、派手なファッション、健康的に焼けた肌 「イマドキ」とはまるで違う 僕のためっていうのが愛おしい そしてこんなぽんこつな僕を 笑って受け止めてくれる 今日は彼女とデート もうすぐ約束の時間 どこにいるかなー? あ! 派手な髪、派手なファッション、健康的に焼けた肌 「お待たせ!」 久しぶりのデート、気合が入ってる? 「なんか今日はいつもより可愛いね」 なのに君は怪訝な顔で そして、知らない声でつぶやいた 「…え、何? ナンパ~?」 遠くからの、よく知った声 「オイ、またかよ こっちだよ!」 派手な彼女は笑いながら言う 「また目印を足さなきゃな!」
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作者:ごみがき
2026/10/13 • 👁 75回 • 💬 0件