俺が今まで本気で人生を諦めた事がなかったのだと気付いたのは、戦争で片腕を失ってからしばらくしての事だった。
片腕を失う前、俺は「いつどうなってもいい」とか「死ぬのは怖くない」と口先で言いながら泥水をすすってきた。時には幸福の女神に微笑まれ、難を逃れた時に舌打ちをした。
けれど戦いの果てに片腕が吹き飛んで、何週間何カ月ともがき苦しんでみて、分かったんだ。自分が、本気で人生を諦めようとした事は一度だってなかったという事に。
俺はいつだって地べたを這い回り、自分の行く道を探して来た。幸運が訪れるのを心の底で祈ってきた。このくだらない世界で、生きていたかった。
久しぶりに高熱が引いた朝、病室の窓際で白んだ空を見た。俺は何度も、この空を見たいって本当は思っていた。諦めきれなかったんだ。だから、この辛気臭い病室で唇を噛んでいる。
片腕がなくなったこの先も、俺は眩しい世界を掴もうとするだろう。辛く苦しいまま、血反吐と悪態をぶちまけながら、諦めきれずに生命の根を伸ばす。
悔しいけど、それが命を宿したまま震える俺の宿命らしい。
続きを読む
令和になってもド派手成人式がニュースになるくらいだから、昭和時代の北九州のヤンキー文化はコテコテに濃かった。当時はヤンキーというよりもツッパリという言葉を使ったものだが、本当に彼らは突っ張ってたのか?って思う。
同じ福岡県でも博多はミュージシャンなどを輩出する。一方で北九州は、人口比を勘案しても、かなり博多に見劣りする。北九州のヤンキーは、ツッパリの格好をして目立つことがゴールだと思っている節がある。表現活動は目立つことがスタートで、そこから先は中身勝負だと思うのだが……。そういう愚痴を言いたくなるのが北九州のヤンキー・ツッパリ文化かも知れない。
昭和時代、今よりもヤンキー文化が華やかな頃の北九州では、そこそこ成績のいい、真面目な生徒でも、ファッションに興味があると、入学を機に高校デビューすることがある。そして言うのである。
「この髪の色は生まれつきです」
「このチリチリ頭は天然パーマです」
流行を追うだけなら、テクノカットにでもすれば、校則に引っかからないのかも知れない。でもその発想はない。ヤンキーに見えなければファッションが成立しないと信じている。ヤンキーでも聖子ちゃんカットは多かったが、それではヤンキー認定されないから髪色をいじる。
家では親が子に言うのである。
「テストの学年順位が〇〇位以内なら、そういう格好を許す」
県立の中堅普通科高校に入学した藤島隆は、そんな生徒の一人である。髪の毛をチリチリにして入学してきた。ちょっとの間だけサッカー部で頑張ったが、キツくなってやめた。そして、チリチリ頭がそこそこに長くなった段階でリーゼントにした。タレントで言えば、嶋大輔みたいな髪型になった。
藤島は中森明菜ファン。当時のアイドルは髪の毛をカラーリングすることは稀で、明菜も黒髪だったが、アイドルには珍しく不良性で人気の出たアイドル。だから藤島は、高校入学して間もないうちに、髪の毛が赤茶けた女子が気になった。彼にとって、その赤毛女子は「少女A」だった。
女子の名前は松田恵美子。彼女も高校デビュー。タレントの誰かを意識したわけではないが、なぜか髪は赤くした。色白だから、自分には赤が似合うと思ったのかもしれない。普通のヤンキー女子は、金色系の茶髪だから赤系の茶髪は目立った。なお、松田は髪色以外は普通の生徒だった。むしろおとなしめといってよい。
偶然だが、松田は嶋大輔の熱烈なファン。だから、藤島隆と松田恵美子はよく言えば運命の二人、悪く言えば破れ鍋に綴じ蓋……。夏休み前には付き合い始めた。
同級生は二人を見て、あやうさを感じた。あまりにも偶然の趣味の一致。藤島は、松田の中に少女Aを見ている。松田は藤島の中に嶋大輔を見ている。二人ともアイドルの代替と巡り会ったのだ。「こんなの長続きするわけない……」みんな成り行きを見守った。
最初の危機は高3の時、松田が就職活動で黒髪に戻した。でも乗り切った。
次の危機は藤島が大学4年の時、就職活動でリクルートカットにした。当時は就職活動は4年生になってからだった。
「俺も、もう22やけの〜」などと、藤島は照れ臭そうに言い訳した。
この危機も難なく乗り切った。
でも、結婚して3年で離婚した。
離婚届を提出するとき、藤島隆が自虐的な冗談を言って、二人で笑った。久しぶりにお互いに顔を見合わせて笑った。
「そういえば、こんな表情することあったな」
二人ともそう思ったが、そのまま離婚届を提出し、受理された。
続きを読む
メロスは激怒した。必ず、あの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
……のだが、その決意はシラクスに到着してわずか三秒で挫折していた。
「おいメロス! 動くな! 一歩でも動いたらこの街が消し飛ぶ!」
シラクスの城門前。王の軍隊ではなく、災害対策本部のヘルメットをかぶった役人たちが、拡声器を両手に持って必死に叫んでいる。
メロスの両足には、一個の重量が三トンはある特製の超高密度タングステン製の枷がガチガチに嵌められていた。
一歩歩くたびに「ズゥン……!」「ズゥン……!」と地鳴りが響き、アスファルトの地面がクレーターのように凹む。
メロスは、夕日が沈む十倍の速さで走ることができる男だった。
これを現代の物理学で計算すると、おおよそマッハ11(時速約一万三千五百キロ)に達する。
彼が本気で地を蹴れば、周囲の空気は急激に圧縮されて断熱圧縮を起こし、マイナスからプラス数千度の熱風へと変わる。
さらに発生する強烈な衝撃波は、周囲の建物の窓ガラスを粉々に砕き、一般市民を遥か彼方まで吹き飛ばす。
つまり、メロスは歩く「戦略兵器」であった。
「メロスよ、頼むから大人しく捕まってくれ! お前がその辺をジョギングするだけで、シラクス共和国の国家予算が吹き飛ぶんだ!」
「待て! 私は王の残虐非道が許せなくて城に抗議に行きたいだけだ! 通してくれ!」
「通せるか! お前が『ちょっと急ぎ足』になっただけで、城下町が焦土と化すわ!」
結局、メロスは一歩も走ることなく、自重……というか足の枷の重さで動けなくなっているところを、超大型クレーン車で吊り上げられて御用となった。
城の地下深く。核シェルター並みの強度を誇る特殊拘留室で、暴君ディオニス王は防爆ガラスの向こうからメロスを見下ろしていた。
「ふははは、メロスよ。お前の噂はかねがね聞いている。沈む夕日の十倍の速さで走る怪物め。お前のような危険人物を生かしてはおけん。即座に処刑してやる」
「待て、ディオニス王! 私は死を恐れぬ! だが、私には一つだけ心残りがある! 私のたった一人の妹の結婚式が、三日後に控えているのだ!
お願いだ、三日間だけ執行を猶予してくれ! 妹に式を挙げさせてやりたいのだ!」
王は冷酷に笑った。
「身勝手な言い分だな。お前がそのまま逃げ出したらどうする?」
「逃げぬ! 証拠として、私の無二の友であるセリヌンティウスをここに残していく! もし私が三日後の日暮れまでに戻ってこなかったら、あの友を絞め殺すがいい!」
その時、拘留室の隅で「おいちょっと待て」と声が上がった。
そこにいたのは、たまたまシラクスの城に石細工の納品に来ていて巻き込まれた、メロスの親友セリヌンティウス(32歳・一般人)だった。
「メロス、お前何勝手に俺を人質にしてるんだよ!
そもそもお前、ここから実家までどれくらい距離あると思ってんだ!」
「大丈夫だセリヌンティウス! 私の足なら、実家までほんのまばたき程度だ!」
「速度の問題じゃない! お前がここで本気を出したら、その瞬間に衝撃波で俺の肉体が消滅するんだよ!
王様、頼むからこいつを走らせないでくれ! 処刑するなら今すぐここで、静かにギロチンとかでやってくれ!」
しかし、暴君ディオニスは、ひねくれた性格をしていた。
「面白い。その心の美しさとやらを試してやろう。メロスよ、三日間の猶予を与える。だが、一歩でも走ってみろ。その瞬間に、シラクス全土に非常事態宣言を発令し、お前を『人類の敵』として認定するからな」
「約束は守る! 走るなと言われれば、私は絶対に走らん!」
こうして、メロスの奇妙な旅が始まった。
初日。メロスはひたすら歩いた。
両足に三トンずつの枷をはめているため、最高時速は二キロが限界だった。ちょっとでも足の回転を上げようとすると、ズボンの裾が空気抵抗の摩擦で発火する。
二日目。メロスはなんとか実家にたどり着いた。
妹は大喜びし、その夜、盛大な結婚式が執り行われた。メロスは新郎に向かって「妹を幸せにせねば、マッハ11で突撃するからな」と握手を求め、新郎を恐怖のどん底に突き落とした。
そして三日目の朝。
「さあ、シラクスへ戻らねばならぬ。セリヌンティウスが待っている」
メロスは再び歩き始めた。しかし、予定は大幅に遅れていた。何せ歩行速度が遅すぎる。正午を過ぎた頃、メロスの前に、連日の豪雨で氾濫した大川が立ちはだかった。
橋は木っ端微塵に流されている。
「なんということだ……。これでは川を渡れん。いや、泳いで渡るか? いや、私の筋肉量と足の枷の重さでは、水に入った瞬間に一瞬で海底まで沈没する!」
メロスは天を仰いだ。
「神よ、私に走れと言うのですか! しかし、ここで私が一歩でも地を蹴れば、マッハ11の衝撃波でこの川の水はすべて干上がり、下流の村が津波で壊滅します!」
刻一刻と、夕日は沈みかけていく。
シラクスの刑場では、セリヌンティウスがすでに十字架に張り付けられていた。
「おい、メロスが来ないぞ! 早く吊るせ!」
と、観衆が騒ぎ立てる。
セリヌンティウスは青ざめた顔で祈っていた。
(メロス、頼むから来るな……! 来るということは、お前が走ったということだ。お前がここへ到着した瞬間、その制動距離の摩擦熱でシラクス市街地は半径五キロが消し炭になるんだ……! 来るな、頼むからそのまま実家で新生活を始めてくれ……!)
その頃、メロスは極限の選択を迫られていた。
「走るべきか、走らざるべきか……。いや、友の命には代えられぬ!
……セリヌンティウス、許せ! 私は走る!」
メロスは、両足の枷を固定していたボルトを、力任せに引きちぎった。
解き放たれる、マッハ11の肉体。
「うおおおおおーーーっ!!」
メロスが最初の一歩を踏み出した瞬間。
──ドゴォォォン!!
大気を切り裂く爆音が響き渡り、メロスがいた場所の地面が直径五十メートルの大穴となって爆発した。
周辺の木々は一瞬で衝撃波によりなぎ倒され、川の水はソニックブームによって左右に大きく割れたモーセの十戒のようであった。
メロスは走った。沈みゆく夕日の十倍の速さで。
彼の視界では、景色が完全に静止していた。ただ、自分の身体の周りで、空気が摩擦によって真っ赤に燃え盛っている。
「熱い! 衣服が蒸発していく! だが私は止まらん!」
シラクスの町。
「あ、あれを見ろ! 西の空から、何か恐ろしい流星が降ってくるぞ!」
群衆が指差した先には、文字通り「火の玉」となったメロスが、凄まじい大音響を引き連れて突進してくる姿があった。
「ひえええ! 窓ガラスが全部割れた!」
「看板が飛んでいくー!」
シラクスの町は大パニックである。台風と大地震が同時に来たかのような大災害が、メロスの接近とともに街を襲う。
「セリヌンティウスーーー!!」
マッハ11で叫んだメロスの声は、もはや音声ではなく、ただの「指向性音響兵器」だった。刑場のすべての障子や器が粉々に砕け散る。
「来るなァァァーーー!!」
セリヌンティウスが絶叫したその刹那。
ズサァァァァァァァッ!!
メロスは刑場の真ん中で、全力のブレーキングをかけた。
地面との摩擦で凄まじい火花と黒煙が上がり、刑場全体の温度が急激に四十度ほど上昇した。
熱風が吹き荒れ、群衆は全員、ドミノ倒しのように後ろへ吹き飛ばされた。
煙がゆっくりと晴れていく。
そこには、摩擦で衣服がすべて燃え尽き、完全に全裸の状態で、肌が摩擦熱でこんがりと小麦色に焼けたメロスが、堂々と立っていた。
「ハァ、ハァ……。セリヌンティウス、待たせたな。約束通り、私は戻ったぞ」
十字架に磔られたセリヌンティウスは、衝撃波で鼓膜がキーンと鳴る中、全裸の親友をじっと見つめた。そして、静かに言った。
「メロス……お前、とりあえず服を着ろ。あと、お前が今ここで急ブレーキをかけたせいで、俺の職場の石材工房が風圧で全壊した。弁償しろ」
「それよりもセリヌンティウス! 私を殴れ!
私は道中、一度だけ走るのを躊躇した! 頼むから私を殴ってくれ!」
「嫌だよ! マッハ11の肉体を持ったお前を一般人の俺が殴ったら、反作用で俺の右腕の骨が粉々になるわ!」
防爆シェルターから恐る恐る出てきたディオニス王は、全裸で黒焦げのメロスと、必死に物理法則の正論を唱えるセリヌンティウスの姿を見て、深く感動……というより、完全に恐怖に震えていた。
「わ、分かった! お前たちの勝ちだ!
命だけは助けてやるから、頼むから二人とも、今すぐこの国から『徒歩』で出て行ってくれ! 二度と走るな!」
こうして、メロスは友を救った。
しかし、彼がシラクスに残した経済損失はあまりにも大きく、その後、彼は「走るなメロス」として、世界中のハザードマップにその名を刻むことになったのである。
勇者は、ひたすらゆっくりと歩いた。その全裸の背中に、沈みゆく夕日が優しく、そして少しだけ呆れたように、赤々と照りつけていた。
続きを読む
天正十年六月二日、未明。
京都・本能寺は、静寂に包まれているはずだった。
「……ん? 何やら、妙な音が聞こえぬか」
寝所に敷かれた布団の上で、織田信長は薄らと目を開けた。天下統一を目前に控え、常に神経を研ぎ澄ませている信長である。敵の奇襲か、あるいは刺客の足音か。
パチパチという火の音ではない。
──ピコーン。ピコピコピコーン。
聞いたこともない、妙に軽快で電子的な音が、静かな寺の中に鳴り響いている。
信長が不審に思い、枕元に置いてあった愛刀・薬研藤四郎(やげんとうしろう)をひったくって立ち上がったその時、襖が勢いよくスライドした。
「殿! 殿ーーーっ!」
小姓の森蘭丸が飛び込んできた。しかし、その姿がどこかおかしい。
蘭丸の体が、なぜか粗いモザイクのような四角い立方体の集まり──いわゆる「3Dドット」になっており、歩くたびに「ザクッ、ザクッ」と、砂利を踏むような不自然な音が鳴っている。
「なんじゃその姿は! 蘭丸、お前、カクカクしておるぞ!」
「分かりませぬ! 朝起きたら我が肉体がこのような『ろーぽりごん』とやらに変化しておりまして!
それより大変にございます! 外を、明智の軍勢が取り囲んでおります!」
「何、光秀が謀反だと!? 敵の数は!」
「それが……」
蘭丸がドット絵の四角い手を震わせながら、外を指差した。
「敵の総数は『404』でございます!」
「404? 1万3千の間違いではないか?」
「いえ、敵の頭上に大きな文字で【Error 404: Soldiers Not Found】と浮き出ておりまして、それ以上の兵が見当たりませぬ! とにかく、お庭へ!」
信長は刀を抜き放ち、バサリと小袖を羽織って庭へと飛び出した。
本能寺の広大な庭。そこはすでに、現世の理が完全に崩壊した「バグ地帯」と化していた。
まず、本能寺を囲む頑丈な築地塀が消えていた。
代わりに、ピンク色と水色の巨大なプラスチック製のブロックが積み上がっている。
門があった場所には、ガラス製の「自動ドア」が鎮座しており、近づくたびに「ウィーン、いらっしゃいませ」と、どこからともなく女の声が響く。
「な、なんなのだこれは……南蛮の妖術か!?」
信長が呆然としていると、自動ドアの手前で、馬に乗った明智光秀が数人の具足姿の足軽を率いて、激しく困惑していた。
光秀は信長の姿を認めると、慌てて馬から下りて自動ドアの前まで走ってきた。しかし、ドアの手前でピタリと足が止まる。
「お、織田右府様! 謀反にございます! 本日は殿の命を頂戴しに参った……のですが!」
光秀は刀を構えたまま、涙目で自動ドアを指差した。
「この透明な障子に近づくと、我が軍の足軽たちが『いらっしゃいませ』と歓迎されてしまい、戦う戦意が完全に削がれております! しかも、一歩下がると閉まり、一歩進むと開く! 恐ろしくて誰も敷居を跨げませぬ!」
「光秀よ、攻め込む気があるならその妖術の障子を叩き割ればよかろう!」
「割ってみました! しかし、割った瞬間に頭上から【システムエラー:再起動してください】という謎の立て札が降ってきて、我が軍の騎馬隊の馬がすべて『横歩き』しかできなくなってしまったのです!」
見れば、門の外に控える明智軍の馬たちが、カニのように一斉に横を向いてパカパカと不器用にスライド移動している。これでは突撃などできるはずもない。
その時、ドサッと凄まじい地響きがした。
本能寺の本堂の屋根に、空から巨大な「L字型のブロック」が降ってきたのだ。
「殿! また上から四角い塊が!」
蘭丸が叫ぶ。
「先ほどから、あの塊が綺麗に一列に揃うたびに、本能寺の廊下や柱がガシャーンと音を立てて消滅しているのでございます! すでに台所と離れが消えました!」
「待て、それは完全にまずいではないか! このままでは本能寺そのものが消えてまう!」
信長は天を仰いだ。
天下統一の夢、本能寺での最期、燃え盛る炎──。思い描いていた壮絶な歴史の舞台が、謎の「テトリス現象」によってコメディ仕様に侵食されている。
「ええい、光秀! 一旦そこに入れ! 自動ドアをくぐれ!」
「は、ははっ! お邪魔いたします!」
もはや謀反どころではない。光秀は刀を収め、お辞儀をしながら自動ドアをくぐり、信長の前に平伏した。
敵と味方が、本能寺の庭で緊急首脳会談を開始する。
「光秀、お前は真面目で実務に長けておるな。この妖術をどう見る」
「はっ。おそらく、この本能寺の土地そのものの『しすてむ』が過負荷を起こしているかと。先ほど、裏手にある井戸を覗きましたところ、水ではなく『タピオカミルクティー』という、黒くてモチモチした謎の豆が入った南蛮の飲料が無限に湧き出ておりました」
「タピオカだと? 料理番はどうした」
「『美味である』と言って、総出で樽に詰めて売る準備をしております」
「切り替えが早すぎるわ我が家臣ども!」
信長が頭を抱えた瞬間、またしても空から四角いブロックが降ってきた。今度は本堂の真上に綺麗にはまる。
──ガシャーン!!
凄まじい効果音と共に、本能寺の本堂が丸ごと消滅し、そこには広大な「平地」と、なぜか一台の「自動販売機」だけがポツンと残された。
「あああ! 本堂が消えた! 完全に一列揃ってしまった!」
蘭丸がドット絵の頭を抱えて叫ぶ。
「……殿」
光秀が真剣な面持ちで信長を見つめた。
「これは、これ以上の建築は危険にございます。もし、この敷地内がすべてブロックで埋まれば、我らもろともこの世界から『消去(でりーと)』されるやもしれませぬ」
「ならばどうする、光秀。ここで腹を切るか?」
「いえ。この動く床や、無限のタピオカ、そして自動で開く門……。これをひとつの『見世物小屋』として天下に公開し、入場料を取るべきかと存じます。そして、その利益でブロックを消去する職人を雇うのです」
信長は一瞬、目を丸くしたが、すぐにニヤリと豪快に笑った。
「面白い。さすがは予の目に狂いはなかった。光秀、お前を『本能寺テーマパーク・総支配人』に任命する! 謀反の軍勢はすべて、案内係と警備員に配属せよ!」
「ははっ! ありがたき幸せ! では、足軽たちには『いらっしゃいませ』の後に『お一人様五百文になります』と言わせるよう、徹底的に仕込みまする!」
こうして、歴史上最も有名な裏切り劇「本能寺の変」は、時空のバグがもたらした「本能寺が変パニック」へと姿を変え、織田と明智の共同ベンチャー企業として、まさかの大繁盛を記録することになったのである。
後に、この奇妙なテーマパークを訪れた豊臣秀吉は、「あのアヒル隊長が浮かぶ池、天下統一の記念に拙者にくだされ!」と大はしゃぎしたというが、それはまた別の歴史のお話。
続きを読む
昭和50年、僕は北九州市若戸区にある市立平原中学校に入学した。平原は「ひらばる」と読む。この中学に、柴垣と書いて「しがき」と読む、保健の先生がいた。普通に読めば「しばがき」だけど、うちの中学に、柴垣先生の名前を間違って呼ぶ人はまずいなかった。これは柴垣先生に独特の存在感があったからじゃないだろうか?
柴垣先生は校史に残る美人教師という評判だった。代々の養護教諭の中で、という意味ではない。すべての教職員の中で一番という意味。それだからと言って、生徒からアイドル視されることもない。圧倒的に大人の女性なので、そういった見方をされない。それでいて、生徒に嫌われているってことも絶対にない。威厳はあるけど、話しかけやすい感じもあり、本当に独特の存在感だった。
中1の1学期、中間テストが終わったくらいの時期に、僕らは柴垣先生から性教育を受けた。男女が別教室に分けられての授業だったので、だいたいどのような授業なのかは想像はついていた。
柴垣先生はいつもと変わらない穏やかな口調で生徒に問いかけた。
「皆さんは先生を見てどう思いますか?」
悪戯小僧の小園君が「セックスした〜い」と答えた。
ほとんどの生徒は笑ったけど、意味がよくわからず、きょとんとした生徒もいた。
柴垣先生は僕らのリアクションを確認し、まじめな顔で大きくうなずいた。
「そうですね。それはとても自然な感情です。でも、そんなときはスポーツで発散させましょう」
それからも授業は続いたが、僕はこのやりとりしか頭に残っていない。多分ほかの生徒も同じだったろう。
翌年、僕らは2年生になった。担任は白髪混じりで、レンズの下に老眼用の四角い切れ込みがあるメガネをかけた野見山先生。俳人として有名な先生だったけど、生徒にはそんなオーラを見せなかった。技術の先生で、いつも腰にタオルをぶら下げていて、ただのユーモラスなおじいちゃん先生という感じだった。
その野見山先生が、ホームルームで養護教諭の柴垣先生の寿退職を報告した。「退職されることになった」という報告ではなく、すでに「退職された」と報告したのだ。みんな、「ええ〜っ」と驚きの声を上げた。柴垣先生はオメデタだという情報も追加された。
野見山先生は、「子供は秋頃に生まれる予定とのこと」と追加した後、出産予定月までの月数を指折り数えて見せて、「計算合わんねえ」と首をかしげ、中2になった僕らを笑わせた。
続きを読む