その他
沈降
3,929文字
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「もし、私の骸が水底に沈んでしまったその時は、貴方が私の声を拾い上げて下さいませ――」
これは恋なぞではない。契約だ。
俺達は、もしも沈没船になってしまった時、互いにその遺体へ残留した言葉を聞き届けるという契りを交わした。
そして俺は、こいつのためならどんな深海にでも潜行してやろう。そのような心地になっていた。俺もまた、こいつになら暴かれてもいい。そう思ったのだ。
探偵なぞを生業にしていると、奇妙な縁を結ぶことがある。その女との出会いは、友人である刑事の依頼から始まった。
俺は辣腕で通っているんだ。ただ、不良なもんで碌な仕事は回ってこない。それを見兼ねた友人が時折、俺に仕事を依頼――押し付けてきた。
拒絶しようにも金が無い。だから俺は、女の住処であるという森の奥へと歩を進めていた。
手土産は遺骨。昼間であるにも関わらず、木漏れ日も殆ど差し込まない鬱蒼とした森を進んでいく。足音は立たず、たまに微風に揺蕩う木々の囀りが鼓膜を震わせると、海底へと沈降していくようでもあった。
やがては、この囀る木々の声色すら、俺の耳に届かなくなるのかも知れない。
そのような妄想を意識の片隅に、俺は奥底へと足を伸ばす。
やがて辿り着いたのは寂れた小屋だった。
さては退屈凌ぎとして肝試しにでも駆り出されたか。そのような雑念を思い浮かべながら、紫煙を燻らせる。火種を潰し、ドアを叩いた。
軋む音を引きずりながらドアが開く。
耳心地の悪い音へ意識を割かれながら、ドアの隙間を注視した。
暗中から浮かび上がったのは細腕だった。白皙の肌の有様を、雪や白磁、あるいは花になぞらえることはよくある。俺が思い浮かべたのは、それらではなかった。
まず、靄を思い浮かべた。冥々とした森の中を漂う朝靄。そのようなものを想起していると、女が姿を現した。
幽鬼。
肝試しで対面した女に、このような比喩は陳腐だろうか。しかし、そのような形容がしっくりと来る。
その白肌から連想したのは虚弱ではない。しかして光明を彷彿とはしない。
実在感が極めて希薄なのだ。この暗がりに溶け込んでしまいそうな白い肌の女は、夜暗を切り取ったような黒いドレスを纏っていた。
結われたアイボリーホワイトの長髪がドレスに垂らされている。その有様は、清流を思い起こさせた。
友人の紹介で訪れた事を告げる。
こちらを向く女の目元は布切れで覆い隠されていた。が、視線を錯覚する。珊瑚ピンクで彩った唇が解けた。
「どうぞ」
女に先導され、俺は止めていた足を運ぶ。ドアが閉じて、不気味な小屋に飲み込まれた。
俺の受けた依頼はこうだ。
森の奥に住むイタコに遺骨を渡し、その声を聞いてくること。
遺骨は俺が解決に助力した事件の被害者であった。
犯人は逮捕されたものの、その全てが詳らかになった訳ではない。死者の声を届けるというイタコの力を借りて、被害者の声を遺族に届けるのが目的だとのことだった。
死人に口なし。そのため、可能な範囲で白日の下に晒すのが、俺たち探偵の仕事だ。その口を借りる人間がいるのだというのだから、とんだオカルトである。
そして、その黄泉と現世を繋ぐ水先案内人の正体が、この亡霊のような麗人だというのだから、御大層な怪談だ。
俺は前方で揺らめく靄から目を離せなくなっていた。
それが、単純に正面へ視線を放っていたからでないことは、知覚していた。清艶だ。そのような感情が、俺の意識へ浮かび上がり始めていたのである。
俺が我に返ったのは、女のか細い声によってだった。不思議な声色だ。柔弱だが、まるで水面を渡る波紋のように、すんなりと聞き入る事が出来る。
俺は女に促されて、彼女と向かい合って座り、遺骨を渡した。
「この遺骨の人物の声を聞きたい。遺族は真実を求めている」
女は遺骨を受け取ると、此方を向いて口を開いた。心なしか、口角が浮かび上がっているようにもうかがえる。
「私は、再生機でございます。この骨に録音された御声をリプレイするのみなのでございます。ですから、必ずしも私の言葉が、要求を満たすとは限りません」
「ああ、分かっている」
真実が理想の通りでないことくらいは、百も承知だ。女の口角が、更に浮かび上がる気配がした。口を開く。
「では、拝戴いたします」
刹那である。
珊瑚ピンクに彩られた女の唇が、骨片を抱擁した。
俺は忘我しながらも、その女の有様へ瞳を釘付けにされていた。
異質な光景であることが一つ。そしてもう一つは女が変質したからである。
喉を震わせた女の容貌が、徐々に明瞭となっていった。
呼吸をしているだけだ。音もなくゆったりと。
判然としなかった女の実在感が、息吹を吹き返すように、迫真性を孕んでいく。
この呼吸は、脈動は、鼓動は、誰のものだ――?
一度枯れてしまった花が、萌芽して開花する手筈を、目の当たりにしているような錯覚を受けた。
そして俺は花が咲いた瞬間を目撃する。
目元を覆う布に諸手を当てて外す。伏せていた顔をこちらに向ける。長い睫毛がゆっくりと浮かび上がる。
秘匿されていた女の双眸が露わになった。
それは正しく再現だった。
変化したのは語調ばかりではない。息遣いも変調をしているが、彼女が掬い上げているのは『声』のみだ。口元から言葉が漏れ出し、双眸を震わせても、そこに想念は波を打っていなかった。
女は――いや、再現された被害者は、事件の経緯を細大漏らさず、口述した。深海へ沈没した『船』の内面が、女の声で漏れ出し、水泡の如く浮かび上がる。
俺は、口を挟むことなく、述懐へ耳を傾けていた。
女が言葉を漏らすたびに、沈思していったのだ。
やがて、いか程の時間が経過したのか。
俺がはたと知覚したのは、瞳を瞑る女の姿だった。
紫煙を吹かすように、呼気を押し出す。俺には、被害者の性情を、推測することしか出来ない。だが、女が再生していた間、確かに被害者と対峙しているような心地になっていた。
黙して再び目元を布で覆う女を眺めながら、俺は口を開く。
「あんたは何故、このようなことを――。あんたが警察の依頼をこなしてみたところで、あんたに一文の得もない。名誉を手にするわけでもない。あんたの功績は、全て依頼者の手柄になっちまう。なのに――」
俺は、そこで口を噤んだ。
女の口角が、浮かび上がった気配を感じたからだ。女はそのまま唇を解く。
「私は顕界の声望に興味はございませんもの。『声』を『頂く』。この行為そのものが私にとっては報酬なのです。それ以上は望みません」
女の声色は元に戻っていた。波紋が水面を渡る。
「私はお声を拝聴する際は、海を連想いたします。潜り、潜り、沈船の内側を吸い込むのです。海の底はとても暗く、また、静かで、安らぎすら胸に広がります。私にとりましてもその船体は揺籃のようでもあります。子守歌のようなものなのです」そう告げる女の様相は、再び朧気な靄のように揺蕩う。だが、少女のような無邪気さも孕んでいた。
女は更に言葉を継ぐ。「それに、私が今回のご依頼を引き受けたのは、貴方に興味があったのです」
俄かに話題へ上り、俺は瞳を震わせながら口を挟む。「俺に?」
ええ、と返答をする女の声色は、どこか喜々を帯びたようでもあった。
「だって、探偵というご職業もまた、海に潜る方々ですもの。いいえ、それどころか、私よりも遥かに真正面から、船体のお声を拾い上げていらっしゃるわ。私はただ、すっかりそのまま浮かび上がらせるだけですけれど、探偵さんは、より細部まで、隈なく、掬い上げていく。ですからきっと、私よりも多くの『声』を聴いておいでに違いないですわ」
不思議だ。俺からしてみれば、女の特異な才能を渇望してしまう。けれども女は、俺の仕事を価値のあるもののように語る。
それに自分の仕事を、事件を、沈没船になぞらえた事はなかった。言われてみれば、確かに言い得て妙かも知れない。
無防備に事件の深奥へ足を踏み入れれば、無事では済まない。そして沈黙してしまったものに足を踏み入れ、全貌を白日の下に晒していくという意味では、凡そ該当していた。
女は話を続ける。
「もし、私の骸が水底に沈んでしまったその時は、貴方が私の声を拾い上げて下さいませ――」
女の提案を悪くないと思った。仕事振りは目の前で証明され、そしてこの女も評価をしてくれている。思いも至らなかった本質を口にした女への回答に、間は必要なかった。
「だったら交換条件だ。俺が沈んじまったその時は、あんたが俺の声を聞き届けてくれ」
俺の返答へ、やはり目視するのに明確な変化はないが、女の口角が浮かび上がる気配を感じた。女の唇が解ける。
「ええ、拝戴いたします」
◇ ◇ ◇
俺は燻る紫煙の行方を追っていた。その視界に広がるのは、女の出身である集落だった。
片手には煙草を、もう片方には、骨片が掌中に収まっている。
火種を潰して、手中の骨を指頭で撫でる。触れるたび、女の像と女の言葉を思い返していた。冥々とした森に棚引く朝靄。そこに息吹が芽生え、花が咲く。まだ沈没船の中で揺り籠に揺られながら、微笑みの気配を帯びて子守歌を耳にしているのだろうか。
友人が訃報を告げた時は、心魂に風穴が開いたような心地がしたが、足を止めなかったのは、埋め合わせがあったからだ。果ての知れない海の底へ向かわせたのは、束の間の再生と、交わした女の言葉だった。
「拝戴いたします」
言葉にして、骨片を口腔に収める。
嚥下するように瞼を下す。
あんたの遺骸が船ならば、この村は海か。俺は辣腕で通っているんだ。このまま沈没させたままじゃあ名が廃る。
水面に届くことなく、そっくり泡沫と化すその前に、俺が声を掬い上げてやる。
約束だ。とことん深くまで潜ってやるさ。
下すのと同じ速度で瞼を持ち上げ、集落を見据える。
俺は一つ、足を踏み出した。
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