児童文学
雨に唄えば
2,510文字
約6分で読了
「なんかまた、……雨が降りそうだなあ」
窓の外を見上げて|陽太《うちの子》が呟いた。
そして、私と目が合うと、いつも通り優しく抱きついてくる。
「おはよう、ベル。今日も元気そうでよかったよ」
ベルと呼ばれた私は、ここのうち、清見家の犬だ。
|赤ちゃん《パピー》の頃、引き取られてきた保護犬。
遥か昔、まだミックスなんて洒落た名前じゃなく、雑種って呼ばれてた……陽太が生まれる前だったから……、ええと何年前だったかしら?
「ねえ、ベル」
ロートルな頭で記憶を呼び戻しているというのに、容赦なく陽太が話しかけてくるせいで、私は考えることをさっさと諦めた。
「この前、天草に『うちに十七歳の犬がいるんだ』って話をしたらさ、」
天草というのは、陽太の学校の友達の名前らしい。
この春に新しい学校に行き始めてから、
「昨日の授業では、なんちゃら先生が」
とか、
「今日のテストで、かんちゃら先生が」
みたいに先生の名前しか聞いたことがなかったから、初めて、
「今日、天草がね!」
って、話してくれた時には、びっくりしすぎて魂が抜けそうになったわよ。
……あ、これは棺桶ギャグね。
「ね、聞いてる?」
記憶を煮干しみたいに噛みしめながら思い出していたら、隣にいる陽太が不満げに唇を尖らしていた。
あなたは赤ちゃんの頃から、変わらないわね。
唇を尖らすと、ひよこのような表情になるの。
「フゥン」
少しだけ声を漏らして陽太の体にのっそりと寄りかかってやると、陽太は安心したように、私の頭を撫でてくる。
あったかい手ね。
「でね、その天草がね。ベルに会ってみたいって」
あら。
「うちのベルは、黒ラブと柴のミックスだから大きいよ、て言ったら「ますます会いたい」って言うんだ。天草んちは八百屋さんだから、おじいちゃんが生き物はダメ、って言うんだって」
昔ながらのお店なのね。
そこの角の八百屋さんなんて、お母さんと買い物に行くたびに、猫がザルに乗ってたわよ。
「だからさ、」
陽太の瞳がキラキラと輝く。
雨上がりの葉っぱに残った雫のように。
「今日、連れてきてもいいかな?騒ぐようなやつじゃないから」
真剣な顔して。
ばかね、そんなに気を遣わなくても大丈夫よ。
陽太の大切なともだちなら、私も会ってみたいわ。
私は老犬だ。
年は陽太よりひとつしか変わらないけど、お医者さまからは人間として数えたら百を超えてると言われた。
ここに来た当初は子熊みたいだね、なんて言われた真っ黒な毛も、今ではだいぶ白が目立っている。
目は見えづらいし、鼻もイマイチ、立つのもニンゲンみたいに、
「よっこらせ」
だしね。
小さい頃は陽太のお気に入りのミニカーをスクラップ送りにした自慢の歯も、今ではビスケットがやっとだ。
あの時、あなたは顔を真っ赤にしてわんわん泣いたけど、私がいなくなったらまた泣くんでしょうね。
がんばってつくった工作を壊された時も、学校で履いてた靴を無くした時も、陽太は私にしがみついてきた。
びしょびしょの湿った顔を私に押し付けながら。
だけど私は、陽太が大人になるまで側にいてあげられない。
桜の花びらを追いかけ回して笑い転げながらの散歩も、真っ青な海を見た帰り、車の中で一人と一匹で寄りかかりながらのうたた寝も、もうできない。
――だからね、陽太。
あなたの大切な人に、あなたを託したいのよ。
泣き虫なあなたを。
おばあちゃんになった私に、変わらず優しさをくれるあなたを。
「あ、晴れ間が出てきた」
陽太の声に顔をあげると、雲の切れ間から神様が降りてくるような朝日が漏れてきていた。
「傘、持っていかなくてもいいかな」
陽太はお母さんが作っておいてくれたお弁当をバッグに詰め込むと、バタバタと洗面台に向かう。
『天草』と友人になってからの陽太は、髪型を気にするようになった。
学校での出来事を話してくれることも増えたし、笑顔もたくさん見せるようになった。
ともだち、なんて言ってるけど、本当は好きな人なんじゃないかしら。
きっと可愛い女の子ね。
「じゃあ、留守番頼むね、ベル」
玄関で靴を履いて、つま先を二度ほどトントン、と鳴らす。
扉を開けて、すっかり晴れてしまった空を陽太は仰ぐ。
でも。
「あ、向こうは真っ黒だ」
遠くの山の方角には鈍色の雲が居座っているのに気付いたらしい。
傘を持って行くか迷っているのね。
「やっぱり、折りたたみを持っていこう」
渋々といったように、手にした陽太の折りたたみ傘を私は、
「え!……ベル⁉︎」
軽く齧って引っ張った。
「ちょっと?なんで?」
陽太は私が心配だから、強くは引っ張れない。
すぐに諦めて、折りたたみ傘を離す。
私は傘の上に、よいしょ、と座り込んでやった。
「もしかして、」
視線が合うように陽太はしゃがみ込むと、私の耳の下の毛を撫でる。
昔はふさふさで艶やかだった毛も、今は少なくなり色褪せてしまったけど、陽太はいつだって私を愛しそうに撫でてくれる。
「傘はいらない、って言ってるの?」
ええ、そうよ。
私は座ったまま尻尾を二度ほど横に振る。
「ベルは雨が降らないって、言ってるの?」
そうじゃないわよ。
陽太が傘を持っていかなければ、天草と「相合傘」ができるでしょう?
二人で一緒の傘に入って、昨日より仲良くなって帰ってきなさいよ。
私のそんな気持ちが伝わるはずはなかったけれど、陽太は弾けるような笑顔を見せる。
「ベルを信じるぞ! 今日はもう雨は降らない、って。」
……そうじゃないけど、まあいいわ。
私はのそのそと立ち上がって、思い切り尻尾を振る。
膝の関節はギシギシ軋むけど、まだまだこれくらいはできるのよ。
「じゃあ行ってきます! 天草はデカいけどいい|男《ヤツ》だから、ベルも仲良くしてな」
……え?
天草って男なの?
てっきり可愛い女の子だと思ったのに。
ガチャリと閉まる鍵の音を聞きながら、私は思いを馳せる。
陽太が、デカい天草と相合傘で帰ってくる姿を。
♢
太陽が空のてっぺんに昇った頃、雲がその輝きを塞ぎ始め、やがて雨が降ってきた。
いつものように、窓から外を眺めていた私の目に映ったのは。
可愛い女の子と相合傘をする陽太でも、デカい男の子と相合傘をする陽太でもなく――。
弾ける雨粒の中、びしょ濡れなくせにキラキラした笑顔で笑い転げながら走ってくる、陽太と天草だった。
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