ホラー・怪談

【微ホラー】折り返し階段

2,194文字 約5分で読了
作者:雨宮はな
 深夜、残業を終え、疲れ果てた足取りで自室のあるアパートの十階へと冷たいコンクリートの折り返し階段を上っていた。  蛍光灯もないその場所は非常口の明かりだけが足元を照らしている。  5階ほどで、ふと何かを感じ、私は手すりの隙間から、階段の底を覗き込んだ。  暗がりの底、一階の踊り場に、ポツンと小さな影が立っていた。  それは子供だった。  顔だけが妙に白く浮き上がって見える。 蛍光灯の反射か、あるいは月明りか。 子供は、口角を耳の付け根まで引き裂いたような満面の笑みを浮かべ、じっと真上の私を見上げていた。  心臓が跳ねる。  見間違えではなかった。 子供は瞬き一つせず、その不気味な笑みを張り付かせたまま、走り出した。 タッタッタッタッ  軽い足音が凄まじい速さで駆け上がってくる。その子供は手すりを掴むこともなく、 重力を無視するかのように、 折り返し階段を登ってくるのだ。  その目は、一瞬たりとも私から外れない。  笑顔のまま。 「…っ!」  私は悲鳴を飲み込み、夢中で階段を駆け上がった。  自分の階はまだ上だ。  恐怖で体が思うように動かない。  だが、背後から迫る足音は、私を嘲笑うかのように距離を縮めてくる。  踊り場を曲がるたび、すぐ下の段に、あの白い顔と裂けたような笑みがチラリと見える。  逃げ場のない階段で、私は恐怖に心臓が張り裂けそうだった。  十階の重い扉に手をかけようとした瞬間、背後に冷たい気配が立ち込めた。 「…待って」  小さく幼い、けれど、 どこかかすれた声が耳元で響く。  振り返ると、子供が立っていた。 間近で見るその顔は、やはり笑っている。  しかし、近くで見ればそれは歓喜の笑みではなく、何かを必死に堪え、縋り付こうとする悲痛な表情の歪みに見えた。  先ほどまでのあの異様な笑顔は自分の恐怖が作り出したものだったのだろうか。 子供は震える小さな手を差し出した。 その指には、一通の手紙があった。 「届けて……」  子供の手から手紙を受取ろうと、手紙に触れた瞬間、その姿は霧が晴れるように消え去った。  足元に落ちたのは、ひどく色褪せ、角の擦り切れた古びた封筒だった。  部屋に戻り、震える手でその手紙を確認する。  消印は数十年前のものだ。  住所をスマートフォンで調べようとするが、検索結果に現れるのは、災害の記録と、かつてそこにあったという村の記録だけ。   現在の地図サービスを開いても、そこにはもう人が住んでいるような建物の姿はなかった。  数日かけて古い地名辞典や郷土資料を漁り、私はようやくその真実に辿り着いた。  その住所は、かつて存在した山間の村だった。  しかし、そこはもう、地図から消えた「亡くなった町」なのだ。  四十年前、その地を襲った凄惨なダムの決壊事故。  集中豪雨によってダムが決壊し流れ出た大量の土砂と水は、眠りについていた小さな町を一瞬にして飲み込んだ。  多くの命が失われたその町は、 今は水の底か、立ち入りを禁じられた廃墟の山林となっている。  手紙の主は、その町で出稼ぎをしていた夫を待つ、若き日の妻だった。  他人の手紙を見るのは抵抗があったが、私は迷いながらも、封を解いた。  中には、古い便箋に丁寧な文字で綴られていた。 仕事はどうですか。元気でやっていますか。 健一がようやく「お父さん」 と呼べるようになったんですよ。 できることなら今すぐにでも会いにいきたいです。 早く帰ってきてね。 あなたが帰ってくる日を、 二人でカレンダーに印をつけて待っています。 寒くなってきました、体に気をつけて。 無理はしないでくださいね。 あなたの帰りを待っています。 かしこ さゆり・健一  文面に滲むのは、日常の何気ない幸せと、夫への純粋な愛だった。  しかし、この手紙が出されたのは、あの決壊事故が起こるわずか二日前のことだ。  夫は、ダムが決壊したその瞬間に現場で命を落としていた。  妻が事故の報を知るより先に投函されたこの手紙は、届くべき場所を失い、受け取るべき相手を失い、その町へと届くことなく、数十年の時を彷徨い続けていたのだ。  あの階段に現れた子供は、手紙に書かれていた「健一君」 君だったのだろうか。  父に会いたかったのか、あるいは母の想いを届けたかった。 その一念が生霊のように、時を超えて私を呼び止めたのかもしれない。  私は手紙を胸に抱き、かつてその町があった場所へと向かった。  今は緑に深く覆われたその地には、事故の犠牲者を弔う小さな慰霊碑と、古い墓石がいくつか並んでいた。  夫の名が刻まれた墓を探し当てるのは、そう難しくはなかった。周囲は静まり返り、ただ風が木々を揺らす音だけが聞こえる。  私は墓前で膝をつき、手紙を広げた。 「…届きましたよ」  声に出して、ゆっくりと、 最後の一文字まで読み上げると、自然に涙が落ちていた。  四十年の時を経て、ようやく思いが届いたような気がした。  読み終えた手紙をゆっくりと折り畳み、 私はそれを墓石の前にそっと置いた。  山からの強い風に飛ばされてしまわないよう、近くに落ちていた、石を重石にする。 「やっと、届いた…」  背後でそんな声が聞こえた気がして、 振り返ったが… そこには誰もいなかった。  ただ、今までまとわりついていた重苦しい冷気は消え、西日に照らされた森は穏やかな光に満ちている。  手紙を置いた石を見ていると、山から流れる風が葉音を立てながら私を包む、その瞬間、長い間絡まっていた心の糸が温かな風に解けていくような感覚がした。  長い旅を終えた手紙は、今、ようやく安らかな眠りについたのだ。
2026/10/07 ・ 👁️ 75回 ・ 💬 0件

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