コメディ・日常
湯気の向こうの、桜島
1,782文字
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火ノ浦市の夕暮れは、火山灰の匂いがする。
大阪で音響技師をしている森川由衣は、録音機を提げて商店街を歩いていた。さつま揚げが油の中ではじける音。竹ぼうきが舗道に積もった火山灰を掃く音。湾の向こうから届く、フェリーの低く柔らかな汽笛。
大阪の仕事場では「ノイズ」と呼んで消してきた音たちが、ここでは妙にあたたかい。由衣はヘッドフォンを片耳だけ外し、しばらく町の音に耳を澄ませた。
路地の奥に、煤けた藍色の暖簾が見えた。「波音湯」と記された木札が、夕暮れの光を受けている。
引き戸を開けると、番台の老人が顔を上げた。
「観光かい」
「音を録って歩いています。少しだけ、いいですか」
巌と名乗った老人は、由衣の首に掛かったマイクを眺め、それから脱衣所の隅を指した。
蛇口から湯が落ちる。黄色い湯桶がタイルに当たって、コーン、と乾いた音を響かせた。湯気の向こうでは、湯船の水面がゆっくり揺れている。
そこへ、ランドセルを背負った小学生の島袋澪が駆け込んできた。
「巌さん、こんにちは!」
澪はランドセルを置くと、慣れた様子で湯船に滑り込んだ。ぱしゃん、と湯が跳ね、笑い声が白い湯気に溶けていく。
由衣は録音レベルを確かめながら尋ねた。
「毎日、この音を聞いているんですか?」
「五十年ね。明日も聞くつもりだったが」
巌は壁の時計を見上げた。
「今月で閉めることになってな」
湯船から澪の顔が出た。
「えっ。じゃあ、ラムネはどこで飲めばいいの?」
巌は答えず、困ったように笑った。
澪は水面を見つめた。いつもなら、学校であったことを話しながら、湯上がりにラムネを飲む。瓶の中でビー玉が鳴る音まで、澪には波音湯の一部だった。
由衣は録音機を止めた。
閉店を告げる老人の声も、子どもの寂しそうな顔も、機材の数値には表れない。音を正確に記録することなら、いくらでもできる。けれど、その音が誰かにとって何を意味するのか、考えたことはあっただろうか。
少し迷ってから、由衣は口を開いた。
「最後の日、みんなの音を録らせてもらえませんか。桶の音も、笑い声も。ここで過ごした時間を、残しておきたいんです」
巌は驚いたように瞬きをした。しばらく湯気の向こうを眺めてから、小さく頷いた。
「……好きにしなさい」
最終営業日。波音湯には、いつもより大勢の人が集まっていた。
背中を流し合う水音。誰かが口ずさむ調子外れの鼻歌。湯桶を置く音に、常連客たちの笑い声が重なる。澪は湯上がりにラムネの瓶を傾けた。飲み干した瓶の中で、ビー玉がからからと鳴った。
「この音も、録れた?」
澪が尋ねた。
「うん。ちゃんと録れたよ」
由衣は微笑んだ。
以前の自分なら、重なり合う声や不規則な物音を整理し、必要な音だけを残していただろう。けれど今夜は違った。誰かの咳も、桶のぶつかる音も、笑い声の途切れる瞬間も、どれも消さずに記録した。
音が整っていないからこそ、そこに人がいることがわかる。
帰り際、巌が由衣を呼び止めた。差し出されたのは、小さな瓶だった。中には、色の褪せた木札が入っている。
「これは?」
「昔から、ここの番台に掛けてあったもんだ。店はなくなるが、残せるものもある」
巌は瓶を由衣の手に預けた。
「音は持って帰れる。これも、君が持っていなさい」
由衣は瓶を両手で包んだ。木札の角は丸くすり減り、長い年月のあいだに触れられてきたことを物語っていた。
翌朝、由衣は港を見下ろす高台に立っていた。
朝日に照らされた桜島が、稜線の向こうに静かにそびえている。白い噴煙が空へほどけ、錦江湾には漁船がゆっくりと進んでいた。潮風が頬を撫でる。
由衣はヘッドフォンを耳に当て、再生ボタンを押した。
湯桶の乾いた音。誰かの鼻歌。澪の笑い声。そして、ラムネの瓶の中で転がるビー玉。
昨夜のざわめきが、耳の奥によみがえる。
由衣は音量を調整しようとして、指を止めた。
どの音も、どれか一つだけでは意味を持たない。重なり、途切れ、ときには聞き取りにくくなりながら、それでも確かにそこにあった。消してしまえば、もう戻らない時間だった。
彼女は録音機を胸元に下ろした。
桜島の向こうから、朝の光が広がっていく。
山頂から立ちのぼる白い噴煙は、波音湯の浴室を満たしていた湯気のように、朝の空へゆっくりとほどけていった。
ヘッドフォンの中では、澪の笑い声がまだ続いていた。
由衣は再生ボタンを押したまま、しばらくそこに立っていた。
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