コメディ・日常
水音の向こうに
1,794文字
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アイガー北壁に午後の光が残り、グリンデルワルトの谷に長い影が伸びていた。黄金色のカラマツが風に揺れ、牧草地からカウベルの音がひとつ、遅れてもうひとつ届く。
私は木組みのシャレーが並ぶ小路で、木彫りの水飲み場《ブルンネン》にマイクを向けていた。丸太をくり抜いた水槽には、氷河の雪解け水が絶え間なく注いでいる。欲しいのは、水が木を打ち、石を伝う音だけだった。
トク、トク、と水が跳ねる。
そこへ、登山客のトレッキングポールが石畳を叩く音が重なった。背後では、村人が誰かに挨拶をしている。私は録音を止め、ヘッドホンを外した。
「また、人の声が入っちゃった」
「それ、入れちゃいけない音ですか?」
声のしたほうを見ると、タブレットを抱えた少女が立っていた。画面には音声編集ソフトが開かれ、いくつもの波形が並んでいる。
「仕事で録音をしているんですか?」
「音響編集の仕事よ。今は水の音を録っているところ」
少女は水槽に目を向け、それから手元の画面を見せてくれた。
「学校の課題で、村を歩きながら聴く音声ガイドを作っているんです。観光名所の説明だけじゃなくて、目を閉じても、その場所にいる気分になれるものにしたくて」
画面にはブルンネンの写真と、録音した水音の波形が並んでいた。その下には短い説明文がある。
「でも、水の音だけだと、どこの水場でも同じに聴こえてしまって。さっきの鈴や人の声も録ったんですけど、何を残して何を削ればいいのか、わからなくなってしまったんです」
少女は私の録音機を見た。
「人の声が入ると、やっぱり邪魔ですか?」
「今回、私が録りたいのは水の音だから。でも、あなたのガイドに必要かどうかは、別の話かもしれない」
そう答えながら、私は水槽の向こうに目をやった。
空のポリタンクを並べている老人がいた。少し離れた花壇では、宿の主人がじょうろを傾けている。老人が何か話しかけ、主人が顔を上げて笑った。
少女は録音機を水槽から離し、二人のほうへ向けた。
「この人たち、毎日ここに来るんです。水を汲んだり、立ち話をしたり。観光案内には載っていないけど、こういう時間も村の一部だと思うんです」
老人がポリタンクを石の上に置いた。底が触れて、乾いた音がした。
私はヘッドホンを耳に戻した。水音の奥に、その音が残っている。
「だから、もう一度録りたいんです。今度は水だけじゃなくて、ここで暮らす人たちの音も。ノラさんが録った水の音と、私が録る音を聴き比べたら、何を残せばいいか見つかるかもしれない」
少女の言葉に、私は録音機を見下ろした。
水音だけをきれいに録るなら、マイクの向きを変えればいい。人の声が届かない時間を待つ方法もある。仕事では、そうやって必要な音を選び取ってきた。
けれど、少女のタブレットに並んでいた波形には、水音のほかにもいくつもの音が記録されていた。
「じゃあ、少しだけ録り方を変えてみようかな」
私はマイクの角度を広げた。
木樋を滑る水、飛沫の細かな音、タンクの底が石に触れる響き。遠くではユングフラウ鉄道が谷を抜けていく。カウベルが鳴り、誰かが「またね」と言った。
録音を終えると、私は少女にヘッドホンを渡した。
「聴いてみる?」
少女は片耳に当て、しばらく画面を見ずに聴いていた。
「ずっと鳴っていたんですね、水って」
「うん。人の声がしても、列車が通っても」
今度は少女の録音を聴かせてもらった。
水音は遠くで細く続き、その手前で人々の声や足音が交わっていた。老人がポリタンクを置く音のあとに、宿の主人の笑い声が聞こえる。少し間を置いて、また水が跳ねた。
少女はタブレットを操作し、同じ箇所をもう一度再生した。
「……水、ちゃんと入ってる」
「小さいけどね」
「でも、これなら、ここに来たことがない人にも伝わりそうです」
少女は音声ガイドの編集画面を開いた。水場の由来を説明する文章の下に、短い一文を書き加える。
――この水場では、今日も誰かが水を汲み、誰かが立ち話をしています。
私はその文章を読み、ヘッドホンを耳に当て直した。
水音の奥で、タンクが鳴った。鈴が響き、誰かが笑った。
帰り道、私は街の音に耳を傾けた。
石畳を踏む音。シャレーの窓の奥で、皿が触れ合う音。坂の向こうから届く牛の鈴。風に揺れるカラマツの葉が、かすかに擦れ合っている。
どれも録音するつもりはなかった。
小路の奥で、水がまた鳴った。
私は振り返らず、その音を聴きながら歩いた。
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