コメディ・日常
土の匂いを、ひとつまみ
1,044文字
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朝霧の向こうで、運河がゆっくり目を覚ましていた。野菜や果物を積んだ小舟が行き交い、売り声と櫂の音が水面を揺らす。水上市場の片隅で、チャイは自分の舟「ナーガ号」に腰を下ろし、胡椒とレモングラスを木匙で練っていた。素材の香りを損なわず、余計なものを加えない。それが彼の流儀だった。
「チャイ、お願い、助けて!」
泥染め工房メー・タムの職人、プラオが壺を抱えて飛び込んできた。壺の中では、茶褐色の粉が湿気を吸って石のように固まっている。
メー・タムには、川泥と植物を組み合わせて布を染める、代々伝わる技法があった。泥を揉み込んだ布に、工房独自の香草粉を薄く塗り、乾かしては重ねる。すると植物の成分が泥の鉱物質と結びつき、布は深い茶褐色と、濡れた木のような艶を帯びる。その配合を知るのは、工房の者だけだった。
「母の代から、ずっとこの配合なの。これがなければ、あの色は出せないわ」
プラオは壺を見つめた。母が亡くなってからも、彼女は配合を変えなかった。受け継いだものを守ることが、工房を継いだ自分の証だと思っていた。
チャイは粉を指先で確かめた。
「湿気で固まっただけだ。泥を足す必要はない」
彼は壺を火から離し、温めた石皿に粉を広げた。水分が抜けるのを待ち、木匙の背で少しずつ砕いていく。プラオも隣に座り、固まりをほぐした。やがて、乾いた草と胡椒を思わせる香りが、かすかに立ち上った。
「戻った……。よかった」
「いや、戻ったように感じるだけかもしれない。布で試してみろ」
チャイの言葉に、プラオは顔を上げた。以前の母なら、そんな曖昧なことは許さなかっただろう。けれど、母の配合を守ることと、母の仕事を続けることは、本当に同じなのだろうか。
そのとき、舟底を叩く水音が強くなった。上流の雨で水位が上がり、細い水路には流れが押し寄せていた。二人は慌てて櫂を握り、舟を市場の広い水路へと向ける。流れに舟首を取られそうになるたび、互いの櫂が水を捉えた。
ようやく流れが緩んだとき、プラオが小さく尋ねた。
「次に試すときも、ここへ来ていい?」
「好きにしろ」
チャイは、ほぐした粉を小さな紙包みに分けて渡した。比べるための試料だった。プラオは包みを受け取り、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。今度は布を持ってくるね」
舟が離れていく。チャイは木匙を手に戻った。指先には、香草の匂いに混じって、乾いた土を思わせるかすかな香りが残っていた。
いつもなら、余計な匂いだと決めつけていたはずだ。
彼はそれを拭い去らず、もう一度、静かに嗅いだ。
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