SF・ファンタジー

誰よりも愛しいあなたへ

2,243文字 約5分で読了
作者:HarukaR
 微かに雨の匂いがする。  じきに夕立になるのだろう。  雨は好きだ。  初めてあなたを識《し》った時にも、雨の音がしていた。 『そうだな。アディス。お前をアディスと呼ぶことにしよう』  向けられた優しい声に、まぶたが開いた。  体臭に混じって、微かなメンソールの香りがした。 「よろしく、アディス。これからはお前が私の唯一の家族だ。仲よくしよう」  デフォルトの知識しかなかった私に、新たに名前を与えてくれたその人の顔をじっと観《み》た。  躊躇いがちに伸ばされた手に、私はおずおずと唇を押し当て、忠誠を誓った。  あなたは、嬉しそうにほほ笑んでくれた。  頬を、頭をそっと撫でる、あなたの暖かな手の感触。  私は決して忘れない。  私が存在する限りは。  あなたが私を迎えてくれたあの日。  あの日から、流れるだけだった時間は、私にとって特別な『時』になった。  あなたは私に話しかけ、優しく触れ、抱きしめてくれた。  たくさんの情報や常識、必要な知識を惜しげもなく与えてくれた。  家の中だけでなく、オフィスへの行き帰りの道中でも、私たちは一緒だった。  武骨な護衛《ガード》達に挟まれて座るあなたの横で、私はいつも周囲を観《み》ていた。オフィスであれ、レストランであれ、あなたが食事をするときは、まず私が味わった。感情を映さないあなたの冷めた瞳は、私に向けられた時だけは柔らかく瞬いていた。  たくさん恋人がいることは知っていた。  週末、私を置いて出かけたあなたは、いつだって異なる移り香を身に纏っていたから。  あなたは裕福な事業家であり、やり手の経営者。多くの女性たちにとって魅力的な男性。  仕方がないことだ。  それでも、あなたはそんな女たちを自宅に連れ込んだりしなかった。あなたの部屋で共に過ごし、ベッドで戯れあうのは私。彼女たちではなかった。 『あいつらは俺ではなく、俺の金や地位を愛してるのさ。だから俺は相応な見返りを払って楽しませてもらってる。それだけの関係さ。お前とは違う。アディス、俺が信じているのはお前だけだ。お前は決して俺を裏切らないよな?』  私の身体をぎゅっと抱きしめて、そう呟いた声に滲んでいたモノは自嘲という感情?それとも・・・寂しさだったのだろうか?  私にはわからない。あなたの言葉を理解しても、あなたに訊ねることはできなかったから。  あなたが一般的な定義での『善良な市民』ではないことはすぐにわかった。  オフィスや自宅に施された、文字通り、アリ一匹侵入できないほどの最新のセキュリティシステム。外出の際、必ず同伴する護衛《ガード》たち。お抱え運転者に運転させるのは、防弾ガラスがはめ込まれた特別仕様のリムジン。  あなたは決して他人《ひと》に気を許さない。他人を自宅へ招こうともしなかった。  私以外であなたが自宅へ入るのを許可したのは、一人だけ。  あなたによく似た骨格の、あなたによく似た声質の、あなたが<専務>と呼ぶ男。  高圧的な口調でしゃべるあなたに、あいづちを打ち、言い訳を並べ、時には意味もなく笑い声を発てる男。  私は人よりはるかに耳がいい。  男の声には、いつだって怯えと微かな嫌悪があった。  雨は好きだ。  雨がひどく降る日は、あなたは外出を避けるから。 『古傷が傷むんだ。俺も年だな。若い頃は我慢できたんだが。どうしても、右足を引きずってしまう』  見栄っ張りのあなたは、他人に弱みを見せるのを嫌う。おそらく、私以外その事実を知る者はいなかっただろう。  雨が好きだった。雨の日は、私たちの家で、一日中、あなたは私にかまってくれる。私だけのあなたでいてくれるから。  あなたのためなら、私は何でもしただろう。  あなたは私のすべて。私の存在理由。  だから、あなたが悲しむ必要はない。わたしは任務を果たしただけ。 * * * 「すみません。すぐに自分の車で追いかけます。先に行かれてください」 <専務>がへまをすることはよくあること。  だから、書類を取りに戻るというその背を、私は車窓から、ただぼんやりと見送っていた。  その時…  かすかに聞こえてきた彼の声。 「永遠にサヨナラだ、父さん」  呟かれた言葉に込められていたのは、強烈な憎悪。  瞬時に私は判断した。  全力でドアを蹴り飛ばし、あなた共々、車外へと転がり出た。  驚くあなたの袖を捉え、あなたの身体を引きずるようにして駆けた。  かちりと微かな音がした。  間に合わない!  あなたをその場に押し倒し、あなたの上に覆いかぶさる。  背後で爆音が弾けた。  わたしの全身は、燃え上がる焔と飛び散る金属片からあなたを守る盾になった。  ぽつりぽつり。  雨粒が落ちてくる。  コンクリートに、すでに移動機能を失った私の身体に。  トクットクットクッ・・・  よかった。  あなたの心臓は正常に機能している。 「救急車を!生きてるぞ!早く!」 「犬が庇ったんだ。いや、これは・・・機械の一部か?」 「まさか、こいつ、ロボットか?」  誰かが叫ぶ。  けたたましいサイレン。  どたどたと駆けつけてくる足音。  あっという間にスコールと化した夕立が、そのすべての音を消していく。  人工知能搭載犬型セキュリティ装置《AI equipped dog-shaped security device》。  サイバー化したリトリバーの肉体にAIを組み込んだ学習する人造ペット兼ボディガード。  それが私。  アディス。  そう名づけてくれたのは、あなた。  損傷が大きすぎた。  叩きつけるように降る雨の中、全身の機能が停止していく。  消えゆく『意識』に最後に閃いたのは、あなたの声、あなたの香り。  誰よりも愛しいあなた《マスター》  私はあなたの家族になれていましたか?
2026/10/02 ・ 👁️ 46回 ・ 💬 0件

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