コメディ・日常
豪運の棋士
2,228文字
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アマチュア将棋界に、奇妙な噂の絶えない男がいた。
彼と盤を挟む者は、なぜか決まって不運に見舞われる。
ある全国大会常連のベテランは、初心者でも気づくような簡単な詰みを見落として、自玉を頓死させた。ある元奨励会員は、秒読みの緊迫した局面でチェスクロックのボタンを押し損ね、切れ負けした。
対局中に突然の激しい腹痛に襲われて途中棄権を余儀なくされた者もいれば、乗っていた電車が止まり、大遅刻して不戦敗になった者すらいる。
棋譜を並べれば、序盤研究で差をつけられ、苦しい局面を迎えることが多いと分かる。それなのに、ここぞという場面で相手が勝手に転んでしまうのだ。
いつしか周囲は、畏怖と皮肉を込めてこのアマ強豪をこう呼ぶようになった。
「豪運の棋士」と。
乾いた駒音が静かな部屋に響く。
自宅の和室で、彼は一人、将棋盤に向かっていた。
彼の手が伸び、自分の陣地にある銀を動かした直後、今度は向かい側の陣地にある歩を自らつまみ上げ、パチリと進める。傍目には一人二役の研究にしか見えない光景だが、彼の視線は盤の向こう側、誰もいないはずの空間に座る「男」を捉えていた。
「……そこは手堅く受けるんだな」
彼の言葉に、古びた着物をまとった天才棋士の幽霊は、涼しい顔で頷いた。
「当然です。あなたのその手は、次の狙いが露骨ですからね」
幽霊の姿が見え、その声が聞こえるのは、この世で彼一人だけだった。
ただ将棋が指したいという強い未練だけで現世に留まっていた幽霊は、彼と出会い、将棋の手ほどきをした。
「どこかで聞いたような話だな」
そう言って、彼は幽霊の存在をあっさりと受け入れた。
彼にとって幽霊は師匠であり、同時にいつでも好きなだけ盤を挟める練習相手でもあった。
だが、二人の関係は美しい師弟愛などという言葉で括れるものではない。
かつて、地元の大会に出始めたばかりの彼が予選で連敗し、腐りきっていた時期があった。
「もう将棋なんて指したくない。お前とも二度と指してやらない」
そう言って駄々をこねた彼を前に、幽霊は焦った。彼に将棋をやめられてしまえば、幽霊は再び孤独な日々へと逆戻りしてしまう。
将棋を指し続けたい。その一心で、幽霊は禁忌を犯した。
次の大会の対局に立ち会い、霊力で相手のチェスクロックの反応を狂わせたのだ。結果は相手の時間切れ負け。久しぶりの白星に、彼は機嫌を直した。
しかし、何度か同じような奇妙な勝利が続いた頃、彼はそのカラクリに気づいた。そして、幽霊の弱みにつけ込むようにこう言い放ったのだ。
「次の大会も、危なくなったら手を出せ。嫌なら、もうお前とは指してやらないからな」
それ以来、二人は共犯となった。
とはいえ、彼もただ楽をして勝ちたいわけではない。自分の力だけで勝った方が嬉しいに決まっている。だから彼は、普段の対局では手出しを禁じ、代表選抜や本戦トーナメントの勝ち上がりがかかった「どうしても負けられない場面」でのみ、幽霊に不正を命じるようになっていた。
「……ここまでか。俺の負けだよ」
「悪くない中盤でしたが、終盤で少し焦りましたね。あなたらしくない」
「うるさいな。お前が相手だと、どうしても無理攻めになるんだよ」
彼は苦笑しながら駒を片付け始め、ふと手を止めて幽霊を見た。
「でもまあ、先週の大会は助かったよ。完全に俺の負け将棋だったのに、相手があんな簡単な王手飛車の筋を見落とすなんてな。お前が相手の目でもくらませたんだろう」
幽霊は何も答えず、ただ曖昧に微笑んだ。
彼は駒を箱にしまいながら、少し真剣な声色で続けた。
「明日はいよいよ全国大会だ」
彼は盤の向こうに座る幽霊の目をまっすぐに見つめた。
「もちろん、自分の力で勝つつもりで指す。だが……いざという時は、また頼むぞ。断ったらどうなるか、わかってるよな」
脅しを含んだその命令に、幽霊は静かに目を伏せ、恭しく頷いてみせた。
「ええ、心得ています」
その返事を聞いて満足したように、彼は立ち上がり、明日の遠征に備えて部屋を出ていった。
襖が閉まり、部屋に静寂が戻る。
一人残された幽霊は、主のいなくなった将棋盤を見つめながら、誰に聞かせるでもなく心の中でつぶやいた。
(……もうずっと、私は不正などしていないのですがね)
幽霊の助けを借りて勝ち星を重ねるうちに、彼は自信を持って指せるようになり、その過程で実際の棋力もどんどん伸びていった。
さらに言えば、周囲が「豪運の棋士」を意識するあまり、対局相手が勝手にプレッシャーを感じて自滅するようになっていた。
「また何か不吉なことが起こるのではないか」「見えない罠があるのではないか」と疑心暗鬼に陥り、幽霊が指一本触れずとも勝手に転んでいく。
先週の大会も、相手が彼の気迫と異名に呑まれ、勝手に錯覚して自滅しただけの話だった。
彼の実力は、とっくに全国トップクラスの本物になっている。
にもかかわらず、世間はいまだに彼を「豪運」と呼び、彼自身もまた「大事な場面ではズルをして勝っている」と勘違いしたままなのだ。
(まあ、いいでしょう)
現状がこれほど上手く回っている以上、わざわざ真実を伝えてやる必要はない。何より、こうして彼が自分を必要とし、毎日将棋を指してくれる今の暮らしは、幽霊にとって実に心地よいものだった。
明日の全国大会も、彼はきっと自分の力で勝ち切るだろう。そして帰宅後にはまた、自分の手柄ではない勝利の礼を言いに来るはずだ。
幽霊は声もなく笑い、明日の対局を静かに待つことにした。
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