コメディ・日常
最終便のあとで
2,835文字
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最終の連絡船は、わたしが桟橋に着く三分前に出ていた。
白い船尾が沖へ小さくなっていくのを、キャリーケースの取っ手を握ったまま見送る。
あと三分。
駅からここまでの坂道を、もっと急いでいれば間に合った。
いや、本当は分かっている。
駅の改札を出たところで、一度立ち止まったのだ。
このまま実家に帰っていいのだろうか、と考えた。
母にはまだ、会社を辞めたことを言っていない。
そこで使った三分が、そのまま船との差になった。
次の便は明日の朝七時。
海の向こうの実家へ帰るつもりで乗った電車なのに、帰る前に足止めを食うなんて、わたしらしい。
仕事を辞めて二週間。
会社のグループチャットは、退職した翌日に抜けた。同期から届いた「元気?」というメッセージには、まだ返事をしていない。
母とのトーク画面を開くのは、それ以上に気が重かった。
荷造りだけを済ませて、逃げるように家を出てきたのだ。
「お姉さん、乗り遅れ?」
声に振り向くと、桟橋の脇の小屋の前で、エプロン姿の女性が湯気の立つ紙コップを持っていた。
六十過ぎだろうか。日に焼けた丸い顔が笑っている。
「はい……宿、探します」
「この時間は、坂の上の宿は満室よ。今日は祭の前夜だから」
「祭?」
女性は坂道の上を指さした。
ちょうど、家々の軒先にひとつ、またひとつと小さな灯りがともり始めたところだった。
手のひらほどの丸い提灯が、石段の両側に点々と上へ続いている。
「帰り灯。海に出てた人も、町を出てた人も、迷わず戻ってこられるようにって」
「昔からあるんですか」
「千年前からっていう人もいれば、百五十年前に宿屋の主人が始めたっていう人もいるわね」
「だいぶ違いますね」
「去年なんて、漁師の徳さんと郵便局の前の爺さんが、それで三十分けんかしてた」
思わず笑った。
久しぶりに、声を出して笑った。
女性も笑う。
「まあ、町の人は結局、どっちでもいいと思ってるのよ。灯れば」
女性はミツ子さんといって、坂の途中で喫茶店をやっているという。
「ご飯くらい食べていきなさい。宿はそのあと考えましょう」
断る理由が見つからなくて、わたしはキャリーケースを引きずって石段を上った。
ごろごろと音が響いて、少し恥ずかしい。
けれど町の人は誰も振り向かなかった。
軒先で提灯に火を入れていた老人が、手を止めて「こんばんは」と言った。
その向かいでは、小学生くらいの男の子が母親に叱られながら、傾いた提灯を直していた。
町は、わたしとは関係なく祭の前夜を迎えていた。
それが少しだけありがたかった。
喫茶「ともしび」は、六席しかなかった。
壁には古い海図。窓の外では、灯りの連なりが海へ向かって下っていく。
「食べられないものある?」
「特には」
「じゃあ名物ね」
出てきたのは、潮騒プリンだった。
固めのプリンの上で、ほんのり塩の効いたカラメルが波の形に流れている。
「最初は砂糖と塩を間違えたのよ」
「塩を?」
「そう。捨てるのももったいないから食べてみたら、案外いけた」
「それで名物に?」
「うちの名物なんて、だいたいそんなものよ」
ひとさじ口に入れる。
甘さのあとから、少しだけしょっぱさが追いかけてきた。
妙においしかった。
考えてみれば、会社を辞めてから、誰かが自分のために用意してくれたものを、こうして座って食べるのは初めてだった。
コンビニのおにぎりや、駅のパンばかりだった。
目の奥が熱くなった。
慌ててプリンに目を落とす。
「会社、辞めたんです」
自分でも驚くほど、するりと言えた。
ミツ子さんはカウンターの向こうでカップを拭いていた。
「そう」
それだけだった。
だから、続きを言えた。
「実家に帰るつもりなんです。でも、まだ言ってなくて。会社を辞めたことも、これからどうするかも」
「うん」
「帰ったら、何て言おうって、ずっと考えてて」
ミツ子さんはわたしのカップに紅茶を足した。
それから、窓の外を見た。
灯りが風に揺れている。
「私も一回、この町を出たのよ」
「そうなんですか」
「二十年くらい」
意外で、顔を上げた。
「東京?」
「大阪。喫茶店で働いてた」
「それで戻ってきたんですか」
「戻ったというか、まあ、いろいろあって」
ミツ子さんはそこで笑った。
「聞かないで。長いから」
少しだけ黙って、窓の外の灯りを見る。
「帰り灯って、戻ってくる人のための灯りでしょう」
「はい」
「でもさ」
ミツ子さんはカップを置いた。
「戻る場所があるってことは、出ていってもいいってことなんじゃないかって、私は思ってる」
少し考えてから付け足す。
「たぶんね」
窓の外で、風にあおられた提灯がひとつ、大きく揺れた。
向かいの家の老人が慌てて手を伸ばし、火が消えないように支えている。
わたしはしばらく、その様子を見ていた。
胸の奥に詰まっていたものが、なくなったわけではない。
ただ、少しだけ形が変わった気がした。
結局、宿は見つからなかった。
「二階でよければ寝られるから」
そう言われて、断る元気も、もう残っていなかった。
その夜は、喫茶店の二階の、物置になりかけた小部屋に泊めてもらった。
布団には、乾いた畳と、少しだけ潮の匂いが移っていた。
電気を消す。
天井の向こうで、風の音がした。
母に何を言うか、何度も考えた。
会社を辞めた。
しばらく休みたい。
心配しないで。
ごめん。
どれもしっくりこなかった。
スマホを手に取って、母とのトーク画面を開く。
最後のメッセージは三日前だった。
《いつ帰るの?》
文字を打つ。
《明日の朝の船で帰る》
それだけ送った。
すぐに既読がついた。
少しして、返事が来る。
《うん。気をつけて帰っておいで》
もっと何か聞かれると思っていた。
会社はどうしたの、とか。
何かあったの、とか。
けれど、母は何も聞かなかった。
その短い返事をしばらく眺めてから、わたしはスマホを伏せた。
結局、その先の言葉はひとつも決まらないまま眠った。
翌朝。
七時の便に間に合うように桟橋へ下りた。
坂道の灯りはもう消えていたけれど、石段には蝋の跡が点々と残っていた。
昨日の夜が夢ではなかった証拠みたいだった。
「ほら、持っていきなさい」
桟橋まで見送りに来たミツ子さんが、紙袋を押しつけてきた。
中には、プリンがひとつと、手のひらほどの提灯がひとつ入っている。
「それ、予備」
「もらっていいんですか」
「次に来るとき、点けて」
「次、ですか」
ミツ子さんは、何を当たり前のことを、という顔をした。
「あるでしょう、次」
乗船を知らせるベルが鳴った。
わたしは船に乗った。
今度は、間に合った。
船が岸を離れる。
坂の上の小さな喫茶店がだんだん小さくなり、白い町並みに溶けていく。
実家に着いたら、まず何て言おう。
まだ分からない。
会社を辞めたことを話したら、母は驚くだろう。
父は黙るかもしれない。
この先どうするのかと聞かれても、答えられない。
それでもいいのかもしれない。
すぐに答えが出なくても。
膝の上の紙袋の中で、小さな提灯がプリンの容器に触れた。
こつ、と軽い音がした。
窓の外では、朝の海が光っている。
昨日引いてきたキャリーケースより、膝の上の紙袋はずっと軽かった。
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