コメディ・日常
藍色のポケットに、旅の切符
2,687文字
約6分で読了
吉野川の川風が、藍ノ瀬町の路地を吹き抜けていた。
水場からは絶えず水の音がする。古い商家の軒先を抜けると、藍染め工房の引き戸が半分開いていた。土間には湿った土と染料の匂いが混じり、奥の作業台には、染め上がった布が何枚も広げられている。
真帆は手帳を閉じた。
昨日から、何も描けていない。
大阪の職場では、次のシーズンに向けた服の企画が進んでいた。売れる色、売れる形、量産に向く素材。数字を並べ、流行を調べ、何度もデザインを描き直す。そうしているうちに、布に触れる時間さえ、いつの間にか仕事のための確認になっていた。
せっかく藍ノ瀬まで来たのに、手帳の中は白いままだった。
「そこの人、ちょっと手を貸してくれん?」
声をかけられて顔を上げると、藍に染まった前掛けの女性が、作業台の向こうから真帆を見ていた。藤代千尋。この工房で藍染めを営んでいる職人だった。
「これ、ちょっと見てくれる?」
千尋が作業台の上の布を広げた。その隣では、制服姿の少女が布の端を押さえている。袖を肘までまくり上げ、指先には爪の際まで青い染料が残っていた。
「絞り染めがうまくいかんでな。ほら、ここ。色にムラが出てしもた」
布には濃い藍色の筋が斜めに走っていた。染めムラは淡い雲のように広がり、光の当たるところだけ、わずかに青が透けて見える。
均一な色ではない。けれど、捨てるには惜しい色だった。
「捨てるんですか?」
真帆が訊くと、千尋は布の端を指でつまんだ。
「捨てたことないよ。使い道を探すだけ」
「でも、染めに失敗したんですよね?」
「思った色にならんかっただけやろ。布まで悪うなったわけやない」
千尋は染めムラの濃い部分を、指先でゆっくりとなぞった。
「この色が好きな人もおるかもしれんし、別の形にしたら使えるかもしれん。うちらが最初に考えた使い方だけが、正解やないからね」
真帆は、布を見つめた。
先週の企画会議が頭をよぎった。
何日もかけて描いたデザインだった。柔らかな色合いと、身体の動きに合わせて揺れる布。自分では気に入っていた。けれど、会議では「売り場で目立たない」「今季の流行から外れている」と指摘され、採用には至らなかった。
真帆も反論はしなかった。数字を見れば、もっともな意見だったからだ。
会議のあと、デザイン画をファイルにしまった。もう見返すこともないだろうと思った。
あの服は、本当に駄目だったのだろうか。
答えは出なかった。
「あ、ここ」
少女が布の端をつまんだ。
染めムラの広がる部分を指でなぞり、何かを思いついたように針山から針を抜く。糸を手に取り、真帆を見上げた。
「お姉さん、右利き?」
「え、うん」
「じゃあ、左に付ける。右手は鞄でふさがるやろ?」
少女は返事を待たずに布へ鋏を入れた。
「何を作っとるん?」
千尋が尋ねると、少女は手を止めずに答えた。
「切符入れ。駅で切符を落としそうになること、あるやろ?」
「なるほどなあ」
千尋が感心したように頷いた。
少女は布を折り、端を揃え、針を進めた。縫い目は小さく、ところどころ不揃いだったが、針を返す手つきに迷いはない。白い糸が藍色の布に浮かび上がり、ひと針ごとに形が整っていく。
三十分もしないうちに、布の片側に小さなポケットができあがった。大人の指二本分ほどの幅で、口には返し縫いが重ねられている。反対側には何もなかった。
「片方だけ?」
真帆が訊くと、少女は糸を引き締めた。
「片方だけ。もう片方の手は、空けとく」
そう言って、少女は糸を噛み切った。
「うちは悠子。向かいに住んどるんよ」
坂本悠子、十二歳。放課後になると工房に顔を出し、千尋の仕事を手伝っているのだという。
悠子はできあがった布を持ち上げ、端に縫い付けた小さな輪を指でつまんだ。
「藍ノ瀬の駅って無人やろ。切符を買うと、しまう場所がなくて困ることがあるんよ。これを鞄の持ち手に結んどけば、なくさんで済むし」
悠子は切符の代わりに細長い紙をポケットへ差し込み、逆さにしてみせた。紙はポケットの中に収まったまま、落ちなかった。
「べつに、たいしたことやないけど」
そう言いながら、悠子は布の端をもう一度確かめた。
千尋が笑った。
「手拭いの端に切符を挟んでったお客さんがおってな。それを見て、この子が考えたんよ」
「だって、落としたら困るやろ」
悠子は鋏についた糸くずを払った。
真帆は、布を受け取った。
手染めの木綿には、指先に引っかかるような素朴な凹凸があった。染めムラの濃いところは少し硬く、薄いところは柔らかい。ポケットの縫い目は均一ではないが、口がほつれないように、同じ場所を何度も針が通っている。
不格好なのに、必要なところには手がかかっていた。
「いい工夫ね」
真帆はポケットの口を指でなぞった。
「こういうの、好きだな」
悠子は顔を上げた。驚いたように目を丸くしたあと、少しだけ口元を緩める。
「ほんま?」
「うん。とても」
千尋は何も言わず、藍色の手で布の端を整えた。
真帆は工房の隅を借り、手帳を開いた。
鉛筆を持つ。しばらく白い紙を見つめてから、布の形を描いた。片側だけに付いた小さなポケット。鞄の持ち手に結ぶための輪。濃淡の異なる藍色の線。
描きながら、真帆は久しぶりに、布そのもののことを考えていた。
どんな服が売れるかではなく、誰が袖を通すのか。
どんな色が流行するかではなく、その色を身につけた人が、どんな一日を過ごすのか。
鉛筆の先が、少しずつ軽くなった。
帰りの電車の時刻が近づき、真帆は礼を言って工房を出た。
駅へ向かう道は川沿いに続いていた。吉野川の水面が午後の光を受け、ところどころ銀色にきらめいている。
そのとき、背後から足音が追いかけてきた。
「お姉さん!」
振り返ると、悠子が息を弾ませて立っていた。
「これ、持ってって」
差し出されたのは、あの藍色の布だった。
「え、でも、これ……」
「失敗した布やし。うちが作ったやつやし。使ってみて」
布のポケットには、折りたたんだ紙が入っていた。
真帆が広げると、少し傾いた文字が並んでいた。
『こんどは、お姉さんの町の切符も入れてな。』
真帆は思わず笑った。
「ありがとう。大事にするね」
「うん。ちゃんと使ってな」
悠子は照れくさそうに視線を逸らした。千尋が工房の入口から、こちらに向かって手を振っていた。
真帆も手を振り返し、布を鞄にしまった。
電車の窓から、吉野川が遠ざかっていく。
大阪に着いたら、まず布屋に寄ろう。
売れるものを考える前に、もう一度、布に触れてみよう。誰かの暮らしの中に、そっと収まるものを作ろう。
鞄の中で、藍色の布が揺れた。
真帆はポケットに指を入れた。そこには、帰りの切符が一枚、きちんと収まっていた。
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