コメディ・日常
半丁、承ります
2,442文字
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水の辻の朝は、豆の湯気から始まる。
午前三時、美波は店の電気をつけて、前の晩から水に浸けておいた大豆を石臼のそばへ運ぶ。
水を吸った豆は、指で押すと少しだけやわらかい。冷たい水に両手を入れると、眠気が指先から抜けていった。
町のあちこちに湧き水の井戸があって、この「十川豆腐店」も裏庭の井戸から水を引いている。冷たくて、舌に当てると少し甘い。父はこの水があるから豆腐がうまいのだと言い続けてきた。
美波は町の外で働いていたが、豆腐づくりそのものは知らない仕事ではなかった。
子どもの頃から、休みの日には父に起こされ、大豆を洗い、型を運び、おからを袋に詰めた。高校を卒業する頃には、一通りの仕込みを手伝えるようになっていた。それでも、父の仕事を継ぐつもりはなかった。
町の外へ出て、別の仕事をして、たまに帰れば店の匂いを懐かしいと思う。そのくらいの距離でいいと思っていた。
去年の春、父が腰を悪くした。
すぐに店を離れたわけではない。美波が帰ってきてからしばらくのあいだ、父は作業場の一角に置いた椅子に腰かけ、口だけを動かした。
「豆乳を見るな。櫂に返ってくる重さを見ろ」
「それじゃ分かんないよ」
「分かるようになる」
そんなやり取りを何度も繰り返した。
そして夏の終わり、父はとうとう包丁を美波に譲った。
二十九歳で店主になったことを、町の人たちは何も言わずに受け入れてくれた。
ただ、誰も「大変ね」とは言わない。
かわりに、朝いちばんに買いに来る。
豆をすり、煮る。
大豆の青い匂いが熱を含むにつれて甘くなり、作業場に白い蒸気が満ちていく。
絞った豆乳ににがりを打つ。
この瞬間だけは、店主になった今でも少し緊張する。
豆乳の温度も、その日の大豆も、昨日とまったく同じではない。
柄杓から落ちるにがりを目で追い、櫂をゆっくり動かす。
白い液体の中に、雲のような固まりが浮かび始めた。
父なら、櫂を一度入れただけで分かったような顔をした。
美波には、まだそこまでの勘はない。
それでも、今日はうまくいった。
六時、シャッターを半分上げると、いつもの声がした。
「おはよう。今日の一丁、ちょうだい」
藤野さんだった。
八十を過ぎていて、毎朝六時十分に、杖をついてやって来る。木綿を一丁と、油揚げを一枚。美波が店に立つ前から、ずっとそうだと聞いている。
「はい、一丁です」
水槽から豆腐をすくう。
朝いちばんの木綿豆腐は、まだ少しぬくもりを残している。
水を張ったパックに入れて渡しながら、美波は、前の晩に父と話したことを思い出した。
藤野さんのご主人が亡くなって、もう二年になる。
「藤野さん、豆腐、毎日一丁で足ります?」
「足りるわよ。足りるっていうか」
藤野さんは受け取ったパックを両手で持ち上げて、少し困ったように笑った。
「足りすぎるの。夜まで残っちゃって、明日の朝は冷奴、昼は味噌汁、夜も冷奴。それでも食べきれない日があってね。でも、やめるのもなんだか違うでしょう。この朝の買い物がなくなったら、私、一日の始まり方を忘れちゃいそうで」
美波は、手を止めた。
十川豆腐店の豆腐は、昔から一丁で売っている。
父の代も、その前も。
それが当たり前だった。
「藤野さん」
「なあに」
「あの、半分の大きさって、いります?」
「半分?」
「半丁。切ってお渡しできます。値段も半分で」
藤野さんの目が、丸くなった。
「そんなことしていいの?」
美波は一瞬、作業場の奥を見た。
そこに父がいるような気がした。
豆腐の固さを確かめ、包丁の置き方にまで口を出す父の姿が。
けれど、いま店に立っているのは自分だった。
「いいも悪いも、うちの店ですから」
そう答えてから、美波は自分の言葉がおかしくて、小さく笑った。
藤野さんも、ふふ、と喉の奥で笑った。
「じゃあ、半丁。お願いするわ」
美波は一丁の豆腐をまな板に載せた。
水で濡らした包丁を当て、すっと真下に落とす。
やわらかな抵抗が一度だけ刃に伝わり、白い断面が現れた。切り口から、透き通った水がほんの少しにじむ。
その感触は、父から教わった通りだった。
半分を小さなパックに入れ、水を張って、手渡す。
藤野さんは軽くなったパックを、いつもよりしっかり握って、頭を下げた。
「毎朝、半丁、買いに来てもいいかしら」
「毎朝、お待ちしてます」
*
その日から、藤野さんは半丁を買っていくようになった。
三日目には、隣の八百屋のおばあさんが「うちもひとり分でね」とやって来た。
一週間後には、小学校の前の駄菓子屋の夫婦が「夫婦ふたりでも一丁は多いのよ」と半丁を求めて並んだ。
美波は看板の裏に、父の字を真似てこう書いた。
〈半丁、承ります〉
父から手ほどきを受けた字ではない。
けれど、太い線の運びを思い出しながら書いた。
十一月の終わりの朝、藤野さんが少し遅れてやって来た。
いつもより六分ほど遅い。
「寝坊したの。夢に主人が出てきてね」
「ご主人、なんて言ってました?」
「うまそうな豆腐だなって。何も話さないで、ただ食べてたわ」
藤野さんは、半丁のパックを胸の前で持った。
「あなたの豆腐、一丁のときより、ちゃんと味がするようになった」
「同じ豆腐ですよ」
「ええ、同じなの。でも、残さず食べられると、ちゃんとおいしいのよ」
藤野さんが帰ったあと、美波は湯気の残る作業場で、一人でおからを袋に詰めた。
絞ったばかりのおからは、見た目よりずっとあたたかい。
両手ですくうと、細かな粒が指のあいだからこぼれ、その熱が冷えた掌にじんわり残った。
父に電話しよう、と思った。
腰の調子を聞くついでに、一言だけ。
「看板に、半丁って足したからね」
きっと父は、ちょっと黙るだろう。
昔から一丁で売ってきた店だ。
豆腐の作り方なら、父のほうがずっとよく知っている。
水の見方も、にがりを打つタイミングも、櫂に返ってくる重さも。
でも、今朝、半丁に切ったのは美波だった。
きっと父は、しばらく黙ってから「そうか」と言う。
それでいい。
裏庭の井戸から、水の音がした。
作業場にはまだ大豆の匂いが残っている。
朝の光が、町の屋根の上でゆっくり広がっていく。
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