ホラー・怪談

異形狸縁起、あるいはぶんぶく茶釜

2,227文字 約5分で読了
作者:寵鵜
私は、あの忌まわしい山林に踏み入った、己の好奇心を未来永劫呪い続けるだろう。  あの日、私が外したのは、単なる獣罠ではなかったのだ。それはこの世界の理と名状しがたい異世界の深淵を隔てる、か細き封印の一つであった。  黒光りする鉄の歯に挟まれていたそれは、狸などではなかった。毛皮に覆われているように見えたが、その質感は腐敗した魚の内臓のように粘ついていた。 何よりも違っていたのは、その眼である。黒水晶のごとき双眸には、到底地上の生物には持つことのできない、高度で、底なしの悪意を秘めた知性が宿っていた。  見ないふりをすればよかったのだ。  しかし不可能だった。その眼に宿る邪悪な光に魅入られ、罠をこじ開けた瞬間、指先に痛みが走った。思わず指先を口に含む。舌に広がったのは鉄錆の味ではない。  それは魂をも凍らせるような、まるで次元の裂け目から漏れ出たような冷気であった。  その夜、私の粗末な小屋の戸を叩いたのは、叩いたという表現があっているのかすらわからないが、物質としての手ではなかった。  戸を開く。そこにあったのは、一見して古びた茶釜であった。しかし私はその表面に、その継ぎ目に背筋が凍るような違和感を覚えた。  光の角度によって、その表面は苦悶にゆがむ人間のようにも、あるいは地獄絵図の曼陀羅のようにも見えた。  それらを凝視しているうちに、私の精神はその茶釜の表面にあるゆがみから地獄へと吸い込まれていくような幻覚におそわれた。 「寺に持って行け。俺を売れ」  次の朝、その茶釜は私に命じた。発生された声ではなく、直接精神に作用して響いた命令であった。  私には拒否権はなかった。自由意志はもうとっくにその茶釜に掌握されていたのだ。  茂林寺の和尚は、その釜を一目見るなり、何かに憑かれたように法外な金を私に押し付けた。彼の手が茶釜に触れた瞬間、私は見たのだ。  茶釜の表面が、まるで太古の巨大生物の皮膚のように、あるいは古の不定形の奉仕生物のように、ぶよぶよと波うち、収縮したのを。  幾日が過ぎただろうか。和尚が私のもとを訪れた。  その顔は死人のように蒼白で、眼窩は黒く落ち窪み、その奥の眼はすでにこの世のものとは思えなかった。 「釜が……沸いた湯の中に……」  彼はそこで言葉に詰まったが、振り絞るように言葉を紡いだ。 「釜の底から……地獄が……無数の手がはい出して……」  彼の言葉は正気と狂気の間で振り子のように揺れて霧散した。後日、寺の修行僧たちが、ある者は原因不明の精神崩壊を起こし、ある者は出奔し、一人も帰らなかったと聞いた、  釜は私の手元に戻ってきた。先日の朝と同じ場所に。 「見世物にしろ」と脳内に声が響く。拒否権はない。操り人形のように頷くことしかできなかった。  私は、村はずれ、それを見つけた山のふもとに見世物小屋を建てた。  客は来た。大勢来た。  彼らが見たのは、愛らしい狸の曲芸などではなかった。  釜は手足を生やし、いかにも奇怪な姿で重力を無視して空中に浮かびあがり、手ぬぐいを模した布をまき散らしながら、見る者の三半規管を狂わせた。客は熱狂した。  しかし、それは喜んだのではない。形容しがたい恐怖と精神的な圧迫によって、いわゆる集団ヒステリーに陥ったのだ。  客は次々と押し寄せ、小屋は恐ろしいほどに繁盛した。  しかし奇妙なことに、一度見たはずの者たちが翌日も、その翌日も目を血走らせて並んでいたのだ。  彼らが投げた銭は異形の神への賽銭としか思えなかった。  手足を生やした滑稽なはずの釜は、あの黒水晶の眼で、芸の最中もずっと私を見ていた。私の精神が崩壊し、完全にそれの傀儡になる瞬間を待っているかのようだった。  最初の異変は味覚に現れた。何を食べても砂を噛むような味気無さとともに腐臭が鼻腔を満たすのだ。しまいには水すらうけつけなくなっていた。  次に眠るのが怖くなった。眠りに落ちると、私の魂は果てしない混沌の闇へと引きずり込まれた。そこはあの釜の眼のような、光を反射しない、いや、光すら吸収してしまうような真っ黒で、ただ存在してはならない何かの気配だけが濃密に充満していた。  ある夜、私は釜に尋ねた。 「この世界はどうなるのだ、お前はどうしたいのだ」  釜は沈黙したが、しばらくして答えた。 「もう十分だ。山へ還る」  翌朝、釜は消失していた。残されたものは、銭と、小屋と、釜に魂を削り取られて抜け殻になった私だけだ。  あれからどれくらいの月日が過ぎただろうか。  私はまだあの時のまま自分の小屋を出られずにいる。出る勇気がないのだ。  夜になると土間の地下の深い場所から、あるいは次元を超えた場所から、あの手ぬぐいをまき散らしていた釜のうごめく音が聞こえるのだ。それは時折、湯が沸く音のようにも、人語ではないものの笑い声のようにも思える。  世の無知なる者たちは、これを「タヌキの恩返し」などと呼んで、人口に膾炙させている。  恩返し? 戯言をいうのはやめろ。 あれは、この世界に、彼らの異形の神を降臨させるための、儀式だったのだ。私は、そのための道具に過ぎない。  ただ一つだけ、確実なことがある。 あの忌まわしき日、私が罠から解き放ったものは、決して助けを求めていたのではなかった。  それは、自らを、この物理世界へ繋ぎ止めるための楔を求めていたのだ。  私が罠を外した瞬間、この世界の終焉は帰結した。今夜も土間を見る。  そこには、何もない。まだ、何もない。 しかし、私は知っている。あれは必ず、戻ってくる。 この不浄なる地土に、完全なる混濁をもたらすために。
2026/10/04 ・ 👁️ 81回 ・ 💬 0件

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