その他
浅瀬の魚と仔猫
3,058文字
約7分で読了
真冬の夜のアスファルトは、凍てつくような冷たさだったろう。街灯もまばらな真っ黒の道は、どれほど心細かったろう。朦朧とする意識の中で、車のライトは怪物に見えたかも知れない。
――瀕死の仔猫。この時にはまだ、死んでいるように見えた。
側溝の脇にぺたりと倒れていた。一度は車を寄せて止めた父だが、弟が車を降りようとすると渋い顔をした。「やめておけ」そう言う父を無視してドアを開け、歩道へ飛び出た弟。
結局そう言うのなら、何故車を停めたのか私には理解出来なかった。父は矛盾したり、一貫性のない言動をする人だったから。普段はむかつく弟だけど、この時ばかりは少し勇敢に思えた。
父は終始、やれやれといった顔をしていて、私は何も言えずに黙っていた。
12月初旬の夜。学校から帰る車の中。たまたま、父親が学校まで迎えに来てくれた日だった。近くで仕事をしていたらしい。
だけど気分は浮かない。もうすぐクリスマスだというのに、サンタさんなんて居ないと気づいてしまった私の気分は、絵の具をすすいだ後の濁った水のようだった。
さっきまで丁度、文化祭の看板製作をしていたからか、そんなイメージが湧いた。日が落ちるまで毎日作業している間、普段からそんなことを考えていた。暗い夜の学校。体育館の外の蛇口から出る、冷たい水で筆をすすぐ。
そんな日々の帰路に、死にかけの猫なんて、やっぱり神様もいないんじゃないかと思えた。幼い頃から信じていたものが一つずつ無くなっていく感覚が、私の心に影を落とした。
ぽたり。ぽたり。暗い色の絵の具が雨粒のように、心の奥の真っさらなところへ降り注ぐ。
弟が、仔猫をふんわりと抱きかかえて戻ってきた。そのシルエットは、余りにも小さい。
車輪に轢かれたのか、ぶつかったのか……手足は動かずぐたりとしているけど、何故か外傷は無い。それが幸いと言えるのか、私には判断すらつかなかった。もしかすると内臓に損傷があるかも知れない。だとしたら、もうこの小さな命は、消えかけの灯火かも知れない。
瞼を半分だけ一生懸命に持ち上げて、「助けて」と口を開いたかに見えた。少なくとも私には、そう見えたのだった。
家に連れ帰って、まずペットボトルにお湯を入れた即席の湯たんぽを作る。
父も母も、特に何も言わなかった。親とはなんとなく距離があって、弟とはいつも支え合って生きているような感じがしていた。他の家がどうかなんて知らない。
二人で相談して、どうしたら良いかを考えた。中学一年生の私と、小学六年生の弟の知識では不十分に違いなかったけど、仔猫の苦痛を和らげる方法だけを一生懸命考えていた。
仔猫は温かい湯たんぽに、とりあえず一安心したようだった。目を細めて静かに丸まっていた。家でも成猫を飼っていたので、その子の餌を砕いて与えたけど食べなかった。この晩は、つきっきりで見ていた。
翌日、土曜日で学校が休みだったので、ペット用品を弟と買いに出掛けた。
弟と話し合って、動物病院へは連れていかないことにした。手持ちのお小遣いはほとんど無かったし、親に言っても無駄だと確信していたのもある。それに、今朝になったら仔猫はもぞもぞと動くようになっていた。
ミルクを飲ませてあげれば、きっと体力もつくはずだ。
粉雪がちらつくグレーの街並み。普段と変わらない街なのに、私の心は少しうきうきしていた。不謹慎だと思った。けれども、小さな猫をただ、可愛く思えた。元気になってくれたら、どんなに嬉しいことだろう。
弟は、この日はあまり話さなかった。
家に帰ってから仔猫用の粉ミルクを作り、哺乳瓶で与える。ごくごくと勢いよく飲む姿からは、生きたいという思いが伝わってくる。そしてその動作はとても、愛らしかった。
その翌朝、仔猫はまだ治っていない四肢を僅かながらも動かして、懸命に歩こうとしていた。どうやら元気と気力を取り戻したようだ。一日に何度か、ミルクを作って与える……子育てみたいだなぁと思った。
こんなふうに、父と母も私たちを育ててくれたのだろうか。赤ちゃん一人でミルクを飲めるはずは無いから、きっとそうなのだろう。どんな気持ちで育ててくれたのかは分からないけど、なんだか少し想像できて、勝手に嬉しい気持ちになった。
そういえば、中学生になってから、苦しい気持ちばかり多い気がしている。嬉しいことが、減っている。サンタさんのこともそうだけど、周囲の劇的な変化についていけない感覚だ。
例えば、仲の良かった男子に彼女が出来たり。遠慮したり、されたり……色々な人間関係を考えると、以前のように素直に行動してはいけないんだなと知った。
それから、私もよく知らない別のクラスの人に告白されたりもした。とても驚いてしまった。人からどう思われてるのかを考えると、何故だか気持ち悪いと思った。そんなふうに感じてしまうことにも、罪悪感を覚えた。
どうして皆、要領よく生きられるんだろう。ものすごい早さで変わっていく世界に、どうして普通の顔してついていけるんだろう。
海の底へはゆっくり沈まないと、身体が順応できないって聞いたことがある。今の私はまるで、いきなり深海に引きずり込まれた、浅瀬の魚みたい。
ほんとうは帰りたい。何も知らなくても許された場所へ。
猫は、喋らない。ふわふわの毛と、何か言いたげな眼差しで、私を見つめてくれるだけ。私はその眼差しを、都合よく解釈すればいいだけ。
学校から帰ってきて、ご飯とお風呂を急いで済ませて、仔猫と過ごした。とても静かな夜だった。
勝手に温かい気持ちになり、満たされた気分になれる。だから、可愛いって思うのかもしれない。
そして、何日か経った。
弟にミルクのお世話を任せた日の夕方、仔猫は死んだ。突然のことだった。ほんの少し、人間が目を離したその時に。
弟も私も泣いた。
父は、こうなることがわかっていたのだろうか。黙って、死骸になった仔猫を土に埋めた。
命の重さとか、考えてみたけど、ぐちゃぐちゃの思考では何も答えが見当たらなかった。それに、もう先に生きた人たちがずうっと昔から考えてきたことなんでしょ。そう思うと、私が今考えることに意味はあるのか、知ってなんになるのか、そんな思いも湧き上がってくる。
誰も教えてくれない。実感とともに湧き上がる想いは、自分で得ないと分からないんだろう。早く大人になってその答えを知りたいのに、世界のスピードは速いようでいて、こんな時だけはスローモーションのように感じられる。
冬の乾いた風が、頬を撫ぜる。それでも涙は乾かない。
あの日の冷たい路上で、誰にも気づかれること無く死ぬのと、ほんの少しだけ長く生きて、今日死ぬのと、どちらがこの子にとっては幸せだったのだろう。
もしかしたら、苦しくて痛くて、私を恨んでいたかも知れない。
あの時すぐに病院へ連れて行ってあげていれば、今も生きていたかも知れない。
この涙は、人間のエゴだ。分かっているにも拘わらず、私は泣いていた。泣き続けた。助けて良かったのだと、自分自身に言い聞かせるように。
数日後、弟と一緒に野花を摘んで、仔猫のお墓に供えてあげた。
お墓と呼んでいいのかも分からない、ほんの少しだけ盛られた土。
懸命に生きた小さな命は、もう分解され始めてるのかな、なんて考えてやめた。幻のように土に溶けていくんだ。
私だっていつかは死ぬ。仔猫とおなじように。
私は仔猫が幸せな場所へ帰れますようにと、祈った。
ふと、弟と視線があった。
瞳の奥の言いたい言葉が、分かる気がした。
もう泣かない。
いつかまた思い出すよ、私に寄り添ってくれた、君の毛並みを。
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