ホラー・怪談
面剥ぎの影
4,198文字
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スマートフォンが、短い振動を返した。
画面に表示された時刻は、午前一時四十二分。会社からの帰路、人気のない夜道を歩いていた香織は、小さくため息をついて画面をタップした。
大学時代の友人である恵美からのメッセージだった。
『ねえ、最近、鏡を見て「自分じゃない」って思ったこと、ない?』
唐突で、少し不気味な内容だった。香織は歩きながら、冷え切った指先で素早く文字を打ち返す。
『どうしたの急に。疲れてるんじゃない?』
すぐに既読がついた。まるで画面の向こうで、狂ったようにスマホを握りしめているかのような速度だった。
『違うの。本当にいるんだよ。他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが。そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの。最初は誰も気づかない。でも、ある日突然、鏡の中にいるのが完全に「知らない誰か」になってるの。お願い、香織、もし自分の顔に違和感があったら、絶対に──』
メッセージは、そこで途切れていた。続きを促す文字を打とうとしたが、香織はなんとなく指を止めた。夜の静寂が、急に重くなったような気がしたからだ。
「……バカバカしい」
香織は呟き、スマホをコートのポケットに押し込んだ。恵美は昔からオカルト好きで、一度思い込むと周囲が見えなくなる悪癖がある。きっとネットの奇妙な都市伝説にでも感化されたのだろう。
カツン、カツン、と香織のヒールの音だけが、コンクリートの道に響く。
街灯がまばらな住宅街の十字路に差し掛かったときだった。
ふと、前方から歩いてくる人影が見えた。
男か女かも分からない。ひどく猫背で、黒いトレンチコートのようなものを羽織っている。その人物は、ゆっくりとした足取りで香織の方へと近づいてきた。
すれ違う瞬間、香織は息を呑んだ。
街灯の淡いオレンジ色の光が、その人物の「顔」を照らし出したからだ。
顔が、なかった。
いや、正確に言うなら、目も鼻も口もある。しかし、それらのパーツが、まるで泥水でかき混ぜられたかのように、ぐにゃりと歪んで判別できなかったのだ。まるで、誰かが描いた人物画の顔を、濡れた雑巾で乱暴に擦ったかのような、おぞましい「平坦さ」だった。
香織は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪え、うつむきながら足早に通り過ぎた。
背後で、その人物の足音が止まったような気がした。振り返る勇気はなかった。心臓が痛いほどに脈打ち、香織は逃げるように自宅のマンションへと走り込んだ。
部屋に入り、何重にも鍵をかけ、チェーンを下ろしてようやく息をついた。
暖房を入れ、冷え切った手を擦り合わせる。
「……見間違いよ。暗かったし、疲れていたのよ」
自分に言い聞かせながら、バッグをソファに投げ出し、洗面所へ向かった。メイクを落とし、お風呂に入って早く寝てしまおう。そう思った。
洗面台の前に立ち、正面の鏡を見た。
いつもの、自分の顔。少し目の下にクマがあるが、見紛うことなき二十六歳の自分の顔だった。香織はホッと胸を撫でおろし、蛇口をひねってぬるま湯で顔を洗った。
洗顔料を泡立て、目を閉じて顔全体に広げる。
手のひらで肌を包み込み、優しくマッサージするように動かす。
その時だった。
指先に、妙な感覚を覚えた。
(……あれ?)
頬の皮膚が、妙に「柔らかい」のだ。
いつもなら、頬骨の硬い感触が指に伝わるはずだった。しかし今の感覚は、まるで粘土か、熟しきった果実の皮に触れているかのように、指がずるりと沈み込むような、奇妙な弾力を持っていた。
香織は慌てて泡を洗い流した。
水が目に入り、しみうつむきながら、手探りでタオルを掴んで顔を拭く。
そして、恐る恐る、鏡を見上げた。
鏡の中の自分は──変わっていなかった。
いつもの顔だ。目も、鼻も、口も、元の場所にある。
「驚かせないでよ……」
香織は自分の頬を両手で軽く叩いた。やはり、ただの疲れのせいだ。指の感覚がおかしくなっていたのだろう。
その夜は、恵美からの返信は二度となかった。香織もそのまま深い眠りに落ちた。
翌朝。
出勤のために駅へ向かう途中、香織は会社の同期である真由と偶然会った。
「あ、香織、おはよう!」
真由が笑顔で手を振る。香織も「おはよう」と返そうとして、言葉を詰まらせた。
真由の顔が、どこかおかしかった。
どこが、と言われると説明が難しい。目も二つあるし、鼻も高い。しかし、パーツの配置が、ほんの数ミリだけ外側へ広がっているような、あるいは皮膚がピンと張り詰めすぎて、表情が凍りついているような、奇妙な違和感があった。
「香織? どうしたの、私の顔に何かついてる?」
真由が不思議そうに小首を傾げる。その動きに合わせて、彼女の耳の裏側の皮膚が、ほんの少しだけ「浮いて」見えた。まるで、糊の剥がれかけたステッカーのように。
「……ううん、なんでもない。ちょっと寝不足で」
香織は視線を逸らした。
昨日から、自分の感覚が完全におかしくなっている。恵美の不気味なメッセージのせいで、他人の顔に過剰に反応してしまっているのだ。
会社に着き、デスクワークをこなしている間も、違和感は消えなかった。
すれ違う上司、お茶を淹れてくれる後輩、パソコンの画面に映る自分の顔。
すべてが、ほんの少しずつ「ズレて」いるような気がしてならない。
夕方、給湯室で一人になった香織は、ポケットからスマホを取り出した。
どうしても気になり、恵美のメッセージの履歴を開く。そして、彼女が最後に書こうとしていた言葉を、頭の中で繋ぎ合わせた。
『他人の「顔」を集めて回っている、影みたいなやつが……』
『そいつに目をつけられると、少しずつ、自分の顔が「剥がれて」いくの』
まさか。そんなことが、あるはずがない。
香織は自嘲気味に笑い、スマートフォンの画面を消した。黒い画面が鏡のようになり、自分の顔を映し出す。
その画面の中で。
香織の顔の右半分が、ずるりと、下に向かって滑り落ちた。
「え……?」
慌てて自分の顔に触れる。触感は普通だ。硬い骨の感触もある。
しかし、スマホの画面に映る「影」の中の自分は、明らかに歪んでいた。右の目が頬の位置まで下がり、口が耳の近くまで裂けている。まるで、誰かが裏側から、香織の顔の皮を強く引っ張っているかのように。
恐怖で指が震えた。
その時、給湯室の入り口の影から、声がした。
「香織、まだ仕事残ってる?」
真由だった。
彼女は、一歩、一歩と給湯室の中へ入ってくる。
その顔は、今朝見たときよりもさらに歪んでいた。いや、歪んでいるのではない。真由の「本物の顔」の隙間から、全く別の、どす黒い「影」のようなものが覗いているのだ。
真由の目が、不自然に大きく見開かれた。彼女の口が動き、真由のものではない、低く掠れた声が響く。
「それ……いい顔ね。すごく、綺麗に馴染んでる」
「真由……? あなた、何を言って……」
「私ね、自分の顔が剥がれちゃったの。だから、恵美の顔をもらったの。でも、サイズが合わなくて、すぐにシワが寄っちゃうの。ほら、見て」
真由が、自分の顎の下に指を突き立てた。
爪が皮膚に食い込み、血ではなく、ボタボタと黒い泥のような液体が滴り落ちる。真由はそのまま、自分の「顔」を、ペリペリと音を立てて上に向かって剥ぎ取り始めた。
剥がれた皮膚の裏側から現れたのは、肉でも骨でもなかった。
それは、無数の人間の「目」や「口」が、ぐちゃぐちゃに蠢く、生きて動く【黒い影】そのものだった。
「ひ、あ、あああ!」
香織は悲鳴を上げ、真由を突き飛ばして給湯室から飛び出した。
背後から、ペタ、ペタ、と、濡れた肉塊が床を這うような音が追いかけてくる。
「香織! 顔をちょうだい! あなたの顔なら、きっとぴったり合うの!」
香織は狂ったように廊下を走り、エレベーターに飛び込んで「閉」のボタンを連打した。閉まりかける扉の隙間から、顔の皮を半分剥ぎ取った真由──
いや、真由の皮を被った【それ】が、じっとこちらを見つめているのが見えた。
エレベーターが1階に着くと同時に、香織は外へ飛び出した。
もう会社には戻れない。家にも帰れない。あいつはどこまでも追ってくる。
夜の街を、香織は泣きながら走り続けた。
まわりの通行人たちが、みんなこちらを見ているような気がした。すれ違う人々、全員の顔が、仮面のように無機質で、今にも剥がれ落ちそうに見える。
どれくらい走っただろうか。
気づけば、香織は自宅近くの、昨日のあの十字路にたどり着いていた。
息が切れ、足がもつれて、コンクリートの上に激しく倒れ込む。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
手のひらから血がにじんでいたが、痛みすら感じなかった。
恐る恐る、顔に触れてみる。
先ほどスマホの画面で見たような、激しい歪みはない。触った感覚も、いつもの自分の顔だ。
(助かった……? 撒けたの……?)
香織は涙を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
あたりは静まり返っている。真由の追ってくる気配もない。
香織は、深く長い息を吐き出し、近くの自動販売機のガラスに映る自分の姿を見た。
ガラスの向こうには、乱れた髪の、疲れ果てた自分の顔があった。
目がある。鼻がある。口がある。
香織はホッとして、胸をなでおろした。
「よかった……私の顔、ちゃんとある……」
しかし、その安心は、次の瞬間に凍りついた。
ガラスに映る「自分の顔」が、香織が口を動かしていないにもかかわらず、にやりと、不気味に微笑んだのだ。
そして、鏡の中の「自分」が、ゆっくりと手を上げ、自分の顎の下に指を突き立てた。
(え……?)
香織は自分の手を動かしていない。自分の体は、恐怖で完全に硬直している。
それなのに、ガラスの中の「自分」は、ペリペリ、ペリペリと、楽しそうに顔の皮を剥ぎ進めていく。
ガラスの向こうの皮が完全に剥がれ落ちたとき、そこに現れたのは、無数の人間のパーツが蠢く、あの黒い【影】だった。
影は、剥ぎ取ったばかりの「香織の顔」を、愛おしそうに両手で掲げ、ガラスのこちら側にいる香織に向けて、掠れた声で囁いた。
「ありがとう。本物のあなたより、私の方が、この顔を上手に使えるわ」
その瞬間、香織の視界が、急激に狭くなっていった。
まるで、頭から分厚い黒い布を、すっぽりと被せられたかのように。
声を上げようとしても、口があるべき場所には、何の感覚も残っていなかった。
香織は、ただの「光を失った影」となり、自分の顔を被って嬉しそうに歩き出す【それ】の背中を、暗闇の底から見つめることしかできなかった。
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