恋愛

さよならの味は、あまい珈琲

3,911文字 約8分で読了
作者:河内謙吾
 木漏れ日が白いレースのカーテンを透かし、古い喫茶店の床に不揃いな模様を描いている。 「ここ、本当に変わらないね」  そう言って小さく笑ったのは、七年ぶりに再会した葵(あおい)だった。  学生時代、僕と葵は誰もが認めるお似合いの恋人同士だった。  大学の近くにあるこの喫茶店『ノスタルジア』の、奥から二番目の席が僕たちの指定席。  僕はいつもブラックの珈琲を頼み、葵は決まって、これでもかというほど砂糖とミルクを注いだ甘い珈琲を嬉しそうに飲んでいた。 「そんなに甘くしたら、珈琲の本来の味が分からなくなっちゃうよ」  僕がからかうと、葵はマグカップを両手で包みながら、悪戯っぽく微笑んだものだ。 「いいの。私にとっては、この甘さが幸せの味なんだから。拓海(たくみ)のブラックは、大人の背伸びの味がするよ」  あの頃の僕たちは、お互いの未来に自分がいることを微塵も疑っていなかった。  けれど、現実は甘くなかった。  大学卒業を機に、葵は実家の家業を継ぐために遠く離れた地元へ戻ることになり、僕は東京の建築事務所で働くことになった。遠距離恋愛の始まりだった。  最初は毎日のように電話をしていた。けれど、互いに新しい環境での仕事に追われ、すれ違いが増えていく。  疲労の中でかける電話は、次第に義務感へと変わり、互いを思いやる心の余裕を奪っていった。 「私のこと、本当にまだ好き?」  ある夜、電話越しに泣きそうな声でそう言った葵に、僕は疲れ果てた頭で、冷たい言葉を返してしまった。 「……もう、そういうことで悩む体力が残ってないんだ。ごめん」  それが、僕たちの最後の会話だった。  どちらからともなく連絡を絶ち、僕たちの恋は、燃え尽きるようにして終わりを迎えた。ほろ苦いというには、あまりにも苦すぎる、挫折の記憶だった。 ◆  あれから七年。  お互いに三十歳を目前にした今、葵から突然「東京に行く用事があるから、あの喫茶店で会えないか」と連絡が来たのだった。 「本当に、懐かしいな」  テーブルを挟んで向かい合う葵は、髪を後ろで綺麗にまとめ、上品なブラウスを着ていた。学生時代のあどけなさは消え、すっかり洗練された大人の女性になっている。  それでも、まっすぐな瞳や、少し照れたように笑う癖はあの頃のままで、僕の胸を締め付けた。  カラン、と店員が飲み物を運んできた。  僕の前に置かれたのは、あの頃と変わらないブラック珈琲。そして葵の前に置かれたのは──。 「あれ、ブラックにしたんだ」  葵の前に置かれたのは、湯気だけが立つ、漆黒の珈琲だった。砂糖もミルクも添えられていない。 「うん。あれからいろいろあってね。私も少しは大人になったの」  葵はそう言って、慣れた手つきでカップを持ち上げ、一口すする。眉一つ動かさずに、静かにカップを傾ける。 「……美味しい。昔はこんな苦いもの、よく飲めるなって思ってたのにね」 「そっか」  僕は自分のカップを握りしめた。葵が僕の知らない時間を過ごし、僕の知らない味を覚えたのだという事実が、重く心にのしかかる。  やっぱり、僕たちの時間はあの時、完全に止まって、別々の道を歩み始めてしまったのだ。 「拓海は、相変わらず建築の仕事、頑張ってるんだよね」 「うん。なんとか一人前になって、最近やっと大きなプロジェクトを任せてもらえるようになったよ。葵は? 実家の仕事は順調?」 「ええ。最初は失敗ばかりだったけど、今は私が中心になって動かしてる。毎日忙しいけど、充実してるよ」  近況報告は、驚くほどスムーズだった。まるで行儀の良い旧友のように。けれど、会話の端々に漂う「もう私たちは他人である」という空気感が、たまらなく切なかった。  ひとしきりお互いの仕事の話が終わると、ふっと会話が途切れた。店内に流れる静かなジャズの旋律だけが、僕たちの間を埋めていく。  葵は窓の外を眺めていた。その横顔があまりにも美しくて、そして遠くて、僕は喉の奥がツンと熱くなるのを感じた。 (どうして僕は、あの時もっと葵の手を強く握りしめなかったんだろう)  後悔の念が、七年の時を超えて津波のように押し寄せてくる。仕事のせいにしていた。距離のせいにしていた。本当は、自分が傷つくのが怖くて、向き合うことから逃げただけだったのに。 「ねえ、拓海」  葵が窓から視線を戻し、僕の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。 「今日ね、拓海に会いに来たのは、ちゃんとお別れを言いたかったからなの」  心臓がどくり、と跳ねた。  お別れ。  やっぱり、そういうことか。彼女は過去を清算しにきたのだ。 「あのね、私、来月結婚するの」  その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。目の前が歪む。耳の奥でキーンという金属音が響く。 「……そう、なんだ。おめでとう」  絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。祝福しなければいけない。それが大人のマナーだ。でも、胸が引き裂かれそうに痛い。涙が溢れそうになるのを、必死で奥歯を噛み締めて堪えた。 「相手はね、地元の実業家の人で。優しくて、真面目で、私の仕事もすごく応援してくれてるの」  葵は淡々と語る。その表情は、どこか寂しげに見えた。 「そっか。葵を幸せにしてくれる人なら、本当に良かった」 「うん。でもね……」  葵はそこで言葉を区切り、自分のバッグから一冊の古いノートを取り出した。それは、学生時代に二人で使っていた、他愛もない交換日記だった。僕が引っ越しの時に失くしたと思っていたものだ。 「これ、ずっと捨てられなかったの。辛い時も、仕事で挫けそうな時も、これを見て拓海の言葉を思い出してた」  葵の手が、細かく震えている。 「私ね、ブラック珈琲が飲めるようになったの、拓海と別れてからなんだよ」 「え……?」 「拓海がいない世界は、あまりにも苦くて、寂しくて。そしたらね、あんなに苦かったはずのブラック珈琲が、全然苦く感じなくなっちゃったの。むしろ、この苦さが、拓海と繋がっている唯一の感覚みたいで……。だから私、この七年間、ずっとブラックしか飲まなかった」  葵の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、テーブルに小さなシミを作った。 「私、あの人のこと、人としては尊敬してるし、一緒にいれば平穏に暮らせると思う。でも……でもね、心の一番深いところには、いつも拓海がいた。あの苦い別れから、私の心の時間は一歩も進んでなかったの!」  葵の震える声が、僕の胸の奥の、一番柔らかい場所を直撃した。  彼女も、僕と同じだった。あのほろ苦い、いや、苦すぎる別れの味を、ずっと引きずったまま生きていたのだ。 「嘘、だよ……」  僕は気がつけば、テーブルの上の葵の手を、両手で強く包み込んでいた。七年前に手放してしまった、白くて柔らかい、愛しい手。 「拓海……?」 「僕だって、忘れた日なんて一日もなかった!  新しい恋をしようとしても、誰を見ても、葵の笑顔ばかり探してた。仕事で成功しても、それを一番に伝えたいのはいつも葵だった。ごめん、あの時、僕が意気地なしだったせいで、お前にこんなに苦い思いをさせて……!」  堰を切ったように、僕の目からも涙が溢れ出た。視界が涙で滲み、葵の顔が歪んで見える。 「葵、お願いだから、どこにも行かないでくれ。結婚なんて、しないでくれ……」  大人のプライドも、理性も、すべてを投げ捨てて懇願した。今ここでこの手を離したら、僕は一生、本当の意味で生きることはできない。確信があった。  葵は涙に濡れた顔で、僕の顔をじっと見つめていた。そして、ぽろぽろと涙を流しながら、ふっと、あの頃のような悪戯っぽい笑顔を浮かべた。 「……バカ。遅すぎるよ、拓海」 「葵……」 「嘘だよ」  葵は自由になった左手で、自分の目元を拭った。 「結婚するなんて、全部嘘」 「え?」  僕は呆然として、葵の手を握ったまま固まった。 「こうでも言わないと、拓海、絶対に本音を言ってくれないと思ったから。今日会った時も、すっかり格好いい大人のビジネスマンになっちゃってて、私のことなんて過去の友達としか思ってないんじゃないかって、怖くて……」  葵は泣きながら、クスクスと笑った。 「だから、ちょっとだけ意地悪しちゃった。ごめんね」  僕は力の抜けた体に、再び熱いものが駆け巡るのを感じた。怒りなんて微塵も湧かなかった。あるのは、宇宙よりも深い安堵と、愛おしさだけだった。 「本当に、タチの悪い悪戯だよ……。心臓が止まるかと思った」  僕は涙を拭い、葵の手をさらに強く握り直した。 「でも、引き止められて良かった。もう二度と、この手は離さない。絶対に」 「うん……私も、離さない」  僕たちは涙を流しながら、お互いを見つめ合って笑った。その顔は、きっと七年前の、あの甘酸っぱい恋をしていた頃の僕たちに戻っていたはずだ。 「すいません」  僕は店員を呼んだ。 「砂糖とミルクを、たくさんいただけますか」  運ばれてきた角砂糖とミルクを、僕は葵のブラック珈琲の中に、これでもかというほど投入した。そして、スプーンでゆっくりとかき混ぜる。漆黒だった液体が、温かみのある、優しい琥珀色へと変わっていく。 「はい、葵。どうぞ」  葵はマグカップを受け取り、愛おしそうにそれを両手で包み込んだ。そして、ゆっくりと口をつける。 「……あまい」  葵は、今日一番の、とびきり甘い笑顔を咲かせた。 「すごく、甘くて美味しいよ、拓海」  僕たちの過ごした七年間は、確かに苦くて、ビターな時間だった。けれど、その苦しみがあったからこそ、今、目の前にある幸せの甘さが、骨の髄まで染み渡る。  窓から差し込む木漏れ日が、僕たちのテーブルを優しく照らしていた。  もう、苦い珈琲を一人で飲む必要はない。  これからは、二人で、この甘い時間を少しずつ、大切に味わっていこう。
2026/09/29 ・ 👁️ 84回 ・ 💬 2件

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読者の感想・応援メッセージ

河内謙吾
しーとす様
ありがとうございます☺
恋愛部門は苦手かもと思っていましたが、いいお話とのことで、嬉しいですね✨️
しーとす(ゲスト)
いいお話でした
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