その他

トロッコ問題と幸福な生首

3,286文字 約7分で読了
幸福な死に顔に、俺は納得できなかった。 ——あいつは、笑って死んでいた。  すぐに喪服をクリーニングに出した。  親友の葬儀の臭いを消したかった。  同じ団地育ちの親友――奴が消えた。  二十になったばかりだった。    線路に落ちた視覚障害者の少年を助けて、電車に轢かれて粉々になった。  あいつは、そういう奴だったよ、昔から。いじめっ子をかばっていじめられ、捨て猫は小遣いをはたいて病院に連れていき、保護猫団体に預けて、人助けしかしてこなかった。  事故が起きた小さな駅には、転落防止のホームドアがなかった。  すべての駅にホームドアをつけろよ、くそ。  |成海《なるみ》とは、長い時間を共有した。  だるい体で、成海が死んだ最寄りの駅に行かなければならない。  私鉄の田舎の小さな駅、地元で見慣れたはずの駅が、ひどく冷たい場所に見えてくる。ここはもう、悲劇の場所に変貌した。  大学入学後も俺と成海は地元に住んでいて、この駅から俺たちはいつも顔を合わせて、それぞれ違う大学に向かった。 「すみません、あの」  電車に乗って吊り革を持ってスマホを見ていると、ハキハキとした少年の声が聞こえた。振り返ると、なで肩で小柄な白いニューエラのキャップを被った少年がいた。ぱっと見ではわからないが、彼は白杖を持っていることから視覚障害者のようだ。  彼の隣には、沈痛な面持ちの、疲れた顔をした二十代後半ぐらいの地味なスーツの女性が立っていた。 「久保成海さんの、ご親友の方ですよね。初めまして。僕は久保さんに助けられた長原龍樹と申します。久保さんについてのお話を聞かせてくださいませんか。僕は、僕を助けてくれた人について、もっと知りたいんです」  少年の声は張り詰めていた。  俺は目を伏せて考える。  話したくねぇよ、辛い。  でも、あいつのことを彼に知ってほしい気持ちが勝った。  少しだけ、俺はため息を吐いてしまう。 「…………わかりました。次の駅で降りて、そこにあるカフェで話しましょうか。あの、あなたはどなたですか?」  俺は龍樹の横にいる女性に視線を向ける。 「龍樹の姉の春香と申します。よろしくお願いします」  春香は緊張した面持ちで言った。俺たちは一緒に隣の駅で降りて、バスのロータリーを歩いた。  龍樹の白杖は、黄色のブロックを丁寧にたどっていく。  俺は黄色のブロックに自転車が置かれているのをどけて、龍樹が安全に通れるようにした。  カフェに入り、三人ともアイスコーヒーを頼んだ。クーラーの効いたカフェで一息つく。 「お時間いただき、ありがとうございます。あの……本当に成海さんのこと…………申し訳なくて。僕は、ちゃんと成海さんの分まで生きたくて。それで、成海さんがしたかったこと、やろうとしてたことを、僕が代わりに少しでも多くしていきたいです。僕は障害者で、健常者のように、うまくできませんけど……」  声をつっかえさせながら、龍樹は苦しそうに話す。膝に置いている手は、きっと震えているだろう。  視覚障害を持ってる人にとって、俺の沈黙は怖いだろう、と想像する。相手の顔が見えない。目の前にある邪魔な自転車にも気付けない。そういう人生がどれだけ大変だろうか、と。  優しすぎた成海なら、きっと想像しただろう。 「そういうのが…………逆にムカつく」  俺の不機嫌な言葉に、ピクッと龍樹の頬が引きつった。 「助けられたなら、堂々としてくれ。成海の人生を君は生きられない。君は君のやりたいことをやったほうがいい。だって、あいつの助けてくれた手に、迷いなんか、なかっただろう?」 「は、はい」 「成海は、そういう奴だった」  俺は考える。彼に成海について、何を話そう。取り留めのない思い出話ではない。  成海がこの場で、彼に自分の死を「納得」させる話を思い出す。 「俺は……成海が死んで、それは信じがたいほどショックだったけど、あいつが君を助けて死んだって聞いた時は、あいつならそうするだろうって思った。生前に、こういう話をしたことがあった」  俺は、あの日の安い酒場で成海と飲んでた夜を思い出す。  市場奥の薄暗い席だった。厨房が近く、焼き鳥の焼ける香ばしい匂いが近かった。  成海は焼き鳥が好きで、うまそうに何本もよく食った。成海は小柄で顔も小さい。目が丸くて、「かっこいい」より「かわいい」でモテる男だった。しかし仕草は男らしく豪快で、焼き鳥の串から歯でかぶりつき、引き抜いて食うのは俺の前でしかしなかった。 「大学の人間関係って、思ってたより複雑だよな。ゼミとかさ。俺、まだ馴染めてないかも。この前もちょっとなんか引かれたかも」  テーブルに肘をついてハイボールをあおり飲み、少し酔った赤い顔で成海が話し出した。 「んー、何? あ、おまえ、俺の分のレバー食った?」 「あ、ごめん。食ったわ」成海が無邪気に笑う。 「俺、レバー好きなの知っててわざとか。で、なんの話だよ。その引かれたってのはさ。またモテ話か」 「違うよ。真面目な話だって。ほらあれ、トロッコ問題ってあるじゃん。あれ、なんかゼミで話題になって。みんなそれぞれ解決法とか言ってくの。俺んとこ心理学だろ。いろんな学者の説とか出すけど、全部ちげぇよなぁって思ってさ」 「あれなー。あれ、どうしようもねぇ意地悪問題だろ。大体、基本の設定が狂気だろ。事故起きないように作業員を配備しろよ」 「あはっ、それめっちゃおまえっぽいなー。だよなー…………どっちかしか救えないとか意地悪問題。レバー変更の岐路に立たされて、五人助けるために一人の犠牲者ですませるためレバーを引くかどうかなんてさ」 「で、おまえの答えは。なんつったの?」 「うん。俺はレバーを引いて、一人の作業員を突き飛ばし、自分がトロッコに轢かれる。目の前で誰か死んだら、なんで助けられなかったかって辛い思いを抱えて生きるなら、自分が犠牲者になった方がいい。それが俺のトロッコ問題の答え。たった一つだけ、他は思いつかない」  成海は少し遠くを見て、かつて失ったものを見るような悲しげな瞳をした。  成海が、ふとした時にたまに見せるこの瞳には、早世の翳りだったと振り返って想う。 「あー、それは自己犠牲で引かれるな。トロッコに自ら轢かれる選択をして、引かれたか」  俺は少し笑った。  成海も頬を少し膨らませて笑った。吹き出すほど面白い、の時にする顔だ。 「それなー。で、おまえどうなん。彼女とは?」 「あー、なんか合わないかもって感じてきた」 「俺は高校の頃よりモテなくなったー。かわいいで売るのは十代までだったな」  成海はそう言って笑い、「すいませーん」と手をあげてハイボールを注文したんだった。あいつはいつも店員さんにはすごく丁寧な態度だったな。  この話を龍樹に話し終えて、俺は悲しみが波のように引いていくのを感じた。  そうか、あいつは、目の前で誰かが死ぬなら自分が犠牲になったほうがいい。  そういう、何億人に一人かのすごい善人だった。  あいつ、天使にされちまったか。  これはちょっとクサいけど、あいつならきっと「だろう、だから若いまま、かわいいまま死んだんだよ」って、白い翼を見せびらかしてきそうだ。  目の前に、花柄のハンカチが差し出される。春香は手で口を抑えて泣いている。そして俺の頬も濡れていた。俺は「いいです」とハンカチを断って、リュックからタオルハンカチを出す。  龍樹の肩も震えている。 「…………ぼ、僕は。作家になるのが夢なんです。見えない僕の世界を書きたいんです。だから、今の成海さんの話。きっと、物語にします。それが僕のしたいことです」 「うん。そうだな、外見はとびっきりの美少年で、背は高くしてやってくれ。ビジュ盛った方が、あいつ、喜ぶから」  俺はそう言って、成海が死んでから初めて、ようやく、笑えた。  成海の体は轢死で砕け散ったが、生首だけはきれいに残っていた。  棺桶の窓を、成海のお母さんが開けて、微笑みながら泣いて言っていた。 「見て、こんなに幸せそうな顔の生首なんて、この世にひとつとしてないわ。見つけてくれた駅員さんも驚いてたそうよ。こんな幸福そうな顔の生首なんて初めて見たって。よかった、この子は本当に……本当に……人を救う祝福の天使だったのよ」  
2026/10/09 ・ 👁️ 68回 ・ 💬 3件

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読者の感想・応援メッセージ

福子
タイトルに惹かれて読みましたが、いい意味で裏切られました。グッとくるいい話です。
ごみがき
成海くんにシンパシーを覚えました
私もそのような命の使い方をしたい!
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