コメディ・日常
壁を挟んだ言葉
4,312文字
約9分で読了
# 壁を挟んだ言葉
天瀬こよいの進路希望調査票は、高校を卒業して一年半が過ぎても空欄のままだった。
「働くのか、進学するのか。そろそろ何か一つくらい決めなさい。もう大人なんだから」
朝食の席で母からそう言われ、こよいは返事の代わりに味噌汁を飲み干した。
似たような言葉なら、これまでに何度も聞いている。そのたびに求人サイトを眺め、大学や専門学校の資料を取り寄せては、開封すらせず部屋の隅へ積み重ねてきた。
けれど、この日は違った。
午後から、機械工学を学べる専門学校の説明会を予約していた。
こよいは久しぶりに外出着へ袖を通し、細長い黒色のケースを背負って家を出た。中には、サバイバルゲームで使用するアサルトライフル風のエアソフトガンが入っている。
午前中に馴染みの屋内フィールドへ寄ってからなら、その勢いで説明会にも行けると思ったのだ。銃を構え、決められた標的を狙っている間だけは、余計なことを考えずに済む。
だが、標的を撃ち抜くことと、自分の進路を決めることは、まるで別の話だった。
専門学校の前まで来たこよいは、ガラス扉をくぐっていく若者たちを、通りの反対側から眺めていた。
受付開始まで、あと十分。
五分。
一分。
開始時刻を過ぎても、こよいの足は横断歩道の手前から動かなかった。
「……やっぱり無理だ」
信号が青へ変わり、再び赤くなる。
こよいは説明会の予約画面を閉じた。視線を上げると、通りの先に漫画喫茶の看板が見えた。
気づけば、身体はそちらへ向かっていた。
案内された個室へ入り、黒いケースを壁際へ置く。背負っていたものを降ろした途端、外へ出るために集めてきた勇気まで、まとめて床へ落としてしまった気がした。
家には帰りたくない。かといって、今から説明会へ駆け込む勇気もなかった。
机上のパソコンを意味もなく操作していると、画面の隅に小さな広告が表示された。
『名前も顔も知らない誰かに、悩みを話してみませんか?』
顔を知られないのなら、失敗しても逃げられる。
こよいは匿名相談チャットの文字をクリックした。
『ただいま、話し相手を探しています』
三つの点が順番に明滅している。
やはり閉じようとカーソルを動かした瞬間、画面が切り替わった。
『話し相手が見つかりました』
『こんにちは』
こよいは返事を迷ったあと、同じ言葉を打った。
『なにか相談したいことがあるんですか?』
見知らぬ相手に、本当のことを話す必要はない。こよいは別人の話として書くことにした。
『友達のことで、少し』
『そのご友人は、あなたと同じ年齢ですか?』
『はい』
『今日、何かあったのでしょうか』
『専門学校の説明会に行けませんでした』
送信してから、こよいは眉をひそめた。これでは自分の話だと認めているようなものだ。
『なるほど。学校の前までは行けたのですね』
『なんで分かるんですか』
『行こうともしなかった人なら、“行けなかった”ではなく、“行かなかった”と書くと思ったので』
文字の選び方一つで、そこまで考える人がいるらしい。
『行けなかったのは、根性がないからだと思います』
『根性がない人は、説明会を予約して、家を出て、学校の前まで行ったりしません』
『でも、入れなかった』
『それなら今日できなかったのは、最後の一歩だけです』
こよいの指が止まった。
できなかったことなら、数えきれないほど思いつく。けれど、できたことを数えられたのは久しぶりだった。
『どうして、その学校へ行こうと思ったのですか?』
親に言われたから。
何かを決めなければならないから。
どれも間違いではない。それでも、自分の答えではない気がした。
『分かりません』
『では、行きたい場所ではなかったのかもしれませんね』
『そんなことを言ったら、どこにも行けません』
『行き先を決める前に、あなたが何から逃げているのかを考えてみませんか?』
静かな問いかけのはずなのに、胸の奥へ銃口を向けられたような気がした。
『高校のときの先生です』
考えるより先に、指が動いていた。
『先生が怖いのですか?』
『怖くはないです。嫌いなだけ』
人の形をした標的になら、迷わず引き金を引ける。けれど、あの教師の顔を思い浮かべるだけで、今でも指先が重くなった。
『高校三年のとき、進路を決められなかったんです。周りはどんどん決めていくのに、あたしだけ何も書けなかった』
『進路希望調査票ですか?』
『そうです。先生から、いつまでも空欄のままではいられないでしょうって、何度も言われました』
入力欄へ文字を打つたび、あの日の声が耳の奥で繰り返される。
『何か決めなきゃいけないことくらい、分かっていたんです。でも、あたしには何もなかった。先生と話すたび、自分だけが出来損ないみたいに思えてきて』
『それで、学校へ行けなくなったのですか?』
『卒業式にも出ませんでした』
画面には何度か『入力中……』と表示され、そのたびに消えた。
『その先生は、間違えたのだと思います』
『庇わないんですね』
『教師だからという理由だけで、正しいことにはなりません。その言葉であなたが傷ついたのなら、その先生は伝え方を間違えました』
胸の奥に固まっていたものが、少しだけ緩んだ。ずっと誰かに、そう言ってほしかったのかもしれない。
『でも、その先生が間違えたことと、あなたを見捨てたことは同じですか?』
『同じです。卒業してから、一度も会いに来なかったから』
『あなたから会いに行ったことは?』
『ありません』
『では、二人とも同じ場所で、相手が来るのを待っていたのかもしれませんね』
反論しようとした指は、何も打てないまま止まった。
しばらくして、相手から新しいメッセージが届く。
『今度は、私の相談を聞いてもらえますか?』
『相談する側だったんですか』
『本当は、そのつもりでここへ来ました』
『あたしでよければ』
『私は教師をしています』
こよいの指先が、わずかに強張った。
『以前、進路を決められない生徒を受け持っていました。その子のためだと思い、早く決めるよう何度も促しました』
偶然だ。進路を決められない生徒など、どこの学校にもいる。
『その子は少しずつ学校へ来なくなり、卒業後は一度も会えていません』
『会おうとはしたんですか?』
『何度も連絡しようと思いました。でも、私の言葉が原因なら、会いに行くことも苦しめるのではないかと』
『それで、何もしなかったんですか』
『はい』
『ずるいですね』
『そのとおりです』
『否定しないんですね』
『傷つけることが怖かったのではなく、これ以上嫌われることが怖かっただけなのかもしれません』
画面の向こうにいるのは、自分が知っている教師ではない。それなのに、一言一言が記憶の中にいる先生の声と重なり始めていた。
『謝りたいんですか?』
『謝って許されたいのだと思います』
『それなら、やめた方がいいですね。許してもらうために謝るのは、自分が楽になりたいだけだから』
相手からの返事が途絶えた。
『でも、その子がまだ同じ場所で止まっているなら、迎えに行ってあげてもいいと思います』
『会いたくないと言われても?』
『そのときは、ちゃんと諦めてください』
『厳しいですね』
『会いに行かなかった人に、優しくする理由はありません』
『あなたは、その先生に会いたいですか?』
会いたくない。そう打てばいいだけなのに、指が動かなかった。
『分かりません』
『では、嫌いという気持ちも、本当はまだ決めきれていないだけなのかもしれませんね』
『勝手に決めないでください』
『すみません。教師の悪い癖です』
その言い回しに、こよいは小さな違和感を覚えた。
『気持ちが空白のままだと、どこへも進めませんか?』
確かめるように打つ。
『いいえ。今なら、まだ空欄だから書き直せることもあると思っています』
心臓が強く脈を打った。
『先生の名前は?』
『あなたが本当にご友人の相談をしているのなら、先にあなたのお名前を教えてください』
逃げ道を塞ぐような返し方まで、記憶の中の先生とよく似ている。
『天瀬こよい』
送信した直後、薄い仕切り壁の向こうから通知音が聞こえた。
『聞こえましたか?』
再び、隣の個室から音が鳴る。
『聞こえました』
今度は、こよいの個室で同じ音が響いた。
隣から椅子を立つ音が聞こえる。
こよいも黒いケースを背負い、個室を出た。ほぼ同時に、隣の扉がゆっくりと開く。
中から現れた女性は、こよいの記憶より少し髪が伸びていた。けれど、驚いたときに右手で口元を覆う癖は、あの頃と何も変わっていない。
「……ほのか先生?」
桜庭ほのかは、大きく見開いた目でこよいを見つめた。
「本当に……こよいさんだったんですね」
チャットではいくらでも言葉を交わせたのに、顔を合わせた途端、二人とも何も話せなくなった。
「……とりあえず、出ませんか?」
先に沈黙を破ったのは、ほのかだった。
「ここで立っていると、ほかの方の邪魔になりますから」
「そういうところ、変わってないですね」
「こよいさんも、思ったことをすぐ口にするところは変わっていませんね」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく吹き出した。
会計を済ませ、漫画喫茶を出る。いつの間にか雨が降ったらしく、濡れた歩道が朝の光を反射していた。
「サバゲーは、まだ続けていたんですね」
「それだけは。相手が何を考えてるか分からなくても、撃たれたら撃ち返せばいいから」
「話し合いより、ずいぶん簡単ですね」
「先生もやってみます?」
「丁重にお断りします」
即答だった。
こよいは久しぶりに、声を出して笑った。
笑い声が途切れると、ほのかは足を止めた。
「こよいさん。ごめんなさい」
言い訳も、許しを求める言葉も続かなかった。
「……まだ、許せないかもしれません。また先生に腹が立つかもしれない」
「それも、仕方ありません」
「でも、さっきの相談相手には助けられました。だから、その人の相談に答えたあたしも、少しくらいは役に立てたと思ってもいいですか?」
「もちろんです」
ほのかは微笑んだ。
「あのとき、私が一方的に助けるのではなく、こうして話せればよかったんですね」
「今さら気づいたんですか?」
「教師も、間違えてから学ぶことだってありますから」
二人は再び歩き出した。
「専門学校のことですが、もう一度探してみませんか。今度は、こよいさんが自分で行きたいと思える場所を」
「また逃げるかもしれませんよ」
「そのときは、逃げた場所まで迎えに行きます」
こよいは足元の水たまりを避け、小さく息を吐いた。
「決めるのは、あたしですから」
「ええ。今度は急かしません」
「……でも、手伝ってください」
「もちろんです」
行き先は、まだ空欄のままだった。
けれど今度の空欄は、何もない場所ではない。
これから自分で書き込める、最初の一行だった。
\ 次の作品を探す /

読者の感想・応援メッセージ