「卒業式が終わったらさ、一緒に出かけない?」
「いいよ、どこに行く?」
私がそう言うと彼女は科学館のチケットを出した。
それと一緒に催されるプラネタリウムのチラシもセットで。
「一緒に見に行こうよ」
「うん、いいよ」
彼女が好きなのは天体観測、星占い、こういった天文学専門のイベント。私の周りでそんな風な友人はそれまでおらず、彼女と仲良くなった時にちょっと戸惑ったりもした。
いわゆる、リケジョになるのだろうか……?
高校の進学先も物理や天文学の授業に特化した私立高で私は家の近くの高校。3学期が終われば私たちは離れ離れになる。
残すところあと3日の中学生活。
昨日やっと合格発表を聞いて私はすっかり気合が抜けていた。ほっとしたけれど、彼女と離れ離れになってしまうのは心の底から寂しかった。
一緒に地元の高校に通う友人もいるけれど、一番仲がいい彼女はいないのだ。
胸の内にポツンと冷たい氷の塊が残っているような気がした。
だが、思い悩んでも残すところあと3日。
彼女は私立校に行ってしまうから来週からは引っ越しで忙しい。
自分のなりたい目標のため、まっすぐと前を見て勉強して、4月からの新生活に備えている彼女。
私はと言うと妥協で家の近くの高校。家から通えるし、中学の友達も半数以上は同じ高校に上がる。
それも悪くないのかもしれないけれど、彼女のような明確な将来の目標というのはまだない。
高校の3年間のうちに考えればいいか、ぐらいのゆるい考え方だ。私は彼女から受け取ったパンフレットを見る。
……プラネタリウムか。
正直見に行ったことはない。家の外でも星座ぐらいは見ることができる。とはいえ天の川は見えないし、満天の星空というのはあくまで想像の中でしか存在しない。
残りの3日間、クラスの仲間たちと先生達に対するちょっとしたイベントを考えてみたり、黒板でみんなにメッセージを書き合ったり、そうそうプロフィール帳の交換なんて言うのもしてみた。ノートにみんな思い思いのメッセージが書き込んであって それを眺めながら3年間のことを思い出す。
クラス替えは毎年あったし仲良くなる子はその都度変わった。でも彼女とだけはずっと仲が良かった。毎日手をつないで帰った。彼女の話を聞くのは面白くて、私はちょっと口下手だからひたすら彼女の話を聞いて「うんうん」とうなずいているばかりだったっけ。
あっという間に3日後の卒業式当日がやってきた。
3月の風はまだ冷たく、桜はまだ蕾が硬い。校庭に水仙の花が咲いていて甘い香りが漂っていた。
みんなで何回も何回も写真を撮って、泣いてる子もいたけれど私は涙が出なかった。
母に話して彼女と一緒に電車に乗った。
時間は昼過ぎ。駅のホームの売店でおにぎりを買って食べる。
冷たくてあまり美味しいとは言えないけれど、それでも良かった。一緒に電車に乗りながら流れて行く風景を眺める。
これから行く科学館を楽しみにしていたけど、この時間が終わってしまえばもう彼女と会うことは滅多にないのだろう。
それを思うと胸の中の冷たい氷はすっかり心を冷やしてしまう。
やがて目的地に着いた。
そこまで人は多くはないが、プラネタリウムの方はかなり人が入っている。係員の方に促されるまま私たちは真ん中のあたりの席に座った。
あたりがシンと暗くなっていく。
心地よい音楽と優しい語り口調。
プラネタリウムは確かに眠くなる空間かもしれない。
だが初めて見る満天の星空は、たとえそれが作り物だったとしても美しくあまりに魅力的な世界を映し出していたのだ。
私は息を飲んだ。
街の明かりが消えた世界はこんなにも美しいのか。
私たちがいつも見ている世界は、本当は大切なものは覆われて何も見えていないのかもしれない。
子供心にそんなことを考えた。
ふと隣の彼女を見た。
暗くてよくは見えないが、目を輝かせプラネタリウムの映像の星空の世界に入り込んでいるのがわかった。
彼女が愛してやまない、天文学の世界がそこには広がっているのだ。
目に見えるものはほんの少しかもしれない。
普段の私たちの街の中では一等星ぐらいしか夜に見えない。
けれど本当はこの映像のプラネタリウムのように無数の星々が輝いている。
溶けた光の天の川銀河。
かすかな点のようにしか見えないアンドロメダ銀河。
人間の肉眼では決してみることのできない無数の銀河たち。
それを彼女は見ているのだ。
見えなくても見ているのだ。
胸の中の氷の塊は溶けるどころかほんの少し大きくなったような気がした。
プラネタリウムの時間は30分あっという間に終わってしまう。
「終わっちゃったね」
「うん」
「どうする?あんまり遅くなるとお母さんたち心配するし、アメニティグッズ買って帰ろっか!」
「そうだね」
彼女はキーホルダーを2個買った。
「はい!今日の記念だよ」
キラキラとした笑顔で私に渡す。
「ありがとう……」
鞄につけるといつものように2人で手をつないで帰る道。
「高校に行ってもさ、またメールするから!」
「ありがとう、私もする」
「ずっと親友でいようね!」
「うん、そうだね」
本当のことを言うと高校に行ってしまえばきっと連絡は少なくなってしまうと思う。もしかしたら、これきりかもしれない。
だが 彼女の手のぬくもりが伝わってきて、心の中にあった氷は小さくなってゆくような気がした。
冬の終わり、四月になればお互いに新しい生活。
電車に揺られての帰り道。
やがて駅について彼女とお別れ。
手を振る彼女を見送りながら寂しさが胸を覆い尽くす。
私は鞄の中のスマホを握りしめた。
あぁは言ったけれど、私はメールを出したりするのは本当は苦手だ。今まで出せずに削除したメッセージはどれほどあるだろう。
ピピピピピピピッ
着信音。
慌てて確認する。
彼女からだ!
『今日は楽しかったね!』
短いメッセージとともに、たくさんの写真、たくさんの笑顔。
それは私の胸の氷を完全に溶かしてしまった。
春はもう少し先。
甘い水仙の香りが辺りに漂っていた。
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朝霧の向こうで、運河がゆっくり目を覚ましていた。野菜や果物を積んだ小舟が行き交い、売り声と櫂の音が水面を揺らす。水上市場の片隅で、チャイは自分の舟「ナーガ号」に腰を下ろし、胡椒とレモングラスを木匙で練っていた。素材の香りを損なわず、余計なものを加えない。それが彼の流儀だった。
「チャイ、お願い、助けて!」
泥染め工房メー・タムの職人、プラオが壺を抱えて飛び込んできた。壺の中では、茶褐色の粉が湿気を吸って石のように固まっている。
メー・タムには、川泥と植物を組み合わせて布を染める、代々伝わる技法があった。泥を揉み込んだ布に、工房独自の香草粉を薄く塗り、乾かしては重ねる。すると植物の成分が泥の鉱物質と結びつき、布は深い茶褐色と、濡れた木のような艶を帯びる。その配合を知るのは、工房の者だけだった。
「母の代から、ずっとこの配合なの。これがなければ、あの色は出せないわ」
プラオは壺を見つめた。母が亡くなってからも、彼女は配合を変えなかった。受け継いだものを守ることが、工房を継いだ自分の証だと思っていた。
チャイは粉を指先で確かめた。
「湿気で固まっただけだ。泥を足す必要はない」
彼は壺を火から離し、温めた石皿に粉を広げた。水分が抜けるのを待ち、木匙の背で少しずつ砕いていく。プラオも隣に座り、固まりをほぐした。やがて、乾いた草と胡椒を思わせる香りが、かすかに立ち上った。
「戻った……。よかった」
「いや、戻ったように感じるだけかもしれない。布で試してみろ」
チャイの言葉に、プラオは顔を上げた。以前の母なら、そんな曖昧なことは許さなかっただろう。けれど、母の配合を守ることと、母の仕事を続けることは、本当に同じなのだろうか。
そのとき、舟底を叩く水音が強くなった。上流の雨で水位が上がり、細い水路には流れが押し寄せていた。二人は慌てて櫂を握り、舟を市場の広い水路へと向ける。流れに舟首を取られそうになるたび、互いの櫂が水を捉えた。
ようやく流れが緩んだとき、プラオが小さく尋ねた。
「次に試すときも、ここへ来ていい?」
「好きにしろ」
チャイは、ほぐした粉を小さな紙包みに分けて渡した。比べるための試料だった。プラオは包みを受け取り、ほっとしたように微笑んだ。
「ありがとう。今度は布を持ってくるね」
舟が離れていく。チャイは木匙を手に戻った。指先には、香草の匂いに混じって、乾いた土を思わせるかすかな香りが残っていた。
いつもなら、余計な匂いだと決めつけていたはずだ。
彼はそれを拭い去らず、もう一度、静かに嗅いだ。
続きを読む
あの敗北から、ウサギの苦悩は始まった。
圧倒的な走力を持ちながら、油断して途中で昼寝をしたためにカメに負けた。その屈辱を晴らすために、ウサギは何度もカメに再戦を申し込んだ。
しかし、敗北は続いた。
眠くならないようにと、ネットで見つけた「誰でもなれるショートスリーパー講座」を受講した。だが、講師の教えは単に眠気を我慢するだけの疑わしいもので、睡眠不足で臨んだレース本番では、スタートしてすぐに猛烈な睡魔に襲われ、深い眠りに落ちてしまった。
勝負運にすがり、風水師の助言どおりに「吉方位」へ走ったこともあったが、盛大にコースを逆走してしまい、ゴールにはたどり着けなかった。
連勝を重ねるカメに対し「不正をしているのではないか」と週刊誌が疑惑を報じると、ウサギはこれに飛びつき、SNS上でカメを徹底的に攻撃した。
しかし、その後、週刊誌の報道内容の信憑性が次々と崩れ去り、疑惑は事実無根であることが明らかになった。結果として、根拠のないデマに踊らされてカメを叩いていたウサギは、激しいバッシングを受けることになった。
精神的に追い詰められたウサギは、陸上界で話題の厚底カーボンシューズの導入を考えた。
これさえあればカメなど一瞬で置き去りにできる。そう確信してスタートラインに立ったが、沿道の観客から冷ややかな声が飛んだ。
「あれってルール違反じゃないの?」
「そこまでして勝ちたいのかね」
観客の痛烈な批判を受け、ウサギはハッとした。確かに道具に頼って勝ったところで、あの日の屈辱を本当の意味で晴らすことにはならない。
ウサギは靴を脱ぎ捨て、自らそのレースの棄権を申し出た。
小手先の策はもうやめだ。
ウサギは心を入れ替え、己の肉体だけを極限まで鍛え上げることにした。来る日も来る日も走り込み、ストイックな求道者として己の限界を超えていった。
そして迎えた運命のレース当日。
ウサギのコンディションは過去最高に仕上がっていた。迷いはない。純粋な走力だけで、カメを圧倒してみせる。
スタートの合図とともに、ウサギは完璧なスタートダッシュを決めた。鍛え上げた脚力がアスファルトを力強く蹴り上げ、風を切り裂く。今回こそは絶対に勝てる……はずだった。
直後、けたたましいサイレンの音が鳴り響いた。
「はい、そこのウサギさん、止まりなさーい」
制服姿の警察官だった。ウサギは急ブレーキをかけて立ち止まった。
「スピードを出しすぎだよ。ここは先月から、制限速度が時速60キロから30キロに引き下げられたんだ」
「今は大事なレース中で急いでいるんだ。なんとか見逃してくれないか」
「いや、そういうわけにはいかなくてね」
警官とやり合っている間に、ゆっくりと歩くカメが、ウサギの横を静かに通り過ぎていった。
続きを読む
勝河町の駅に降りると、結衣はスマートフォンで帰りの列車の時刻を確かめた。農園まで徒歩十五分。見学と昼食を済ませ、午後三時の列車に乗る。予定に狂いはない。
「こっちです」
地元農家の直人は、大通りを外れ、石垣沿いの細道へ入った。
「近道ですか?」
「いえ、遠回りです」
結衣は時計を見たが、黙って後を追った。
畑に着くと、直人はぶどう棚の下で立ち止まった。説明しながら、手慣れた様子で房の向きを直す。
「同じ房でも、日当たりで色づき方が違うんです」
葉の陰には、紫の濃い実と、まだ赤みの残る実が並んでいた。
そこへ姪のハルが駆けてきた。
「おじちゃん、あそこ!」
葉の上に、小さなカマキリがいた。
「これも畑の見どころ?」
結衣が尋ねると、ハルは首をかしげた。
「ここにいるんだから、見どころだよ」
結衣は笑いかけ、ふと口を閉じた。逃げようとするカマキリを、もう一度目で追った。
帰り道、直人は石垣の前で足を止めた。隙間から、小さな白い花が顔を出している。
「春には、もっと咲くんです。毎年、ここを見るのが楽しみで」
「いま秋なのに、春の話?」
「来年も見に来てもらえたらと思って」
結衣は返事の代わりに、花の写真を撮った。
駅へ戻る途中、農家の女性が籠から不揃いのぶどうを一房、ハルに渡した。ハルは粒が落ちないよう、両手でそっと抱えた。
駅に着いたとき、列車の到着まで数分しかなかった。結衣は昼食を諦め、売店でパンを買った。
窓の外に、斜面の畑が流れていく。
取材メモには、名所の名前より、カマキリや石垣の花のことが多く残っていた。
結衣は最後に書き足した。
――この町は、急いで通り過ぎるには、少し惜しい。
次は春に来よう。
帰りの列車は、まだ決めなくていい。
続きを読む
ちょっとした遊び心でノリで書きました。。。
────ジリジリジリジリ
今日も元気に目覚ましが鳴り響き、俺はむくりと起き上がるとセミを叩き潰した。
「……八時か」
────ジリジリジリジリ
なかなか鳴り止まないスヌーズ機能に、もう一つおまけにセミを叩き潰す。
「出掛ける準備をしないとな」
ポツリと一人呟くと、身体中に群がる野良猫を一匹ずつ引き離してゆく。今日の記録は十五匹。どうりで暖かかったわけだ。
俺は一人納得をすると、野良猫の尿にまみれたホカホカのパジャマを脱ぎ捨てて新しいパジャマに着替える。
「おっと。もう八時十五分か」
出発の時間まで残り十五分。これは急いで支度をしないと間に合いそうもない。歯磨きをしながら昨夜の残り物の手羽先を口に咥える。これぞ時短だ。
喉に刺さった骨がちょっと気になり、丸呑みにした手羽先の肉の部分をペッと口から吐き出す。
「ご馳走様でした」
革靴を履いて自宅を出ると、車の鍵を持って徒歩で会社へと向かう。
「しまった、髭を剃るのを忘れた」
だが自宅に引き返す時間はない。仕方なく諦めた俺は、鞄と間違えて持ってきた枕をそっと足元に置くと、道路に横になって一旦休憩することにする。今日もいい天気だ。
土砂降りの雨の中シャワーを済ますと、軽く咳き込みながら再び会社へと向かう。
どうやら先程の雨は通り雨だったようで、夏真っ盛りの太陽が昨夜間違えて剃ってしまった俺の頭頂部をジリジリと焼き付ける。これでびしょ濡れになったパジャマもすぐに乾くだろう。
「──あっ! そこ危ないので気を付けて下さい!」
そんな気遣いの言葉に軽く会釈をして通りすぎると、突然現れた暗闇の中で慌てて頭頂部に手を置く。
「大丈夫ですかーー!!?」
「あ、大丈夫です。昨夜間違えて剃ってしまって」
天からのお告げにそう答えると、落ちたマンホールから引っ張り上げてもらった俺は軽く咳き込んだ。
「ゴホゴホゴホッ、ガハッ──」
吐血したと同時に今朝食べた手羽先の骨を吐き出す。喉の違和感の正体はこれだったようだ。
「……本当に大丈夫ですか!?」
「あ、パジャマなんで大丈夫です」
そう答えた後にハッと我に返った俺は、足元を見て|愕然《がくぜん》とした。
しまった、革靴だった。だが今更どうすることもできない。潔く諦めると、擦り傷だらけの身体で再び会社へと向かう。
その途中。一週間程前に盗まれた車を偶然にも発見した俺は、久しぶりに見る愛車に向けてそっと手を伸ばしながら小さく身体を震わせた。どうやら風邪をひいたらしい。
ドキドキと高鳴る胸で車に置いてあったラブレターを手に取ると、ブルブルと震える身体で頬を赤らめる。駐禁・罰金一万の文字。どうやら結婚詐欺だったようだ。
危うく詐欺に騙されそうになった俺は、そのまま車の鍵を持って徒歩で会社へと出向くと、受付にいた顔馴染みの社員に向けてペコリと会釈をする。
「おはようございます」
「……えっ!? どうしたんですか!?」
「昨日間違えて剃ってしまって」
「いや……、身体凄いことになってますけど大丈夫なんですか!?」
「あ、パジャマなんで大丈夫です」
どうやら頭頂部のことではなかったらしい。既に乾ききった泥だらけのパジャマを軽く指で摘むと、気遣いの言葉に感謝しながら軽く会釈をする。
そのままエレベーターに乗って六階まで行くと、階段で三階まで降りて部長に挨拶をする。
「おはようございます」
チラリと掛け時計を見てみると、時刻は九時二十五分。始業時刻の九時半にはなんとか間に合ったようだ。そう思った瞬間、俺は重大なミスに気が付いた。
しまった、財布を忘れた。これでは昼食を買うことができない。
「どっ、どうした|新《あらた》!? 大丈夫か!?」
「すみません、財布を忘れたみたいです」
「いや、そんなことじゃなくて!」
「……あ、昨夜間違えて剃ってしまって」
そう言いながら慌てて頭頂部を隠すと、医務室へ行くようにと部長に促される。寒い。どうやら風邪が悪化したようだ。
近くにあった木製の椅子を叩き壊すと、それに火を付けて焚き火をする。すぐさまスプリンクラー発動。せっかく乾いたパジャマもびしょ濡れだ。
鞄と間違えて持ってきた枕を脇に抱えて寝転がると、俺は天井を眺めながらブルリと震えた。寒い。それにしても身体中がヒリヒリと痛い。
これも全て間違えて頭頂部を剃ってしませいだ。今日は革靴を買って帰ろう。あ。しまった、財布を忘れたんだった。
今日もいい一日だ。
そう思いながら瞼を閉じると、俺はいつものように終業時刻までぐっすりと眠った。
理解しようとしたら負け。それが|新《ニュー》ワールド。
─完─
続きを読む
私は昔から、どうにもツキのない人間だった。
子供のころから、大切な場面でじゃんけんをすれば必ず負けて面倒ごとを押し付けられるし、新しい靴を下ろした日に限って泥水を踏んでしまう。二択で迷って選んだ方はいつもハズレで、商店街の福引ではポケットティッシュしか当たったことがない。
そんな長年の不運続きの人生が、つい最近、一変した。
たまたま目にした「占いの館」で開運の無料相談を受けたのがきっかけだった。
そこで教えられたアドバイスを半信半疑で試してみると、効果はすぐに現れた。
占いの館を利用するときに登録した新しい住所宛に、幸運を告げる手紙が次々と届くようになったのだ。
何年も疎遠になっていた昔の友人から、電話番号を教えてほしいという便りが届いた。
有名百貨店からは数万円分の商品券が当選したという知らせが舞い込んだ。
そんなことが幾つか続き、機嫌よく過ごしていると、知人から「何かいいことでもあったのか」と尋ねられるようになった。
しかし、私は笑ってごまかすだけで、誰にも真実は話せなかった。
テレビでもおなじみの芸能人から、密かに悩みを相談されていること。
見知らぬ大富豪の未亡人から全財産を譲りたいという情熱的な申し出があったこと。
どちらも、自分でもにわかには信じがたい話だ。しかし、私の目の前にある手紙が確かな証拠だった。
顔をほころばせて、それを読み返していると、通知音が鳴った。また『手紙』が届いたようだ。
私は、孫に持たされたスマートフォンを、慣れない手つきで操作した。
続きを読む
白窯町の坂道には、焼き上がった陶器を並べる木棚が続いていた。白や淡い青の器が朝の光を受け、坂の上の窯元からは、薪を焚く匂いが漂っていた。
奈緒は仕事用の鞄を肩に掛け直し、窯元の店先で足を止めた。
棚の隅に、小さな器がひとつ置かれていた。親指ほどの高さしかなく、口の縁がわずかに傾いている。白い釉薬の表面には、光の加減で淡い陰影が浮かんでいた。
「それ、売り物じゃないんです」
工房から出てきた若い職人が言った。
「かわいいのに」
「形が揃わなくて。何に使うかも決めてないんです」
奈緒は器を手のひらに載せた。料理撮影の仕事では、皿を選ぶにも理由がいる。料理の色が映えるか、形が盛りつけの邪魔をしないか、照明を当てたときにどんな陰影が生まれるか。いつもそんなことを考えている。
けれど、この器には何を盛ればいいのだろう。
指先で傾いた縁をなぞっているうちに、ふと、赤いいちごの姿が浮かんだ。
「いちご、一粒とか?」
職人は器をのぞき込み、うなずいた。
「へたを取らずに置いたら、ちょうど収まりそうだ」
奈緒はその器を買った。
坂を下りると、角に小さな茶店があった。仕事でこの町を訪れたときには、ときどき立ち寄る店だった。奈緒は休憩がてら暖簾をくぐった。
店主が、湯気の立つ急須を手に顔を上げた。
「おや、いらっしゃい。今日はずいぶん大事そうな包みを持ってるね」
「さっき、窯元で買ったんです。ちょっと見てもらえますか」
包みを開いて器を見せると、店主は手を拭き、そっと両手で受け取った。
「まあ、小さいこと。何を載せるつもりなの?」
「いちごを一粒、と思ったんです。でも、ほかにも合うものがあるのかなって」
店主は器を窓辺の光にかざし、傾いた縁を眺めた。
「それなら、今日はこれを載せてみようかね」
奥から持ってきたのは、小ぶりの黒糖蒸し菓子だった。
白い器に、淡い飴色の菓子がひとつ収まった。傾いた縁のために、菓子はほんの少し中心からずれている。それでも、まるで初めからそこに置かれるために作られたように、器によく馴染んでいた。
「大きなお皿だと、ほかにも何か足したくなるでしょう。でも、これなら一つをゆっくり味わえそうだね」
店主はそう言って、奈緒の前に温かいお茶を置いた。
奈緒は菓子をひと口かじった。黒糖のまろやかな甘みが広がり、お茶の温かさが喉を通っていく。
いつもの撮影なら、菓子の置き方を直し、器との色の取り合わせを確かめ、光の向きを何度も調整するだろう。写真の中でいちばんおいしそうに見える瞬間を探すのが、彼女の仕事だった。
けれど今は、カメラも構図も照明もない。
奈緒はお茶をひと口飲み、菓子をもうひと口かじった。甘みがゆっくり消えていくのを感じながら、残りのひとかけらをしばらく眺めた。
「なくなるのが、ちょっと惜しいですね」
店主は目尻にしわを寄せた。
「おいしいものは、そうやって食べるのがいいんだよ」
奈緒は笑い、最後のひとかけらを口に運んだ。
東京に戻れば、次の撮影の献立が待っている。料理に合わせて皿を選び、配置を考え、照明を調整する。そんな仕事も嫌いではない。思いどおりの一枚が撮れたときには、今でもうれしくなる。
ただ、仕事で食べ物を選ぶことと、自分が食べたいものを選ぶことは、少し違うのかもしれなかった。
仕事では毎日のように食材を選んでいるのに、自分のためだけに何かを買うことは、いつの間にか少なくなっていた。
店を出ると、坂の上から窯を焚く煙が細く伸びていた。奈緒は器を包み直し、鞄の中にしまった。
帰ったら、いちごを一粒だけ買おう。
大きさの揃ったものを選ばなくてもいい。少し形が歪んでいても、へたが曲がっていてもかまわない。その一粒を、あの器に載せて食べてみたい。
そう考えると、帰り道が少し楽しみになった。
こんな買い物を楽しみにするのは、ずいぶん久しぶりだ。
続きを読む
押入れの中から玉手箱が出てきた。
いや、正確には小学校の頃に作った玉手箱を模した木彫りの箱だった。
パキッ!
開こうとすると蝶番が外れて、蓋がずれる。
……経年劣化なのかもしれないが、少し寂しい気持ちになった。
蓋をそっと床に置く。
中から出てきたのは封印された手紙だった。
「懐かしいな」
何とも言えない苦々しい気持ちとノスタルジアが胸の中に広がっていく。
実を言うと、この箱が壊れたのはこれで二回目だ。
一度目はこの箱を作った時、小学生の五年生の時の授業だった。
誰も作ってないようなアイディアで、とびっきり素敵な箱を作ろう! と私は意気込んでいた。
竜宮城の乙姫様からもらった玉手箱をイメージして、周りに貝殻やヒトデ、魚の絵を書いて深い海の色合いを塗り重ねてゆく。
私は最高の玉手箱を作ったつもりだった。
だけど全員の作品ができて並べた時に、私と全く同じアイディアで、それも私よりほんの少し出来の良い作品を出した子がいた。
当時の私の親友だった。
私は教室の窓から自分の玉手箱を放り投げた。
そしてワアワアと泣きながら廊下を走り去って図工室から五年生の教室の隅まで行って泣いた。
先生が走ってやってきて……
その後どうなったのか自分でもよく覚えていないのだが、放課後に私は自分が作った玉手箱をもう一度作り直した。
先生が付き添ってくれたのを覚えている。
私はその親友のことが大好きだったけど、実を言うとほんの少し嫌いだった。
彼女はいつも私よりほんの少しだけ良くできるのだ。
勉強もスポーツも図工も、それから人間関係だって。
……好きなのに嫌い。
今思い出してもあのモヤモヤとした気持ちは、自分で処理できなかった。
中学に入って、私は好きな人ができた。
彼に渡せないラブレターを毎日書いて、それからどうしようかと考えあぐねいて、この玉手箱の中にそっとしまっていたのだ。
半年ほどしてその私の好きな人と親友が付き合い始めたのを知った。
私はこの玉手箱を閉じて、押入れの奥に隠した。
そして今までそのことをすっかり忘れていたのだ。
手紙を開くと、当時の苦々しい想いが蘇ってくる。
ホームセンターで蝶番を買ってくる。
貝殻の模様のちょっとおしゃれな蝶番だ。
壊れた玉手箱を修理する。
やがて修理が終わった箱にそっと手紙を入れた。
正直に言うと、中学の時に好きだった男の子の名前をもう思い出せない。なぜそんなに好きだったかも思い出せないのだ。
親友とその子はどうなったのかも全く覚えていない。
別々の高校に行ったのは知っているし、彼女が結婚したのはその男の子ではないのでおそらく彼らの交際は自然消滅したのだろう。
彼女とは正月の年賀状でやり取りするぐらいで、もうずっと会っていない。元気なのは確かなようだ。
ほろ苦い思いをまた玉手箱の中にしまい込むと、私はそれを再び 押し入れの中に直した。
当時の苦々しい思い出はなく、ほんの少しノスタルジックな甘さが加わった思い出になって。
また玉手箱は押入れの中で眠るのだった。
続きを読む
俺は車間距離をたくさんあけて運転するスマートな男だ
だから隣の車線からたくさん割り込まれる
そうして心優しい俺は、また車間距離をあける
でも考えたんだが
車間距離をあけるってことは、本来いるべき位置より下がってるってこと
割り込みされて下がることを繰り返していけば、目的地に永遠にたどり着かない
それどころか、逆走になって目的地から遠ざかるんじゃないのか?
ははぁーん
頭の良い俺様はひらめいた
明日からは目的地とは逆方向を目指して走ろう!
続きを読む
空は見事な快晴だ。
彼女は自分のことを晴れ女だと思っている。重要なイベントの日は決まって晴天になるからだ。
今日は、かつて好意を寄せていた男性の結婚式だ。彼が絶世の美女を伴侶に選んだと聞き、彼女はポジティブな感情を抱いている。
さすがは自分が一度は惹かれた男だ。相手が素晴らしい女性なら、自分の過去の選択も間違いではなかったと感じる。
彼女は晴れやかな気分で家を出た。
窓の外は土砂降りだ。
彼女は自分を雨女だと思っている。重要な行事の日は決まって雨が降るからだ。
今日は、かつて密かに心を寄せた男性の結婚式だ。彼女の胸中にはネガティブな感情が渦巻いている。彼への気持ちは整理をつけたつもりだったが、別の女性と結ばれるという事実を素直に喜べないでいる。
彼女は湿った傘を手に、憂鬱な気持ちで家を出た。
二人はそれぞれ別の場所から、同じ式場へと向かっていた。式場に近づくにつれて、天候に変化が生じた。
晴れ女の頭上では、青空が急速に灰色の雲に覆われ始めた。
雨女の頭上では、打ち付けていた雨粒が次第に姿を消していった。
式場に到着して、晴れ女は空を見上げた。彼女が参加するイベントで晴天にならないことは極めて珍しい。
雨女は窓の外を見ていた。自分が参加するイベントで雨が降らないのを不思議に思っていた。
開式の時刻を迎え、新郎と花嫁が入場した。
参列者の視線が花嫁に集まった。
噂通りの絶世の美女であった。透き通るような白い肌。色素の薄い瞳。その静かな佇まいは、人間離れした美しさを放っている。
窓の外を舞い落ちる、季節外れの白い結晶。
二人は納得した。自分のささやかな天候のジンクスなど通用するはずがない。
『本物』に格の違いを思い知らされた。
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