SF・ファンタジー

天啓

2,739文字 約6分で読了
作者:龍木 右甫
 落下。リアクションと共に効果音。画面が暗転、リスポーン。  落下した箇所を飛び越える。出現したアイテムを取りに行く。落下。リアクション。暗転。リスポーン。  私は魔王に攫われた姫を救うために魔王の根城を目指している。  それは考える必要のないことだった。  理解する必要のないことで、認識も必要のないことだった。  呼吸と同じだ。機能である。  もう一つ、私には機能があった。  前へ走れ。  考える前に私は走り出す。言葉と名付けるには温度がなく、命令と名付けるには当然のことで、やはり呼吸と一緒なのだ。  前方に影。魔王の配下だ。  飛べ。  前方へ走りながら私は一歩を踏み込み、跳躍する。  理解を必要としない行動。  思考を挟まない身体反応。  行動に意味は含まない。だが、それは当然のことだ。  魔王の配下を跳躍でやりすごす。振り返らない。  前へ走れ。  前方に断崖。対岸までは距離がある。  前へ走れ。  断崖の縁が迫る。  前へ走れ。  振るう足は止まらない。勢いを失うことなく、大きく口を開く断崖へと直進する。  前へ走れ。  そして際の際。  飛べ。  私は断崖の際に足を踏み込み、勢いをそのままに、前方へ跳躍した。  物理と感覚が一致していない。存在するはずの重力を思考に介在させることなく、弓なりに体躯を対岸へ放つ。  手を振るう。足を振るう。振るう。振るう。対岸の際、一歩を踏み込み、そのまま足を前方へ放り、走行を継続する。  前へ走れ。  と、前方に影。魔王の配下。  足は前へ前へと地を蹴り、影との距離が詰まっていく。  振り返れ。  身体を翻すも、それだけで勢いを喪失できるわけではない。相殺できなかった揚力は、引力へと変わる。  飛べ。  足を踏み込もうと差し出す。  だが、間に合わない。  魔王の配下は勢いよく太腕を振るい、その鋭い爪で私を切り裂いた。  私は身体を大きくのけぞらせ、雷に打たれたように息吹を強奪された。  衝撃から遅れて押し寄せた苦痛が、消え失せていく私の意識に、感覚としてではなく事実として焼き付けられる。  私は目を覚ました。  私は魔王に攫われた姫を救うために魔王の根城を目指している。  知っている。理解している。理解という行為へ違和感を覚える間はない。思考を介する前に言葉が私を導く。  前へ走れ。  私の身体が意識するまでもなく、足を前方へと振るい、走行を開始する。理解している。  前方に影。魔王の配下だ。  飛べ。  だが、瞬時に身体が強張った。末端が痺れる感覚を覚え、踏み込みをためらう。  飛べ。  言葉が私の硬直した心身の駆動となる。踏み込む。跳躍した。  先程はやり過ごした。  先程という言葉に違和感は生じない。  だが、配下の身体を飛び越えながら、太腕が視界を掠める度に、身体から勢いを奪われていくような虚脱を覚え、節々が麻痺したような感覚に蝕まれた。  宙に浮かんでいた足を踏み込み、そのまま前方へと足を放る。  振り返れない。息が口元から浅く吐き出されていく。  不思議と身体はよろめくこともなく、私は体勢を立て直して走り出す。  疲労ではない。疲労とは何か。この感覚は何か。感覚とは何か。理解しているはずなのに、知らないこと、分からないことの方が多いように思える。  呼吸は浅いままだ。名前を付けられなかった渦を体外へ押し出すように、私は息を吐き続ける。  元より思考など流動していなかったはずの頭の芯が、痺れているような感覚があった。全身の皮膚が悪寒に侵食されていく。  前方に断崖が見える。対岸までは遠く、大きく開いた口の底は見えない。  前へ走れ。  断崖の縁が近づいていく。  前へ走れ。  息が止まらない。  前へ走れ。  痺れは今も私の身体から徐々に勢いを奪い取っている心地がする。  前へ走れ。  底の見えない断崖の先が眼下に広がる。  飛べ。  際の際。  断崖の縁に足を強く踏み込ませる。踏み込みの音を置き去りにして、私は身体を前方へ放った。  だが、先程と決定的に違った。  身体が重く感じる。  痺れを纏っただけであり、それが加重となるわけもない。  だが、この悪寒は地の底の死神を呼び起こしたのか。  底の知れない暗穴から無数の腕が差し伸ばされ、私の身体を引きずり降ろそうとしているような錯覚に陥っていた。  私の身体は重力に抗う術を持たないようだ。  先程、対岸の大地を踏んだ足は、虚空で空回りを続ける。  前へ進め。  わかっている。  前へ進め。  やっているじゃないか。  前へ進め。  そのまま、私の身体は谷間の底に飲み込まれた。  惨めに全身が虚空で振り回される。届かない。届かない。四肢が空回りする度に、悪寒が膨れ上がる。総身が震え上がり、墜落した。  私は目を覚ました。  私は魔王に攫われた姫を救うために魔王の根城を目指している。  知っている。理解している。だが、それは私が今からするかもしれない体験の理由にはならない。  嗚咽のような呼気が喉を震わせていた。  荒くなった息が、不定期に吐き出される。  前へ走れ。  足が一つ、明確に後退った。  前へ走れ。  だが、私の身体はまるで、電波を受信する機械の駆動のように前方へ差し出される。  息が止まらない。震えが止まらない。走りながらも身体には全く力が入っていない。そんな感覚がした。  虚脱しきった全身を強制的に突き動かされるような違和感に、思考が追いつかない。巡らない思考は混濁する。代謝は摂理だ。淀んだ意識を押し出すように、呼吸が荒くなる。  前方に影。魔王の配下だ。  前へ走れ。  嫌だ。  足が止まった。  前へ走れ。  無理だ。  後退る。  前へ走る。  するとどうなる。  また、私の身体は苦痛に晒される。  また――。そう考えて、私の意識に雷が降り注ぎ、苦痛が押し寄せ、悪寒が全身を縛り上げた。  嫌だ。  私は身を翻すとそのまま走り出した。  振り返れ。  振り返れ。  振り返れ。  私の心身へ信号が迸る。  私はそれを振りほどくように、必死に走り続けた。  思考は巡らない。  疲労を知らない身体はそれでも硬直し、私はそれに必死に抗う。  私の身体が停止する。  障害物に身体を激突させたわけではない。  しかし、私の身体はなぜか、それ以上進むことを許されなかった。足を幾ら振るおうと、腕を幾ら振るおうと、目の前に不可視の絶壁がそびえ立っているかのように、その先へ足を運ぶことはかなわなかった。  嫌だ。  嫌だ。  嫌だ。嫌だ。嫌だ。  足元が崩れ去り、奈落の底に引きずり降ろされるような感覚に、全身がいよいよすくみ上がる。  と、にわかに私の意識は蝋燭の灯が消えるように、消失した。  その日、とあるゲームのテスターから一斉に報告があがった。  リトライを重ねた主人公が後退った。このゲームには、恐怖や疲労が蓄積するシステムがあるのだろうか、と。  そのようなシステムの存在は、ことごとく否定された。  テスターの報告を重く受け止めたメーカーはデバッグ作業に取り掛かることを決定した。  私は魔王に攫われた姫を救うために魔王の根城を目指している。  私の冒険がスタートした。
2026/10/27 ・ 👁️ 11回 ・ 💬 0件

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